読書録

シリアル番号 718

書名

信州佐久平道潟のみちほか 街道をゆく九

著者

司馬遼太郎

出版社

朝日新聞社

ジャンル

紀行文

発行日

1977/11/30第1刷
1996/9/30第8刷

購入日

2005/10/14

評価

鎌倉図書館蔵書

ちょうど大学の同期会のため軽井沢の出光寮に滞在していたとき倉見から朝日の日曜版に佐久平、秋の旅の特集があるのを教えてもらい、かつ翌日彼の郷里の中山道の茂田井宿に案内されたことがキッカケとなって、この本を図書館で借りる。

司馬遼太郎が名古屋から中央線で長野駅に降り立ち、そこからタクシーで別所温泉に向かう途中、篠ノ井駅と稲荷山駅の中間にある川柳将軍塚古墳に司馬遼太郎が言及する場面がある。私は高田の実家のすぐ近くにある南向塚(なおずか)古墳しか知らなかった。1977年当時の司馬良太郎も知らなかったようだが、朝日新聞によると屋代にある森将軍塚が最近復元されたと紹介している。幼稚園生のころ住んでいた屋代の借家からたった900mのところにあったのだ。このすぐ隣にある一重山には何度か登ったことがあるがだれもこの古墳に言及した隣人は居なかった。

塩田平の別所温泉も2002年に訪れたことがあるが、中世に湯聖(ひじり)が活躍したので別所とよばれるのだろうと司馬遼太郎は推論する。聖の念仏は浄土宗や浄土真宗に吸収されてしまったので歴史から抹殺されたのだろうという。

上田の国分寺跡に木が一本も植えてないと司馬はかなりお冠であった。今はどうなっているのだろうか?海野宿にも街路樹がないと指摘していたが、朝日によると今は街路樹が植えられたそうだ。

懐古園の前の大衆食堂もかなり批判されていたが今はどうなのだろう。訪問したことがないから分からない。

軽井沢が古代は望月の御牧ヶ原と同じく牧場であったことは初めて知った。ところで司馬は軽井沢、追分、岩村田、八幡など中山道をたどって折角望月までゆきながら御牧ヶ原台地には上っていない。案内人が不案内だったのだろう。

御牧ヶ原の丘陵も佐久平も湯の丸高原に上る途中の新張(みはり)から見降ろすのが最高だが、新張の下は滋野(しげの)というところだ。海野(うんの)、望月(もちずき)、戦国時代の真田などは皆、滋野一族から分かれた豪族だったのだ。したがってここが佐久の発祥の地ということになろう。

木曾義仲が立ったとき、上田に入り、海野、望月、諏訪、藤沢を配下にしてその軍馬も手にいれたかにみえたが頼朝が勢十万余騎を率いて信濃に入り海野、望月、諏訪、藤沢を召し上げている。これで木曾は勢力を弱めてしまった。

高野みちでは九度山(くどやま)と真田庵訪問記があり興味深く読んだ。ここでも高野聖についての考察があってそれが消えてしまう歴史が興味深かった。


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