メモ

シリアル番号 表題 日付

1006

鶴岡八幡宮寺

2005/12/13

鎌倉の鶴岡八幡宮は昔鶴岡八幡宮寺と呼ばれていた。なぜ 「寺」の一字がつくのか?

よく武士が戦勝祈願をするとき「南無八幡大菩薩」というように 源氏の守護神は「八幡大菩薩」(はちまんだいぼさつ)だからが答え。

九州大分県の宇佐八幡宮は誉田天皇(こんだのすめらみこと)という倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇であり、倭国の建国者といってもよい伝説の天皇を八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりとされる。こうしたわけで、宇佐八幡は伊勢神宮と並ぶ皇室の祖先神とされ、この国を護るために「大自在菩薩」、すなわち「 大菩薩」として現れたとされた。

東大寺にはその八幡神が僧形八幡神像として残されている。これは仏教の僧りょの姿をしている。日本で仏教が広まる中で、古来の神が実は仏が別の姿をとったものだった、とする「神仏習合」という考え方がつくられたためである。こうして八幡神は仏教の菩薩号(仏教を広め、仏教信者を救済するもの)が与えられた最初の神となった。厳密にいうと「大菩薩」というのは、仏教の菩薩とおなじではなく日本独自の信仰である。

源義家が石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家となったこと、ならびに源頼義の関東平定、蝦夷に遠征した前九年の役に、そのころ唯一の源氏の拠点だった鎌倉の由比ケ浜に八幡宮(現在の元八幡宮)八幡社を創建したため源氏の守護神となった。

ところで 浅間神社(せんげんじんじゃ)の祭神も1149年には僧末代(まつだい)が頂上にのぼり 、浅間大菩薩を祭ってから富士信仰がはじまり 、江戸末期まで続いた。大菩薩 峠から見る富士山は美しいのでこの浅間大菩薩から来ているのか疑問に思ったが、八幡大菩薩とのことである。

八幡宮寺にしても浅間神社にしても、明治初年の神仏分離政策により、仏像・仏具は下山させられ、鐘楼 、鐘、塔、山門等が取り除かれたという。明治7年には富士山中の仏教的な地名の改称もなされたという。

塔や山門が無くなっても、鶴岡八幡宮の前にある池や太鼓橋はそのまま残り、かって寺であった名残をとどめている。いわゆる廃仏毀釈運動である。

鎌倉プロバス例会ー内海恒雄氏の卓話

司馬燎太郎の街道をゆくシリーズ34「大徳寺散歩 中津・宇佐のみち」に九州は大分の元祖八幡神の宇佐八幡への紀行が収録されている。

神仏習合の考えが行き着くと日本の神を主体にして仏はその別の姿という本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)がでてくる。 西行はこの説を信じたようである。

Rev. January 24, 2008


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