旧中山道

沓掛宿から和田宿まで

2005年10月、義姉の沓掛宿の別荘を拠点にして横川茶屋本陣から 大学時代の友人、倉見氏のカントリーハウスがある茂田井(もたい)宿を経由して和田峠まで3日かけて旧中山道を歩いてみようと決めていた。

長い梅雨も明けた2006年8月沓掛宿の別荘に家族を伴って出向いた。しかし76才の義姉を伴って横川茶屋本陣から碓井峠に向けて高度差700mを登るのは気温が高く、エスケープルートも無く、無理と判断。沓掛宿から和田宿まで2日かけて歩くことにした。当初、沓掛宿から茂田井宿まで一緒に歩く予定だった友人もゴルフの予定が入っていたため、結局単独行となった。

中山道は江戸時代に造られた五街道の一つ。大きな河を横断する必要がないため盛んに利用された。家光の頃から参勤交代の制度が実施され、各宿内には本陣、 脇本陣、高札、出入口には枡形の道と土手を築いて宿内の警備取締まりをした。街道には1里(4km)毎に土を盛った塚を道の両側に造って目印とした。いま でもかなり残っている。

沓掛宿→茂田井宿(28km)

沓掛宿は今は中軽井沢と名前が変わって、別荘地として栄えているが、昔は長谷川伸の戯曲の架空の主役沓掛時次郎(1966年に映画化)のイメージのような街道筋の宿場であった。

2006年8月3日(木)、晴れ、6:00起床、7:20出発、15:20着。昼食と休憩1時間として沓掛から茂田井まで歩いた正味時間は7時間。グリーンウッドモデルの軽井沢から望月までの予測時間7:48から1キロ分の20分を引けば7:28となり、28分早かったことになる。平均時速4km/h。アイソトニックドリンク入りペットボトルを4本消費 し途中補給水1本。 強い日射をさけるため日傘をさして歩く。

場所 地図距離(`) 写真 説明
沓掛宿 0 - 出発地点。市街化し、古いものは何も残っていない。
追分宿 4 写真は中山道と北国街道の分岐点。右は北国街道、左は中山道。

ここから旧中山道に入り小田井宿に向かう途中に千ヶ滝湯川用水温水路が左手に見える。ただの小川がせき止められて長さ約1キロメートル、幅20-30メートルの貯水池のようになったいる。多分ここで冷たい水を灌漑用水に使えるように暖めているのではないかと察した。

小田井宿(おたい) 5 写真は本陣跡。小田井宿は女傑、安川ハルの出身地。

1547年7月、武田信玄が佐久の笠原新三郎清繁が立てこもった志賀城を攻めた時、関東管領・上杉憲政に要請した西上野国人衆を中心とした上杉軍二万余の援軍は8月に碓氷峠を超えて小田井原に布陣した。激戦の末援軍は全滅。この頃、真田は武田の配下となっていた。

岩村田宿 5 岩村田宿までは緩やかな下り。ここで直角に右折し、千曲川に向かって緩やかに傾斜する佐久平を西に向かう。岩村田宿 は市街化し、古いものは何も残っていない。塩名田宿に向かう街道の両側にはたくさんの古墳があり、そのうちの一つが長野県埋蔵物文化財センターにより発掘調査中であった。写真は街道にある一里塚。その向こうに古代の古墳が見え、その先に瓜生坂 のある丘陵が横たわる。
塩名田宿(しおなだ) 5 塩名田宿で千曲川を渡る。写真で赤く見えるのは中津橋。昔の橋は写真の道路が途切れたところにあった。対岸は御馬寄(みまよせ)御馬寄の河岸段丘の向こうに瓜生坂のある丘陵が見える。江戸時代の1721年より前は御馬寄側は投渡し橋、塩名田側は平橋。1722-1743年は御馬寄側は刎(はね)橋。1744-1750年は舟渡し。1751-1803年は御馬寄側は刎橋、塩名田側は平橋。1804-1873年は平橋。幕府崩壊後の1873-1891年は”橋つなぎ石”を利用した舟橋と 洪水の度にしばしば変る。1891年以後木橋、そして現在は鉄橋。
八幡田宿 3 御馬寄村の高みから八幡宿を遠望した。瓜生坂の丘陵が次第に近くなる。
瓜生坂(うりょう) 2 瓜生坂の石碑。旧道はここから向こうの谷に下る。
望月宿 1 重要文化財 真山家
茂田井宿 3 到着地点。武重本家酒造としなの山林美術館 2005年11月8日撮影

倉見氏の上田高校の同期生からなるゴルフ仲間の宮島、和田、関各氏とグリーンウッド氏は一緒に望月温泉”みどりの村”で汗を流す。(Hot spring Serial No.229)同期の橋詰女史も加わって、望月の飲み屋で酒盛り。

酒のつまみにと長野高校の後輩の猪瀬直樹氏 が道路公団民営化で苦労した最大の理由として「マスコミの記者諸君が高給取りなので道路公団傘下の企業群の職員の高給を指摘してもボツにされて大変苦労し た。日本に残された最後の構造改革は朝日新聞、NHKなどの給与レベルを下げることだが、これがうまくゆかない」という言葉を紹 介する。共同通信の常務をしていた宮島氏はこれに同意した。それにと彼は付け加えて、「朝日新聞の記者などが書生論を書きたがるのは高級取りながら、管理 職や役員をした経験がないから、どう人々をまとめてゆくかという視点が欠落してしまうためだ 」という。

一緒に飲んだ4人中、和田さんと関さんの2人はビール飲んでゴルフして軽い脳梗塞を経験したという。特に汗かきは失う水を常に補充しておかな ければいけないし、アルコールを摂取すると脱水症状になりやすくなるので、昼飯の時は控えたほうがよいようだ。というわけで アイソトニックドリンクを入れたペットボトル4本携帯して生き延びることを決意する。

24:00就寝。

 

茂田井宿→和田宿(15km)

2006年8月4日(金)、晴れ 。5:00起きで倉見氏は宮島さんらを戦国時代の彼のご先祖の山城、倉見城址に友人を案内したというが、グリーンウッド氏は疲れていて7:00まで起きら れなかった。倉見氏がタウンハウスが東京にあるにもかかわらずカントリーハウスをここ父祖の地に新築した理由に、ご先祖の菩提寺、無量寺の墓を維持する義 務があるためという。

昨夜の仲間に加え、ゴルフに参加する飯島さん、元東工大教授の塚田夫妻と、歯科医の清水夫妻らに見送られ、茂田井宿を8:20に出発。和田宿の"湯遊パーク、ふれあいの湯"14:00着。(Hot spring Serial No.228)昼食・休憩40分として、平均時速3km/hである。3kmで170m登る笠取峠越えなので 勾配は5.6%となり、平地速度の80%に低下するというグリーンウッドモデルに合致する。昨日と同じく日傘をさして歩く。消費ペットボトル3本。

場所 地図距離(`) 写真 説明
茂田井宿 0

出発地点。武重本家酒造としなの山林美術館 2005年11月8日撮影
芦田宿 2

本陣
笠取峠 3

笠取峠への松並木。 幕府が与えた幼木を小諸藩が村々の協力を得て植林し維持したため今でも大木となってしっかり残っている。バイパスが出来て自動車は通行禁止となって大切にされている。
長久保宿 3

長久保宿の街並み。ここはかって真田の領地であった。真田信繁(幸村)の長女が嫁いだ家臣の子孫が経営していた陣屋には幸村が大阪夏の陣前に書いた娘をよろしくという手紙が残っている。

歌川広重「木曽街道六十九次・長久保」wiki
中山道と大門街道分岐 2

中山道と大門街道の分岐を見下ろす丘で昼食。 右が中山道で和田峠に至る。左が大門街道で大門峠に至る。ちなみに古東山道は大門峠経由であった。
和田宿 4

皇女和宮の降嫁のために火災直後急遽新築された本陣。和宮が旅の途中詠んだ一首:落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ
湯遊パーク 1

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ふれあいの湯(Hot spring Serial No.228)で一風呂浴び、ゴルフを終えた友人にピックアップしてもらうまで昼寝。

芦田宿の叶|屋茂で米こうじ2倍の”こうじ味噌”を買って土産として沓掛宿の別荘に送ってもらい、夕食をともにする。

August 16, 2006

Rev. June 4, 2016


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