更科源蔵 さらしな・げんぞう(1904—1985)


 

本名=更科源蔵(さらしな・げんぞう)
明治37年1月27日(戸籍上は2月15日)—昭和60年9月25日 
享年81歳(詠心院秋雲良源居士)
北海道札幌市南区藤野901−1 藤野聖山園 



詩人・郷土史家。北海道生。麻布獣医学校(現・麻布大学)中退。開拓農民の家に生まれる。詩誌『リリー』『潮霧』などを刊行。高村光太郎、尾崎喜八らに傾倒。昭和5年開拓農民とアイヌの悲哀を詠った詩集『種薯』を刊行。代用教員をしながらアイヌ文化研究を進め、26年北海道文化賞を受賞。『コタン生物記』『父母の原野』などがある。







白く凍った向ふから誰かやってくる
もう三十年も前とそっくりの恰好で
切株のやうにのろのろとしているが
ちょっとした仕草やくせで
直にそれが誰だか見当がつくのは
この凍った原野には野兎の数ほども
人間が住んでゐないのだからだ

霧氷に包まれた潅木の茂みのやうに
冷たい空気に包まれて
この空しい広さに耐へて
馬や牛や作物に生涯をかけて
この片隅に煙をあげた原野の日々が
ここに育った者の骨に宿命のやうに焼きついた

最初の一人がこゝに影を落した日から
原野には動かすことのできない人格ができ
たけり狂ふ吹雪にも
凍った星の光も生きてき
素朴な殉国精神や
ガリガリの守銭奴根性や
一旗組などが互ひに額を集めて
誰とでもすぐに手を握り
薮より他に押しのけるものがないと笑った

陽がさすと雪を払ひおとした竹のやうに
しゃんと膝をのばして青空をあふぐ
あの暗い暗い時にも
朝は必ず東から明けると
あたりまえのことを信じ
焚火に手をかざしながら
白く凍った向ふから誰か
明るい話を持ってくるのを
首を長くして待ってゐるのである
この何もない凍った原野では

(凍る原野)



 

 〈原野というものは、なんの変化もない至極平凡な風景である。〉と書いた更科源蔵は、釧路湿原や屈斜路湖にも近い熊牛原野の開墾地にあった草小屋で、吹雪の吹き込む明治37年1月27日に生まれたが、役場まで五里の雪道が使えず、2月15日生まれとして届けられた。
 友もなく空と原野だけの世界。耕地の片隅にライラックの木を削って立てられた小さな墓標、生まれて間もなく死んだ姉の墓、夏休みの帰省も終わりになった頃、斜陽をうけて墓前に咲く百日草の鮮やかさに打たれて詩を書いた17歳の夏。のちに「原野の詩人」と呼ばれた源蔵の原点はそこにこそあった。
 詩人は凍てついた原野に飛び、言葉で耕し、昭和60年9月25日、脳梗塞のため札幌厚生病院で永遠の眠りについた。



 

 帰るべき故郷の土地を失い、さまよいでてきた札幌の街で源蔵は「遺書」という詩を書いている。〈私が死んだら両手を組んで 青空や雲の浮んでいる湖の対岸の 春が終っても残雪の光っている峠の見える コタンの墓地の片隅に寝かしてほしいものだ〉と。
 初夏の風が爽やかに通う札幌郊外、藤野富士と呼ばれる山懐の霊園、塋域の遥か遠くに市街地が霞んで見える。頑強無骨な石塊に〈更科家の人びとここにねむる〉と黒御影の板碑が嵌め込まれた墓。墓誌にはわずか31歳で亡くなった妻はなゑと並んで源蔵の名がある。墓はのちに再婚した版画家・川上澄生の義妹知恵が建てた。
 参道の土手には紫色のラベンダーの花が風にそよいで、黒文様で縁取られたキアゲハが甘い露をもとめて、ひらひらと飛んでいる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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