平成20年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

廻船絵馬 1画

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有形民族文化財・絵馬
福岡市西区 大歳神社

概要

 博多湾西部の能古(残島)、浜崎、今津、宮浦、唐泊の五つの浦の廻船集団である五ヵ浦廻船の一つ、唐泊の大歳神社に奉納された廻船絵馬です。

 法量   70.0㎝×97.2㎝
 時代   安政七年(1860)
 画面墨書 □政七庚□月上旬
      願主榎田伝吉
 その他  船名「大善丸」

指定理由

 対外航路の要港であった「唐泊」については長い歴史が知られています。「韓亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日は無し」(『万葉集』巻十五)。天平8年(736)6月「筑前国志摩郡の韓亭に到りて、船泊して3日を経」た遣新羅使阿部継麿一行の歌六首のうちの一首として著名です。承平年間(931-938)に成立した漢和辞書『和名抄』に見える「志麻郡韓良郷」は当地に比定されています。『筑前国続風土記拾遺』では大歳神社について『三代実録』元慶4年(880)3月22日条を引き、「三代實録元慶四年三月廿二日乙亥。筑前國正六位上大歳神授從五位下とあるハ此御社なりといひ傳ふ。」と記しています。南隣する「北崎」は『小右記』(長元元年〔1028〕10月10日条)や文明3年(1471)の『海東諸国記』などにも記され、当地域が古代・中世を通じて対外交渉・交易の要津であったと考えられます。
 中世末から江戸初期にかけ対外交易で活躍した博多商人神屋家・嶋井家などが鎖国とともに衰退いく中で、当地の海運はあらためて「筑前五ヵ浦廻船」としてその姿を現しました。
 博多湾西部に位置する能古、浜崎、今津、宮浦、唐泊の五つの浦の廻船集団を「筑前五ヵ浦廻船」と称しています(高田茂廣『筑前五ヵ浦廻船』)。唐泊はその一つである。福岡藩からの請負いとして、藩米を大坂・江戸へ回漕することを主業務とする傍ら、西廻り・東廻りの航路に従って幕府の米や材木を運漕し、また各地の産物の売買にも従事したらしく、その足跡は全国津々浦々に残されています(高田茂廣前掲書)。
 『筑前国続風土記附録』は唐泊に隣接する宮浦につき、「此浦に大船あり。国用の米穀を運漕す。圓通丸・栄久丸・和合丸各1700石積みなり。(中略)此浦の船より大なるハ国中になしといへり」と伝えています。享和三年(1803)、この圓通丸・栄久丸・和合丸は宮浦三所神社に武者絵馬を奉納しました。東都(江戸)柳々居辰斎が画く「加藤清正の虎退治」(平成8年福岡市文化財指定)の絵馬です。柳々居辰斎は『浮世絵類考』(岩波文庫 底本は享和3年頃のもの)が葛飾北斎の門人として取り上げている絵師で、その肉筆画は国内外でも残り数少ないです。
 唐泊の廻船で世に知られたのは伊勢丸です。宝暦13年(1763)、新造なった伊勢丸に20人乗り組み、藩米1600石を積載せ筑前を発し、大坂・江戸其他所々に荷物を運漕、翌14年10月19日の夜、常州鹿島灘にて悪風にあって漂流し、およそ101日後、「マギンタロフ」(泯太脳島;ミンダナオ島)に漂着しました。乗員の一人孫太郎(孫七とも)は8年後の明和8年(1771)「渤泥国」(ボルネオ)より帰国しました。伊勢丸は宝暦期には数少ない第一級の大船と考えられています(『南海紀聞』、池田晧編集『日本庶民生活史料集成』第五巻)。この孫太郎から聞取りをし『南海紀聞』をまとめのたは福岡藩の蘭学者青木興勝です。南海の地理・物産・風俗等々を記した同書は書写されて『漂流天竺物語』『唐泊孫七漂話』『筑前孫太郎漂流記』などの書名で全国に流布しました。
 大歳神社境内左手に小祠があります。『筑前国続風土記附録』は「社内に稻荷二社あり。其一社に黄帝の木像あり。防州の船師爰に納めりといふ。いつの頃にやありけん。彼の船師洋中に船をはせしに、逆風にあひ船たちまち覆らんとす。其時ふかく黄帝に所願せしか、つゝがなく歸帆せり。故に神像を彫刻し霊告にまかせこゝに納めりとそ。」と伝えます。今も「コウテイサマ」と呼ばれ、物を無くした時などにお参りするという。所伝の通り同像の裾裏には「宝暦十辰天 七月大吉日 周防国吉敷郡小郡嘉川村之住 仏師藤原祐政治作」、像底には「皇帝一躰」の墨書があり、大歳神社が航海守護の神として崇敬されていた証左となっています。
 本絵馬の願主榎田伝吉について詳細なことは不明です。廻船頭取には能古では石橋・前田家、浜崎では水崎家、今津では間家、宮浦では津上家・榎田家、唐泊では榎田家が就任したといわれています (高田茂廣)。
恐らく榎田伝吉も画面に見える「大善丸」の頭取でしょうか。享保19年(1734)、貝原益軒門人、稲留希賢が著した『筑前州志摩縣韓亭大年大神本縁』(『益軒全集』巻之五)は浦長榎田氏某と祠史牟田重寛の求めに応じた縁起ですが、これによっても当地における榎田家の地位をうかがうことができる。画面右奥に画かれた燈籠は、箱崎浜に文化14年(1817)に完成した高石燈籠と思われます(現在も国道3号線沿いに現存する)。唐泊或いは大歳神社からは能古島にさえぎられて実際にはこの高石燈籠は望見できませんが絵画的な表現をしたものではないでしょうか。
 隣接の宮浦の三所神社に正徳三年(1713)の廻船「小鷹丸」の絵馬が掲げられていますが残念ながら画面が著しく剥落しています。本絵馬は時代は下るものの保存状態も良好であり、往事の五ヵ浦廻船の面影を今に伝える本市におけるただ一枚の絵馬となっています。