◎重田園江著『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)

 

 

著者の名前を見て、「あ、この人。中央線を時間軸にたとえて、甲府が原始時代で新宿が現代だとかなんとか書いていた人だ!」と思ってまった(多少表現は違ったかも)。山梨県人におこられそう。

 

まあそれはいいとして、この本は「ホモ・エコノミクス」という概念の起源を経済の数学化(たとえば微分の概念を経済学に導入して「限界効用」を定義するなど)に見出し、その後の展開を追って現代の新自由主義の問題を取り上げている。なかなかおもろかったけど、いくつか些細な疑問は残った。覚えている疑問を二つあげてみましょうね。

 

一つは、62頁から始まる「利益と共感」という項で言及されている「共感」という用語に関して「認知的共感」と「情動的共感」が区別されていないために「???」と思えたこと。たとえば「人の性質や行為を見て不快に思ったり快を得たりするのは、もし自分がその行為の対象であったり利害関係者であったら、と想像して他者に共感するからだ(62頁)」とあり、ここで言われている共感は、明らかに「心の理論」とも呼ばれる「認知的共感」を指す。

 

ところが同様にヒュームに関する説明で、「ヒュームにとって共感は「類似」によって生じる。同じ地域に住む人、また同国民が互いに似ているのは主に共感の働きによる。感情は伝播し、近くにいる人は似たような考えを持つ。(…)そのため人は共感の作用を通じて、他者の感情をまるで自分のことのように体感することができる(64頁)」とあり、これは明らかに「情動的共感」を指している。

 

ヒューム自身が両者を区別していなかったのか、この本の著者の重田氏がそれらを混同する記述をしたのかはよくわからないし、『ホモ・エコノミクス』の主題からすると前置きの部分にあたる記述なので、どうでもいいと言えばどうでもいいんだけど、いずれにしても「認知的共感」と「情動的共感」を混同すべきでないことは、わが訳書、ポール・ブルーム著反共感論――社会はいかに判断を誤るか』(白揚社,2018年)を読んでもわかる。

 

もう一つの疑問は、229頁から始まる「緑の革命」に関するもの。著者はもちろん新自由主義的な「緑の革命」を批判しているけど、その批判は、社会的、政治的観点からのものにすぎないように思える。もちろん本書は「ホモ・エコノミクス」という概念に由来する新自由主義というイデオロギーの批判を意図しているのでそれでも十分なのであろうが、もっと包括的な視点からするとそれではもの足りない。

 

というのも社会的、政治的観点からのみだと、「緑の革命」がなかった場合に生じる社会的、政治的問題(たとえば開発途上国における食糧不足など)も検討しなければ不公平になるから。要するにどんな方策を取ろうがプラス面とマイナス面のトレードオフがあるのであり、その両方を検討すべきなのにそれがなされているようには思えないということ。つまりこの本には、「緑の革命」がなかった場合に生じたであろう、開発途上国における社会的、政治的問題をいかに解決すべきかが何も書かれていない。それでは不公平だと言わざるを得ないよね。

 

でも、ここに科学的視点を持ち込めば様相は変わってくる。つまり「緑の革命」によって作物の多様性が低下するという進化論的観点を導入すれば、たとえそれによって、「緑の革命」がなかった場合に生じる問題の解決策を提言できるわけではなかったとしても、少なくとも「緑の革命」の問題がより明瞭に浮き彫りにされる。この点については、わが訳書、ロブ・ダン著世界からバナナがなくなるまえに――食糧危機に立ち向かう科学者たち』(青土社,2017年)の「第12章 野生はなぜ必要なのか」「第13章 赤の女王と果てしないレース」を参照されたい。

 

作物が多様性を失った場合に生じる問題の典型は、遺伝子プールが限定され疫病に弱くなることでしょうね。アイルランドのジャガイモ飢饉はその格好の例だけど、当時のアイルランドは主食をジャガイモに依存しただけでなく、特定の種のジャガイモに依存してまったのですね(『世界からバナナがなくなるまえに』の「第2章 アイルランドのジャガイモ飢饉」参照)。

 

最後に一点つけ加えておくと、『世界からバナナがなくなるまえに』の編集者の一人は、青土社から刊行されている重田氏の本の編集者でもあり、同社から重田氏の『フーコーの風向き』をちょうだい致しました。ありがとうございましたです。

 

 

一覧に戻る

※2023年4月28日