安藤鶴夫 あんどう・つるお(1908—1969)


 

本名=花島鶴夫(はなしま・つるお)
明治41年11月16日—昭和44年9月9日 
享年60歳(順徳院鶴翁道寿居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種19号4側


 
小説家・評論家。東京府生。法政大学卒。父は八代目竹本都太夫。都新聞で文楽、落語の批評を担当。久保田万太郎に傾倒して『巷談本牧亭』で、昭和38年度直木賞を受賞した。『落語鑑賞』『雪まろげ』などがある。






 

 下を向いて、軽く目を閉じていたが、本堂の階段を上る下駄の音が聞こえたので、ひょいと目をあけると、くちやくちやにくずれた着物の裾と、その着物の裾の下から、足首の上の方がのぞいてみえるつんつるてんの股ひきと、穴のあいた黒い足袋に、ちびた下駄をはいている足がみえた。
 近亀は、あ、燕雄だなと思った。
 本堂の前の敷き石の両側には、焼香をすましたものの、なんだか、すぐには立ち去りかねた三木助が、小さんと立ち話をしていたり、文楽が、若い者たちにことばを掛けていたりして、なんとなく、たいして長くもない敷き石の道に、会葬者が残っている。
 そんな中に、燕雄はそんな服装で、堂々と、そして心のこもった焼香をした。
 近亀は顔をあげて、焼香し、瞑目し、合掌している桃川燕雄の横顔をみながら、世の中にやア、こんなひともいるんだなと思った。
 とたんに、なんだか薄紙がとれたように、目の前がばっとあかるくなった。
 桃川燕堆。
 世の中から、なにひとつ、されなくッたって、そんなこと、これッぱかりも不服に思ったことがない。それどころか、このひとは、雨の降ることに感謝し、晴れて、喜び、風が吹いてもありがたいと思い、雪が降っても、ああそうか、と思う。どんな辛いめにあっても、泣きごとをいわず、たまに、嬉しいことがあったって、ほんの少し、にッこりするだけである。
桃川燕堆。この世の中にゃア、こんな人もいるんだ。
 そう思ったら、近亀は、すうッと、湯浅の死が遠くの方へ飛んでいってしまった。

(巷談本牧亭)

 


 

 義太夫語りの八世竹本都太夫の長男として生まれた安藤鶴夫のトレードマークは、大学卒業の時に髪を切って以来のいがぐり頭にベレー帽、そして太い黒縁めがね。寄席芸を好み、落語や講談など寄席評論家としては正岡容と並び称されている。
 下町の道筋と人情を愛した安藤鶴夫、通称「安鶴(アンツル)」。なにごとにも感情移入がまことに激しく「カンドウスルオ」なる異名もあったそうだ。またその好き嫌いの激しさによってプラスとマイナスの影響が大きく、少なくない敵を作っていたことも事実であった。
 毀誉褒貶の相半ばする安藤鶴夫ではあったが、昭和44年9月9日午後6時50分、糖尿性昏睡のため都立駒込病院で死去、鬼籍の人となった。



 

 良いに付け悪いに付け、どっちに転んでも激しい毀誉褒貶を抱いたまま、我関せずとばかりにあっさり回向者となった安藤鶴夫の墓は、雑司ヶ谷霊園の煉瓦色を帯びた土庭にある。花島家有縁無縁の霊墓とともに、戒名「順徳院鶴翁道寿居士」を刻まれた白御影の墓石が爽快とした秋空の下に建っている。それぞれの花生に供えられた黄菊の鮮やかさに比して、その碑は幾分かくすんで見えた。
 直木賞作品『巷談 本牧亭』に現れたおおかたの人々はすでに儚くなってしまった。安藤鶴夫の好んで歩いた街の風景も、人情も大きく変貌し、また賞賛、罵倒に関わった人々も遙か彼方の世界に去っていき、手向ける線香もない私は手を合わせて敬意を示すのみだった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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