メモ

シリアル番号 表題 日付

1157

川中島の戦い

2007/09/28

千曲川以南は晴信領、犀川以北は景虎領でこの中間地帯の川中島を巡って争ったので川中島の戦いという。

第1次 1553年 坂城の名将村上義清が上杉謙信に助けを求めて始まった戦い。笄(こうがい)の渡しは義清が葛尾(かずらお)城から越後に落ち延びる時、奥方が落命した渡し。要請に応じ景虎が出馬し、篠ノ井の布施で戦ったので「布施の戦い」とも言う。このとき荒砥城が攻防のポイントとなる。
第2次 1555年 栗田鶴寿が武田に寝返り、武田援軍ともども旭山城に篭城。景虎は葛山(かずらやま)城を築城。信玄が川中島に出陣し、犀川をはさんで対峙したため「犀川の戦い」とも言う。
第3次 1557年 景虎は更科八幡宮(武水別神社)に願文を捧げて武田氏討滅を祈願し、晴信への憎しみを顕にしている。長野市の北にある上野で交戦したため、「上野原の戦い」とも言う。修験寺院・小菅山元隆寺が武田により焼き討ちにあう。
第4次 1561年 八幡原(はちまんぱら)の戦い」ともいう。景虎は妻女山に陣取りをし、景虎は茶臼山に陣を敷くが、八幡原を横断して海津城に入り、にらみ合いが続く。山本勘助の啄木鳥戦法を見破った景虎は夜ひそかに上雨宮(あめのみや)の渡し(鞭声粛々夜河)を渡って八幡原に出陣。八幡原の一騎打ちで有名。山本勘助討死
第5次 1564年 景虎の篠ノ井の塩崎城にちなみ「塩崎の対陣」とも言う。対決はさけてにらみ合いでおわった。

景虎は晴信からは奪うものがなかったが、飯山城を守ったので、よしという評価である。

Rev. January 13, 2008


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