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長崎その1 大浦天主堂
Nagasaki vol1 Oura Church

32 44 03.12,129 52 12.63

 天主堂の右奥、旧羅典神学校前からの天主堂側面。
観光客の喧噪もここまでは届かず、静寂の中で見事な尖塔アーチとバラ窓風の装飾を見ることが出来ました。
瓦屋根との組み合わせが面白いですね。正面ファザードよりこちらの方が気に入りました。

 再び長崎に戻ってきました。朝の雨も午前中にはやみ、普通に歩ける天気となる中、向かったのは大浦天主堂、グラバー園という定番に加え、崇福寺をゆっくりと訪ねました。
 
 田平教会、野首教会を訪ねた今回の旅の締めくくりとして、やはり大浦天主堂に行かねばなりません。学生の頃来たことはありましたが、それから何年経ったのでしょうか。今回改めて訪れてみます。我が国最古の西洋建築として国宝に指定されており、近代建築の代表格にさえなっています。
 
 電鉄を下り、向かう道にはお土産屋さんが一杯。前に来た時には長崎東急ホテルのスケールアウトともいえる大きさが非常に気になったのを覚えていますが、今回はこの土産やの多さにびっくり。全く日本の観光地ですね。それを抜けると天主堂が現れます。
 
 ここの正式名称は日本二十六聖殉教者天主堂です。キリスト教が伝来して50年程経ってから、豊臣秀吉がキリシタン弾圧へと転じ、26人が長崎で処刑されたのが1597年。それから約270年後に処刑された人々に捧げる教会堂を建てるというのですから、やはり宗教の粘着気質というものは凄いものがあります。

 そして、キリスト教が禁止されていた期間にずっと信仰を絶やさずにいた人々もいたというのもまたびっくり。いわゆる隠れキリシタンがこの教会を訪ね、信仰を守ってきたことを告白したことが「信徒発見」とされていることです。粘着気質が本当によく分かるエピソードです。

 教会のHPによれば煉瓦造りで、表面は漆喰で白く塗られているとか。尖塔アーチの窓がアクセントになっていますが、全体としては凹凸が無く、装飾も殆ど無い平面的な造り。端正ともいえますし、少々物足りないともいえます。創建時から直ぐに増築された結果、今の姿になっています。
 
 それよりも感心するのはこのアプローチです。教会に向かって上っていく。そして天上ではないが、より天に近い場所にある教会に吸い込まれていくというのが実に大事なアプローチです。処刑された場所に向かって建てられたようですが、絶好の大地を選定しています。
 
 この点かなり損しているのが田平教会で、海を見下ろすいい場所に建てたのだけれど、アプローチは大地側だからちょっと見下ろす位置に見えてきてしまう。海の方から上ってくるアプローチガあれば、全く印象が違うのにと思った次第です。あくまでも外部の来訪者の視点ですが。
 
 内部はそう大きくないスケールでした。リブヴォールト天井が見事に表現されています。この曲面を日本の大工さんたちは竹と漆喰で表現したとか。プチジャン神父の指導のもと、未知の領域に挑戦した当時の職人は

、どんな気持ちでこの教会を作ったのでしょうか。まあ、種子島にいわゆる火縄銃が伝えられてからほんの数ヶ月で量産体制を作り上げてしまう日本人のことですから、ここでも様々な工夫をして、この空間を作り上げていったことでしょう。
 
 そして見事にアーケード、トリフォリウム、クリアストーリーという三層構造が出来上がっており、1800年代のゴシック建築として、そして日本で最初の洋風建築として、原爆の被害も避けることが出来、今に伝わっているのでした。

正面アプローチ。まだ雨がやんでいませんでした。俗なる参道(?)から一気に聖なる空間に入っていきます。右に旧羅典神学校が見えています。
内部は撮影禁止なので、買った絵はがきの写真を載せました。苦労して仕上げたリブヴォールト天井が見えます。トリフォリウムは骨組みだけで表現しています。
旧羅典神学校は現在資料館として解放されています。そこで見つけた創建当時の教会。ちょっとポルトガル風の感じがします。そして実線から破線へと増築されたのでした。
これも外から撮ったアーケードの窓。シンプルながら美しい。
教会の事務棟ともいうべき旧長崎大司教館。結構見事な煉瓦造で、若き鉄川与助が設計・施工で参加していました。右側の塔は大浦教会。観光客を避けて礼拝をあげるため、1975年に建築されています。
グラバー園に行く道からの旧羅典神学校。その左に教会、大司教館の屋根が見えています。神学校の建物の秀逸さが目を引きます。塀をもっと工夫すればとても素晴らしいところになるのに。