会田雄次 あいだ・ゆうじ(1916—1997)                        


 

本名=会田雄次(あいだ・ゆうじ) 
大正5年3月5日—平成9年9月17日 
享年81歳(常照院徹誉雄道居士) 
京都府京都市左京区黒谷町121 金戒光明寺北墓地(浄土宗)




歴史学者・評論家。京都府生。京都帝国大学卒。神戸大学助教授から京都大学教授。ルネサンス文化史専攻。第二次大戦にビルマで捕虜になった体験を『アーロン収容所』として刊行。家庭論や日本人論などの評論でも知られている。ほかに『ルネサンスの美術と社会』『日本人の意識構造』などがある。







 

 歴史を学び眺めているとき、私は、一貫した歴史法則などというものは信じていないのだが、ある時代を動かすそれぞれの時の流れというものを感じとり、それを歴史における必然と見て来た。その流れに、いどみ、さからい、あるいは乗じ、浮きつ沈みつして行く無数の個々の人間、その人たちには逆境の人、悲運の人、幸運にめぐまれた人、すべては流れて行くという意味で必然の運命にしたがわされているのだといえるが、運だなあと心の中で嘆声を発したくなるような、全くの偶然という方法で運命を感じることも、これまた常である。それも、こういう性格のこういう能力の人なら、次の時代に生きていたらとか、同時代でもちがう階層の人として生まれていたらと思うようなことから、このとき、その人なら当然考えられるはずのもう一つの行動をとっていたらとか、あの友人が近くにいたらといった、歴史の神の、小さな、いたずらとしか思えないような偶然が、その人の一切を決定するのを感じることも多い。そして、前者の場合からは、一種の諦観、後者の場合からは、いささかハウ・ツウー的な人生訓を得たりもする。私の評価には、いつも、そのような思いが入りこんでいる。

(必然と偶然と)

 


 

 第二次大戦最中の昭和18年に召集されてベトナム、カンボジアなどを転戦、ビルマのラングーン強制収容所で捕虜生活の体験もした。4年の空白を経て京都大学西洋史の研究室に戻り、やがては教壇に立つ事になったが、西田幾多郎の〈自分の生涯はといえば、人生の前半は黒板を前にして座り、後半は黒板を背にして立った。それだけのことだ〉という意味の言葉に同意し、もし自分の一生を論ずれば〈その一行で済んでしまう。悲しいかな、波瀾もなければ、万丈もない。〉と嘆いた会田雄次。〈マルキシズム嫌い、キリスト教嫌い、進歩派嫌い、アメリカ嫌い〉の孤立無援、老残の身となってしまった平成9年9月17日午後零時8分、肺炎のため入院中の京都大学医学部付属病院で死去した。



 

 〈破滅に向かわぬために、すこし貧乏でもよい、独立、自尊の国民による自主自立の国家として真面目に、そして矜持をいだきつつ、こつこつ生きて行ける存在にすべく国民が目覚めてくれないものだろうか〉と祈りながら死んでいった老歴史学者の会田雄次。京都の人に「黒谷(くろだに)さん」と呼ばれ親しまれている浄土宗大本山金戒光明寺の墓地、紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺)に隣接し、北門を入ったすぐ左手高台の北墓地にある「會田雄次之墓」、右には生物学者の父「會田龍雄之墓」。晩秋の空は青く澄んでいて、真如堂の三重塔が背後に見える。祖父の代からの家に生まれ、父が死の床についた部屋で寝起きし、今またここに二人並んで建っている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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