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長崎その2 グラバー園、崇福寺
Nagasaki vol2  Glover Garden, Sohuku Temple

 崇福寺の裏山まで上ってみました。建物正面は正に大陸風ですが、上から見ると日本の屋根のカーブでした。
一番大きなのが大雄宝殿です。

 大浦天主堂に続いて、隣のグラバー園を訪ねと観光の定番を行き、最後は崇福寺で閉めてみました。
 
グラバー園 32 44 02.68,129 52 08.39
 グラバー園は大浦天主堂のすぐ隣。開国後、外国人居留地をこの大浦一帯に定めたことにより、教会が出来、邸宅を作りと、一気に近代化に向けて邁進することになります。ウィキペディア等ではグラバー邸が1863年、大浦天主堂が1862年ですから、ほぼ同じ時期に完成しています。
 
 グラバーという人も開国の後ろ盾とか死の商人とか、様々な言われ方をしますが、日本の行く末を決定づける役割を果たしたというのは間違いないでしょう。鎖国時代、世界とのつながりを細々と設けていたここ長崎は、日英和親条約の締結を経て居留地の許可後、一気に時代の変化を先導する役割を果たすこととなります。大浦天主堂という西洋の精神の寄りどころと、開国の黒幕の住居がこういう位置関係であるのですね。 
 
 グラバー邸は、実に開放的な造りです。港の風景を出来るだけ多く眺められるように三方に円弧の張り出しを作り、テラスを目一杯確保しています。ここで心行くまで長崎湾を眺めていたのでしょうか。そして何と高島炭坑開発にも携わっていたとか。おやおや、軍艦島クルーズで立ち寄った、大きな岩崎弥太郎像があった島ではないですか。正に日本の近代化に大きな影響を与えた人物なのです。
 そして、時にグラバー商会を倒産させたりして数奇な運命をたどっていますが、結局日本を離れること無く生涯を終えたのでした。
 
 このグラバー園。確かにグラバー邸は素晴らしいのですが、その後いくつかの移築建築物がいくつか追加された結果、何か明治村状態になってしまったのが私としては残念です。どうも重要文化財になっている平屋の建物・・・グラバー邸、オルト邸、リンガー邸は居留地時代からそのままの位置にあり、残りの建物は移築のようです。各建物の保存は素晴らしいのだけれど、その建物のストーリーというのは当時あった場所で培われたものですから、それが面の広がりとして結果として分からなくなってしまったのです。

 居留地はどのようなものだったのでしょうか。多分、グラバー商会のような業務系の建物は丘の下の平地に設け、邸宅はその上の山の中腹に構える。そういう構成だったのでしょう。そして時とともに平地の商会などはすべて建て変わり、上の邸宅街の建物が残されていた。それを順次譲渡、修復保存し、公開にこぎ着けた。それが第一弾で、そうしているうちに近くで保存したい建物があり、でもその場所では保存出来ないことから、それをこの近辺に移築することとし、一帯をグラバー園とした・・・・
 
 多分そんなことなのでしょう。明治村のように全面移転なら最初からそういうものだと分かって見ることが出来るのですが、ここはそこが入り乱れているので混乱します。居留地の一帯の模型でもあり、当時の姿を見せた上で、ここは現況保存、これはここから移築というような全体の見取りがあれば、すんなり理解出来るのにと思ってしまいました。もう少し頑張ってください。

グラバー邸。三方にせり出し、その間に温室が設けられています。暖炉の煙突が目立ちますね。
温室内部。かつてはここに一本松が聳えていたそうです。
オルト邸。グラバー邸と打って変わって直線で構成されています。正にコロニアル風ですね。 スティイル記念学校。これは移築組です。山手の洋風賃貸住宅(現東山手地区町並み保存センター)の上に建っていたようですから、今は海星学園の敷地になるのでしょうか。そういうのが分かるようにしてもらえればいいのです。
崇福寺 32 44 33.12,129 53 00.64
 旅の最後は崇福寺にしました。大浦天主堂、グラバー邸は明治前後の開国時の象徴でしたが、ここ崇福寺はそれ以前の大陸との交流を見せてくれるもので、別な異国を感じることの出来ますし、国宝が2棟、重文が4棟というのは実に堂々とした寺院なのです。

 長崎まで来ると、東京より上海の方が近いという事実を確認することになります。ここまで来ればもう少しで大陸だ。逆に見れば大陸から来て最初に目に入るのが長崎だったり五島列島だったりする訳ですね。半島からは福岡だし、島ならば対馬、壱岐もさることながら、沖の島という神秘的な島もある。
 
 ちょっと脱線しましたが、日本のゲートシティとも言うべき長崎には、在留していた外国人もそれなりにいたのでしょう。ここは福州人たちが故郷の僧侶を迎えて造営したそうです。福州というと台湾の向かいになるのでしょうか。ここいらの人たちは日本だけでなく、東南アジア一帯に出かけてはいろいろ商売をしていたのでしょうね。日本とは何を貿易していたのでしょうか。どんな人たちが来ていたのでしょうか。ここに骨を埋めたのでしょうか。それともしょっちゅう往来していたのでしょうか、いろんな想いが沸き上がってきます。
 
 アプローチは三門から。これからして全くのあちら風。確かに竜宮門と呼ばれるだけのことはあります。その先、第一峰門(国宝)はそれに輪をかけています。軒下の組み物はあちらで作って輸入して組み立てたとか。
 
 そして本堂にあたる大雄宝殿(国宝)は、ちょっと和風な所もあるけれど、内陣はあちらそのもの。十八羅漢がとても人間臭くてなかなか楽しい。そしてお寺全体が南西の方向・・・故郷の方向を向き、故郷への想いを伝えているのかもしてません。人が殆どいなかった境内で十分異国を味わうことが出来ました。

三門です(重文)。ここは何処だと問われても日本とは思えないですね。当時は結構自由だったのでしょうか。 第一峰門。仁王も何も無く薄い門ですが、軒下の組み物が凄い。完全に大陸になっています。
大雄宝殿と、奥に見えるのが媽姐門(重文)。階段上がって回廊というのはあちらの造りです。 十八羅漢。左右に九体ずつ並んでいます。メタボあり、座禅風あり、手を広げたり、本当表現が豊かでした、

旧長崎英国領事館が、電鉄の中から見えました。
明治40年の建築と、居留地の時代より随分後になります。カップルが案内版を読んでいます。

長崎は市電ではなく電鉄といいます。結構利用しました。
ここは築町の分岐。右折信号が光っています。

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