北国街道・修那羅峠・カヤノ平・鍋倉高原

周遊ドライブ

信濃巡礼予備調査行2

グリーンウッド氏の友人の西沢君が有機農業に関するノースウエスト・アース・フォーラムを鍋倉高原で開催するので参加しないかという。お盆の帰省を兼ねることが出来ると合意し、単身ジープを駆って出かけた。折角の機会であるので今だ訪問していない信濃のところどころを信濃巡礼予備調査行2を兼ねて気ままに訪れてみようというわけである。予備調査の結果は信濃三十三ヶ所霊場と巡礼路にすでに反映した。以下はその道中記である。

 

第1日 2007年8月21日

東京を横断して関越道に入るには渋滞を覚悟しなければならない。というわけで最近は信州へは甲州を抜けて行く道しか使っていない。しかし今年、圏央道が中央道の八王子JCTまで延長されたというのでこれを試用してみようと思い立った。とはいえ八王子までの神奈川県側の渋滞はそのままだ。これを考慮し第三京浜経由で環状8号に入ったが、やはり環状8号は超渋滞でなかなか中央道にたどりつかない。やむをえず ナビに従って桜上水駅脇を抜けて甲州街道に入り、都心に向かって逆走して首都高永福町入口から高速に入るしまつ。

圏央道は思ったより交通量があっておどろいた。やはり潜在的需要はあったのである。 道路公団がようやく民営化されてより利益の上がる首都周辺の渋滞対策に乗り出してくれたが圏央道が東名と湘南道路に連結されるのは2012年とのことである。歳でもう車も運転できなくなる頃だ。我々世代は汗水働いて、道路を後の世代に残す役割だったのかと憮然たる思いだ。永年の自民党独裁政権の地方重視政策は首都圏住民の犠牲を伴ったわけである。そして地方へのばら撒きが財政逼迫で不可能になったとき、自民政権を支持する基盤がなくたったという構図である。自業自得であろう。

こんなことを考えながら運転して高坂PAで昼食、小諸ICで一般道に下りる。小諸ICで降りたのにはわけがある。信濃三十三ヶ所霊場と巡礼路を企画した時、小諸の懐古園を今だ訪問したことが無いことに気がついた。都合で信濃巡礼には参加できないので、布引観音、海野宿、信濃国分寺跡、上田城、修那羅(しょなら)峠の石仏を訪れてみようというわけである。

懐古園は「しなの鉄道」(旧信越線)の小諸駅隣にある。江戸時代の小諸藩の城のあった城址である。懐古園の額がかかるのは三の門である。司馬遼太郎が「信州佐久平道潟のみちほか 街道をゆく九」で酷評したように門前の茶屋がスピーカーで安音楽を流していることもなく、風林火山の旗が風ではためいていた。この城は武田信玄の軍師、山本勘助が縄張りしたとされているのだ。千曲川がつくる布引渓谷に向かって坂を下てゆくと、この城がいかに要害の城であったかが分かる。

懐古園 三の門

布引渓谷は千曲川がえぐった深い谷である。残された台地が御牧ヶ原台地(みまきがはらだいち)である。信濃29番札所釈尊寺(布引観音) は御牧ヶ原台地が布引渓谷に落ち込む断崖の中腹にある。懸崖造りの立派なものだ。布引の名は牛に枯れて善光寺参りの伝説にでてくる。この観音さまが牛に化身して千曲川のほとりで布をさらしていた大の信心ぎらいの老婆を善光寺に連れていったとき、牛が角にひっかけた布に由来するらしい。

布引観音と浅間山

千曲川を北岸に渡って北国街道の海野宿を訪問する。追分宿で中山道と別れた北国街道はここを通って北陸道に向かう。白鳥神社から信濃鉄道の大屋駅に至る信濃鉄道沿いの旧街道の宿場町である。というか旧信越線や国道18号線は北国街道にそって敷設されたのだ。通りの真ん中に小川が流れているところが涼しげで心地よい。

北国街道海野宿の資料館

若き頃、帰郷のために12時間もかけて通過した国道18号線を上田に向かってゆくと左手に信濃国国分寺跡がある。ここも旧信越線が脇を通っている。司馬遼太郎が「信州佐久平道潟のみちほか 街道をゆく九」で木もなにも無いと酷評した国分寺跡はしっかり整備され資料館もできていた。

信濃国国分寺跡

池波正太郎の「真田太平記 全12巻」で堪能した上田城を人目見ようと夕闇せまる上田城にかけつけた。関が原の直前、家康が若い秀忠に約4万の徳川の主力をつけて西軍に見方した真田の上田城を攻めさせたが落ちなかった。その理由が分かる。千曲川がつくった天然の要塞を見事に生かしきってある。東虎口櫓門脇の石垣には真田石という高さ約2.5mx横約3mの大石が使われている。真田昌幸が築城の折り柱石として据えたものと伝えられている。真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられる。

上田城 東虎口櫓門

真田幸隆が信玄の家臣となって、村上義清に奪われていた父祖の地、砥石城(上田菅平IC近傍)を取り戻す。真田は滋野一族の一支流であったが、砥石城を取り戻す謀略の一つとして滋野一族の一支流である海野家の再興も果たした。幸隆の三男昌幸はまだ子供であったが砥石城に入城して眼下に広がる千曲川の川岸に上田城を築城する構想を持ったという。

上田の材木町は我が生誕の地だが、たまたま父の任地だったという関係でここに定住したことは無かった。まだ1才にみたないころ、真田の庄にも1年程住んだ。

日が落ちたので上田菅平ICから上信越道経由で長野に入ろうと考えたのだがラジオで長野道がトンネル火災で不通になっていると放送している。このとき長野道と上信越道を勘違いしてそれでは夜になってしまうが信濃巡礼のルートに選んだ修那羅峠(しょならとうげ)を通ってみようと 思い立った。反転して松本街道に入り、青木村に向かう。青木村で給油後、松本街道を青木峠に向かい、途中右折して麻績(おみ)口から修那羅峠に向かう。

修那羅峠にロマンを感じたのは藤田宣永の「愛の領分」を読んだからだ。峠を通過するとき石仏へ至る案内板を見かけた。夕闇せまる坂井村の長い坂を下っているとき、狐が道路を横切る姿をみた。生まれてはじめての体験だが北キツネより少し大きく褐色のふさふさした尾が目に焼きついている。横断地点でスローダウンして消えたキツネをさがしたが、フッと消えたままだ。これがキツネにつままれるという言葉の感じかなと思う。信濃巡礼の宿泊の世話になる予定の草湯温泉の草湯温泉冠着(かむりき)は山の中にしては立派な施設と見受けられた。

日の暮れた麻績ICから長野道に入った。ここで勘違いに気がついたが、交通制限はすでに解除されていた。

 

第2日 2007年8月22日

実家で1日を過ごした。夕方7:30のNHKのクローズアップ現代がコウノトリ・トキ復活大作戦を取り上げていた。北高同期の山岸君がコメンテーターで出席していた。中身は既知の内容で新味はなかったが彼が気張って探したのか誰かのプレゼントなのか素敵な鳥のネクタイが印象的だった。

 

第3日 2007年8月23日

ノース・ウエスト・アース・フォーラムが開催される鍋倉高原森の家には14:00集合である。朝10:00長野出発。信州中野ICより志賀中野道路で夜間瀬に向かう。木島平を望みながら糠塚から清水平林道をカヤノ平に向かって急坂を登る。途中、すれ違った車は1台のみ。幸いこの林道は全て舗装されていた。カヤノ平にはキャンプ場 、カヤノ平牧場、カヤノ平高原ロッジがある。いずれも木島平村の村営である。キャンプ場の場の常設の貸しテントには触指が動かなかったが、カヤノ平高原ロッジはまだ新しく、快適そうであった。(Hotel Serial No.401)ここを拠点にして鉢剣山(はっけんざん1,676m)登山やブナ原生林・湿原散策を楽しめそうである。ここで山菜そばの昼食 をとる。

カヤノ平牧場

13:00にカヤノ平高原ロッジを出発。奥志賀公園栄線を上ノ平経由野沢温泉に下ろうとの目論みである。2004年の苗場山登山後、秋山郷から奥志賀に抜けた時、奥志賀公園栄線をいつか走りぬけてみようと思い立ったのだ。

道は山肌を丁寧に等高線をたどって走るので思ったより時間がかかった。戦後、 カヤノ平のブナ林を皆伐したため跡地は笹原になってしまい植林がむずかしかった、そこでまず牛を放牧して笹を退治してから植林する混牧林牧場として植林に成功したという看板がある。

毛無山手前では、曲がり竹採集に笹原に入り、遭難する人が多いので注意するようにとの看板がある。25kmを40分かかって毛無山に到着。見覚えのあるリフトが見える。意外に急斜面で驚く。よくこんなところを平気でスラロームできるものだと我ながら感心した。上ノ平から野沢温泉に下る林道もスキー以上に難儀した。ハンドル操作を誤れば谷底にまっさかさまである。野沢温泉に到着する頃は約束の集合時間を過ぎてしまった。西沢幹事の携帯に電話するがソフトバンクは山の中では電波状況が悪く不通。

やむを得ず千曲川にそって鍋倉高原森の家(Hotel Serial No.354)に向かって道を急いでいると昨夜の大雨で増水した千曲川に4艘のゴムボートが川下りをしているのが目に入る。1艘に6人乗っている。カメラを構えていると先頭の1艘が川の中にある大岩に乗り上げたかと思う間もなく転覆してしまった。全員川の中に投げ出されてばらばらになって下流に流されてゆく。一瞬 、110番に電話しようかと考えた。しかし稲村ガ崎から遠泳にでかけた友人が鎌倉高校前で岸に戻り、出発地点まで歩いて帰って自分の行動が救助ヘリまで出動させてしまって愕然とした経験を思い出し、暫く様子をみながら状況を把握しようと考えた。まず第1に全員 がライフジャケットとヘルメットを着用している。第2にプロの指導員がついていて自力救助の段取りはしてあるだろう。第3に仲間がもう3艘いてこれを目撃しているようだ。第4に下流には 信濃川発電所の取水目的に西大滝ダムがあって全量の水をせき止めて取水し発電につかっている。河は深くはなるが、流れが穏やかになる。ダムの取水口には格子があるので取水トンネルに吸い込まれることもない だろうが。(次の日に十日町に抜ける時、取水施設を視察したが、溢流堰がある。昨日位の増水時は問題ないが、豪雨の後ではここに吸い込まれる可能性はあると思った)

西大滝ダムで取水された水は信濃川発電所経由で信濃川にもどるがすぐ悪名高いJRの宮中取水ダムでほぼ全量トンネルの中に消えて、信濃川は干上がっている。

冒険野郎に110番はかえって迷惑になるだろうとぐずぐず考えているところに幸いにもパトカーがやってきた。これを止めて 「もう連絡が行ったのか?」と聞くとなにも知らない。「そこの急流でボートが転覆して全員投げ出されて川下に流されている」と報告すると「ああ森の家がやっているやつですね。見回っておきます」というので やっと安心して森の家に向かう。森の家の管理人に一部始終を話すとそれは別のグループでしょう。我々は増水で危険と判断し、午前中に引き上げました。第一我々のはカヌーを使いゴムボートは使いませんとのことであった。その後、 ニュースも聞こえてこなかったので無事だったのだろうと考えている。

千曲川下境神社近くで転覆した川下りのゴムボート

鍋倉高原森の家には30分遅れで到着。15:00からは西沢・三ツ井さんの大豆畑で枝豆の収穫ということであったが、雑草が生い茂ってまだ実が大きくなっていないという。そこで千曲川の対岸にある「菜の花公園」近くの畑の枝豆とスワップさせてもらうことにしてそこに移動する。ここからの千曲川の眺めは最高だ。千曲川の向こうには斑尾山が見通せる。春には菜の花畑が一望の下だという。

菜の花公園と千曲川と斑尾山

参加者全員で枝豆の収穫を行う。枝豆の収穫風景写真の背景は寺尾聰・樋口可南子主演の映画「阿弥陀堂だより」の舞台になった福島棚田のある福島集落である。ここには映画に使われた阿弥陀堂のセットはそのまま保存されているという。

映画「阿弥陀堂だより」の舞台を背に枝豆の収穫

唱歌「朧月夜」の歌碑のまえで参加者全員集合して記念撮影し、唱歌を歌う。いいやま湯滝温泉で汗を流して鍋倉高原森の家に帰る。24名の参加者は4つのコテージに分散宿泊する。なかなか立派な施設だ。ウルガイラウンド合意時、農水省が慰謝料として5億円の補助金を出したのでこれを造ったという。これも行政がばら撒いた我々都会住民の血税である。都会住民としてはこれを利用しなければ回収できない仕掛けとなっている。

夜は鍋倉高原森の家のターミナルハウスの大広間でノース・ウエスト・アース・フォーラムが地元の営農家と飯山市役所の職員を交えて夕食を摂りながら開催された。ノースは北高、ウエストは西高、アースは地元農家を意味するのだと西沢君が説明する。西沢君の基調講演のテーマは「有機農業が人類を救う」である。講演後、有機農業に関し土屋君の司会で自由討議をした。流通経路開発がキーとなろう。フォーラムの締めは小出氏のお嬢さんのハープ演奏であった。グリーンウッド氏は24:00過ぎにはシャワーを浴びてベッドにもぐりこんだが、池田ら呑兵衛のグループはコテージで3時まで飲み明かしたという。

 

第4日 2007年8月24日

朝7:00起床、8:00の朝食までに車椅子でもOKの木屑をゴムで固めたという贅沢なブナ林の散策路を小出君の家族と一緒に散策する。朝6:00起きで西高のご婦人連中を連れて畑を見学しおえた西沢君が一連隊を率いてやってきた。

西高のご婦人連中は東京と鍋倉高原を直通のバスで往復するという。そのバスは15:00出発である。朝食後、昼までの時間をどう過ごすか討議した。幹事案は風呂にはいってから手打ちそばを食して時間をつぶすことであった。

グリーンウッド氏は信濃巡礼予備調査が今回の旅の目的の一つである。巡礼幹事を引継いでくれた北沢(栄)もきているので一緒に19番菩提院の観音堂を訪問しようと提案した。これを聞いた西高のご婦人方が風呂よりも19番菩提院の観音堂を訪問したいと言い出した。そこで衆議一決、全員で小菅神社に繰り出すことにした。その前に全員で記念撮影をする。

鍋倉高原森の家のターミナルハウス前に全員集合 (西沢重篤氏撮影)

西高側の幹事の三ツ井さんを我がジープに乗せて運んだが劇作家の別役君とNHKのディレクターを勤めた小笠原君は柳町中学の同級生で毎年会っているとのことであった。「別役さんは出家すると聞いたのですがなかなか実現しませんね。寺が見つからないのでしょうか?」と聞かれたが知るよしもない。彼も林住期に入ったとの自覚があるのだろうか?

小菅神社(こすげじんじゃ)は現在は神社であるが、もともとは役小角が開山した「神仏習合」思想の産物としての修験寺院・小菅山元隆寺(こすげざん げんりゅうじ)が起源であるという。戸隠飯綱とともに信州三大修験霊場の一つとされていた。武田信玄と上杉謙信の1557年の第3次川中島の戦いは謙信が負けてほうほうの体で上杉の庇護下にあったこの寺に逃げ込み匿ってもらったという。追撃する武田軍が全山を焼き払ったという。後に上杉景勝が奥社本殿を再建したという。明治時代の廃仏毀釈運動により、小菅山元隆寺は寺を菩提寺として分離し、小菅神社とされ、今日に至っている。菩提寺の観音堂は破壊されずに生き残った。今ある小菅の集落には寺の堂搭が立ち並んでいたという。歩いて1時間かかる奥社へは樹齢400年の杉並木がある。

19番菩提院観音堂にて (西沢重篤氏撮影)

歴史を知ることは越し方行く末を考える上で有意義なことであろう。皆満足して戸狩の蕎麦屋で蕎麦を食して鍋倉高原森の家に帰った。14:00には散会した。

グリーンウッド氏は十日市場町経由で石打・湯沢ICに出て、関越自動車道、圏央道、中央道経由で相模湖東出口で一般道に降り、厚木経由で自宅に戻った。相模湖東出口まで3時間、相模湖東出口から自宅まで3時間であった。全走行距離は835km。

September 3, 2007

Rev. Fevbruary 13, 2009


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