佐藤春夫 さとう・はるお(1892—1964)


 

本名=佐藤春夫(さとう・はるお)
明治25年4月9日—昭和39年5月6日 
享年72歳(凌霄院殿詞誉紀精春日大居士)❖春夫忌 
東京都文京区小石川3丁目14–6 伝通院(浄土宗)
京都府京都市東山区林下町400 知恩院(浄土宗)




詩人・小説家。和歌山県生。慶應義塾大学中退。明治43年生田長江に師事。新詩社同人となり、『スバル』『三田文学』に詩歌を発表。大正8年『田園の憂鬱』、10年第一詩集『殉情詩集』を発表。小説家、詩人として認められた。『都会の憂鬱』『神々の戯れ』『晶子曼陀羅』などがある。



 東京・伝通院の墓

 京都・知恩院の墓



 何か----人間を、彼自身を、すべての物がこの世界とは全く違つたものから出来上つてゐる別世界へ引きずり上げて行くやうな、或はただ彼の目の前へだらしなく展げられてゐるこの古い古い世界を、全然別箇のものにして見せるやうな、或はそれを全く根柢から覆してめちやめちやにするやうな、それは何でもいい、ただもう非常な、素晴らしい何ものかが、どうかして、何処かにありさうなものだ。彼はしばしば漫然とそんなことを考へて居た。ほんとうに「日の下には新らしいものがあることは無い」のか。さうして一般の世間の人たちは、それなら一たい何を生き甲斐にして生きることが出来て居るのであるか?彼等は唯彼等自身の、それぞれの愚かさの上に、さもしたりげに各々の空虚な夢を築き上げて、それが何も無い夢であるといふ事さへも気づかない程に猛って生きててゐるだけではなからうか----それは賢人でも馬鹿でも、哲人でも商人でも。人生といふもは、果して生きるだけの値のあるものであらうか。彼はまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜毎にそんなことを考てへ居た。
                                                                
(田園の憂鬱)



 

 佐藤春夫といえば先ず「秋刀魚の歌」を思い浮かべる。〈あわれ 秋かぜよ 情(こころ)あらば伝えてよ 男ありて 夕げに  ひとり さんまを食らひて 思ひにふける  と。〉、そのあとに〈さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて………〉というリズムの良いフレーズが続いていく。かなり古風な詩であるが、なかなか忘れ去ることができない。
 昭和39年5月6日午後6時すぎ、東京・文京区関口町の佐藤邸書斎には、苦悶のうめき声をあげ机にうつ伏せた春夫と、ラジオ番組の録音のために訪れた担当者の茫然とした姿があった。数分後千代子夫人が駆け寄ったときには、すでに息はなかった。『一週間自叙伝』三回目の録音にとりかかったばかりのことで、心筋梗塞による突然の死であった。



 

 私にはとうてい理解不能、幾千丈もの渓谷に架かったかずら橋を目隠しで渡るような、危うく、無謀な試みであったが、いわゆる「細君譲渡事件」として新聞紙上を賑わせた谷崎潤一郎、佐藤春夫、谷崎夫人後の佐藤夫人千代子、この三人につながる運命の糸は激しい愛憎の葛藤によって長い年月を絡めていったのだ。
 芸術家の恋愛・傲慢・冷酷・理想に振り回された千代子と一方の芸術家であった春夫の至った道も、あるいは芸術上に架けられた一本の道であったのかもしれない。
 小石川・伝通院墓地の古銀杏の樹下、石柱碑に並べられた二つの法名を眼にした時、その間から、時折遠雷を響かせている雷雲に、迷いなく伸びる銀色の線を描いてみたいと思った。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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