里見 弴 さとみ・とん(1888—1983)


 

本名=山内英夫(やまのうち・ひでお)
明治21年7月14日—昭和58年1月21日 
享年94歳 
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園4区4側1号 



小説家。神奈川県生。東京帝国大学中退。明治43年雑誌『白樺』の創刊に参加。大正5年『善心悪心』は泉鏡花の推薦で刊行、認められた。大正8年吉井勇、久米正雄らと『人間』を創刊する。『恋ごころ』『五代の民』で読売文学賞を受賞。『多情仏心』『安城家の兄弟』『五代の民』などがある。



 

近年鎌倉・妙本寺に移され、2021.7.6に訪ねた時は鎌倉霊園の墓地は整地されていた。



 自由とは畢竟「意識の自由」であることは論を俟たない。人はごく不自由な自分を自由であると意識する自由も、どんな自由な自分をも不自由であると意識する自由も、決して失ふことはない。要はたゞその「意識」が外的な何物かに支配されるか否かに帰する。絶対の自由とは開放されたる意識である。外的な何物をも含まない「人格的意識」---もっと砕いて言ふなら「自然な心」「素な心」それだけが自由だ。僕は近頃かう思つて、為たいことを為、思ひたいことを思ひ、全くなんの目標もなく、批判もなく暮してゐる。が、併しどうも淋しい。かういふのが、昌造の「成熟」した「自由な心」の哲学だつた。彼の心のなかに「建立」された尊かるべき筈の哲学だつた。−−それは恰度、輸入される時に少々損じた上に、日本人の性情にはピタリとは合ひにくい「自然主義」といふものが、青年の心に種々な形をとつて働き始める時代だつた。----哲学はそれでもよい。所で彼の所謂「自由」な生活とはどんなものだつたらう。
                                                                
(善心悪心)



 

 生まれる直前に母の弟・山内英郎が死去したため養子となり、山内家を継いだが、実父母のもとで有島家の兄弟たちと育った。小説家の長兄有島武郎、画家の次兄有島生馬、有島三兄弟の末弟である。
 武郎は大正12年、45歳で雑誌記者波多野秋子と軽井沢の別荘浄月庵で縊死、生馬は昭和49年、92歳で亡くなった。志賀直哉、武者小路実篤、長与善郎、木下利玄、柳宗悦ら『白樺』の仲間たちも皆、先に逝ってしまった。『白樺』で最後まで残った里見は1年の半分を栃木県那須高原で過ごす日々のなか、昭和58年1月21日午後9時58分、天寿を全うして鎌倉・扇ガ谷の自宅で世を去ったが、老いてますます人間観察の鋭さと、絶妙な会話は九四歳のその死まで衰えを見せなかった。



 

 昭和58年1月23日に告別式が行われ、遺骨は3月5日に鎌倉霊園に納骨された。
 〈自分の心を素直に信じそれに従うという思い〉の「まごころ」哲学を実践し、常に自分ペースの創作を続けた作家里見弴の墓は、この広大な墓地のひと山越えた山陰の段々畑のような墓群風景の一隅、石積みを背にして遥かな時を滲ませていた。「先祖代々之墓」の手前に山内家故人の名が刻まれた墓誌があり、その最後に里見の俗名と没年月日、行年が見えた。およそこの新墓地とは相いれない抹香臭さが、周りのありふれた墓碑を制していた。
 今頃は先に逝った二人の兄たちと〈兄貴はあんまり女を知らないからあんなことで死んだんだ〉などと言い合っているのかも知れない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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