読書録

シリアル番号 704

書名

別役実戯曲集 マッチ売りの少女/象

著者

別役実

出版社

三一書房

ジャンル

戯曲

発行日

1966年代初演

購入日

2005/6/30

評価

未読、しかし2005/6/28朝日の芸能で紹介あり。

あらすじは寒い夜、初老の男と妻がお茶の支度をしているところに女が現れる。夫婦は女をお茶にさそう。女は語り出す。20年前、幼い自分はマッチを売り、それが燃えている間、男たちにスカートの中を見せていた、と。なぐさめる夫婦に自分はあなた方の娘ですと主張して二人を当惑させる・・・

別役実の戦後論とも言われる。

別役は「1960年代に感じていた時代への恨みつらみが、メルヘンチックな器にうまくおさまった」という。「進歩的保守派」を自認する夫婦は、マッチ売りの女と同世代の別役にとって「うっとうしい」攻撃の対象だった。「彼らは戦争中、特に悪いこともしていない。むしろいい人。でも、そのぬくぬくとした生活、小市民の日常に当時の僕らはいやらしいものを感じていた。左翼的イデオロギーでは告発できない重圧をかれらが我々にかぶせているという思いがあった。だから女が八当たりのように夫婦を責めるのに快感を覚えた」と本戯曲作家の別役はいう。

文化的風貌のヒューマニズムあふれる人たちを、なんとなくうっとうしく思う人がいる間は、この戯曲はつうようするかもしれませんね」と

じつはこの話と同じような苛立ちを親の世代に持ったというドイツ人の話を村上龍事務所発行のメール・メディアで香港在住・フリーランスライターのふるまいよしこ女史が「あるドイツ人の戦後」として紹介している。北京にあるヨーロッパ系企業の駐在員として派遣されているドイツ人に話を聞いた記録である。

彼、ハンス氏は各国駐在員の中でもかなり年長の方だ。本来なら悠悠自適の退職生活に入っているはずの年代である。

生まれは1945年のまだ戦時中の1月、そして5月8日に終戦を迎えた。父が1948年にロシアから戻って来るまで、父親がいなかった。父が捕まったのは1944年の末。彼が生まれるちょっと前に、確かルーマニアで捕まった。父は職業軍人、将校。祖父は400年以上もの歴史を持つ農園を持っていて、その地域では最大の、そしてもっとも長い伝統をもつ家系で、現地では高い地位にあったんです。でも、弟が農業を学んで大学まで行って、きちんと農夫となる教育も受けて後を継ぐことになっていたのだが、戦時中に亡くなった。

弟の方が農業に熱心で、彼の父は農園に興味がなく、軍人の道を選んだ。祖父は農園を継がないのであれば医者か、軍人かと父に迫った。そして父は軍人を選んで大学を中退し、軍隊アカデミーを卒業して東ヨーロッパに配備され、ルーマニアで終戦を迎えてロシア軍の捕虜となった。ナチスの軍隊にいたことになるが本人の理解は違うとも言える。母はヒトラーのグルーピーとも呼べるBDM(ドイツ女子青年団)のメンバーであった。母は幼稚園の運営者となり、子供たちの教育にうちこんだ。

彼は両親や彼らの世代を弁護するつもりはないという。「あの時代は失敗でした。社会に文化的な力が欠落していたし、ヒトラーは多くの、リーダーに従うことしか知らない連中を手中に収めて、またすべてを圧倒してしまった。社会主義者はいたけれども第一次大戦後の混乱で多様化し、ばらばらで、対立を繰り返していた。不幸なことに、彼らもまた、何よりも団結してヒトラーに立ち向かうべきだということを忘れてしまっていた。だからこそ、僕は罪悪感を感じるんです。僕らはやるべきことをやらなかった。自分たちでそれをやらずにいて、それは第一次大戦後にアメリカやイギリスやフランスがきちんとドイツを運営してくれなかったからだという言い訳はしてはいけないと思っている。

戦後、僕の父は農園、彼の世界、仕事に逃げ込んでいた。子供が何をしているのかとか、家族はどうしているのかということに関心を持たなかった。母は政治的な仕事に忙しく、父とは別の「友だち」を持っていて、彼は家族が危険にさらされていると感じたんです。

両親は200%新しいことに没頭することでナチスの体制を忘れようとしていた。大袈裟な態度で、過去を問われるのを避けるかのように、いつも忙しくて、そうして自分を守っていて、誰かが何かを問いかけようとすると、「そんな暇はないわ、わたしは忙しいのよ。そんな問いには答えられないわ」ってね。

彼はそれに対して、「そんなのまったくの現実逃避じゃないか」と言ったんです。彼らの関係はそんな状態で完全に崩壊していて、そんなときに彼は祖母と一緒に暮らし始めた。

今の政治家は彼の世代の人たちである。政治家もまた同じように学んできたし、確実に彼らの両親の世代とは全く違った考え方をする世代だと言える。彼らの両親はドイツの再建にすべてを注ぎ込んだ。そうして、すべての政治的な考えを遠ざけた。

「あなたたちの世代はご両親の世代が苦しんでいるのをそんなに冷ややかに見ていられたのですか? 日本のあなたたちの世代の人たちは愛すべき両親が苦しむ姿を見たいと思わなかったように思えるのですが」という質問には「もちろん、それぞれの家庭で違いはあったはずです。僕は僕の妻の両親とは、非常に奇妙な関係を経験しました。義父は化学工場の労働者、義母の実家は冒険家を多く出してきた南部の家庭でした。政治が持つ意味は彼らにとって非常に小さく、デモについて耳にはしていましたが、彼らは驚くべきことにそれを肯定したんです」と


トップ ページヘ