阿部知二 あべ・ともじ(1903—1973)            


 

本名=阿部知二(あべ・ともじ) 
明治36年6月26日—昭和48年4月23日 
享年69歳 
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中6区6–19 



小説家・評論家・英文学者。岡山県生。東京帝国大学卒。昭和11年長編小説『冬の宿』で好評を得る。次いで『幸福』『北京』『街』『風雪』などを発表。29年発表の『人工庭園』は『女の園』として木下恵介監督で映画化された。『黒い影』『日月の窓』などがある。






 

 汽車が昼過ぎに東京駅を出て、横浜をすぎ、相模の方までくると、私の眼にぱっと映ったものは春の季節の色だった。この薄曇りさえ、春のやわらかさであった。野には麦が青々と萌え、松の樹々もまだ芽吹かぬまでも、どことなく明るい緑の色調を持って若やいでいた。竹藪にはこまかな光がうるんでいたし、その傍には、白や淡紅色の梅の花が咲き盛ってかがやいていた。曇った空は底の方から、たまらなくやわらかな徴光を発してうるんでいた。光が、空にも、地上にも、しずがに流れながら次第に溢れてこようとしていた。「なあんだ。」と、窓に顔を寄せていた私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。

(冬の宿)

 


 

 戦前は反プロレタリア文学の立ち位置にいたのだが、陸軍報道班員としてジャワ(インドネシア)に送られ、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また敵性に捗るものを没収したりする仕事の体験を経たあとの戦後は、一転して進歩派として左傾化していった。
 世界ペンクラブ代表として渡欧してからはより顕著に平和運動に関わっていくようになるのだが昭和46年11月、国立がん研究センター中央病院に入院。食道がんに侵されていた。翌年4月に退院するが、5月から三木清を題材にした『捕囚』は口述筆記になった。48年4月12日に再入院、4月23日、その口は永遠に閉ざされ『捕囚』は未完になってしまった。



 

 戦後の阿部知二は進歩派の代弁者として行動し、東京帝国大学の学生同人誌『朱門』の同志であった舟橋聖一は〈阿部君は終始一貫、人気をひけらかすような作家ではなかった〉と記している。
 生田丘陵にあるこの霊園の周辺は明治大学や専修大学などもある文教地区であるが、若い学生たちはともかくも体力の衰え著しいこの身には駅からの上り坂は相当に堪えるのだが、漆黒に磨かれた「阿部家」墓碑は、写真で見る作家の上品で柔和な眼差しと微笑みをたたえた口元に比して、碑面に写り込む風景をきっぱりと跳ね返して厳粛に座している。白御影の延べ壇に、つい先ほど植え込みから切り落とされたばかりの枯れ枝が散乱して、あわただしい夕景が横切っていこうとしていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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