平成八年度指定
所在地 福岡市西区宮浦1157
所蔵者 宗教法人三所神社(代表役員 党 秀一)
作 者 柳々居辰斉
画 題 加藤清正の虎退治
時 代 享和3年(1803)6月
法 量 竪80.0cm、横121.5cm 材厚1.7cm
材 桐 横8枚
枠 無し
銘 文 (画面上) 奉獻
(画面右) 東都 辰齊〔畫〕「(円印)」(印文不詳)
(画面左) 享和三癸亥/六月吉日
(画面左下)榮久丸米藏/三立丸武右衛門/和合丸文助/圓通丸千藏
江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎の高弟の柳々居辰斎が描いた絵馬が同市西区宮浦の三所神社の社殿から見つかりました。辰斎は生没年不詳で肉筆画は約十点しか確認されていないません。絵馬は加藤清正の虎退治の様子が描かれ、社殿の梁(はり)に掲げてありました。金ぱくを使った豪華な画風で、画面右上に「東都 辰斎」の署名、左下に奉納した地元福岡の海運業者四人の名が記されています。
福岡湾沿いの神社一帯は当時、福岡と大阪、江戸などを船で結び、米や特産物の交易で栄えた「五ケ浦廻船」の基地の一つで、絵馬は海運業者が江戸で活躍する辰斎に描かせ、航海安全を祈り奉納したとみられます。辰斎の絵馬は栃木県足利市に次いで二例目です。どちらも江戸と離れた土地に残っており、ほかでも見つかれば辰斎の足取りをたどる手掛かりになります。
柳々辰斎は北斎の高弟の一人ですが、生没年は未詳です。神田小柳町・新石町に住み、家主だったという。文化1804-1818末頃まで浮世絵師として活躍していますが、文政1818-1830以降のことは判然としません。北溪同様、狂歌摺物と狂歌本の挿画が多く、ほかに肉筆画と洋風版画が知られています。「近江八景」八枚揃は北斎の洋風版画に啓発されての作画と思われ、そのほかの無款作品も含めて水平線の位置の高さや描線の軟らかさで北斎作品とは別種の趣きを備え、珍重されています。
本絵馬の奉納された三所神社は海、とりわけ航海の守護神として崇敬された宗像三女神を祭神とする神社であり、宮浦(みやのうら)の地名もそれにちなんでいます。
近世、宮浦の枝郷だった北隣りの唐泊(からどまり)は『万葉集』にも詠われた外交使節の停泊地「韓亭」(からどまり)の遺称地として考えられています。また南隣りの北崎についても『小右記』(長元元年〔1028〕10月10日条)や文明3年(1471)の『海東諸国記』などにも見え、当地域が古代・中世を通じて対外交渉・交易の要津であったことを窺わせています。
中世末から江戸初期にかけ対外貿易で活躍した博多商人神屋家・嶋井家などが鎖国とともに衰微していく中で、当地の海運はあらためて「筑前五ヶ浦廻船」としてその活動の姿を現しました。
博多湾西部に位置する能古・浜崎・今津・宮浦・唐泊の五つの浦の廻船集団のことであり、宮浦もその一つでした。
福岡藩からの請負いとして、藩米を大坂・江戸へ回漕することを主業務とする傍ら、西廻り・東廻りの航路に従って幕府の米や材木を運漕し、また各地の産物の売買にも従事したらしく、その足跡は全国津々浦々に残されています。
ちなみに、漂流記で著名な『南海紀文』『漂流天竺物語』〔注3〕の語り手は唐泊の孫太郎(孫七とも)であり、孫太郎が乗り組んだ伊勢丸は福岡藩の大坂廻米三斗三升入四千八百俵、千五百余石を積んでいたといわれていますが、乗組員の中には宮浦の松蔵・才蔵・定次郎がいたとされます〔注4〕。
墨書の人名は船頭の名であると思われます。
『筑前国続風土記附録』(1798年頃成立)に「此浦に大船あり。国用の米穀を運漕す。圓通丸・榮久丸・和合丸各千七百石積ミなり。船主を文九郎といふ。篤実にして家業を愼しミ勤めり。酒烟を好ます勤儉の浦民なり。といふ。(中略)此浦の船より大なるハ國中になしといへり」〔注5〕とあります。
船名・船主名・船頭名は継承・世襲されて来たもののようですが、上記の記述は時期的にも本絵馬の願主と一致しているといえます。
これより先、三所神社に奉納された寛政元年(1789)の石灯籠にも圓通丸・榮久丸・和合丸の願主名が刻まれていますが、墨書に見える「三立丸」と判読した船名については当地では他に所見がありません。宮浦の新造の船ででもあったのでしょうか。
なお、当社には「大坂蘭溪法橋〔注6〕門人児嶋弘貞」筆の明和2年(1765)、同4年(1767)の絵馬が掲げられます。いかにも五ヶ浦廻船基地にふさわしい広がりです。