斎藤緑雨 さいとう・りょくう(1868—1904)


 

本名=斎藤 賢(さいとう・まさる)
慶応3年12月30日(新暦1月24日)—明治37年4月13日 
享年36歳(春暁院緑雨醒客居士)
東京都文京区向丘1丁目11–3 大円寺(曹洞宗)



小説家・評論家。伊勢国(三重県)生。明治法律学校(現・明治大学)中退。仮名垣魯文に師事。明治22年〜23年『小説八宗』『初学小説心得』『小説評注問答』を発表。辛辣な批評家として知られた。24年『油地獄』『かくれんぼ』などで認められた。







 天下重宝の白紙へあたら墨を塗りて見て下されとハ生ある者の云はれた筈の義理でハないなり其れをのめのめと遣てのけるを今日の小説家と申すとかや香具師の謂ふ因果とハこの事三年先の鳥が啼いたハ大方これを笑ふたのでがなあるべし
されど熟く思へば小説家と申すハ極めて罪の淺い者なり期する所唯一言妙だよと云はれたいに在り云はれずバみづから云つて安んずる程の仕合せ之を片附けんこと三立目の奴が首を参るよりも易しつまりが太平の世の蚯蚓の子ほめたとてむほんが出るでもなくけなしたとて小刀一つ揮るでもなし御無用だよの五字に代ふるに妙だよの三字を以てせらるれバそれでいづれも大々満足得脱成佛疑ひ無し
                                                 

(かくれんぼ-叙)



 

 森鴎外、幸田露伴とともに『三人冗語』で絶賛したほど樋口一葉の才能を高く評価し、本郷丸山福山町にあった一葉の借家にもたびたび訪れ、一葉は緑雨の印象を〈逢えるはたヾの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり〉と日記に記している。
 一葉の死後もなにかと遺族の生活を支えていたのだが、肺結核という病を得てしまった。明治37年4月11日夕刻、肺結核の身を横たえる本所横網町の陋宅に友人の馬場孤蝶を呼び、樋口一葉の妹邦子から預かっていた日記の後日を頼み、自らの死亡広告の筆を執らせた。2日後の午前10時頃、家人をさけて一人ひっそりと逝った。翌日、『万朝報』に〈僕、本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也 四月十三日 緑雨斎藤賢〉の死亡広告が掲載された。



 

 斎藤緑雨が託された一葉の日記は緑雨の死後、露伴らの手によって日の目を見たが、後日を頼まざるを得なかった緑雨の無念さに心痛む思いがする。旧中山道沿いにある江戸札所第23番金龍山大円寺の墓地にある墓には、東京大空襲の時に直撃弾をうけて損傷したものが多いと聞いていた。この墓にはその様な傷は見当たらない。〈明治文壇の鬼才云々〉と掲げられた木札は傾き、墨は薄れてすべては判読できない。
 祖父母、父母、次弟とともに合祀された墓碑に、幸田露伴の筆になる「斎藤氏之墓」を読む。「正直正太夫」、「緑雨醒客」の筆名で明治文壇に毒舌批評家として名を成した人の墓に彼岸の人影はなく、灰色の碑面にただ鈍く揺れる葉影だけがあった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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