平成20年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

「福岡の変」絵馬 1画

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有形民族文化財・絵馬
福岡市早良区 櫛田神社

概要

 明治十年 (1877) 三月西南戦争で薩摩軍に呼応し決起した旧福岡藩士族の反政府暴動・福岡の変を題材とした絵馬で、福岡の変の現況を絵画的に記録しています。
 福岡の変については、これに参加した山中立木の回想録である「旧福岡藩事蹟談話会筆録(承前)」(『筑紫史壇』第40集 昭和2.4.30)にその概要を見ることができますが、その他必ずしも多くの資料が残されている訳ではないようです。
  法量   151.4㎝×95.0㎝
  時代   明治十一年(1878)
  画面墨書 明治十年丑旧□月十□日於當所戦之圖
  上枠銘  奉納
  右枠名  明治十一年
  左枠名  □□月吉日

指定理由

 元治元年(1864)11月初旬、長州藩奇兵隊長高杉晋作(春風)は福岡藩浪士中村円太の導きで月形洗蔵を頼って長州を脱走、初め博多水車橋(現上川端町)そばの村田東圃(本居宣長直門、画家、市内各社にも絵馬を残す)に潜伏、後、野村助作・祖母望東尼の別荘平尾山荘に身を隠しました。11月21日、早川養敬・瀬口三兵衛等は高杉の帰国に同道しました(『新訂黒田家譜』第七巻)。
 同年11月中旬、薩摩藩大島三右衛門(西郷吉之助の変名、後、隆盛)来福、月形洗蔵・建部武彦応接して薩長和解(同盟)を説き、大島(西郷)も諒解しました(『新訂黒田家譜』第七巻)。
 同年11月19日、第11代福岡藩主黒田長溥、箱崎の別業(箱崎御茶屋、箱崎二丁目網屋天満宮の辺りにあった)で大島(西郷)を饗応、月形洗蔵・建部武彦等も接伴しました(『新訂黒田家譜』第七巻)。
 同年12月、月形洗蔵、大島(西郷)等と馬関(下関)の茶亭大坂屋にて会談、高杉も来会。高杉、大島(西郷)に対し傲然として「甘藷掘男哉」と言い、大島(西郷)笑って肯い、この日薩長和解(同盟)の端緒が開かれました(『新訂黒田家譜』第七巻)。この後慶応二年(1866)、坂本龍馬の斡旋で薩長同盟が成り倒幕への最終局面を迎えていきました。
 「攘夷」と「開国」、「佐幕」と「勤王」、或いは「公武合体」、又は「尊王攘夷」か「尊王倒幕」か、と大きな基軸がもつれ絡まり合う中、福岡藩主黒田長溥の政治的立場は「尊王忠幕」であり、慶応元年(1865)、「乙丑の獄」が起こり福岡藩の勤王派140余人は逮捕弾圧されました。前記の月形洗蔵・瀬口三兵衛斬罪、建部武彦切腹、野村望東尼姫島遠島、野村助作玄界島遠島、等々です。
 宮浦(福岡市西区)の商人津上悦五郎の記した『見聞略記』(高田茂廣校註)には、この頃浪士たちが城下や博多に入り込むため、夜回りも頻繁になり、福岡牢屋の町の黒門、赤坂門その他五ヶ所に番所が建てられはなはだ物騒な時節になったことや(元治元年〔1864〕)、イギリス軍艦福岡入津に際して藩主対談予定の箱﨑御茶屋を改修、「世界一番の金子持」「ガラハ」(グラバー)も乗艦、饗応の牛の乳入用につき宮浦村・西浦村・小田村から小牛を引き連れ届けたこと、残の島(能古島)で異国人共が鹿狩をし鉄砲で鹿六十疋を撃ち留めたこと、異国人の残の島冲での大砲調練を藩主長溥が洋装軍服で海上から観閲したこと、同じく藩主以下、「緋羅紗のぼたん付」の上着に「黒羅紗のぱつち」をはいたイギリス軍三百人余の
調練を箱﨑御茶屋から観覧したことなど(慶応二年〔1866〕)、王政復古、明治維新目前の福博市井の見聞を伝えています。
 明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発します。3月、武部小四郎、越知彦四郎、加藤堅武ら約200人これに呼応して「福岡の変」が起こりました。武部小四郎は「乙丑の獄」で切腹の刑罰となった建部武彦の遺児、加藤堅武もその時同じく切腹の刑罰となった元福岡藩家老加藤司書の遺児でした(いづれも「福岡の変」後、斬罪に処せられた)。
 同志山中立木(後、福岡市初代市長、退任後旧藩主黒田侯爵家々令)は武部・越知等の急激論に対し時期尚早と論争しました。武部・越知は田島(福岡市城南区)の旧御茶屋(藩主別荘)友泉亭に同志を集め密会しました。山中は駆け付け軽挙・早計を説諭しましたが、越知は「咲かで散る花のためしにならふ身は いつか誠の實を結ふらむ」と辞世の一句を遺したといいます(山中立木「旧福岡藩事蹟談話会筆録(承前)」『筑紫史壇』第40集 昭和2.40.30)。
 西新町藤崎千眼寺に集結した旧藩士約100人、旧福岡城の鎮台兵を襲うも奏功せず大休山に敗走、その後の顛末は詳しく山中談話に記録されています。
 この間、「七隈原第十四大區調所に放火し社倉を分捕つて糧食」にあてたそうです。本絵馬画面右下に見える火の手はそうした状況を伝えるものかも知れません。
 画面に見える帽子をかぶり「パッチ」をはいて銃を構える一隊と、それに対峙して鉢巻きをし腰に刀をさして銃を構える一隊なども当時の状況を如実に画いたものと考えられます。

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 本市には西南戦争従軍を記念した絵馬が10点ほど残されているが、多くは錦絵風のものか鹿児島の場面を画いたものであり、本絵馬のように本市に於ける西南戦争と福岡の変の現況を画いたものは見あたりません。
 保存状態は良好とは言えませんが、福岡の変の現況を絵画的に記録した貴重な資料となっています。