平成20年指定文化財

喚  鐘    1口

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有形文化財・工芸品
福岡市東区 円相寺

概要

 近世の博多の鋳物師としては大田(太田)、柴藤、山鹿、礒野、深見の五家が知られている。元禄十二年(1699)、福岡藩は筑前国中の釜屋座・鉄問屋を博多九人、甘木一人の十人に定めた。しかしながら上記五家を始めとしたその鋳造品の現存例は数少ない。ことに寺院の梵鐘・殿鐘・喚鐘類は戦時下の金属供出のため二十数例をしか数えない。
 山鹿平十郎包秋が鋳造した喚鐘にはこの他同年弘化五年(1848)の徳正寺(西区今宿)の喚鐘がある。他に弘化四年(1847)の太宰府天満宮の風鐸、嘉永五年(1852)の麟麟並にうそ(県指定)が残されている。
  品質 鋳銅製
  形態 和鐘と朝鮮鐘との混交型  
  法量 総高54.5㎝ 鐘身高42.3㎝ 底部外径33.3㎝ 底部内径26.7㎝
  時代 嘉永元年(1848) (初鋳・享保一九年〔1734〕 再鋳・嘉永元年〔1848)) 
  鋳工 鑄工 山鹿平十良包秋
  銘(陰刻)
    「筑前粕屋郡下和白村圓相寺什物
      嘉永元申年十月 延譽
                再興之 」
    「法誉性道和尚
     響誉流音居士
     正誉妙覚善女
        正誉慈貞
      各位冥福    」
    「鑄工 山鹿平十良
             包秋   」
    「    元鐘    施主  久保田弥十良
     一到■■信士菩提      柴田孫太郎
         享保十九寅七月圓誉吟了代     」

指定理由

 本喚鐘を製作した山鹿氏および芦屋釜に触れて『筑前国続風土記』(元禄十六年〔1703〕)は、「蘆屋釜 むかしより此國遠賀郡蘆屋里に鋳物師の良工あり。(中略)山鹿左近掾と稱せらる。本姓は大田なれ共、蘆屋の山鹿に居住せる故山鹿と稱す。(中略)かの左近掾か末、慶長年中 長政公入國の比迄は、蘆屋にありて、鋳工多かりしか、其後断絶す。遠孫共博多或姪濱等に來りて鋳る。其中に大田次兵衛と云者すくれて良工也。」と伝え、『筑前国続風土記附録』は、「蘆屋釜并冶工か事本編(六五五)に見へたり。今博多に蘆屋釜師か遠孫山鹿氏、本姓ハ大田、月俸三口を賜ハる、有。茶釜の製古へに劣らす。又霰間鍋・茶瓶等其外数品を鑄る。頗良工なり。」と伝える。
 元禄十二年(1699)十二月八日、博多九人、甘木一人の十人に国中の釜屋座・鉄問屋が定められたが、このうち九名は博多の釜屋町喜兵衛・与右衛門、土居町七兵衛・甚兵衛・小兵衛、西町釜(屋脱ヵ)番善右衛門、大乗寺前町藤兵衛・三郎右衛門、瓦堂圖師七兵衛であった(『博多津要録』)。釜屋町喜兵衛は大田氏、土居町七兵衛は礒野氏、土居町甚兵衛は深見氏、西町釜(屋脱ヵ)番善右衛門は柴藤氏に比定される。
 大田喜兵衛が居住したという釜屋町は近世博多の町名にはない。通称であったのだろうか。櫛田神社に所蔵される上記した同年同月日・同内容の釜屋座・鉄問屋の定めの史料は金屋町喜兵衛宛となっている。金屋町は現在の博多区下呉服町・中呉服町に当たる。
 芦屋鋳物師の出である大田氏は後に山鹿氏と名乗りを変える。加藤一純編『治工山鹿氏系譜序』(天明三年〔1783〕)は、「兼藤五次兵衛と云、光之公(寛永五年・1628-宝永四年・1707)江戸営中に献じ給ふ茶釜を冶工せしめ給ふ、中比太田と呼しかども此時氏を山鹿と改め」たと記す。18世紀中頃のことと考えられるが、それ以後幕末にかけて山鹿氏の旺盛な活動が認められる。
 本喚鐘を鋳造した山鹿平十郎(良)包秋はこの他に同年弘化五年(1848)に徳正寺(西区今宿)の喚鐘も製作している。その他弘化四年(1847)の太宰府天満宮の風鐸、嘉永五年(1852)の麟麟並にうそ(県指定)が残されている。後者うその円筒形台座の陰刻銘に「鋳工 山鹿平十郎包秋 同苗儀平包信 同苗儀吉包春」と見えている。19世紀中頃以降の山鹿氏には、包秋、包信、包春、包矩、兼広の五名の冶工名が挙げられる(田鍋隆男「筑前の鋳物師」『福岡県史・通史編・福岡藩・文化(下)』)。
 慶応二年(1866)の『博多店運上帳』(櫛田神社蔵)には、近世博多鋳物師の代表的地位を占めてきた大田(太田)、柴藤、山鹿、礒野、深見の五氏のうち、釜屋番に鋳物師柴藤善左衛門、大乗寺前町に鋳物師鋳物師磯野七平、同じく大乗寺前町に深見甚平・平次郎の三氏が見えている。鋳物師大田(太田)氏の名の記載がないことはともかくとして、どのような理由に因るのか、19世紀中頃以降旺盛な活動を見せていた鋳物師山鹿氏の名を『博多店運上帳』に見ることは出来ない。
 本喚鐘は慶長十四年(1609)の英彦山神宮の御神体鋳造以来、大田(太田)から山鹿と氏名を改めながら近世博多鋳物師の中枢を担って来た御用鋳物師山鹿氏の最終期の作例となる。