本名=暁烏 敏(あけがらす・はや)
明治10年7月12日―昭和29年8月27日
享年77歳(釈彰敏)
石川県白山市北保田町1106 明達寺(浄土真宗)
僧侶・宗教家。石川県生。真宗大谷大学(現・大谷大学)卒。清沢満之に師事して浩々洞にはいり、明治43年雑誌「精神界」を発刊、精神主義を唱える。のち生家の明達寺の住職となり、布教と著述につとめた。昭和26年真宗大谷派宗務総長。著作に『歎異抄講話』『暁烏敏全集』などがある。
臘扇堂正面
裏側納骨堂
万物の中でいつちすきなのはやはり人だ。人の中でも最もすきなのは自分だ。その自分がいやになってくると、すべての人がうるさくなり、万物悉くがうるさくなってくる。
人にはあいた、人を相手にするのはいやになったと、愛を植物に注ぎ、ひたすら花を翫ぶやうになった自分は、その花に人をまつ心を発見した。やはり人がゐないと淋しい。
旅をして最もうれしいのは、よい景色に接することではなくて、よい人にあふことである。 よい人のゐないところはうつろのやうな気がする。
私は旅がすきだ。去年の暮れに計算してみたら丁度百八十二日旅にねて、百八庭もすき、旅もすきなのだらう。
旅人、さうだ私は旅人なんだ。芭蕉や西行の心持ちがよくわかる。雲水といふ名もなつかしい名だ。雲のやうに水のやうに旅する身なんだ。人生の羇旅といふ語も味がある。
旅に出るといろいろ珍しいことをきき、珍しい人にあふことができる。確かに旅に出ると思想の硬化からまぬがるることができるやうだ。
旅に出るといつも新しい知識を得て来る。その道に実際携わつてをる人々にあふて、その真剣の話をきくことによって、読書に劣らぬ利益をうけるやうである。
( 人 )
禁書であった親鸞の言行録「歎異抄」を初めて世にひろめ、仏教の近代化に尽くした清沢満之の信仰を伝えた暁烏敏の晩年の言葉に〈わしの中心の願いは拝むということだ。わしは七十七まで何をしてきたかといふと、清沢先生を拝んできただけだ。〉とあるほどに生涯師事した清沢満之との出遭いほど重要なことはなかったのだ。年の三分の二は全国を行脚して信徒たちに語りかけ、昭和時代には、世界の宗教と哲学と文学の書物を読み漁り、世界を旅し、国家のあり方を求めた。晩年は全くの盲目となったが、真宗大谷派宗務総長として宗派の財政を回復させたのち、ようやく明達寺に帰ってきた途端にがんが判明して金沢病院に入院。昭和29年春に退院、養生につとめていたが、8月27日午前7時25分に示寂。
加賀千代女の出生地として知られる松任の町から北陸新幹線沿いの千代尼通りを西へ向かうと、ガードをくぐった先の交差点から夕景の中にこんもりとした木立が右手に見える。古びた山門のすぐ正面に本堂。その横手、芝生広場の奥、常盤樹の繁みの隙間から後光のように西日が差し込んで、法隆寺夢殿を模してつくられたという臘扇堂が神々しく建っている。石段を上がったこのお堂の中に銘々の遺骨の一部が納められた清沢満之師の坐像と対置して僧衣姿の暁烏敏の木像が端座合掌している。お堂の裏側に回ると下壇は暁烏家の納骨堂になっていて、もろもろの人々がここに眠っている。お堂と向き合った場所に歌碑がひとつ。「十億の人に 十億の母あらむも わが母にまさる 波ゝあり奈むや 敏」
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