ささきふさ ささき・ふさ(1897—1949)


 

本名=佐佐木房子(ささき・ふさこ)
明治30年12月6日—昭和24年10月4日 
享年51歳(華幻院涓心流蘇大姉) 
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



小説家。東京府生。青山学院(現・青山学院大学)卒。大正8年『イスラエル物語』を処女出版。14年芥川龍之介の媒酌で佐佐木茂索と結婚。新興芸術派の作家として知られた。昭和3年『女人芸術』に参加、『遠近』『ある出来事』『思ひ合わす』などを発表。5年短編集『豹の部屋』を刊行。戦後は『おばあさん』『ゆがんだ格子』など。没後に『ささきふさ作品集』が刊行された。






 五時半に仕度を終へ、臺所口から本家へ挨拶に行かうとすると、もう下駄をつつかけた本家が、送るから早く出かけろと、手と顎とでヴェランダの上から云つた。私は一度引込んで納戸から玄關へ拔け、おばあさんのしやちこばつた足に草履を穿かせた。女中はざつとお勝手を片付けて、あとから驛に走るとのことだつた。おばあさんのよちよちに調子を合せておばあさんの表札のかかつてゐる隱居所の門を出ると、早朝の並木路に本家夫妻はもうおばあさんを待つてゐた。二人はおばあさんを私の手から奪ひ、雙方から抱へるやうにして歩き出した。
 雲は低いが、立木とすれすれの東の空には一刷けのオレンヂ色が光つてゐる。風といふほどの風もない。どうやら私の望み通り、今日一杯はもつてくれさうな模樣である。次兄の靈もきつと途次を守つてくれるだらう。私は出がけに一枚掴んできた小型の座蒲團を手堤と一緒に小脇に抱へ、片手にはお辨當の包を提げて三人六脚のあとに從つた。外に出てみると、うそのやうに小さいおばあさんだつた。おばあさんの背中は直角に近いほどに曲つてゐる。曲つた背の上に眞白なオールバックがぴかぴかと光つてゐる。記憶に殘るおばあさんの母親も美しい顏立だつたが、おばあさんは九十三だといふのに、いまだに冴えた目と正しい鼻とを保持してゐる。此系統は私達の代になつて、それぞれに崩れてしまつたのだ。私は綺麗なおばあさんを伴れて行くことが誇らしくもあつた。

                                  
(おばあさん)


 

 日本基督教婦人矯風会の懸賞に応募した論文『男女貞操論』が一等になった縁で、社会運動家ガントレット・恒子(作曲家山田耕筰の姉)の秘書を務めるようになっての影響かも知れないが、時代においては断髪の先駆者、モガ「モダン・ガール」と呼ばれ、ハイカラな断髪洋装女性として「国際婦人参政権大会」出席のため渡欧も果たし、大正14年、芥川龍之介の媒酌により、のちに文藝春秋社長となる佐佐木茂索と結婚した。正宗白鳥は〈あの人も決して幸福な顔ぢゃないぜ〉と述懐しているふさの結婚生活、背景の違った夫婦が幸福であったかどうかは知る由もないが、昭和24年晩春から体調を崩し、臥床、入院のすえ、自宅に戻った10月4日午後11時、がん性腹膜炎のため死去した。



 

 石段を上がった山門の奥深く、陽を遮った杉木立に俗世の雑音はかき消されて墓域は静謐さに包まれている。真杉静枝、田村俊子、湯浅芳子、野上弥生子など女流作家の墓も多いこの墓地の入り組んだ細道の先、敷きつめられた枯れ落葉の中に古色とした宝篋印塔があらわれる。〈祖先の墓に詣でて、子供を持たぬ自分の亡きあとは誰が詣ってくれるであろうかと救われがたい虚無感に陥いる心境を書いた〉という作品を読んだことがあると森田たまが記しているが、清楚に彩りを添えた供花の黄色い薔薇が一対、塋域に柔和な気を漂わせている。入棺の時、鏡台に使い残された香水をすべて注いだという夫佐佐木茂索は再婚してのち、この墓地のさらに奥、枯葉に包まれ深閑と苔生した墓に眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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