サンケイに面白い記事を見つけた、・・・これは正確な書き方ではない、Googleニュースに見出しがあったのだ。Googleは相手国の政府におもねった編集をするらしく、このニュースにどんなバリューがあるという記事を平然と一日二日サマリーに載せていたりする。最近は心持ちサンケイのニュースをまめに載せていてくれるので、なかなか捨てがたい。以下はそのひとつ。

見出し:慰安婦決議案 米下院委が可決 中国系反日団体が圧力
【ワシントン=古森義久】米下院外交委員会(トム・ラントス委員長)が26日、慰安婦問題に関する対日非難決議案を可決したが、この動きの背後では中国系反日団体がラントス委員長に激しい圧力をかけ、敏速に採決の動きをとらなければ次回の選挙で別の候補を支援するという政治的脅しがあったことが報じられている。
 この情報はカリフォルニア州中部のニュースを報じる地方通信社「ベイ・シティ・ニューズ」(本社・サンフランシスコ)の6月14日発報道として流され、地元の新聞数紙に掲載された。

委員長に「対抗馬」示唆
 同報道によると、歴史問題で日本を一貫して非難している在米中国系団体「世界抗日戦争史実維護連合会」(以下、抗日連合会と略)の幹部たちは、他の在米中国系組織幹部とともに同州クパナティノの中国料理店で集会を開き、マイク・ホンダ議員らが下院に提出した慰安婦決議案の可決促進を協議した。抗日連合会のイグナシアス・ディン副会長(中国系米人)が語ったところでは、同幹部連は下院のナンシー・ペロシ議長とラントス委員長が(慰安婦決議案の採決推進に関して)言い逃げをしているとの見解を明示した。とくにラントス委員長は人権擁護派の評判にもかかわらず「同決議案支持へのわれわれの訴えに応じず、有権者とアジア系米人社会への軽侮を示している」と主張したという。
 このディン氏の発言はちょうどラントス委員長らが日系長老のダニエル・イノウエ上院議員から同決議案を審議しないよう要請され、さらに訪米した安倍晋三首相と会談して、同首相から慰安婦問題について「申し訳ない」という言明を得て、同決議案への取り組みをソフトにしたようにみえた時期と一致する。
 しかし「ベイ・シティ・ニューズ」の報道によると、抗日連合会の幹部らは民主、共和両党議員への政治献金者であり、このままではラントス委員長らに献金目的にのみ利用され、実際の行動では放置されるという懸念を表明した。そしてディン氏らは「選挙区の33%がアジア系住民であるラントス委員長が同氏らと意思疎通できないならば、もう新しい議員の選出の時期となるだろう」と告げた。ディン氏らはこの「脅し」をラントス委員長のカリフォルニア第12区の人口動態の数字と過去の投票結果で裏づけ、2008年の下院選挙では自分たち自身の候補をラントス委員長への対抗馬として立てることを示唆した。
 ディン氏は「ラントス事務所の私たちに対する最近の扱いにはまったく当惑している。すでに対抗候補として十分に資格のあるアジア系米人女性を含む数人を考慮している」と語ったという。
 在外中国系住民により1994年に設立された抗日連合会はホンダ議員の選挙区に本部をおき、中国政府とも密接なきずなを持ち、戦争や歴史に関して日本を一貫して非難してきたほか、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りへの反対署名を4200万人分集めたと発表している。ディン氏ら幹部は1990年代からホンダ氏と連携して日本非難の決議案の作成や提出にかかわり、政治資金も集中的に提供してきた。
 ラントス委員長の事務所ではこのディン氏らの動きについての報道に対し26日、「もう実際の事態展開で事情は変わった」と述べた。

 この記事はサンケイが主催するブログにも転載されていて「こんな重要なニュースをなぜ他のマスコミは伝えないのか」とか、「まるでヤクザの恫喝だ」とか、「世界抗日戦争史実維護連合会が日本をどうしたいのか、どうか直接取材してください」とか、まあ、例の決議案の採択にいたく傷ついた古森チルドレンは蜂の巣をつついたような状況。

 ところが、ワシントンの古森先生はじつはこのネタを「2チャンネル」で仕入れて、安直にコピー&ペーストしたらしいことが判明したり、恫喝に屈したはずのラントス委員長や中国と韓国の回し者であるはずのホンダ委員について、「かんべいの不規則発言」(他でもない吉崎達彦のサイトというところが可笑しい)には

〇ひとつご注目いただきたいのが、継続審議となったH.Res 497であります。「中華人民共和国政府は、ただちにRebiya Kadeerの子供とカナダ市民Huseyin Celilを禁固から開放し、ウイグル人民に対する文化的、言語的、宗教的な抑圧を慎むべきであるとの下院の意思を表示する決議」です。この手の対中非難決議はそれこそ枚挙に暇がないのですが、この共同提案者が以下の通り。
Ms. ROS-LEHTINEN (for herself, Mr. LANTOS, Mr. BURTON of Indiana, Mr. ROHRABACHER, Mr. CHABOT, Mr. PENCE, Mr. TANCREDO, Mr. PITTS, and Mr. HONDA) submitted the following resolution; which was referred to the Committee on Foreign Affairs
〇マイク・ホンダ議員が入っているでしょ? 慰安婦決議を提出したことで、彼が中国からお金をもらっているという報道がありましたけど、こんな風に中国叩き法案にも加勢しているのです。また、ここに名前の出ているラントス議員は、外交委員会の委員長ですが、慰安婦決議でも長文の声明を提出して日本を批判しています。が、それは変なことでも何でもありません。
(下線:引用者)

というようなことが書かれていたりする。

 さすがサンケイ新聞の特別編集員かつ論説委員さんは記事の書き方がいかにも安直だ。一も二もなく怪しげな中国黒幕説に飛びついたのは慰安婦決議の衝撃がよほど大きかったせいか。(6/30/2007)

 終業後佐々木かをりの講演会。女性活躍推進室の主催。タイトルは「主役力」。一時間くらいの話。すっと引き込むように始め、飽きさせない。頭のいい人なのだ。なるほど、他人を嫌わず、つながりを大切にしてゆく、そういう生き方もあったろうと思うものの、もともとが圭角の多い身なれば適わぬ話。

 あえて書けば、これほどうまくこの世の人とつきあっている彼女、見ぬ世の人とはどうつきあっているのだろうか。でもこの人ならばすんなりと次のステージにも進めるのだろう。(6/29/2007)

 慰安婦決議、さすがに対米関係絡みとなると読売も社説に取り上げた。一方、ビジネスマンにとっても対米関係は重要なはずだが、日経は「中国化進む香港の10年」と「スーダンの悲劇放置するな」と目新しい「人権問題」へ逃げた。

 可笑しいことに読売もサンケイも「誤解」だと書いている、さすがに「冤罪」だとは書いていないが。

 両紙の論拠はたった一つ。サンケイから引用すれば「日本政府が2年がかりで集めた約230点の資料の中には、そのような事実を示す証拠は1点もなかった」からであり、読売から引用すれば「『軍や官憲による強制連行』を直接示す資料は、これまでの調査で何も見つかっていない」からだ。

 年金問題に関して、読売とサンケイは「保険料を支払ったという記録や領収証が見つからないということは支払った事実がないということだ」と、そういう主張だったろうか、伺いたいものだ。きっと両社説子は「顧みて他を言う」か、それとこれとは違うと言うだろう。

 ならばとかくに「毅然とした姿勢」が大好きだった両紙ならば、「資料が見つからなかったからその事実はない」などというどこか女々しい抗弁は避けなくてはウソだ。敢然と「当時の軍にはそのようなことを禁止する書類がざっと示せるだけでもこれだけあり、実際、そのような禁止条項に違反したものがこれこれあり、その処分を記録した資料がこれだけある」と示すことだ。それが「誤解」を解く一番よい証明法だ。「まだ見つかっていないんですよ」などという主張では「冤罪」を濯ぐことはできない。

 しかしそれにしても論拠の頼りなさに比べて読売の啖呵は勇ましい。「事実をきちんと確かめることもせず、低水準のレトリックに終始した決議案だ。米議会人の見識を疑わせる」ときた。しかし公平に読むならば、「低水準のレトリックに終始し」ているのは誰でもない読売の社説そのものだ。

 末尾は振り上げた拳をアメリカさんにお見舞いするかと思いきや、「そもそも河野談話が悪いんだ」というところに向けている。ああ、これが、いまこの時代のこの国の大衆紙の水準なのだ。どうりで世の中悪くなるばかりだよ。

 宮沢喜一、死去。老衰の由。享年87歳。(6/28/2007)

 懸念したとおりにアメリカ下院外交委員会は従軍慰安婦問題に関する決議案を可決した。賛成が39で反対はわずか2だった。この国のマスコミは昨年の中間選挙により民主党が多数派になったことが最大の理由であるかのように伝えてきたし、今夜になってもNHKなどはそんなことをいっている。では共和党は5%(2/(39+2)=0.05)政党になったのかしら。そんなことはない、共和党議員までが賛成になだれ込んだのだ。

 もとより直接の利害関係者のいない国が他国の振る舞いについて指図するような決議案には有効性に疑問がある。しかしそれを言い出せば、北朝鮮による拉致について理解と支援を持ちかけた件がブーメランのように帰ってくるはずだ。だから3月5日の日記の末尾にはこう書いた。

 それにしても安倍というのはどうしようもないバカだ。北朝鮮との二国間作業部会が開かれようとしているその直前にわざわざ「慰安婦決議があっても謝罪しない」などと見得を切ることはなかろう。「従軍慰安婦」と「拉致問題」の距離はけっして遠くはないということが分からないのだろうか。

 半月ほど後(3月24日付け)にワシントン・ポスト紙は「安倍首相の二枚舌」と題して「拉致に熱心な首相が慰安婦には冷淡だ」という趣旨の社説を書いた。さすがに神経の鈍い安倍も、以後は「狭義の強制性」などという「神学用語」は使わなくなったが、宰相としてはその時点で前言を撤回しておくべきだった。

 しかし宰相の器ではない安倍にはそれができなかった。たぶんそういう安倍のウロウロを強力に支援しようと考えたのだろう、安倍内閣の成立以来、夜郎自大精神とりつかれ増長の度を強めているこの国のバカ右翼はつっこみどころ満載の意見広告を、よせばいいのに、ワシントン・ポスト紙に掲載した。彼らがもう少し注意深ければ、なぜいままで彼らのこの手の広告を拒否してきた同紙が一転して引き受けるに至ったのかについて考えたはずだ。だがバカのバカたるゆえん、彼らにはそんな警戒感など微塵もなく突っ走り、花岡信昭メルマガに見られるような自己満足に感激の涙を流した。(この度し難い愚かさ!!)

 そしてこの決議案が委員会に上程され可決、来月の下院本会議での可決まで窺う状況を招いてしまった。いまや愚かさのエコーは日米間を往復し始めた。

 これだけのニュースならば、ザマーミロですむことだが、アメリカからはもうひとつもっと懸念されるニュースが伝わっている。代表的記事を書き写しておく。

 ヒル米国務次官補は25日、国務省で記者会見し、北朝鮮の核問題について、今年末までに核施設停止など核放棄の「初期段階の措置」に続く「次の段階」となる核施設の無能力化や申告を終えたいとの考えを示した。「次段階」の措置の実行が順調に進めば米国、中国、韓国、北朝鮮の4カ国による「朝鮮半島の平和メカニズム」の協議を年内に開始したいとも表明した。(日経:6/26)

 なるほど、これは「次のステップ」であり、「未完の朝鮮戦争にピリオッドを打つもの」であり、その当事国がアメリカ(実際は国連軍として組織されたのでイギリス・フランス・オランダ・ベルギーなど22カ国だが)、中国、南北朝鮮である以上、4カ国で協議することには必然性はある。

 しかしこれは「6カ国協議」から「4カ国協議」への移行宣言でもある。その時、「現実的な問題をきちんと処理できる建設的なフレームワーク」のため日本を排除する理由として、「拉致」は言い募るが「慰安婦」は逃げるという「不誠実な日本」を名指ししたこの「慰安婦決議」が使われる可能性は十分にありそうな話だ。だがいまの安倍政権にはおそらくそういう事態への対策はノーアイデアだろう。(6/27/2007)

 衆愚政治とはどういうものなのか。持ち合わせているものは権力に対する意地汚さとピンぼけのイデオロギーのみという「無能の人」が宰相の座にあると、どれほどのことが横行するのかというなかなか貴重な実験の時々刻々を、現在の日本人は、日々、眼にしている。

 我が宰相と閣僚の一部が直近のボーナスの一部を返納すると聞いて、「選挙対策なら裸踊りでもやりかねないな」と嗤っていたら、なんと社会保険庁長官は全職員に対して返納を呼びかけることにした由。内容は長官自らは全額(270万)、部長級が100万、課長級が40〜45万、事務局長級が17万、所長級が15万、係長級で7〜13万、残りが2〜3万だという。きのうの記者会見で長官は「あくまで自主的な返納、強制はできない」といっていたらしいが、きょうの記者会見で塩崎官房長官は「返納に応じるか否かが、日本年金機構への再雇用の判断材料になる」とふんぞり返った。あきれ果ててものも言えない。

 何万歩も譲ってもし政府の判断としてボーナスの支給が適当ではないというのなら、実態はどうあれボーナスは「賞与」なのだ(銀行振り込みが普及したために区別がつかなくなっているのだろうが、一昔前ならボーナスは給料とは違って「職制が手渡しをするもの」と決まっていた)から、つまり組織業績が悪ければ支給を見送ると政府自身の責任で決めればよいことなのだ。自分の責任で決める勇気がもてないから、とりあえず出すものは出しておいて、しかるべき後に官房長官の見解として「返さなければいずれ差し障りがあるぞ」と凄みをきかせるのはまっとうなやり方とは思えない。安倍がひたすら懐かしむ「美しい国」というのはこんな陰険な労務管理がはびこる国のことか。

 ところが夜のニュースでマイクを向けられた人々のほとんどが「当たり前よ、それくらいしてちょうどいいの」と言っていた。件のおばちゃんは返納されたボーナスがどのように扱われるのか、そのことによってどうして年金不安が解決できるのかについては考えたこともないのだろう。ただひたすらなんか楽をしている社会保険事務所の窓口係に石が投げられたらそれでいいらしい。

 どうやら本質的なことはそっちのけで感情的な意趣返しでガス抜きを図り選挙に臨もうという安倍のやり方はそれなりの成果を収めそうだ。バカがバカを選んでどんどん勢いをつけて下り坂を転げ落ちてゆく、安倍式衆愚政治、万歳、だ。(6/26/2007)

 コムスンの次がNOVAで今度はミートホープ。前2社が全国区だったのに比べれば、この会社、少なくとも知名度の点では地方区、その中でもマイナーに属する。企業不祥事といえばそうなのだが、どうもこの苫小牧の肉卸会社の「犯罪」内容はあまり「新しい感じ」はしない。

 発端は生協に納入していた冷凍コロッケの牛挽き肉に豚肉を混ぜていた件だった。この手の「事件」の通例でハゲタカマスコミはほんの一週間足らずの間にこれでもかこれでもかの「罪状」を暴き立てた。挽き肉の材料を偽った、外国産を国産と偽った、水増しで重量をごまかした、賞味期限を改竄した、・・・。なるほど、食品に対する信頼を損ねたには違いあるまい。いかにもの面つきをした社長が、当初、とぼけた返答をし、ウソをつき続けたことも腹が立つ。ハゲタカマスコミは例によって社長の私邸を映し、学歴を暴き立てた。それによれば彼は中卒で精肉店に勤め、十年程度で自分の会社を起こしている。挽き肉の攪拌機の改良で文科大臣表彰を受けたこともあるとか。もともと精肉業界は昔からとかくの噂の絶えない業界。昔ながらの羊頭狗肉体質が未だに変わらないとすると、どこをどう押せばどうなるかについて知り尽くしている「肉」のプロによる昔ながらの「犯罪」。ミートホープに限った話ではないと考えた方がよかろう。

 あえてこの「犯罪」の怖さを意識するとしたら、アメリカ産の牛肉がそれと知らされずに、あるいはれっきとした国産ものとして流通する可能性があるということ、それが一番大きい問題かもしれない。消費者の前に出てくるときの表示は義務づけられているとしても、それを支えている「プロ同士の取引」が何もかもグズグズでは、いつBSEリスク満点のアメリカ産牛肉を食わされるか分かったものではない。(6/25/2007)

 沖縄戦における集団自決に関する教科書記述に、この春の検定で文科省が修正を求めた件について、おととい、沖縄県議会は撤回を求める意見書を全会一致で採択した。

 きのう、朝毎読では読売は「会期延長」と「ヒル訪朝」に逃げ、日経は「道路公害」と「宇宙基本法」という予想もしない「翔び具合」を見せた。そういう点では真正面から「教科書問題」を受け止めたサンケイの姿勢は評価してもいいかもしれない。しかし評価できるのはそれだけ。内容は噴飯モノだ。

 サンケイは例の曽野綾子の「ある神話の背景」を根拠にして「文科省よ、検定方針を貫け」という論旨を展開した。曽野綾子のこの本はまだ会社に入ったばかりの頃に読んだことがある。彼女のいつもの手口で真っ正面から取り組むふりをして自分の偏見をちょっとばかり斜に構えて書いて見せただけの内容で「一読、目から鱗が落ちる」ような本ではなかった。

 なぜか。「自殺しろ」という命令は軍隊という組織の中にあっても命令としては存在しない。特攻隊の指揮官の命令もあくまで「攻撃命令」に付帯するものとして自死が含まれるだけ、自殺そのものを単独で命令しているわけではない。だいたい民間人に対する軍の指揮官の命令権など限られている。必要とするものを提供してくれということと、軍隊としての行動の邪魔をしないでくれということぐらい。つまり、いくら非論理的であった旧日本軍においても「自決しろ」というストレートな命令を、命令権を持たない民間人にぶつけることがないくらいのことは当たり前の話。したがって、そういう直接的表現の言葉がなかったことを「実証」したからといって「だからなんなの?」という話にしかならない。曽野綾子の本が格別の印象を残さなかったのはそういうことだったと思う。

 この論理は我らが暗愚の宰相が数ヵ月前に従軍慰安婦に関する陳弁の中で用いた「狭義の強制性」にどこか似ている。つまり「狭義の自決命令」がなかったことをもって「広義の自決誘導」がなかったことにはならないことくらいは誰にでも分かるはず。いいわけとして「特殊例」がなかったことを強く主張し、「一般的事実」の存在までを否定しようとするのは詐欺師のテクニックだ。サンケイ社説子が用いているのはそのロジック、つまり既に破綻した犯罪者の手口を懲りもせずに繰り返したに過ぎない。あまりおつむの程度のよくないサンケイ購読者にはうけたかもしれぬが、一定の知能水準にある者が騙されることはない。

 ついでに書いておこう。

 沖縄の住民集団自決の手段の中には手榴弾によるものがある。沖縄戦の開戦前、第32軍の参謀長であった長勇は地元新聞で「一般県民が餓死するから食糧をくれといったって軍はこれに応ずるわけにはいかぬ。軍は戦争に勝つ重大な任務の遂行こそが使命である」と述べたという。食料品を分けることさえ拒否した軍隊(実際には食料を供出させていたのだからお嗤い種)が「戦争に勝つ重大な任務」のために装備した手榴弾を住民に分け与えた事情は何か。沖縄県議会が「日本軍による関与なしにはあり得なかった」とした理由は自ずから明らかだ。そのような事情を読み取ることもできぬサンケイ社説子は物書きとしての適格性がない。(6/24/2007)

 **(家内)と国立新美術館で開催中のモネ展を観る。来月2日までということ、そして土曜ということでかなりの混雑。お気に入りの「ジヴェルニー近郊の朝」と「ルーアンの大聖堂」を観ることができたのが収穫。

 今回の「パラソルの女」は画面向かって右向きのもの。たしかに一番すっきりした構図で、光も風も美しく洗練されていてすばらしい。しかしモネが一番最初に描いた左向きのもの、妻と小さい息子を描いたもの、あれが好きだ。あれはパラソルの上にはほとんど空間がなく、見上げる角度もきつく、それが独特の世界を作っていた。好きな理由はそれだけではないのかもしれないけれど。

 築地に回って**(息子)ご推奨の店で鮨をつまむ。感じもいいし、安くてうまい。月曜日はさらに割引がある由。新富町から直通に乗って座って帰れるのは楽。また行こう。(6/23/2007)

 強行採決に次ぐ強行採決、強引きわまりない国会運営をあれだけ行って、それでもなお、会期が足りなくなったのだそうだ。あきれてモノも言えぬ。きょうの衆院本会議で自民党と公明党による賛成多数で国会は12日間の会期延長を決めた。これにより参院選は当初予定の7月22日から一週間繰り延べて29日になった。

 知事選を同じ日にやる予定だった群馬県は22日に知事選、29日に参院選となり、投票場設営費用・開票人件費などが10億ほど余分にかかるようになった由。財政状況が厳しい中、じつに痛いことだろう。いっそのこと、余分にかかる費用を手前勝手な自民党と公明党に請求したらどうか。

 おべんちゃらマスコミは「首相、社保庁改革法と国家公務員法に執念」などと報じているが、この権力欲と知力が反比例している我が宰相の下心は誰の目にも見えている。「このままでは惨敗しそうだから、延ばせるだけ延ばそう。29日の投票になれば夏休みも佳境、無党派層の投票率低下も見込める。なにより、人の噂も七十五日、時間を稼げば、頭の悪い選挙民どもは年金のことなんか忘れてくれる。もし、何だったら、お雇いブロガーにいっせいに『まだ年金のことなんかいってるの?』と書かせよう、日頃、そのために小遣い銭をくれてやってるんだ」とまあ、こんなところだろう。

 安倍はあくまで国民のアベレージの知能程度を自分よりはるかに下だと思っているらしい。半分くらいはあたっていることはたしかだが。(6/22/2007)

 中国、韓国を順に訪れ、きょう成田から帰国するはずだったヒル国務次官補、けさ、横田基地から北朝鮮に向かった。麻生外務大臣には出発直前になってライス国務長官から説明の電話がかかった由。麻生が内心どう思ったかは分からないが、少なくとも安倍は舌打ちをしたことだろう。参院選に向けて好材料が乏しい安倍政権としては、北朝鮮がいったんは合意した核施設停止を反故にし、できればミサイルの何発かを発射してくれて、さらには疑惑満点の「核実験」でもやってくれたら、内心は欣喜雀躍、外面は渋面を作りつつ「まことに遺憾」と記者会見できると、ひたすらそういう事態を期待し、かつ夢想していたのだろうから。

 北朝鮮ヒステリーをてこに総理大臣にのし上がった安倍にとって、デイリー・テレグラフなどのイギリス紙が伝えている金正日の重体説は気がかりなことのはずだが、麻生を含めて安倍はその可能性について考えているだろうか。金正日が金日成のようにあっけなく亡くなれば、後継者が明確でない現在の状況では北朝鮮は集団指導体制に移行する確率が高い。減点主義がはびこる集団の中での集団指導体制はイナーシャが大きいものだ。つまり戦時にあっては戦争の継続を、平時にあっては戦争を回避したい心理が支配的となる。

 「いつ暴発するか分からない北朝鮮」はいまこの国の強迫観念となっているが、それは金正日が血気盛んであった頃の話だ。もし集団指導体制に移行しているとすれば、それは彼らがそう思わせたいイリュージョンではあるかもしれないが、「取引可能な北朝鮮」こそが彼らの実態になっている確率は高い。

 ヒルについてこの国のマスコミの多くは「北朝鮮に譲歩しすぎだ」といっている。「ブッシュ政権末期にあって何らかの成果を残すことに汲々としている」というわけだ。ことの真偽はお茶の間探偵には分からない。しかし拉致問題を己が政権奪取の手段としか考えなかった政治家やそのキャンペーンに我を失ったような愚かな人々が見落としている変化をアメリカは見落としていないのかもしれない。そのくらいのことは可能性として頭の片隅においておく方がいいだろう。(6/21/2007)

 富山の強姦冤罪事件の再審初公判が開かれた。じつに面白い裁判だ。なにしろ、検察官は被告人が当該の強姦を行っていないことを立証するための証拠を提出し、被告人を無罪とする判決を下して欲しいと主張するのだから。こんな珍無類の裁判はちょっとやそっとでは見ることができない。

 この裁判、おそらく可笑しいと笑うよりは、はらわたの煮えくりかえるような裁判になるに違いない。きょうのニュースを聞く限り、検察側が提出した証拠はすべて被告を有罪とした裁判前に収集されていた証拠らしい。公判で無罪の論拠とされる証拠が誰が見ても妥当なものだということは、論理的には二つの場合のいずれかであることを示している。

 ひとつめの場合。それほど自明な証拠が法廷に提出されていたにも関わらず、被告の自白の有効性にこだわる判断を初審の三名の裁判官は下した。つまりそれほどに偏見に囚われた、裁判官としての的確性を欠く裁判官が少なくとも三名いたということ。

 ふたつめの場合。被告にとって有利な証拠が隠されていたということ。それはとりもなおさず、初審の検察官、あるいは検察一体の原則に従っているのだとすれば、現在の検察庁は証拠によって起訴立証を行うのではなく、警察の取り調べを鵜呑みにして天ぷらを揚げるように業務をこなしていることを意味している。検察官はしかつめらしい顔をしながら、横町のお総菜屋のように法律の衣をつけてもっともらしく揚げてみせているだけだということ。

 手抜きをしたのは、裁判官だったのか、検察官だったのか、いったい、このケース、どちらだったのだろう。こんないい加減な仕事をする連中に税金から俸給を払う価値があるのだろうか。

 きょう、弁護側(変な感じ)は当時の富山県警氷見署で取り調べにあたった係官の証人尋問を申請した。これに対し富山地裁高岡支部の藤田敏裁判長は「必要性がない」と却下した由。たしかに当該の事件の真犯人が特定されている以上、「背理法」によりこの公判の被告人の無罪は確定しているのだから、この裁判はいったん有罪となった被告の有罪を取り消すことだけが目的のものだ。したがって余分な手間暇をかけたくはないし、なにより、捜査に当たった係官を法廷に呼ぶことは、初審の担当検事、初審の担当判事が法廷に引っ張り出される危険性につながりかねない。誰もそれほどまじめに職務に忠実な仕事をしなくなっている現在、そんなことは絶対の避けたいのだろうよ、ねぇ、サラリーマンの藤田裁判長さん。

 このケースが明るみに出て以来、ぜひともご意見をたまわりたいと思っている判事さんがいる。名古屋高裁の門野博さんだ。名張毒ブドウ酒事件の再審決定を「自らが極刑となることが予想される重大犯罪について進んでウソの自白をするとは考えられない」という理由で取り消した判事様だ。彼にはもう一度決定理由文を読み上げてもらい、ぜひともその面体共々記録にとどめて、この国の歴史が続く限りその恥を晒してもらいたいと思う。いや、彼は良心に従って自信満々あの決定を下したのだから、必ずや、恥などとは思わないに違いない。(6/20/2007)

 一部の「憂国の士」気取りの議員さんたちと、これまた一部の「有識者」気取りのおじさん・おばさん連が、「THE FACTS」と題した従軍慰安婦に関するいささか粗雑な主張を、わざわざ広告料を負担してワシントン・ポスト紙に掲載したのは先週14日のことだった。

 件の意見広告の反響が大きかったせいか、それとも、そんなものなど何の役にも立たなかったせいか、いずれかは分からないが、アメリカ下院外交委員会はマイク・ホンダ議員が提出した「従軍慰安婦に対する日本政府の謝罪を求める決議案」を26日に採決する方向に決めたらしい。

 この決議案はホンダにとってはじめてのものではなく、何度か店ざらしにされてきたものだという。しかし、昨年の選挙で共和党が敗退してから、この決議案の委員会での可決可能性が取り上げられるようになった。今回の決議案の提案者は当初6名に過ぎなかったらしい。それが二桁になり、いつの間にか三桁になってしまった背景に、我が宰相の「狭義の強制性はなかった」という「言葉遊び」があったことは、いまでは誰しも否定できない話になった。(いったい安倍は「広義の強制性はあったが、狭義の強制性はなかった」と力説することに、どんな意味があると考えていたのだろう。頭の悪い奴に限って、わざわざ、問題を難しくして「自爆」するものだが、これなどは、その好例だろう)

 そして、どうやらこの本来あまり意味もなければ現実性もない決議案が、衆愚政治の本場であるアメリカの委員会にかけられるだけではなく、可決されそうな流れになったのは、あの愚かしい「意見広告」がじつに有力なネガティブ・サポートとして「貢献」したためかもしれぬ。日経によれば「外交委だけでなく、下院本会議でも可決の可能性がある」とか。なんとバカなことをしてくれたことか。

 憂うべきは歴史的識見のみならず政治戦術的識見すらも持ち合わせない「憂国の士」と「有識者」さんたちの「国辱的な独善性」と「無知蒙昧」だ。もっとも、彼らの愚かしい行動を拍手喝采して迎えたバカブログが「ウヨウヨ」あったところを見ると、これがこの国のまさに現在であるわけだが。(6/19/2007)

 磯崎ブログに「インサイダー取引規制の閾値は確実に下がっている」というタイトルの記事が掲載されている。内容はタイトル通り一般に想像されているような「金額が大きく、目に余るようなもののみが摘発対象」ということは既にいえなくなったということ。しかもインサイダー情報による株の売買行為がなされた時期から実際にその情報が公知となるまでの期間が3ヵ月の時間が経っていても摘発の対象になった例があげられている。

 結びは、会計士のブログらしく、インサイダー取引が会社に与えるダメージ、そして「善管注意義務」に相応の注意を払っている会社に対するある種の救済策としてアメリカで始まっているDPA(Deferred Prosecution Agreement)について紹介している。(DPAは企業不祥事一般を対象にしているらしく、必ずしもインサイダー取引にのみ関わるものではないらしい)

 その構成要件が相変わらず素人には分からない。でも**(息子)が経理にいる間には****の株には手を出さない方がよそそうだ。危うきに近寄らずは別に君子のみの知恵ではない。(6/18/2007)

 いくつかのサイトに、ワシントンポストへの意見広告の件が取り上げられている。記事のコピーから英語原文を起こし、これに和訳をつけたものもあり、なかなか「史料」価値が高い。

 中央日報の記事の中にも見えていたが、意見広告が「FACT5」とした部分にこんなことが書いてある。

 In 1945, for instance, Occupation authorities asked the Japanese government to set up hygienic and safe "comfort station" to prevent rape by American soldiers.

 こんな意味だろうか、「たとえば、1945年、米占領軍も米兵による強姦を防ぐために、衛生的で安全な"慰安所"を設置するように日本政府に求めたことがある」。つまり「アメリカ軍だって、兵士のためには慰安所が必要で、現地で日本女性を調達しようとしたでしょ。下半身の問題は世界中どこでも同じでさあね。だから野暮は言いっこなしにしましょうや」というわけだ。

 ではそんな「FACT」はあるのだろうか。田中伸尚の「ドキュメント昭和天皇6」によれば、玉音放送のあったわずか3日後の8月18日、内務省警保局は配下の各地方長官に対して「外国軍駐屯地における慰安施設に関する通達」を発し、その中で「駐屯せる場合は急速に開設を要するものなるに付き内部的に予め手筈を定め置くこととし外部には絶対漏洩せざること」、「警察署長は営業については芸妓、公娼私娼、女給、酌婦、常習密売淫者等を優先的に之を充当するものとす」などと指示している。

 さらに興味深いのは8月26日、我が日本国政府は花柳界業界との共同出資により(株)R・A・A協会(特殊慰安施設協会)を設立し、その宣言式を皇居前広場で挙行している。その宣言文が可笑しい。こんな内容だったという。「新日本再建の発足と全日本女性の純潔を守るため礎石事業たることを自覚し、滅私奉公の決意を固めるものであります」。

 降伏使節団がマッカーサーからの降伏手続きに関わる大略事項の書かれた文書をマニラで受け取ったのは8月19日夜のことだから、その前に出されている内務省の通達が「米占領軍の要求によるもの」だったということはあるまい。

 ずいぶんお粗末な「THE FACT」もあったものだ。歴史学者として名を連ねた秦郁彦も老いぼれて頭が回らなくなったのか。情けない話だ。(6/17/2007)

修正とお詫び
この意見広告に秦郁彦氏は加わっておりませんでした。大変失礼いたしました。

秦氏が認識するはずもない場所ですが、秦先生と読んでくださっている方には、お詫びします。

そうですね、いくら何でも、こんなものに名を連ねた日には、「学者」の看板は上げていられませんよね。(では、名を連ねた「学者様」はどうなんだといわれそうですが、あの人たちは・・・ね、「札つき」ですもの。そういえば、名前があって良さそうな渡部昇一が入っていないのはどうして?)

 きのう、梅雨入り宣言があって、きょうはさっそくの「梅雨の中休み」。

 読売のサイトに「14日付米紙ワシントン・ポストは、旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦問題で、『日本軍によって女性が強制的に慰安婦にされたことを示す歴史的な文書は存在しない』などとする全面広告を掲載した。広告には賛同者として、平沼赳夫元経済産業相(無所属)のほか自民党の島村宜伸元農相、民主党の松原仁衆院議員ら国会議員有志、ジャーナリストの櫻井よしこ氏らが名を連ねている」という短い記事が「ワシントン=五十嵐文」の名前で出ている。この記事だけでは「そうですか」というくらいのもの。しかし韓国紙ながら中央日報のサイト記事は広告内容を意外なほど冷静に要領よくまとめてくれている。

 日本自民党と民主党および無所属議員45人は教授、政治評論家、報道関係者らとともに出した「事実(THE FACTS)」というタイトルの広告に、日本が当時、日本政府や軍が慰安婦動員に介入したという文書を見つけられなかったとし「日本軍が若い女性たちを性奴隷に追いやった」というマイク・ホンダ議員の慰安婦決議案内容は歴史的事実と違うと反発した。
 日本政府と軍は当時むしろ女性たちを拉致して慰安婦にしてはいけないという命令を下した上、女性たちを慰安婦に引き込んだブローカーたちが警察に摘発されて処罰されたという韓国メディアの報道まであると広告は指摘した。
 それでも、一部の軍人たちが規律を破って女性たちをつかまえては売春行為を強要したケースがあったが、インドネシアでオランダ女性たちが慰安婦に連れて行かれたことはその代表的な事例で、関連者たちは後で重刑を受けたということだ。
 日本の慰安婦たちは普通「性奴隷」と描写されているが、事実は許可を受けて売春行為をしているほか、人々の大多数の収入は日本軍の将校や人によっては将軍よりも多かったと広告は強調した。
 またこのような売春行為は当時、全世界的に普遍的なことだったし、米軍も1945年、日本占領以後、米軍たちの強かんを阻むために衛生的で安全な「慰安所」の設置を日本政府に要請したと付け加えた。
 米議会に提出された決議案を含む慰安婦問題関連の主張は、大部分生存者の証言に即したものだが慰安婦だったとする女性らは、初めはブローカーたちに連れて行かれ、後に「警察のように見える制服を」着た人々によって拉致されたと主張するなど、証言に一貫性がないと広告は言った。
 したがって4月末、ワシントンポストに掲載された「慰安婦に対する真実」という広告は決して事実ではないと主張した。
 最後に「悲しくも2次大戦中、多くの女性が極甚な苦難にあったことは極めて残念」だが「同時に日本軍が若い女性たちを性奴隷に追いやる20世紀の大きな人身売買事件の中の1つを犯したという下院決議案は重大で故意的な事実歪曲」と強調した。

 かねてこの国の右翼マインドの人たちが独特の「歴史修正主義」的意見をこの国の中でだけ主張していることを嗤っていた。だから自分たちの主張を国外で堂々と述べたことは従来の内弁慶的な言動を少しは反省したものかと思わぬでもない。できるなら日米関係に引っ掛けて直接の当事者のいないアメリカに向けて遠吠えするのではなく、当事者たちの母国である、韓国、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダの主要紙に同様の広告を掲載すべきだろう。

 それにしても嗤えるのは彼らに抜きがたく染みついている「白人コンプレックス」。彼らにとってオランダ人女性はアジア人とは別格らしい。オランダ人慰安婦に対してのみ「規律が崩れていたケース」と、その主張をトーンダウンする姿勢はいじましい。おそらくこのあたりはバナナな日本人(外見はイエローだが、一皮むいた中味はホワイトのつもり)である岡崎久彦あたりの主張によるものだろう。

 もっと可笑しいのは「責任者の将校は厳しく処罰された(朝日夕刊記事による)」と弁明していること。これがスラマン事件のことをさしているのだとすれば、件の将校は帝国陸軍の自律的な手続きで処罰されたわけではない。戦後、バタビアに設置された軍法会議法廷で有罪となり処罰されたのだ。つまり、旧日本陸軍は抑留所からちょいと様子のいい女性を選別して慰安所(今回の広告主たちの主張する公娼施設)に移送することなど、いささかの犯罪行為とも考えていなかったということだ。

 ところでこの連中の主張の最大の根拠は「公式の記録が見つかっていないこと」である。目下大多数の国民の最大関心事は年金問題だが、「公式の記録が見つかっていない以上、事実はなかった」という論理を振り回す彼らは同じ理屈で「保険料を支払ったという記録が見つからない以上、支払った事実はない。したがってそんな連中に年金を受給する資格はない」と主張するのだろうか。(6/15/2007)

 最初の印象は「変な話」だった。朝鮮総連中央本部ビルとその土地を買った「投資顧問」会社の社長が元公安調査庁長官だったというのだから。そして件の元長官は「朝鮮総連は北朝鮮の大使館機能を持つ在日朝鮮人にとって重要な団体、その拠点がなくなるのは問題」と弁じた。

 彼は在任中からそう考えていたのだろうか。たしかにかつて総連はそういう施設であったのだろう。だが、現在、総連を祖国の大使館とみなす在日の数は著しく減っているのではないか。それはとりもなおさず総連が邦人の拉致に手を染めていたことが原因だ。そういう事情を一般人以上に知る立場にある人物がいまなおそういう考えでいるというのはなかなか理解しがたいことだ。

 いや、もともと大使館などというものは、拉致や闇移送など、金大中事件における韓国大使館やヨーロッパ各地でテロリスト狩りを行っているアメリカ大使館のようにごく当たり前にやるもんなんだというのが「公安の常識」で、プロにとってはさして気にならないことだったのかしら。

 それはそれとして、犬が人に噛みついてもニュースにはならないが、人が犬に噛みついたらニュースになるという。競売妨害を図るために所有権移転登記をいじることはさほど珍しいことではない。ヤクザ屋さんがこういう場面に絡んで稼ぎをあげていることはよく聞く話。つまり目的のためなら手段を選ばない朝鮮総連ならば、この程度のことはあって不思議ではないというのが「世間の常識」。ただ、その取引にいわば「監督官庁」である公安調査庁の「元」とはいえ長官が一枚噛んでいたからこそ、これが「大ニュース」になったと考えた方がいいのかもしれぬ。

 年金でドタバタ劇を演じている安倍内閣にとっては「北朝鮮」ネタは干天の慈雨だったか。きょう、梅雨入り。(6/14/2007)

 先々週と先週はコムスンだった。今週はNOVAになるらしい。

 英会話のNOVAに対して経産省が特定商取引法に違反するいくつかの行為があったことを理由に、半年間、長期新規契約の勧誘・受付・締結を禁止する処分を申し渡した。違反行為は、「不実告知」、「重要事項の不告知」、「誇大広告」、「書類記載不備」、「解約時の債務履行拒否」、「関連商品を巡る債務履行拒否」など計6項目、18種に及ぶとか。

 きのうの朝刊の記事を思い出す。こんな内容だった。

 NOVAの猿橋望社長と自民党の中山泰秀衆院議員が関淳一・大阪市長を訪ね、解約時の精算方法の正当性を訴えていたことがわかった。訪問は、大阪市消費者センターが市民とのトラブルをあっせんで解決するため、NOVAに対し、市条例にもとづく「出頭通知」を出した後だった。
・・・(中略)・・・
 大阪市などによると、出頭通知は昨年4月18日付で、市消費者センターから猿橋社長あてに送付された。解約時の精算金が少ないという消費者の苦情を受け、センターのあっせんで解決を図るため、NOVA側から見解を直接聴くのが目的だった。
 中山氏と猿橋社長が関市長を訪ねたのは昨年5月22日午前。市によると猿橋社長は、解約精算金規定が特定商取引法に違反しているかどうか最高裁(今年4月、NOVAの敗訴が確定)で争われていることや、経済産業省とも十分に協議していることなどを訴えたという。また、中山氏も「最高裁で係争中だが、NOVAの精算規定が認められないのは社会通念上おかしい」などと主張したことを認めている。
 これを受け、関市長は消費者センターに事実関係を確認しておくよう秘書担当課長に指示。担当課長は、センター所長から出頭通知を出した経緯などを聞き出し、中山氏の秘書に内容を伝えた。また、中山氏と猿橋社長の訪問については、センターの現場担当者にも知らされた。
・・・(中略)・・・
 中山氏によると、猿橋社長は後援会の一員で、パーティー券購入などの支援を受けているという。また、猿橋社長が理事長を務める財団法人「異文化コミュニケーション財団」では中山氏が評議員を務め、父親の中山正暉・元衆院議員が理事に就いている。
 中山氏は市長訪問について、猿橋社長の依頼だったことを認め、「支援者が困っているときに助けてあげるのが政治家の仕事」と説明。「出頭通知は市長名で来ていたが、猿橋社長だけでは関市長に会えないので、面会できるよう設定した。あっせんをやめるよう口利きはしていないし、圧力をかけるつもりもなかった」と話している。

 あの「顔は苦み走ったいい男だが、おつむがチト弱い」中山正暉の息子らしい。

 ところで「NOVAの精算規定が認められないのは社会通念上おかしい」とはどのような論理展開による「主張」だったのだろうか。

 さらにはこの4月3日に最高裁でなされた判決についてはどのような「意見」を持っているのだろうか。

 成城大学というのがちょっとばかり頼りないが、それでも一応は法学部を卒業した「学士様」のようだから、その「見解」を知りたいものだ。

 拉致問題で親父殿が露呈してみせた非論理性を受け継いでいなければよいが、どうだろう。それとも、やはり、ヤクザ屋さん風の「押しかけ」は、ただただひたすらにカネの恩義に報いるための「忠犬ヤスヒデ号」としてのお仕事だったのかな。(6/13/2007)

 この間、**(息子)が帰ってから、**(家内)と「家族関係株でも買おうか」と話をした。まず、うちの株。これは500円〜600円、手頃は手頃だが、あまり期待が持てそうもない。**(上の息子)のところとなると3000円〜4000円はする。少しばかりハードルが高い。一番良さそうなのは700〜800円程度の**(下の息子)のところ。気になるのは**(下の息子)が経理部にいること。経理部に配属されている息子の会社の株を取引した場合、インサイダー取引の疑いをかけられはしまいか。

 少し前には日経の広告部員が業務上知り得た各社の決算公告を利用したとしてインサイダー取引で逮捕され、つい先日も取締役会決議に関する印刷物を請け負った会社の従業員とその親族が逮捕されたニュースがあった。インサイダー取引の不当なことは分かるのだが、どんなことが犯罪として成立する要件になるのか、素人にはわからない

 きょう、村上ファンドインサイダー取引事件、結審。判決は来月19日の由。(6/12/2007)

 横山泰三が亡くなった。新聞を読むようになったとき、既に「社会戯評」は紙面にあった。朝刊のサザエさん、夕刊のクリちゃんに比べれば、「社会戯評」は子供にとっては取っつきの悪い「漫画」だったが、だんだんになじみになった。毎日新聞に掲載されていたという「プーサン」の記憶も、どういうわけか、ある。54年2月に始まった「社会戯評」は92年まで足かけ39年続いたということだが、夕刊によればプーサンはその前ということだからリアルタイムで見たわけではないらしい。

 記憶の中の作品。持っていた箱からクリスマスツリーの飾り物が転げ出て、いかにもばつの悪そうな表情をしているお坊さん。「社会戯評」だったような気もするが、ちょっとストーリーがあるので四コマ漫画の「プーサン」だったのかもしれない。90歳だった由。(6/11/2007)

 朝の「サンデーモーニング」。コムスン/グッドウィルグループによる「介護ビジネス」問題のコメントを求められた大宅映子、「介護のようなものは企業化には向かないというけれど、役所がやるとなればそれでうまくゆくというものじゃない。やっぱり、病院にしても、介護にしても、福祉にしても、学校にしても、競争がなきゃよくならない・・・」と、いまやカビの生えた「自由競争万能論」で「コムスンは行き過ぎだけれど、民営企業化は時代の流れ」と擁護したいらしい。大宅の頭は鉄腕アトムの頭か。

 「競争がなければよくならない」というちゃちな言い回しを大目に見てやるとして、大宅はいったい「競争」の場面をどこに想定しているのだろう。

 コムスンは「競争の対象」を「利潤」に設定した。「利潤を最大化する競争」の勝者となるために、まず有資格者数をごまかし、架空のサービス費用の請求を行うという「ズル」をすることも辞さなかった。「自由競争」の恩恵を受けたのはユーザーではなく経営者のフトコロだったというわけだ。

 大宅があげた、医療にしろ、介護にしろ、福祉にしろ、教育にしろ、「競争」の土俵をどこに設定するかによっては惨憺たる結果を生むだろう。規制を撤廃して営利企業に自由な競争をさせれば、サービスは夢のように向上するなどというのは作り話だ。ましていまは株主利益の追求こそすべてという時代ではないか。患者、要介護老人、身体障害者、そして子供、彼らの利益を経営者(株主)利益以上に考える「営利」企業などそもそも形容矛盾ではないか。ご面相同様、脳みそも干からびたのなら、したり顔でしゃべるなよ。大宅映子、悪いことは言わない、即刻、隠居することだ。

 閑話休題。ではこれらの分野には「民営化」は向かないのか。いつぞや、日経のインタビューを受けたドラッカーはこんなことを言っていた。「20世紀は企業の世紀と言われたが、これは間違いだ。あらゆる先進国経済で、学校や医療機関など非ビジネス部門が企業セクターより高い成長を示した。・・・(略)・・・企業が非営利組織から学べることは多いはずだ」。

 一部の不心得な連中のために評判を落としているNPOというスタイルをいま一度磨き上げる。介護などはそういう枠組みの中で考えるべきだろう。(6/10/2007)

注)鉄腕アトムの頭
鉄腕アトムの頭脳は胴体部に入っていると解説されています。頭部は単純に耳にあたるマイクと、サーチライト機能を持つ眼がついているだけ。つまり空っぽの頭と言うことです。

 きのうは***の関東地区同期会幹事と北海道地区同期会幹事の打合せ。・・・・・・(省略)・・・・・・**の案内のカラオケバーで過ごし、****経由タクシー。帰宅は深夜2時。

 「・・・で、毎日が日曜日になったら、適う限り、読書・・・」。「最近ね、つくづく民主主義なんてって思うわけ。プラトンはね、尊敬するお師匠さんであるソクラテスがね、なんでアテネの民主制の名の下に死罪になったのか、悩んだんだろうね。その結果が『国家編』」。「ミーちゃんハーちゃんがみんな一票ってのが、先生を殺したんだって。だから、プラトンは『哲人政治』が理想って思ったんでしょ。アリストテレスの『政治学』、読んでないんだよ、そういう系統的読書ができると思うだけで、ああ、定年後の日々よ・・・」、といい気持ちで、まあ脈絡のない話をしていると、「で、そうやって本だけ読んでて、どうするの、それでいいわけ?」、グサリときた。その時、運転手、左折、「・・・エッ、ここ曲がるの?」、「この道じゃ、だめですか」と運転手。「・・・いいよ、いい。一つ先だと最後また踏切わたらないといけないから・・・いい、この道でいい」。

 運転手に救われて、そのきびしい質問には答えなかったわけだが、ここで答えておく。オレは「読むだけ」をとる。救いがたいおバカさんたちと語らって、いい社会を作ろうなどということはとっくの大昔に捨てている。今更また拾い直す気など更々ない。なんとか残りの年限を本を読みながら暮らしてゆけるくらいの余裕はありそうだから、じっと洞窟の中から外を見て、時代に流されることなくしっかり生きてゆく人たちのことも、時代に振り回されて滑稽な踊りをご披露する連中のことも、この目で見て、見えたとおりに書き留めておく。前者についてきちんと書き残せるかは危うい。後者についてはけっこううまく記録できると思っている。なぜなら、オレは気分的には後者のグループに属する人間だからだ、限りなく前者に近づきたいとは思いつつも。(6/9/2007)

 陸上自衛隊の情報保全隊が自衛隊のイラク派遣反対に関する集会やデモ、批判記事について情報収集と分析をして内部文書にまとめていた由。

 久間防衛相は「当時、反対運動もあり、家族に圧力がかかっていた。どんな話が持ち込まれたか、心配はいらないということで情報収集をしたのではないか」と弁明したらしいが、件の資料には「年金改悪反対」や「消費税増税反対」などの主張に関するものまでが対象になっていたそうだ。

 自衛隊の家族は「年金」や「消費税」に対して反対する活動があると、自分たちに圧力がかかっているとか、自分たちは非難され、のけ者にされていると思うほどナイーブで特別に繊細な神経の持ち主なのだろうか。もしそうだとしたら、自衛隊員のご家族には全員、精神科の検診を受けていただいた方がいいだろう。たしかに自衛隊の立川の官舎にお住まいの人の中に、面体を隠し、物陰から人を撃って恥じない卑劣漢がおいでだということは、先年の反戦ビラ配布事件で分かっている。

 それにしても「憲兵」まで復活しつつあるのか、時代の暗転の速度は一段と速くなったようだ。

 一方、コムスン問題は厚労省から強い「指導」が出たとかで、譲渡については一転「凍結」方向とのこと。「凍結」と言って、「断念」と言わぬのはサミットに出席のため不在の暗愚の帝王の帰国後の指示を待っているためか。(6/7/2007)

 ライオンズ、スワローズに連敗。先週、甲子園で連敗して、本拠地に戻ってからも、ジャイアンツ・スワローズ相手に負け続け、これで六連敗。インボイスドームというのもぴんとこなかったが、どうもグッドウィルドームという名前は輪をかけて悪いようだ。

 「グッドウィル」という名前に反して、このグループ、アルバイトに対するピンハネはするは、介護事業所としての要件をごまかすのは当たり前、介護保険の不正請求を行うは、・・・、「グッド」なことよりは「バッド」なことで利益を稼いで「急成長」しているらしい。

 そのグッドウィル傘下の「コムスン」に対して、厚労省は介護事業者としての新規指定と更新を今後4年半にわたって認めないことを決めた由。日興コーディアル証券の上場廃止を情実絡みで阻止した安倍政権にしては珍しい決断だと思っていたら、夜になってグッドウィルはコムスンの事業を同じグループ会社の「日本シルバーサービス」に譲渡すると発表した。

 伝えられるところによると、同一グループ内ではあるもののコムスンの役員とシルバーサービスの役員は重複していないのでコムスンに対する今回の処分はシルバーサービスに及ばないのだそうだ。なるほどそういう仕掛けだったのか。年金問題でガタガタになった政権と厚労省が点数稼ぎのために処分したと思ったのは浅慮、安倍晋三はどこまでも詐欺師の味方のようだ。

 厚労省よ、今回の処分が各都道府県の処分前に問題の事業所を廃止するというコムスンの狡猾な対応策を問題視して行ったものというなら、この日本シルバーサービスへの事業譲渡などはそれをより大きなスケールでやっただけではないのか。それを「法的には問題がない」というのはずいぶん間の抜けた話になるぞ。いくら首相の程度が低くても、おまえたちまで無能のふりをすることはなかろうに。(6/6/2007)

 支持率がどかんと落ちた(各新聞、テレビネット、すべて30%台)安倍晋三、急遽、「改憲イデオローグ、こわもて右翼」の看板を「環境に優しい、いい人路線」に切り替えたようだ。朝刊の全面広告に夫婦でご登場。アダルトビデオの舞台のようなまるで生活感の希薄な白っぽいお部屋の中央に立ち、「自由の女神」のようなポーズをとっている。女神が右手にかかげているのは松明だが、旦那が高々と差し上げているのは電球。ソファに腰掛けた奥方がそれをニタリと笑いながら見上げている。何のことはないナショナルの電球型蛍光ランプの宣伝を地球温暖化対策本部の名前でやっているだけ。

 官僚は公の名目で集めたカネでなんやかんやの外郭団体を作って天下り、ほんのちょっとの在籍の後に退職金をせしめてゆく。政治屋はこれもご大層な名目でなんとかかんとか本部を作ってはそのキャンペーンにしゃしゃり出て顔を売って選挙の備えとする。松下電器がどれほどのカネを出し、電通がどれほどの広告企画料を懐に収めているかは知らないが、やたらに清潔そうなお部屋の舞台裏は真っ黒に汚れていることは容易に想像できる。

 それにしても、顔が売れるところにはどこにでも意地汚くしゃしゃり出るこの夫婦、苦労知らずのいいおうちに育ったはずだが、どうもご両人共々に情操教育は不足していたに違いない。まともな感覚では恥ずかしくてとてもこんな広告には出られまい。

 この顔でサミット出席か。ああ、情けない東洋のアニマル大国よ。(6/5/2007)

 正門に組合地区委員の連中がずらりと並んでパンフレットを渡していた。パンフレットの制作元は社団法人農山漁村文化協会提携事業センター。その上に農林水産省「平成18年度にっぽん食育推進事業」とある。安倍晋三がヘソ出しルックでニコニコほほえみかけ、「そのからだ、ヤバイっすよ」と宣うている。トレーナーからはみ出しているお腹には「たるん」、「ぷるん」と書き加えてある。その擬態語、我が宰相には、腹よりは頭にふるのがよかろうに。

 先日は「メタボじゃダメジャー」という「トホホ」な駄洒落見出しのパンフレットと、負けず劣らず「トホホ」なボール紙メジャーとがセットにされて健保組合から配られた。計った値を用紙に書いて提出せよとのお達し。確かめもしなかったが、あれ、厚生労働省あたりから出てきたものだったのだろう。

 大きなお世話だ。お役人はこんなくだらないものに税金を使って偉そうに国民の体位を管理することより、徴収した年金保険料をしっかり管理することに専念して欲しい。ほとんどの国民はそう思っているに違いない。本来の自分の仕事もろくにできない連中に他人の健康管理について口を出す資格なぞあるまい。

 何年か前に買ってきて本棚の肥やしになっている本のことを思い出した。序文にはこんな記述がある。

 しかし、ダッハウの囚人が有機栽培で育てた花からハチミツを作っていたこと、ナチスの健康促進派が世界最大規模の反タバコ運動をおこなったこと、などはおそらくほとんど知られていないのではないか。世界の先端を行くナチスのガン撲滅運動により、アスベスト、タバコ、発ガン性のある農薬や食品着色料の禁止まで、広範な規制がおこなわれたことをどれだけの人が知っているか?

 中程にはもっと面白い記述もある。

 たとえば1930年代半ばのヒトラー・ユーゲントの手引き書『正しい食生活で健康に』を見ると、「肉の食べ過ぎで病気になる」という朱刷りの表題のもと、まるまる一章がこのテーマに費やされており、「実体のないカロリー食」の危険を論じ、肉に代わる健康な蛋白源として大豆を勧めている。また手引書は繊維の多い全粒パンを推奨し「休む者は錆びる」というスローガンとともに便秘の予防を訴えている。少年エリートたるヒトラー・ユーゲントへの教えは、栄養は「個人の問題ではない」、帝国の少年少女は「健康でいる義務がある」、正しい食生活が健康な国民と兵士を作る、というものであった。

 本の題名は「健康帝国ナチス」喫煙者がよく口にする「禁煙ファシズム」という言葉も故なきものではないらしい。

 けさもらったパンフレットを鞄から取り出してきて、もう一度、中を見た。安倍晋三と思った写真は長州小力なるお笑いタレントのものだった。「重さ」の割に「軽い」感じが共通して、再度の嗤い。(6/4/2007)

 **(母)さんの病室で早慶戦のテレビ中継を見る。ハンカチ王子、斎藤佑樹の人気だろう神宮球場は満員。これほど六大学野球に観客が入るのは久しぶりのこと。

 記憶にある早慶戦には、それぞれの応援スタンドに早稲田はフクちゃん、慶応はミッキーマウスの大看板を立てていたものだが、最近の応援団は手間のかかることはしないらしい。

 9回の表に早稲田がだめ押しと思われる得点を入れ、その裏も三振、セカンドゴロであっというまにツーアウトランナーなし。帰り支度をしたが、そこから、慶応、粘る。内野安打、センター前ヒット、ワイルドピッチがあって、三遊間を抜くヒットで5−9、終わりそうで終わらないと思ったところで、ショートフライ、ゲームセット。その時、**(母)さん、小さく拍手をしていた。死んだ兄さん(唯一、ガンで死ななかった)の早稲田なのか、**(弟)の早稲田なのか、聞こうかと思ったがやめた。(6/3/2007)

 新銀行東京、別名石原銀行の06年度決算。当期赤字は、都知事選前に報ぜられていた額を遙かに上回って547億円にも達した。累積赤字はたった2年の営業で849億円、さすがに石原銀行の「伸び率」はたいしたものだ。石原は「進むも地獄、引くも地獄で乾坤一擲打って出る以外にない。発案はわたしでその責任はあるが、わたしも金融の専門家ではない。責任は経営者にある」とコメント。

 都知事も大きく出たものだ、「わたしも」だそうだ。「も」などと言えるだけの何を持っているつもりなんだろう、ただのデマゴーグ野郎が。

 都民の税金、1,000億円の出資金がドブに沈んで還らぬカネになったとき、石原に投票したバカな都民はどんな顔をするだろう、楽しみなことだ。石原だけはいやだと投票した者は、できることなら1,000億円は石原に投票した連中に分担して払ってもらいたいと思うことだろう。たいしたことはない。この春の選挙の場合、バカな都民は281万人もいたのだから、一人あたり3万6千円も払ってもらえば、少しおつりが来る。(6/2/2007)

 夕方、吹上工場でチャイナウォッチャーとして名高い矢吹晋の講演を聴く。せっかく依頼するのに一時間の講演というのはいかになんでももったいない。はたして時間は短く、かなりの部分を走らせての話になった。それでもケ小平から胡錦濤に至る現代中国の政治権力の状態遷移図がすっきりと頭の中に描けるような話だった。

 いつか紺野大介が「中国を語るときには、何の話、誰の話、いつの話、どこの話かが重要で、一般的な話、平均的な話を語るだけではその力を見誤ることになる」と書いていたが、相似た印象を持った。必ずしも「個」から「全体」を推し量ることができない国、それが中国なのだ。

 矢吹はこんなアネクドートを紹介していた。さる政府要人の話、「中国もいまはいろいろ法律を整備していますから、どうぞ安心してお仕事をしてください。もし難しいことがあったら、その時はこのわたしのところに来てくだされば、何とでもなります」。いずれもが中国、らしい。(6/1/2007)

 バカな男だとは思っていたが、これほど愚かだとなると、空恐ろしい。

 消えた年金問題に対して、安倍は「年金時効特例法案」なるものをにわか作りで作り、議員立法の形で委員会提出、4時間の審議で委員会を強行採決し、きょう衆議院本会議にかけた。

 たしかにお気の毒といえないことはなかった。今回の問題はもともと10年前の制度改正に端を発するものだから、安倍に直接の責任があるわけではない。問題が浮上したいま、たまたま、首相だったというだけのことということかもしれない。もちろん、きちんと問題を詰めることもせずに形式的なごまかしに逃げ込もうとしたことはまさに万死に値するわけだが、ここ十数年の総理大臣などそんな連中ばかりだった。

 もともと知能程度の低い晋ちゃんのことだから、最大限甘く採点してあげるとすれば、こと年金問題に関する限り、安倍自身の失敗はおとといまではなかったといってもいい。しかし、もう違う。安倍は間違った指示を出し、大失敗のもとを作った。きょう以降に発生する年金の混乱の責任はすべて安倍晋三という無能な政治屋に帰する。

 なぜか。まず、年金官僚の犯罪行為のすべてに目をつぶるとしよう。そして、年金問題をただ一つ、消えた年金記録の問題に限ろう。10年前、それまで任意に振られていた年金番号を全国一律一本の統一年金番号に統合すると決めた際、それを完了させるための年限とそのために必要とされるリソースに関する手当を法律レベルで一切明確に規定しなかったことが、「5000万件の混乱」の最大の原因と考えられる。年金官僚にその意思が継続的にあったかどうかは疑わしいが、結果から見れば10年を経て、その作業は完了しなかったわけだ。

 年金時効特例法案には5年間の時効の撤廃の他、今後一年半程度の間に5000万件すべての突合処理を行うことを決めているらしい。ところがそのためのリソースをどのようにするか、今回もまた何の方策も打ち出されていない。10年前決めて、10年経ってもできなかったことを、1年あまりでやろうというなら、10年前の失敗の主要な原因をどのようにクリアーするのかの対策を織り込むのは常識だろう。

 つまり前の失敗に学ばないことを安倍は意図的に選択したわけだ。どんなバカでもこんなことはしない。安倍晋三はそれをした。これから発生する年金問題のすべての責任は安倍晋三個人にある。史上最悪にして最低のバカ宰相よ。(5/31/2007)

 きょうの厚生労働委員会で柳沢厚労相は「5年間の時効で無効になった年金記録は25万件、支給漏れの総額は少なくとも950億円くらいになる」と答弁した由。先週、不明記録が5000万件はいったいいくらぐらいになるかという計算をして5兆円から50兆円とはじいた。厚労相の答弁にしたがえば、5000万件は19兆円。当たらずとも遠からずだったなあと思っていたら、ニュースは続いて「時効を撤廃した場合には新たに最大約60億円ていどの国庫負担が発生する見込み」と報じた。

 我が国の年金制度は基本的には賦課方式だが、高齢化対策を名目に保険料を本来の賦課方式から算出した額より高めに設定した上で、その収入の一部を積み立てる「修正賦課方式」をとっている。つまりその時代の若者が負担する掛け金では赤字になる場合はこの積立金を年金支払いに充てることになっていて、よほどのことがない限り国庫負担は発生しないように制度設計されているはずなのだ。

 ところがこの積立金は、勝手に別用途(各地で廃墟になっているグリーンピアの建設などが代表例)に使っていることや、ろくに運用のキャリアも持たない職員が株式運用を行っているために巨額の欠損を出している。だから「時効を撤廃する」などという年金官僚にとって「想定外」のことが実現すると、本来そのために行われてきた「積立金」による「補填」はできずにとたんに「国庫負担」が発生するなどということになってしまうのだ。

 これを「バカをいうな」と怒る人はほとんどいない。柳沢厚労相にしてからが、官僚の作った答弁書にしたがって平然と「新たに最大約60億円ていどの国庫負担が発生する見込み」などと言っていて恥じない。19兆円の払い込みに対応するカネが宙に浮いている間は、盗っ人どもはまだ人の懐からカネをくすね続けるつもりなのだ。「社保庁が振り込め詐欺とは気がつかず」という川柳、真実だから笑えない。(5/30/2007)

 松岡利勝の自殺に続いて、けさ5時ごろ、焦点となっている緑資源機構の前身である森林開発公団の元理事(山崎進一)が自宅マンションの駐車場にうつぶせに倒れているのが見つかった。6階通路に靴がそろえてあったことから、警察は飛び降り自殺を図ったと見ている由。元理事も松岡同様パジャマ姿。むろん朝の5時ならばこのなりは不思議ではない。しかし、ならば、居宅から飛び降りるのが自然ではないか。靴を履いて外に出るのなら、着替えるのが逆に普通というものだ。

 日刊スポーツは松岡の側近といわれた地元有力支援者が18日に自殺していることを報じている。わずか十日あまりの間に死体が三つも転がったことになる。背筋が寒くなる話。

 きのう、安倍首相は記者会見の場で、わざわざこんなことを言った。「捜査当局からは松岡大臣や関係者の取り調べを行っていたという事実もないし、これから取り調べを行うという予定もないと聞いている。彼の名誉のために申し上げてお」。

 語るに落ちるとはこういうことをいうという気もするし、いやそれ以上に首相が恐れていることがまだ現在進行中なのではないかという気さえする話。普通に考えるならば、現職閣僚が逮捕されるという事態が発生しないで済んだのだから、わざわざこのようなことをいう必要はないはずだ。それをあえて、記者会見でこのように言うというのは、二つの場合が考えられる。

 最悪の事態が避けられた安堵からうれしさのあまりに愚かなことを言ってしまったということか、検察側に対してこれ以上捜査をするなという牽制の意味をこめたということ。難しいのは、普通の政治家ならば前者のケースはあり得ないといえるのだが、なにしろ安倍は極めつきのバカだから必ずしも前者をあり得ないことと断言できないということだ。(5/29/2007)

注)松岡の自殺に関わる闇については、立花隆のここ

 自殺のような事故死と、他殺のような自殺が慶応病院で交錯した一日。

 事故死の方はZARDのボーカルだった女性(坂井泉水という名前はきょう知った)。去年、子宮頸ガンが見つかり手術をしたものの、ことしになって肺に転移が見つかり再入院。比較的経過はよく、朝、院内を散歩するのが日課だった由。その散歩中、階段から転落し頭部を強打、脳挫傷でなくなったとのこと。自殺のような事故死というのは入院の理由からの勝手な印象。

 自殺の方は農水大臣というよりナントカ還元水大臣の肩書きの方が有名になってしまった松岡利勝。聞き飽きた言葉「法律に従い適正に処理している」を繰り返しふんぞり返る映像からは「殺しても死なないタイプ」に見えた。他殺のような自殺と思ったのは、FACTAの6月号で「現職閣僚めがけ東京地検が臨戦態勢――連休明け応援検事を招集して体制を拡充。緑資源機構の官製談合事件はいよいよ風雲急だ――」という記事を読んでいたせいだ。

 複数の報道を総合すると、「松岡は朝10時に秘書と宿舎で会った」、「12時過ぎに秘書がパジャマ姿で首をつっている松岡を発見した」、いくら秘書とはいえ、朝の10時ならば、着替えぐらいはしているだろう。それがわざわざパジャマに着替えて仮眠をとったのか。ずいぶん不自然な話だ。(5/28/2007)

 日本ダービー。優勝馬は牝馬、名はウォッカ。**(息子)が**(家内)に解説している。「これはね、夏の甲子園に女の子のピッチャーが登板して、優勝投手になったみたいなことなんだよ」と・・・。牝馬の優勝は64年ぶりとのこと。「はて、戦争中もダービーはあったのか」と調べてみると、中止されたのは1945・46年の二回に過ぎない。46年の中止理由はアメリカ軍の競馬場接収というから、この催し、なかなかしぶといことが分かる。(もちろん敵性語であるダービーの呼称ではなく「東京優駿競争」といっていた由)

 ダービーは三歳馬。同一年齢となると、やはり、性別の差は大きいようで、牝馬の優勝は1937年第6回のヒサトモ(トーカイテーオーはこの血を引いている)、1943年第12回のクリフジ、そして今回のウォッカが3回目ということ。

 夏場所、千秋楽、白鵬が朝青龍を破って全勝優勝。久しぶりに見るなかなかの好勝負だった。これで白鵬、横綱確定の由。モンゴル勢による東西両横綱。どこぞの「純血主義者」は叫ぶかな、「いまに神風がくる」と、呵々。(5/27/2007)

 済ませるものは早いうちに済ませておこうと早めに病院に向かう。いい天気。先週、日曜日、さぼった関係で洗濯物はいっぱい、紙おむつの買い置き一週間くらいはもつはずだが、どんなことで来られなくなるかは分からない。補充をしに売店へ。レジが慣れない新人で領収書を頼んだにもかかわらずレシートまでくれる。「これ、前の時は・・・」と言いかけたところで年かさの人が来て「アッ、領収書の時はね・・・」などと指導していた。

 本館から緩和ケア棟までの回廊は長い。晴れた日は温室状態になる。両側の窓から見える空には白い雲がぽっかりと浮かんでいるのが見える。「片雲の風に誘われて・・・」、芭蕉が深川の町を出立したのはいまごろだったはず。青空と雲のコントラストは鮮やかで春の雲というよりは夏の雲のようだ。

 病室に戻るなり「今日は暑いの?」。売店に行く前に訊いたことをまた訊く。「少しね、でも、湿度が低いから楽」と寸分違わぬ同じ言葉を返す。聞こえたのかどうか、返事はない。ぼんやりテレビを見ている。そろそろ病院生活も2年になる。比較的しっかりしていると思っていたがボケ始めたようだ。

 番組は屋久島。昔の新日本紀行の映像と現在の映像を対比させたような番組。ベッドサイドでこの日記をインプットしている。会話はあまりない。そばにいるだけ。(5/26/2007)

 飲み会ウィーク、きょうがラスト。下戸にはちょっと無謀なスケジュールだった。だが、気の合うメンバーで、知的な刺激がある、これがいちばん。巧んだわけではないが、並べてみると「だんだんよくなる法華の太鼓」の一週間だった。

 気持ちよく酔っぱらって、ちょっとできない約束までしてしまったようだが、いいだろう、ここ一、二年昂じつつある人嫌いが少しは改善されるかもしれぬ。とすれば、それもよしだ。(5/25/2007)

 きょうは**のメンバー。**は初孫が生まれたとかで欠席。いつものメンバーに**・***・**・**が加わる。総勢8名となると座った席で話す相手が決まってしまう。少しマンネリ。

 けさの東京新聞の社説をメモ。

 いまだに説明責任を果たさない人が閣僚で居続ける政治のレベルに暗たんとする。金銭の絡む疑惑をそのままに、かばう首相の言葉が空々しい。この倫理の鈍感さは、政権のおごりというほかない。
 厚顔無恥と攻め疲れ。「政治とカネ」を主題とする衆院予算委員会の集中審議に、多くの人はそういう感想を持ったのではないか。就任してほぼ八カ月の間、折に触れ野党の追及を受けてきた松岡利勝農相は、相変わらずの居直り答弁を繰り返した。「法に従い適切に報告している」と。疑惑の詳細はもう書き連ねる必要もないだろう。「ナントカ還元水」に象徴される、政治資金のいかがわしげな使途が問題の核心だ。「適切な報告」そのものの信ぴょう性が厳しく問われているというのに、法の趣旨を都合よくねじ曲げて具体的な説明を拒絶する。政治資金規正法をこんなふうに盾にする厚顔無恥は、政治家の中でも珍しい。
 手を替え品を替えの追及にも平然と同じ答弁が何度も繰り返される。攻め疲れの野党が矛先を安倍晋三首相に向けるのも当然である。民主党の岡田克也氏は首相に「農相は説明責任を果たしていると考えるか」と迫っている。自民や公明の与党幹部でさえ農相の説明の不十分さを指摘しているではないか、かばう首相が国民の政治不信を倍加させている、というわけだ。口ごもる首相の答弁もまた"壊れたレコード"であった。「農相は法に基づいて説明している」。そして首相は民主党代表の小沢一郎氏の不動産取得問題に話を振った。内閣の最高責任者の認識を聞かれているのに、それにはほおかむりで他者の問題をあげつらうのは、見苦しい。
 農相には倫理欠如を疑わせるような献金受領問題も発生している。農林水産省所管法人「緑資源機構」の官製談合事件で名の出た、請負業者らの政治団体やその会員企業、経営者から多額の献金を受けていた。法の認める範囲、との強弁を、これ以上世間が容認するとは思えない。
 与党は週明けに、資金管理団体の不動産取得禁止や、五万円以上の経常経費に領収書添付を義務づける旨の法改正案を国会に出すそうだ。資金管理団体以外の政治団体にも適用すべきでないか、五万円では実効性は薄い、との指摘にも、首相はまるで人ごとの答弁をしている。一体どこが新時代のリーダーか。尾を引く松岡問題に自民の参院選候補からも怨嗟の声が聞こえる。これを放置して憲法や教育を語る資格はあるか。あらためて問うておく。

 けさの社説、米軍再編は目を通した六紙(朝日・毎日・読売・日経・東京・サンケイ)すべてが取り上げたが、「松岡問題」を取り上げたのは他に朝日・毎日のみだった。ふだん「憲法や教育を語る」ことが大好きな読売・サンケイはそれぞれ「ジェットコースター」と「銀行サービス」だった。天下・国家に対する信頼が既成の政治屋によってぐずぐずと崩されようとしているときに、「安心してジェットコースターに乗れない」ことや「銀行の窓口営業時間が短い」ことが「大問題」だというのは、いかに何でも「平和ボケ」なんじゃないか。(5/24/2007)

 宙に浮いた年金がなんと5,095万1,103件もあるというのがけさのトップニュース。97年に基礎年金番号を一本化した際の混乱が理由だという。統合もれということだから5千万件が5千万人ということにはならないだろうが、日本の人口は赤ん坊を含めて1億2千万ほど、それを考えると絶句するほどの不明件数だ。しかもそれをまるまる10年間、どんな調査をしたのかは分からないが、問合せをする者に対しては「納付したことを証明する書類をもってこい」とふんぞり返っていたのだから、あきれた話。

 社会保険庁改革、野党が税金と年金掛け金の徴収を統合管理する歳入庁案を提案しているのに対し、政府・与党は年金機構なる特殊法人化を目指している。政府・与党、そして役人の身分にこだわりそうな社会保険庁の役人までが、なぜ、非政府機関にすることにそれほどこだわるのか、いささか不思議に思っていたが、理由はよく分かった。これほど帰属の分からない案件、詰まるところは支払いにつながらない剰余金があること、彼らが何が何でも政府機関から分離させたかった理由はこれだったのだろう。まず第一に政府は責任問題から逃れたい一心、そして第二に自民党と社会保険庁の役人は剰余金を食い物にしたい一心。それを実現するためには「官から官」ではなく「官から民」の方が「昔のことは知らぬ存ぜぬ」を押し通すのに便利であり、「民」の不始末と切って捨てることができる方がよく、可能な限り「不明」を盾に「不払い扱い」とし踏み倒せる方がよいということだ。いかにも無責任かつ他人のカネを盗むことを当然のこととしている連中の考えそうなことだ。

 5千万件の帰属不明の保険金はいったいどれほどの金額になるのだろうか。5千万円ではないだろう、5億円(一件十円)でもないだろう、50億(一件百円)でも500億(一件千円)でも5千億(一件一万円)でもあるまい。5兆円以上50兆円以下、こんなところか。

 「5千万件」というだけで、「支払い先不明の浮きガネ、ン兆円」というデータは出さないのはそういう理由か。(5/23/2007)

 国会図書館経由で錦糸町へ。**・**・**、久しぶりの顔ぶれ。**さんはお母さんの具合がよくないとかで来られず残念。なまぐさい話、きわどい話を含めてあれこれ。本当のところそういうものにあまり積極的な興味はない。

 それにしても**は変わってしまった。病気のせいなのかもしれないが、遅れたことも、遅れた理由も昔の彼ならばあり得なかったことだ。無惨なものだと思いつつ、この顔ぶれで呑むのはこれが最後になるだろうと思いながら帰ってきた。

 夕刊から朝刊に移った「夕陽妄語」の末尾。眠いから、きょうはメモのみ。

 一方にはドゥ・ゴール将軍がその10年間の治政において示したように、徹底した現実主義がある。アルジェリアの独立戦争の処理は、過去をふり返れば、近くはディエンビエンフーの敗戦(1954年)に学び、遠くは日本の中国侵略戦争の正確な「歴史認識」を踏まえる。未来に向かっては、早くもベトナム遠征やイラク征伐の惨状を予想していたといえるだろう。すなわち先見の明とするに足りる。
 他方、このような事実にもとづく実証的現実主義の成り立ち難い場合もある。状況が急激に変化すれば、ほとんど常に現状を判断するための資料(情報)は十分でない。未来の出来事を予測するために外挿法を用いることもできない。しかし、どうしても今直ちに判断せざるを得ない場合がある。そういうことはしばしばあり、しかもそれが致命的に重要であり得る。「それは将来歴史が決めることです」などというのは、安易な逃げ口上にすぎないだろう。
 そういう場合には、直感的で理想主義的な、当事者の倫理的な価値観を導きの糸として結論に向かうほかない。ここでは理想主義が現実を理解するための実証的方法と矛盾するのではなく、実証的方法の限界を超えて、その先の結論への想像力の飛躍を可能にするのである。

 書き写した部分、目新しい話ではない。それを書き写したのは、直前の段落に加藤が文脈を無視するようにして唐突に書いた体験、そして「心の深いところにあるゴーリズム(Gaullisme)」という言葉に思い出すものがあったからだ。(5/22/2007)

 全社セミナーの講師をお願いしようと、***の**さんの仲介で**先生を研究室に訪ねる。南北線の東大前で下車、農学部の方から入り言問い通りをまたぐ陸橋を渡って工学部へ。とにかく古めかしい建屋が多い。工学部2号館は古い建屋を活かしたのはいいのだが、その上にのしかかるように新しい建屋が建つ。「旧館の3階から新館の4階に行くときが災悪ですね。一度、1階におりないといけないから」とは**さんの話。講演依頼は*月*日午後で快諾。

§

 made in Japan が安かろう悪かろう商品の代名詞だった時代があった。コピー商品もお手のものだった。アラジンの「ブルーフレーム」という石油ストーブが「暮らしの手帖」の商品テストで最良の評価を得た。ほどなく外観を似せた「ブルーファイア」という商品が市場に出た。「暮らしの手帖」はさっそくテストを行った。そして激烈な批判記事を書いた。紛らわしい命名、外観の見事なコピー。それほど似せながら、性能ははるかに及ばなかった。性能を実現しようという精神が感じられないと花森安治は怒った。その怒りは小学生だった読者が数十年を経てまだ忘れないほど強烈なものだった。

 朝刊トップにこんな記事が載っている。

 中国産の食品や薬品を口にしても大丈夫なのか。安全性が改めて内外で問われている。中米パナマでかぜ薬を服用した患者が死亡、北米ではペットフードで犬や猫が死に、それぞれ毒性物質が検出された原料が、中国企業のつくったものだったからだ。・・・(略)・・・
 北京市東部の市場では、麻袋に入った中国・東北地方産キクラゲが所狭しと並べられている。500グラムで10元(約150円)から30元(約450円)と開きがある。
 「安いのは薬で加工しているんだよ」。市場にキクラゲを卸す男性が声を潜めた。別種のきのこに硫酸マグネシウムや鉄くずなどを混ぜた薬品をつけ、本物そっくりに見せているという。
 中国での報道によると、06年3月に山西省で約100キロ、01年にも北京で約2800キロ、四川省成都で約3000キロの偽キクラゲが見つかった。工業用インクで着色したものもあった。食べた人は下痢や嘔吐(おうと)を催した。
 03年に安徽省であった偽粉ミルク事件は乳児が犠牲になった。中国メディアによると、229人の乳児が栄養障害になり、うち12人が死亡した。でんぷんに香料を混ぜた粗悪品だった。

 中国に出張を繰り返していたころ、住商の**さんからよく「韓国は日本の十年前、中国は日本の二十年前」と聞かされた。しかし中国の現状はそれよりはるかにすさまじいようだ。かつての「向前看(未来に向かって)」はいまでは「向銭看(銭に向かって)」になったという。(どちらの言葉も「シャン・チェン・カン」と発音する由)

 フリードマンを復旦大学が名誉教授に迎えたことに見えるように、いまや中国はアメリカ以上の市場原理主義国だ。金を稼ぐためならば、バカと貧乏人を踏み台にすることには躊躇しない。新自由主義者たちは三倍の価格差のキクラゲの安全性など論評するも愚かだと嘯くだろう。それが「賤民資本主義」というものだ。その提唱者たるフリードマン大先生は宣もうたそうだ、「資本主義の世界では儲かるときに儲けるのがジェントルマンだ」と。つまり「賤しい儲け」であろうがなんだろうが儲けは儲けだというのが、その主張の根本だ。

 BSE牛肉を輸出して恥じないアメリカと中国の違いは単なる洗練度の違いに過ぎない。(5/21/2007)

 陽射しは強いが湿度が低いのだろうサラリとしている。秩父の山稜の輪郭がくっきりしている。春というよりは秋のような天気。安松神社の境内まで行った**(家内のいとこ)さん、戻ってくるなり感激の体で、「富士山、きれい」とひとこと。自分の手柄でもないのに、「どうだい」と自慢したくなるのが可笑しい。

 **(家内のいとこ)さんは**(家内)と11時前に出た。ギリギリまで末廣で笑ってゆくのだという。おとといは鈴本。本当に寄席の好きな人だ。

 静かになった家に一人。「エセー」をあちこちとつまみ読み。(5/20/2007)

 **寺で**(父)さんの三回忌と**(祖母)さんの三十三回忌。シンガポールから一時帰国中の**さんも出席。もう70を過ぎたはずだが、会社をたたんで帰国する気はさらさらないらしい。**さんとのやりとりが横峯さくら親子のそれに似ていてすごくおかしい。

 **(祖母)さんが亡くなった日。デバッグルームから戻ると、「さっき、おうちから電話があって、お母さんがお亡くなりなりましたって・・・」とのこと。**(母)さん、「戻りましたら、母が亡くなったとお伝え願います」と言ったらしい。あれから32年になるのか。通夜も告別式も新座の家でやったことを憶えている。**さんの話ではお手伝いでてんてこ舞いした由。**のうちまで呼ぶのは今回が最後になると思う。

 ひとつ、肩の荷を下ろした感じ。「ご苦労さん」と、自分にひとこと。(5/19/2007)

 愛知の長久手町で離婚した元妻の家に男が立てこもり銃を乱射、最初に駆けつけた警官が撃たれ、救出のため現場に待機していた機動隊員が銃撃されて死亡する事件が発生した。犯人は夜になって投降、逮捕されたところ。

 死亡した林一歩巡査長は23歳。6年目というから高卒、警察学校を首席で卒業、一昨年4月に機動隊に配属、その10月には特殊部隊(SAT)に編入、昨年夏には長女が生まれたばかりとか。これだけ条件がそろえば、警察としては一番派手に顕彰したい例であろう。

 とすれば、いつでも票が目当てでしゃしゃり出る我が宰相、舌なめずりして葬儀に参列しそうなものだが、どうするのだろう。こんどは殉職者の名前も憶えずに出向いて赤っ恥をかくことのないように祈りたいところだが、とかく暴力団絡みとなるといろいろと差し障りがあるといわれる安倍のことだから今回は見送るのかな。せっかくの売名のチャンスなのに。

 閑話休題。例の首切り少年、警察の取り調べに対し、「戦争が起これば人を殺せるのに、戦争が起きないから、いま人を殺してしまおうと思った」と供述している由。ネットの掲示板に跳梁跋扈する感覚だけの連中がいいわけに使いそうな言い種。おそらく自分で自分のことがよく分かっていない、自分が何も分かっていない子供であるということすら分かっていないのだろう。(5/18/2007)

 火曜日の朝刊に「日本国憲法の改正手続きに関する法律」の要旨が掲載されていた。

 確認したいことに関する条文を探すが見つからない。最近の法律には法文独特の臭みのようなものはあまりない。しかし逆に素人目にもバランスが悪い。企業に限らず、政府・官庁もヒラメ型の人物ばかりがのさばっているからかもしれぬ。そんなことは時代を選ばぬ話とすれば、往事の宰相はそれなりの人物だったからヒラメにも品格があったのだろうということになる、呵々。

 探し物は「第6章 憲法改正の発議のための国会法の一部改正」のところにあった。国民投票法の第151条として、国会法の第6章に第68条の2から6を加え、第68条3に「前条の憲法改正原案の発議に当たっては内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする」とある。たしかにまとめてひとつ一括投票とするほど乱暴ではないとしても、「内容において関連する事項」という文言の解釈如何ではいくらでも抱き合わせ発議が可能になる。些末になることを防止したいとすれば、基本を「個別条文ごと」にした上で、一定要件をあげて「関係条文をまとめる」ことを許容するくらいが妥当だろう。

 そういえば、各地の住民投票条例の策定に際して総務省(旧自治省)は一貫して慎重姿勢をとり続けてきた。やむを得ず認める場合は必ず最低投票率を設定させ、それに満たない場合は開票させないことを指導してきた。それが今回は一転して最低投票率規程を織り込まなかった。おそらく、いくつかの住民投票に際して自民党が行った卑怯な投票ボイコット戦略のこと――誰でもすぐに思い出すのは空母艦載機の岩国基地移転問題吉野川の可動堰建設に関する住民投票などだが――が頭にあったからだろう。なんとまあご都合主義であることか。

 じつに散漫な条文ばかりが続く中で、国民投票に関する賛成・反対運動に関してはあきれるくらい神経質にあれこれと禁止事項を定めているのがバランスを欠いていて可笑しい。(この過剰なほどの禁止条文の列挙は裁判員法にも見られる。おそらく「国民に意見を聞くこと」も「国民に裁判に関わらせること」も額面通りの目的ではなく、自由な意見表明をできる限り押さえ込むことが本来の目的であるからに相違ない)

 それよりなにより嗤えるのは投票権を18歳以上と規定した上で、付則の第3条に「国は、この法律が施行されるまでの間に、年齢満18年以上満20年未満の者が国政選挙に参加することができること等となるよう、選挙権を有する者の年齢を定める公職選挙法、成年年齢を定める民法その他の法令の規定について検討を加え、必要な法制上の措置を講じるものとする」と書き、それができるまでは「満18年以上」とあるのは「満20年以上」と読み替えるとしていること。ならば、なぜ、それらの改正を先にやらないのだ。単細胞宰相が「とにかく改正」と拙速を指示しているがために、こんな付則をつけねばならなくなったのだろう。これほど恥ずかしい法案を内閣法制局はよく了承したものだ。そこまで腰抜けのヒラメばかりになったのか、情けない。(5/17/2007)

 夜のニュースでフランスの大統領就任式の状景を報じていた。サルコジはずいぶん背が低いようだ。シラクと並ぶシーンがあったが、ほぼ首一つ違う感じ。

 歴史のエピソードに従えば、小男で野心家というのはどうも始末に悪い奴が多い。スターリンはシークレット・ブーツの愛用者だったし、ヒトラーもゲッベルスも身長にコンプレックスを抱き続けていた。そうそう、ナポレオンも小男という話が伝わっている。さらに書けば、スターリン、ヒトラー、ナポレオン、ともに生まれはグルジア、オーストリア、コルシカ、つまりそれぞれの国の辺境、いわば「本流」ではなく「傍流」地域の出だ。身長と出身に関するコンプレックスが政敵を容赦なく叩いてのし上がるエネルギーになったのだろう。サルコジもハンガリー系の移民の子というから、少しばかり気味が悪い。もちろん、これはいまのところただの偏見。

 彼のウィークポイントはいまのところ夫人のセシリアといわれている。もともと夫人とサルコジはそれぞれの家庭を捨てて一緒になったのだが、夫人はサルコジの度重なる浮気を理由として一昨年支持者の実業家とニューヨークに駆け落ちするというスキャンダルを演じた。今回の選挙でも夫人は棄権したばかりか、当選後の演説会場にかなり遅れて現れた。前回のスキャンダルを描いた本の出版は内務相の地位を利用して圧力をかけたサルコジ、今回はシンパのメディアオーナーに手を回して報道させなかったという話。こういう「依頼」は得てしてあとで高いものにつくのだが、現下の情勢では「好感度制御」はサルコジブランドの重要な戦略らしく背に腹は代えられなかったのかもしれない。

 ならばさっさと面倒な夫人とは別れて、ヒトラーのように禁欲を貫くのが最良の戦略なのだが、サルコジの野心、どの程度のものか?(5/16/2007)

 けさ7時頃のことだったという。会津若松署に市内の県立高校に通う少年が「母親を殺した」と自首した。その際、持っていたバッグには母親の頭部が入っていた。少年は午前1時頃に母親を殺し、5時頃に近くのインターネットカフェへ入り、時間をつぶしてからタクシーで警察に向かったという。きょうはその母親の47歳の誕生日だった由。心の奥底がひんやりとする話。

 先週開設されたばかりの熊本の赤ちゃんポストの第一号は赤ちゃんではなく3歳くらいの男の子だった。子供は「新幹線で来た」と言っている由。政府関係者(塩崎官房長官と柳沢厚労相)はこちらの方についてのみ「あってはならないこと」とコメントした。「あってはならないこと」などという言い方をされると松岡農水相のようなことは「あってもいいことなのか」と言いたくなるが、所詮、この内閣の美意識は庶民離れしているから、苦笑いする他はないのだろう。(5/15/2007)

 国民投票法が参議院本会議で可決され成立した。憲法改正の手続きを定めることに異論はない。いわゆる「護憲派」のほとんどは改正手続きを定めることそのものに反対しているようだが、それは戦後一貫して「護憲・平和」の看板を上げた一派の迷妄だ。愚かさのために彼らは一貫して「戦術」を誤り、一貫して「敗北」し続けた。そのためにどれほどまっとうな政治活動が歪められ、迷惑したことか。

 憲法の改正手続きを定めることに限っていえば、それは「改憲」でも「護憲」でもない。そういうごくごく当たり前のところでつまらない「条件闘争」を行っていては、肝心なこと、つまり、現行憲法のどこにどのような問題があるのか、そしてその問題はどのような論理によって憲法を改正することにより解決されるのかという議論に行き着く前に疲れてしまいかねない。

 いまやこの国は衆愚政治に陥っている。郵政解散のようなばかばかしいお芝居に三分の一近い国民がだまされて、「郵政改革」の鍵一本渡しただけで、残りの部屋までいいように蹂躙されるに至った。にもかかわらず、ネットのそこここには、ごく常識的なことも心得ず、ほとんど何も深く考えたことすらないとおぼしきバカ者たちが、あーだ、こーだと一人前のつもりで愚見を書き散らしている。

 しんどいことだが、あのバカ者どもにどのように考えるための基本的な材料を心得させるか、そこから話を始めなくてはならない、それが現実だ。そういうときに「平和憲法を守るために、憲法改悪を目指す、国民投票法に反対しましょう」などという、非論理的で情緒的な訴えかけをすることは話をややこしくするだけ、百害あって一利なしだということが分からないとしたらバカ以下だ。

 もっとも、成立した国民投票法の支離滅裂ぶりは現在のこの国をそのまま写していて、そのバカバカしさにも涙が出てくる。鶴田浩二の歌が懐かしく聞こえてくる。・・・スジの通らぬことばかり、右を向いても左を見ても、バカと阿呆の絡み合い・・・。(5/14/2007)

 9日の品質セミナーの後、講師連と杏花飯店で反省会を開いた。**さんが次回は東大の**先生を招く予定だというと、横に座っていた**君が袖を引くようにして「うちを辞めて一橋の先生になった人がいるじゃないですか。あの先生の話が聞きたいんですよ」と言った。いろいろ話をするうちに「失敗の本質」をまとめた野中郁次郎のことと分かった。

 思い出して、けさ、本棚から取り出してきて読み出したら止まらなくなった。

 きのう書いた「士農工商コンプレックスの昇華」の一つの側面を表す言葉を見つけた。

 なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。一方、辻政信はソ連軍について、薄ノロと侮ったソ連軍は驚くほど急速に兵器と戦法を改良し、量において、質において、運用において日本軍を凌駕した、革命軍の大きな特色というべきだろう、と述べている。

 半藤一利は「ノモンハンの夏」の注記の中で、このジューコフの言葉を「あっぱれな正答」と書いた。半藤はその本の「あとがき」の中では辻政信を議員会館に訪ねた印象として「現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた『絶対悪』が、背広姿でふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった」と書いている。

 ジューコフの言葉はいまのこの国にも通用する。個別の企業では現場から中間管理職・トップ経営者まで、国家体制では行政末端から政治家まで、みごとに優秀から無能へと分布している。我が宰相などはその典型で、誰もそのことを否定しないだろう。

 上の文章は次のように続いている。

 満州国支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには高度に進化した組織であった。しかし統治機関として高度に適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれたとき、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起こしたのである。
 中国侵略そしてその植民地的支配の過程で、日本軍の戦闘機関としての組織的合理化は妨げられ、逆にさまざまな側面において退化現象を示しっつあった。このような退化現象を起こしつつあった日本軍の側面を初めて劇的な形で示したのが、ノモンハン事件であった。

 じつは戦後の日本は満州国人脈が大いに関わって作り上げた国だ。つまり関東軍の適応性が軍務を離れたところで発揮されたと考えられぬこともない。しかしいま「軍隊本来の任務に直面し」つつあって「新しい環境」に再適応しなければならない時を迎えているとすれば、満州国型国家建設をそのまま役立てられないことははっきりしている。満州国人脈には誰がいたか。満州国型国家建設の中心は誰であったか、我が宰相の祖父、昭和の妖怪、岸信介、その人だ。(5/13/2007)

 **さんからのメールに返事を書くうちに、「保守主義」の対象とすべきものについてまとめておきたくなった。いったい近代日本はどこで失敗をしたのだろうか、それをあまりあれこれ説明せずにすっと伝えられるくらいに整理しておくこと。

 一言で言えば、元和偃武以来の太平は広い意味での「社会資本」をこの国に蓄積させた。士農工商の身分制度とそれを忠実に反映しない経済的境遇さえ近代国家への転換にあたってはプラスに作用した。回り舞台を回す力(エネルギー)と回す気持ちを支えるだけのものを「江戸時代」が準備していてくれたのだ。明治の近代化は江戸の豊穣の賜物であったと思う。アジアの一隅の小国が悠久の歴史を持つ国を差し置いてあっという間に一等国に成り上がった奇蹟はそのことで説明できる。

 苗字、帯刀(国民皆兵=軍隊での)、国家奉仕は、下層民の「武士コンプレックス」をみごとに近代国家における国民意識へ昇華するものであった。日清、日露の両戦争は、内実はどうあれ、華々しい成功体験になった。いまだにその夢から覚めぬ者がいるくらいに。

 成功体験から過たずに教訓を抽出することは存外難しい。明治の近代化の成功が江戸期の基礎から導かれたものであったとすれば、昭和前期の壊滅的な失敗は明治のきらめくばかりの成功から上澄みのみを取り出した結果がもたらしたものだ。ついでに書けば、昭和後期の一点豪華主義のごとき成功は、ちょうど鍋物から灰汁を取り去るように、明治の成功の上澄みを捨てて得られた結果と言えぬこともない。そうだとすれば、その「灰汁」をもう一度昭和後期の成功にブレンドしようとするがごとき最近の傾向は愚の骨頂ということになる。

 この国の愚かな自称保守主義者たちは明治の成功の上澄みを回帰すべき伝統と思っている。そんなアブクを後生大事にしたら再びこの国は高転びに転ぶだろう。保守の対象たるべき伝統を求めて、どこまで視野範囲を拡げるか、そしてなにをどのように評価選択するのか、それが本当の意味の保守主義に求められている時なのだ。(5/12/2007)

 米原と京都との間に「南びわ湖駅」なる新幹線新駅を作る話は中止の方向でほぼ確定しそうだ。

 地元負担でむりやり建設した新幹線駅がほとんど軒並み「お荷物」駅になっている現状を見れば当たり前の話。その「当たり前」がなにやら「快挙」のようなニュースになるのはひとえに愚かな政治屋が愚かな選挙民と卒倒せんばかりの音痴デュエットを歌い続けてきたからに他ならない。

 卑しい政治屋の巣窟たる自民党は、先月の滋賀県議選で27の議席を半分近い16に減らすという大惨敗を喫した。未だに利権・口利き政治を唯一の本業とする寄生虫どももやっと目が覚めたらしく、やっときのうになって「限りなく中止に近い凍結(何を言いたいのだ)」を打ち出している嘉田知事にすり寄ることに決めた由。

 記事に書かれた寄生虫どもの捨て台詞を記録しておく。「知事は早急に栗東市や関係者と対話を進め、土地区画整備事業等を含めた総合的な解決策を示すべきだ」、「我々はその解決策を指示する」、「知事の解決策に条件はつけない」、「知事と関係市長でつくる新駅設置促進協議会で10月末までに結論が出ない場合は、JRとの協定は自然消滅し駅建設は中止となるが、それを受け入れる」。メンツを気にしながら、過半数割れの現実の前に不承不承現実を認めねばならない悔しさがにじみ出ていて嗤える。

 そういえば、先月末には知事に対して「長崎のような目に遭いたくなければ、新駅を造れ」という脅迫電話をかけた者が現れた由。長崎市長銃撃事件の折、お得意の「毅然とした姿勢」ではなく、お得意はお得意でも身内の不祥事の際に使う「捜査当局は厳正な捜査を」ていどの話でお茶を濁した安倍自民党のことだから、こんな脅迫電話をかけるくらいの卑怯者、党内とその周辺にゴロゴロいるのかもしれぬ。とくに夏の参院選に向けで嘉田知事の存在は目の上のたんこぶ。できるならいなくなって欲しいというのがホンネだろう。

 ところで、新駅建設促進派の「彼」にしてみれば、ちょいと数を減らしたくらいで妥協するこんな腰抜けの県連は「裏切り者」に違いない。ならば、どうだ、まず「獅子身中の虫」から屠ってみては。近頃の右翼は教養に欠けるようだから、その時、叫ぶべき言葉を教えてやろう、「君側の奸、除くべし」だ。

 村岡元官房長官に逆転有罪の判決。「何も足さない、何も引かない」というのはサントリーのコマーシャルだったが、この控訴審も同様の状態で、一審は無罪、二審は有罪。こんな裁判がまかり通る状況で裁判員制度が導入されるというのだから、もう嗤ってしまう。もっともこの手の裁判こそ裁判員制度の導入効果が期待できるはずなのに、この手の裁判には適用されないというのだから、今度は絶句してしまう。(5/10/2007)

 5月の初旬から中旬にかけて、こういう日があるものだ。「小春日和」の発想法で名付けるなら「小夏日和」とでもいいたいような陽気。

 ひょっとするとなにかで読んだものが記憶の海の底にたまって、自分の思いつきのことのように浮かんできたのかもしれないと思って検索をかけてみた。「小春日和」、これを沖縄では「小夏日和」と呼んでいるらしい。小春日和が「夏日」になるほどに暖かい地方では、この方がぴったりくるのだろう。しかしここ埼玉ならば、皐月のこの陽気こそ「小夏日和」と呼んでも罰は当たるまい。

 そう、きょうは**(弟)の誕生日だった。小学校に上がる前の年、覚南荘から南明町の家に引っ越したばかりの頃、あいつは生まれたのだった。花曇りの少し憂鬱な気分の日だったような気がするが、それが生まれた日だったのか、それとも初めて病院で産後の**さん(母)に会った日だったのか、もういまははっきりしない。まさかオレより先、親よりも先に、早々と逝くとは思ってもみなかった。(5/9/2007)

 安倍首相が靖国神社の春の例大祭に真榊を奉納した由。昨夜からのテレビニュースの映像で見ると、本殿への階段脇に白木の「内閣総理大臣 安倍晋三」の立て札を添えておかれている。「内閣総理大臣」の肩書きをつけることが安倍の意思であったのか、何につけ「権力」に近いことを誇りたがる招魂社以来の心根を持つ靖国神社によるものなのか、いずれであるかは分からない。

 しかし、これほど天醜爛漫、これ見よがしにしておいて、「奉納したか、していないのか、申し上げることはしない」という例のバカの一つ覚えを繰り返すのはもはや児戯に類する。この伝でゆけば、参拝に出向き昇殿する映像がオンエアされても、「参拝したか、していないか、申し上げることはしない」ということも可能になる。下賤の者は堂々と万引きするがいい。咎められたなら、暗愚の宰相が案出した「おまじない」を唱えればよいのだ、「万引きしたか、していないか、申し上げるつもりはない」と。言い逃れることもできるかもしれぬ、むろん保証はせぬが、呵々。

 誰の目にも見えているのに、「したか、しないか、申し上げない」。どこかあの有名な童話に通底するものがある。「王様は裸だよ!」、「そうだ、王様は裸だぞ」、「そうだ、そうだ、裸の王様だ」。子供の目が格別鋭かったわけではない。最初にそれに同意した大人が非国民だったわけでもない。詐欺師に乗ぜられた王様の醜態をそのまま言葉にしただけのことだ。見えたままを語る勇気を持っていたと言ってもよい。

 周りを見回してみる。誰もが腹の中では「屁理屈ばっかり、バカな奴だ」と思っていように、「総理はバカだよ!」、「そうだ、安倍総理はバカだぞ」、「そうだ、そうだ、バカな総理、安倍晋三だ」という声は聞こえない。あんな屁理屈が世渡りの知恵だとでも思っているのだろうか。その程度の国か。誰も勇気を持ち合わせていないようだ。その程度の国なのかもしれない。(5/8/2007)

 どこで聞いたのか読んだのか記憶がないが、ナポレオンの母は「人は命ずることよりは命ぜられることを好むものなのだよ」と息子に教えた由。息子が皇帝になることに反対し、戴冠式にも出席せず、「皇太后」の称号も拒否したと伝えられるほど個性の強い女性だったというから、これくらいのことは言ったのかもしれない。

 従うことが大方の人間の望むことだとするならば、限りない権力欲を持った者にとって民主主義という制度はじつに有望な制度だということだ。それでも反民主的な連中が民主主義が「使える制度」であると実感しこれを「使いこなす」のに百数十年を要したのは、一票を持つ者たちが持つ賢明さの平均値を買いかぶっていたからだろう。

 命ぜられることを好む人々の知的水準はじつはそれほど高いものではないらしい。だから比較的単純な騙し文句を使えば、羊たちを手なずけることは存外たやすいということは、いまや公知の事実となった。つまり民主主義は、民主主義など最初から信じることも尊重することもしてもいない連中にとって、恐れたり批判するものではなく、何とも手軽で使いよい絶好の道具であることが確認された。

 五大国のうち二つの国のトップを女性がつとめる時代に、非論理的な期待を抱いていたのだが、残念ながらそれは当分の間、「夢」となった。フランスの大統領選挙の結果。サルコジの勝利。投票率は847%(前回:81%)、サルコジの得票率は53.06%、ロワイヤル46.94%、その差は約220万票。

 サルコジがこの選挙戦で用いた騙し文句を記録しておく。「もっと働き、もっと稼ごう」。サルコジに投票した人々のうち、少なくとも半分ぐらいは彼の任期が終わる頃には「よく働いた、しかし稼ぎはなぜか増えなかった、そして暮らしを支えてきた心の豊かさは個人からも社会からも決定的に失われた」という感想を持つことだろう。

 狡猾なサルコジの言葉をもう一度繰り返してみるがいい。「もっと働き、もっと稼ごう」、そこで終わっている。その先、「もっと稼いで、もっと豊かになろう」とは言っていない。それはおそらく「もっと豊かになる」のは「もっと働く」人自身ではないからだ。多くの「カモ」が「心の豊かさ」を犠牲にして稼ぎ出したカネは、「カモ」たちの懐にはとどまらず、既に豊かである階層のポケットに入ってゆく。それが新自由主義のからくり。サルコジは腹の中で嗤っている、「騙されるおまえたちがバカなのだ」と。(5/7/2007)

 少し暑いくらいの陽気。どこにもゆかず、なにもせず、先週から、拾い読みをしている米原万里の「打ちのめされるようなすごい本」とおつきあい。読みたい本がどんどん増えるのは困る。「早く来い来い定年の日」だ。第一部は週刊文春に連載していたらしい「私の読書日記」。

×月×日
・・・藤原弘達が「創価学会を斬る」(日新報道)で、すでに40年近くも前に、「もし自由民主党が過半数の議席を失うというようなことになった場合、公明党に手をさしのべてこれとの連立によって圧倒的多数の政権を構成するならば、そのときは、日本の保守独裁体制が明らかにファシズムへのワンステップを踏み出すときではないか」「ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ」と予測しているのには驚いた。・・・

 きょう、いちばん、慄然とした一節。本当に惜しい人を亡くしたものだと思う。米原も卵巣癌、しかも明細胞腺癌だったという。初診の時期の問題もあったのだろうが、いい医者に会えたかどうかも結果を分けたのかもしれない・・・、などと思う。

 週刊文春の読書コーナーには、その昔、「風」の書評欄があった。後に「風」は百目鬼恭三郎のペンネームと知れた。だから、新潮は侮ってもよいが、文春は侮れないのだ。

 ・・・と、ここまで書いたところで、**(家内)、「おトウ、風呂沸いたから、入れ!! きょうは、いちにち、な〜んにもせんと」と軽く一発。(5/4/2007)

 **(次男)の誘いでライオンズ−バッファローズ戦を観戦。家族全員で見に行くのはずいぶん久しぶり、と、思ったら去年も7日に対ホークス戦を見に行っていた。

 試合は0−5のビハインドをひっくり返して15−6でライオンズの勝利。贔屓の勝利に気分をよくしたせいもあって、ドーム球場から帰る道々、ああ、平和だなぁ、有り難いことだなぁとつくづく思った。できるなら、**(長男)や**(次男)の孫も連れて、ちょうど**(父)さんや**(母)さんと一緒に、応援の小旗をもって観戦に来たあの時のように・・・。

 **(長男)がしきりにこんなことを言う、「ちょうど20年前のきょう、見に来たんだよ。ブーマーのデッドボールで乱闘があったとき、おトウがさ、ものすごい声でブーマーをやじったんだ、その日は三塁側にいたから周りはほとんど阪急ファンなのに・・・」。全然、記憶にない。帰って日記帳を開いてみた。

5/3(日) 晴
 最初森林公園へ行く予定だったのだが、朝のうち天気がハッキリせず時間がたってしまい結局西武球場へ西武−阪急戦を見に行く。渡辺−佐藤の投げ合いで延長12回3対3の引き分け。阪急先行に西武が常に追い付く展開でなかなか面白いいい試合だった。
 40回目の憲法記念日。「それにしても久しぶりに読む憲法の条文はなんとすがすがしい文章であろう」・・・これが同和研修のレポートを書くときに久々に読んだ憲法の印象である。今朝の新聞によると政府は71年以来公式主催行事を行っていない由。国旗掲揚、君が代に執着する政府が・・・である。政府そして自民党の言う愛国心とは高々この程度のものなのだ。また、裏を返すと日の丸も君が代もこういう構造の中で重視されている道具だということになる。

 あとは野球のことも、その他のこともあっさり。その翌日の日記はこんな風になっている。

5/4(月) 晴
 **(家内)は**(友人)さんの引越し手伝いに。子供達は野球を見に行くと言ってきかない。連日の野球観戦となった。10時頃うちを出たにもかかわらずかなり外野よりの上段の席だった(そのはず今日は西武球場開設以来最大の5万人の入りだったとか)。郭のできが悪く1対6で負け。
 昨夜朝日新聞の阪神支局へ散弾銃を持った男が押し入り居合わせた記者二人に発砲して逃走、一人が死亡一人が重傷。今日現在背景その他は不明。当然予想されるのは右翼テロなのだが、警察は日頃に似合わず慎重。

 あれから20年になるのか。あの当時は本当の意味で「テロへの怒り」があったが、最近は「テロとの戦い」という上っ調子な言葉はあっても「テロへの怒り」などはなくなったようだ。ネットには「朝日ならやられて当然」という言葉が平然と歩き回っている。

 孫を交えて一族で野球観戦ができる、それに象徴される程度の平和を望む陋巷の民の願いを時代はかなえてくれるだろうか。最近の風潮では、少し、難しそうな気がするのは杞憂か。(5/3/2007)

 朝刊に「昭和天皇『拝聴録』あった」の見出し。拝聴録とは76年に入江相政侍従長が戦前・戦中などの回想を聴き取ったもので、限定された目的のもとに占領中に録取した寺崎英成らによる「独白録」とは質・量ともに上回るものである由。ただ宮内庁は従来「そもそも存在しない」としてきた。しかし、先週、話題になった「卜部日記」にその存在が記載されているという。以下、メモ。

 88年5月23日「侍従長と表御服所に赴き入江侍従長の『拝聴録』を探索す、断念しかけたが最後にキャビネット最下段から発見、内容確認しリストを作り元の場所に収納」。(同月同日の富田メモにも「山本侍従長 入江聴書、発見(略)徳川失念か(徳川が侍従長cabinetより移させた)」とある由)。

 89年8月4日「宮殿表御服所へ 『拝聴録』の所在確認すれどなし」とあり、96年2月2日、徳川義寛参与(元侍従長)が死去すると、再び所在確認が課題となった。その後、捜索したが、なかなか見つからなかった。

 そして香淳皇后死去の翌年の01年2月7日「皇太后宮職の車で吹上へ、全員集合、徳川ご遺族から返還された鞄の中の資料を点検する 問題のいわゆる『拝聴録』コピーとも出てくる やはりという感じ、その他は御引見の資料 お言葉ぶりなどですべてコピーなので破棄処分に」の記載。

 記事には「再発見」の語が使われているが、徳川家遺族から変換されたのは「コピー」とあるから、「再発見」というのは適切ではない。だが原本たる「拝聴録」が存在している(いた)ことは疑いない。記事にあるように「皇居内のどこかに保管されている可能性は強い」と言える。考えにくいことだが論理的には原本は徳川義寛が持ち出し徳川家が保管している、ないしは、義寛が処分した可能性もゼロではない。

 基本的に「拝聴録」は公開すべきだ。宮内庁がつける屁理屈は分かっている。「私事のメモなのだから公開するのは適切ではない」、こんなところだろう。しかし自ら記録した日記ではなく、公職たる侍従長の手を煩わせて記録したものとなれば、それは私的なものではないし、そもそも天皇は私人ではあり得ないのだから。

 仮に宮内庁が伝統的なサボタージュを決め込み「拝聴録」が公開されなくとも、このニュースには十分な価値がある。富田メモや卜部日記の記載から昭和天皇の靖国参拝取りやめに関する事情が明らかになったとき一部メディアや評論家はそれまで自分が主張してきたことの土台を失って醜態を晒した。「拝聴録」の対象は戦前・戦中ということだが、これらの時期の天皇の肉声が伝われば主にそういう勢力が組み立ててきた「神話」は相当の影響を受けるかもしれない。サンケイ新聞やその取り巻きたる正論文化人などは端からプライドなど持ち合わせていない輩であるからどうということもあるまいが、少なくとも研究者の看板を上げて多少ともそれを大切にする気のある人々にとっては「拝聴録」の存在は手前勝手な嘘をつくブレーキにはなるに違いないから。(5/2/2007)

 (家内の田舎にて)

 朝のうちは晴れ上がって気持ちがよかった。頭上に飛行機雲が一筋。目で追う先が、自衛隊の練習機なのか旅客機なのかは判別できない。音も聞こえないから航空を巡航しているのかもしれない。まさに「世は事もなし」だ。

 リモコンの電池がことごとくへたっている。**(義父)さんの寝室のテレビリモコンの電池は液漏れ。ローソンまで買いに出る。広い駐車場に車が二台。高校生くらいの男の子が出てきた。睨み付けられたわけではないが視線は心なしかきつい。「どこの人だろう?」と思っているのだろう。

 いつもは見ない「サンデープロジェクト」。きょうのテーマは3つ。@原発のトラブル隠し、A宮崎県綾町(タイトルはもうそろそろゲップの出そうな東国原知事インタビュー)、B浦和レッズ(こちらはプロ野球危機がテーマでその対策としての「地方密着」の一例にレッズがあがったということ)。

 まず最初。中身はゼロ。体裁は田原総一朗が電気事業連合会副会長の桝本ナニガシに問うというものだが見え見えのお芝居。電事連がテレビ朝日の番組枠を買い取ったようなもので、どれほど日本の原子力発電が腐っているかが如実に分かった。桝本は志賀原発の事故について「何本もある中の3本が臨界に近くなっただけで制御不能になったものではない」と繰り返していた。圧力容器の蓋が開けられた状態で発生したことについては口をぬぐっていた。公開、理解、・・・、美辞麗句を並べるが、素人など騙せば勝ちだとその顔に書いてある

 次の綾町の話は面白かった。「夜逃げの町」とあだ名された町。四半世紀のあいだ町長を務めた郷田實。町長に就任するや当時有力な収入源だった森林の伐採を禁じ、黄金の鮎と呼ばれる特産品のために川を守る。そして有機農業に活路を求める。60年代のことだ。その先見性は素晴らしい。広葉樹林の育成を始めたときの言葉、「他の町と同じことはしない」。

 そして浦和レッズ。昨年の一試合あたりの集客数、レッズはジャイアンツを抜き、タイガースにわずか及ばない数字。レッズは三菱自動車の出資比率をあえて下げ、既に損失補填契約を解除している由。それを支えるサポーター制度の開拓、地元密着を目的として小中学校のクラブへの選手の無料派遣などの地道な活動。バイエルン・ミュンヘンの活動を知るための提携。

 AとBには共通点が多い。明確に目指すものを設定し、そこにゆくための方策を徹底的に自分に即して考えるということだ。イベント屋やコンサルタント屋の「**の起爆剤」とか「**情報を発信してゆく」などという手垢のついた浮ついた「他所と同じ」からの訣別。(4/28/2007)

 朝刊トップは晩年の昭和天皇に侍従として仕えた卜部亮吾(02年3月死去)の日記に関するもの。

 なんといっても興味深いのは昨年7月に日経が伝えた富田メモの内容を補強する記述があること。富田メモが「私は、或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取(ママ)までもが、/筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが/松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と/松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている/だから私あれ以来参拝していない、それが私の心だ」と昭和天皇の声を記した、同じ88年4月28日、卜部は次のように書いている。

 10時半すぎ宮殿へ 藤森次長を表御座所棟各室案内 主階のみ、お召しがあったので吹上へ
 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと。

 卜部はこのくだりにわざわざ赤線を引いている由。相応する記述は自らの死の床での記述にも見える。

平成13年7月31日
 ・・・(略)・・・10時昨夜予約の入った朝日の岩井記者来 応接間にて会う。
 予想どおり靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず
 50/10/21が最後 このとき戦没者墓苑にも行幸啓あり 三殿正式御代拝もこの年で変更に
 30分くらいで辞去。

 ここまで事実が明らかになれば、靖国右翼の妄言も止むことだろう。富田メモで彼らが受けた衝撃はかなり大きかったようで、それは件の記事を載せた翌日の深夜、日経本社に火炎瓶を投げた者がいたことでよくわかる。犯人は先週18日逮捕された。42歳の建設作業員、平岡元秀。サンケイ新聞の報道によれば、「昭和天皇を靖国神社問題の世論操作に利用したことが許せなかった」と供述した由。なかなか興味深い理屈で、暇な時にでも、「腑分け」してみたい。(「世論操作に利用」などという「高級」な論理展開ができるような知能を持ち合わせているなら、火炎瓶を「一本」だけ投げるような、愚かでショボいことなどしないものだよ。いずれ「誰か」の作文だろう)

 「富田メモ」に対する靖国右翼の反応は大別すると二つに分かれた。ひとつは「嘘だ!」というものであり、もうひとつはやけに回りくどい屁理屈だ。こんな具合、「A級戦犯全員の名前をあげなかった以上、全員を不快とされたのではない、したがって、合祀そのものを不快とされていたわけではない」。サンケイ新聞が苦し紛れに書いた「主張」の論理。サンケイ新聞らしいの頭の悪さ全開という体のものでおおいに嗤える。富田メモが恣意的なものでない限り、どちらもまっとうな判断力を持った人間ならば笑い飛ばすだろう。いずれにしても富田メモと平仄のあった証言が日記の形で出てきた以上、二つの主張は完膚無きまでに叩きのめされたことになる。

 けさから、マスコミはすべて、このニュースを報じた。ただ一つ、サンケイ新聞のニュースサイトのみこのニュースが載っていない。昨年7月21日に掲載した「主張」がボロボロになったことに困惑しているのかもしれない、可哀想に。

 卜部日記は来月から刊行されるという。朝日新聞に望みたいことがある。ボリュームは増えてもかまわないから原文をそのまますべて刊行して欲しい。入江相政日記のように部分的に伏せるというやり方は絶対にしないで欲しい。(4/26/2007)

 トヨタの1〜3月の世界における販売台数がついにGMを上回って首位になった由。対前年同期比で9.2%増の234万8千台。これに対しGMは対同期比で3%増ではあるものの226万台にとどまったからとか。朝刊の同じページには昨年度の自動車メーカーの生産台数と輸出台数が報ぜられている、国内販売台数は最近対前年比でマイナスと伝えられていたが、輸出が好調で日産を除く7社(トヨタ、ホンダ、スズキ、マツダ、ダイハツ、三菱、富士重)がプラスになっているのに、日産だけが、国内生産台数、海外生産台数、輸出台数のすべてで前年に比べて大幅に減少している。

 同じページのトップ記事、見出しは「ゴーン改革正念場/日産:国内販売が低迷」。きのう、日産は45歳以上の一般従業員1万2千人を対象に1500人の早期退職者を募るリストラ策を発表した。ゴーンが社長として再建に着手した99年以来8年ぶりになるとか。その原因について記事は「新型車の展開不足。04年度、05年度に集中投入した反動で、06年度は軽以外の新型車は2車種しか投入できなかった。だが複数の自動車アナリストは、より根本的な問題点を指摘する。『ゴーン・マジック』で急激な販売回復に力点を置いた結果、長期的視点でのクルマづくりがおろそかになったというのだ」と書いている。

 ゴーン流に注目が集まった頃、いまの日産にはキラー商品が必要だが、リストラの嵐が吹き荒れた会社にそれが可能か、それを克服するためにゴーンはどんな手を打つのかと思った。しかしそれは杞憂のようだった。ほどなく日産はいくつかの個性的なクルマを出し、みごとに回復したように見えたから。

 本来ならその上昇気流に乗らなければならなかったのだが、おそらくリストラの副作用が顕われたのだろう。新型車の開発には数年以上を要するらしい。04年、05年の新型車はゴーン改革以前に蒔かれた種が順調に稔り収穫できたから可能であったが、そのあとの種蒔きと稔りの準備にまでは手が回らなかったのかも知れぬ。昨年の収穫の少なさが単純な「風の息」ならばよいが、重ねて行うリストラが基礎体力に影響を与えることになれば、ゴーン・マジックは蝋燭の最期の瞬きだったことになりかねない。(4/25/2007)

 朝刊にはボリス・エリツィンの、夕刊にはデイヴィッド・ハルバースタムの訃報が載っている。

 エリツィン、ロシア連邦の元大統領。よほどの札付きでもない限り、死んだ当座は誰でも惜しんでもらえるものだ。だからマスコミはエリツィンをロシアに自由をもたらし、市場原理を導入し、改革を進めたと誉めあげている。たしかにエリツィンはソビエト連邦に引導を渡したその場に立っていた人だが、エリツィンが「ソ連」を終わらせたわけではない。実質的な意味で「ソ連」を終わらせたのはゴルバチョフだろう。1932年生まれの二人はソ連からロシアへの転換の両端にいた。クーデター騒ぎにおける役回りからエリツィンにスポットライトが当たることになったが彼がそれほどの人物だったわけではない。しかし歴史というものは時にこんな人物を里程標にするものだ。

 ハルバースタムといえば「ベスト&ブライテスト」ということになる。いまはなきサイマル出版会にとって最初のベストセラーだったのではないか。ちょうどマイクレックスの開発にかり出された頃、学生時代の反動から手当たり次第にこれと思う本を買い集めていた時期でもあった。カネは何とかなり始めたのにこんどは読む時間が自由にならない、世の中は本当にぐれはまなものだと思ったものだ。行き帰りの電車や休み時間など切れ切れの時間を継ぎ合わせて読んだ。一気に読ませるようなうまさがあったことを記憶している。もうひとつは「ザ・フィフティーズ」。有名なアレンの「オンリー・イエスタデイ」「シンス・イエスタデイ」の戦後版というイメージだったが、この国がしっかりアメリカの二十年遅れを歩んでいることを教えてくれた本でもあった。(4/24/2007)

 夕刊に長崎市長選の続報。記事によると15,453票もの無効票が出た由。「投票総数に占める割合は7.7%で、前回(2.4%)の約3倍」。確定票は、田上富久78,066、横尾誠77,113、その差は953票。記事は続けて、「市選管によると、1万4018票の無効票が出た長崎市中心部の開票所では、候補者以外の指名を記したものが7463票あった。大半は伊藤前市長への票で、事件が発生する以前に期日前投票で投じられたとみられる」と書いている。

 事件直後、久間防衛相が「選挙管理委員会が『選挙の公平が保てない』と判断した場合、延期するなどの方法を検討すべきだ」というようなことを言っていたが至極妥当な発言だったことになる。(彼は「仮に残された候補が共産党ということになったらどうする」などというつまらない尾ひれをつけたものだから、一部のマスコミはそちらに目を奪われたようだったが・・・)

 なるほど、「空気」として「同情票」が集まり横尾候補が「圧勝」してしまうのではないかという予想があったことは事実だが、展開によっては、伊藤が「大本命」であっただけに期日前投票による無効票が選挙の結果を左右しかねないことは予測しなくてはならなかったようにも思える。

 候補者が狙撃されても「当局による事件の速やかな解明を望む」などという寝ぼけた応答しかできぬ暗愚の宰相の下ではこのような「(右翼)テロ」が横行する可能性は考えておくべきだ。とすれば、そのような事態を想定した規定が必要だろう。(4/23/2007)

 市会議員の選挙。投票権を得て以降、はじめて、共産党に投票した。荒川ひろし。あえて書けば、党よりも人。うちがここに引っ越してきたときから市議をやっている。連続6期というから長い。普通、県議へと「出世」して行くものだが、党内事情なのか、パーソナリティなのか、そういう「上昇志向」を感じさせないところがある。それにしても、共産党に入れるようになるとは思わなかった。

 参院補選は福島が民主党増子輝彦、沖縄が自公推薦の諸派島尻安伊子で与野党は星を分け合った勘定。

 長崎市長選。殺害された伊藤一長の娘婿横尾誠がいわゆる「弔い合戦」で悠々当選と思ったは早計、元市職員の田上富久が当選した。

 その他では高レベル放射性廃棄物最終処分場に独断で名乗りを上げ行き詰まったあげく、信を問う策に出た田嶋裕起が反対派の沢山保太カに惨敗したあたりがめぼしい結果。おそらく国は東洋町を極端に冷遇することにより財政面からの「兵糧攻め」に出るだろう。橋本大二郎が知事でいる限りはまだしも、沢山は早急に知恵を絞らぬ限り、今回の当選は「ぬか喜び」になるに違いない。(4/22/2007)

 今週は「おおむね」趣味の一致する人の本を二冊も読めた。きょうの獲物は中野翠の「この世には二種類の人間がいる」。おとといの「スタンバイ」、「ブックナビ」で紹介されていた本。「それは、あのかたをヤワラちゃんと呼べる人と呼べない人だ」がドンピシャリだ。もっともこの章は他の章と違って、中野のオリジナルな指摘から書き始められているわけではないが・・・。

 というのは私が思いついたことではない。「週刊文春」に「ホリイのずんずん調査!!」という風変わりコラムを書いている堀井憲一郎さんの意見なのだ。
 オリンピック直後のことだった。堀井さんのそのコラムを読んでいて、私は頭の中で「異議なーし!」と叫ばずにはいられなかった。コラムの中に次のような一節を発見したからだ。
 あ、私「谷亮子をヤワラちゃんと呼ぶな浦沢直樹『YAWARA!』の猪熊柔をバカにしてんのか運動」を1人でほそぼそ12年続けておりますホリイです。ども。呼ぶなよ。あの人のどこがヤワラちゃんだよ。なんて言っても漫画知らない人には意味がないんですけどね。でも、谷亮子のことをヤワラちゃんと呼んでる人と呼んでない人で世界を分けてもらって、おれは呼ばない人たちだけと暮らしたいです。
 ほんとうにそうだ。ヤワラちゃんと呼ぶ呼ばないで世界を二分してみるという考えは、とても正しいことだ。少なくとも私にとっては、「男と女」「インテリと大衆」「新世代と旧世代」「保守とリベラル」「勝ち組と負け組」といった類いの分類よりもピンとくる。
 つね日ごろ私が世間に対して感じている違和感の大半は、このヤワラ式分類法で説明しきれるような気さえする。この世には「ヤワラちゃん」とスンナリ呼べる多数派と、何だかよくわからないが口にできない少数派がいる。それがすべてだ。・・・(以下、略)・・・

 中野は「YAWARA!」の読者ではない。だから堀井のように「どう見たって谷亮子がYAWARAに見えるわけがないだろう」というところにこだわっているわけではなく、「会ったこともない有名人を特製の名前で呼ぶことによって、自分のすぐそばにまでグーッと引き寄せて愛玩」したり、「有名人みずから愛称を提供し、自分をキャラクター化し、しろうと衆への接近をはかる」というその姿勢に対する違和感を書いている。それにはまったく同感するが、谷亮子をヤワラちゃんと呼ぶこと、そして谷亮子がそれに羞じらいもなくのっていること、それに対する生理的な嫌悪感の方が強い。

 その嫌悪感が昂じて、先週、谷亮子が全日本選手権で負けたと聞いたときには思わず快哉を叫んだし、負けておきながら図々しくも世界選手権代表に選ばれたと聞いたときには無性に腹立たしく、あの小賢しくもウザイ「ママでも金」などという自己PRが空振りに終わって、「ヤワラ時代」が永遠に去ることを心から祈るようになってしまった。

 もう一度書いておく谷亮子をヤワラちゃんなどと呼ぶな、猪熊柔はチャールズ・ブロンソンみたいな顔ではない、と。(4/21/2007)

 「スタンバイ」の「トークパレット」、週一回の「スタンバイ世論調査」、けさのテーマは「少年犯罪への厳罰化」の賛否を問うものだった。結果、賛成72票、反対34票、2対1で賛成が多かった。最近の情緒化の流れからはある意味必然の結果だった。賛成意見の中にこんなものがあった。「とくに『おおむね』というのがいいですね。何年か前に17歳問題が世間を騒がせたとき、その世代だった自分たちの間では『なんかするならいまのうちだよ』という冗談がはやりました。年齢にこだわるようなら『おおむね』にして曖昧にしておくのはいいことだと思いますよ」という意見。20代の男性ということだった。

 どうも最近おかしな社会になったものだと思っていたが、その理由がよく分かった。「大人になっていない大人が大多数を占めつつある」ということだ。

 彼には「法」というものの理解がかけらもない。子供は自分がまだ何も知らない子供であって一人前の大人ではないという自覚がある。ところがこの彼は、社会の基本的な仕組みを心得た上で意見が言えるだけのものを身につけてもいないにも関わらず、その自覚がない。自分をいっぱしの大人だと思っているらしい。キミはせいぜい「オドモ」だよ。

 彼には「曖昧に書かれた法律」というものがどのようなものか、どのように運用され、どのように無知な人間に牙をむくものか、分からないのだろう。「彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり」というところ。

 もっとも、最近、これほど正札付きの「おバカさん」が散見するようになると、オレも少しばかり主義主張を変えて、こういう「人材」こそ、便利に使い捨てする絶好のカモとして、骨の髄までしゃぶり尽くしてやろうか、などと思うようになってきた。(4/20/2007)

 教えられたハロルド・ピンターの「何も起こりはしなかった」を読み終えた。ぴったり波長があうはずというおすすめの言葉は正しかった。いろいろなところで発表された短文を集めているから、いくぶん繰り返しが多いのには閉口したが、ノーベル文学賞受賞者が、別にそうでなくともよい、あるレベルの仕事を残している人物が、自分の常日頃感じていることと同じような認識を持っていると知ることは、市井の生活者にはうれしい。

MB  講演そのものの内容ですが、藝術には確かな真実はないけれども、我々には自らの生活や社会の真実を吟味する義務があるのだというのが講演の主旨だと、私には感じられました。その意味で、イラクは分岐点になるのでしょうか。否定できない証拠、グアンタナモ、アブグレイブ――こういったもののせいで、世界中の人々が、現実がどんなものであるかに目覚めたということになるのでしょうか。
HP たしかに今では、私たちが実際にどんなことに対して責任があるのか、私たちの国がどんな行動をとったのかという点を、人々は以前よりも意識しています。それは何を意味しているのか、破壊とは実際には何なのか、拷問は実際にどんなものなのかといった問題ですね。たまたま私は、こういう問題に長年関わってきました。アブグレイブはもちろんですが、グアンタナモのような現象でさえも、別に新しいものではありません。前例はいくつもあるのです。私が講演で指摘したように、ここ五十年、あるいはもっと前から、アメリカの外交政策はある問題に――と言うより、ある問題だけに――かたくなにこだわってきました。つまり、「何が我々の利益になるのか」という問題です。
・・・アメリカ人の中には、この件で私に劣らず嫌悪感を抱き、恥じ入り、怒っている人が何人も何人もいます。講演の後で、私は大勢のアメリカ人から手紙を貰いましたが、一種の絶望感を表明している手紙がたくさんあったのです。それはそれとして、あなたの質問に戻ると、アメリカによる力の濫用を攻撃した結果、私は過去に大量の愚弄を浴びせられました。馬鹿呼ばわりされましたが、これはまだましな方でした。しかし、私たちが直面しているのが何であるのかは、誰もが知っています。長年の間、私たちはそれに直面してきたのだと、私は思います。
MB でも、それは肝腎な点です。と言うのも、あの講演の核心部分のひとつは、アメリカが他国の内政に干渉したことについてあなたが何度も使った、「そんなことは起こっていない」という言い方――ある種の事件を我々はいわば噴霧器で意識から消してしまったようだという、あの指摘であるからです。しかし、同じことをイラクについて言うわけにはいきませんね。毎日のように証拠が現れます。嘘や欺瞞についての認識が高まってきています。
HP

その通りです。それにもちろん、今や無視することができないのは、たいていの人は、たとえばアブグレイブの場合ですが、ああいう拷問行為はとても偶発的なものとは言えないことに気づいているという点です。ただひとつ混じっていた腐れりんごではなかったのです、たとえて言えば。あれは最上部から発していたのです。私たちが問題にしているのは、ホワイトハウスです。ペンタゴンです。それに、ダウニング・ストリート十番です。この国で問題になるのが誰であるのかは、私にはよくはわかりません。しかし、この聴衆の中には、この点について言いたいことがある方がおられるのではないかという気が、何となくします。どこで暮らしているかによって、いちばん強い印象がどんなものになるかは決まるのです。もちろん私は、わが国の政府の行動を非常に恥ずかしく思っています。私が問題にしているのは、イギリスの政府です。ブレアがブッシュに追従しているのは、恥ずべきことで不快感を催させると、私は思います。だが、それだけではありません。この追従行為の根底にあるのは、私がこれから述べる、ごく単純な事実さえ認めようとはしない身構えなのです。ある主権国家の何千人もの国民に対して爆弾を落とすなら――その国家についてどう考えるかは、別問題です――それは単なる大量殺人ではありません。それは戦争犯罪なのです。

 ここでMBとはマイケル・ピリントン、HPとはハロルド・ピンター。対談はヨーロッパ演劇賞授賞式前日(06年3月11日)のもので場所はトリノ。

 彼女と違ってシナリオを読むのは苦手だが、少し時間ができたら、彼の戯曲を読んでみようか。そう思っている。何から読めばいいか? また、教えてもらおう。(4/19/2007)

 月曜日からずっと雨模様の日が続いている。きょうで三日連続、駅までは歩き。雨というだけではなく寒い。きのう、きょうなどは三月上旬の気温だ。

 きのうの二つのニュースの続報。長崎市長伊藤一長は未明に亡くなった。夕刊によると、「銃弾は背骨の右側から左上方に向かって撃ち込まれ、心臓を損傷、胸の骨で止まっていた」。犯人は山口組系「水心会」の会長代行を努める城尾哲弥。動機は市が行った道路工事現場で起こした事故についての補償に応じなかったことや知り合いの会社が利用しようとした市の融資制度が適用されなかったことなどと伝えられており、政治的・思想的背景は薄い由。

 59歳までの人生のほとんどをヤーさん稼業で生きてきた人間はこんなアバウトなことでは「確定的殺人行動」には走らない。やくざ屋さんと職業右翼が人殺しをするときにはほぼ百%、それによる「利益」が恩義を報いる誰かにもたらされることが約束されているときに限られる。この程度の動機ならば、彼らはおきまりの「嫌がらせ」行為(カミソリの刃や銃弾を郵送するとか植え込みに放火するとか、バカバカしいほど子供っぽいやり方、なにしろ知能程度が低いのだから仕方がない)を繰り返すだけだ。

 そうそう、我が宰相、さすがにきのうのコメントは「ホンネではあっても、らしくない顰蹙ものだ」とアドバイスをもらったらしく、きょうになって「選挙運動中の凶行は民主主義に対する挑戦であり、断じて許すわけにはゆかない」と述べた由。嗤えるのはその次の言葉だ。「こうした暴力を断固として撲滅してゆかなければならないと思う」。思うだけかい、思うだけなら猿でもできるさ。

 バージニア工科大の銃乱射事件の犯人はチョ・ソンヒ、韓国人で同大の4年生。8歳の時に両親、姉とともにアメリカに移住したが、言葉、生活水準、その他のことでかなり深い恨みをアメリカ社会に抱いていたという。

 アメリカン・ドリームは所詮「夢」だ。万に一つか二つ適うように見えるが、踏み台のない貧乏人には僥倖が伴わない限り、他人を騙し、脅し、踏み付けにして初めて適う「夢」だと思った方がいい。彼は銃の使い方を間違った。恨みの対象にストレートに銃弾をお見舞いのするではなく、自分の良心を眠らせてカネのある者に悪意の罠を仕掛けて金品を騙し取るか、銃口で威嚇して強奪するか、ほんの一工夫して「踏み台」となるファウンデーションを築けばよかったのだ。イリーガルなことをしなければ、いまの市場原理社会では勝者にはなれない。イリーガルなことをソフィストケートする「自由」は保証されている。それが「自由」で「不公正」な現在のアメリカ社会の基本ルールだ。ひたすらアメリカを目指すこの国も遠からずそうなるだろう。(4/18/2007)

 起き抜けのニュースがバージニア工科大学での乱射事件。犠牲者は32人。犯人は自殺。

 そして夜には選挙戦中の長崎現市長伊藤一長が狙撃された。背後から撃たれたらしい。犯人は取り押さえられ、取調中とのこと。長崎市長狙撃と聞けば、誰でも本島前市長が右翼に襲われたことを思い出す。安倍首相の「当局による事件の速やかな解明を望む」といういかにもおざなりで他人事のようなコメントはなにを意味しているのだろう。

 そういえば、昨年の夏、加藤紘一の地元選挙事務所が放火されたときの前宰相、小泉の反応は異常なほど鈍かった。小泉が「言論の自由を封殺するようなことは厳に慎まなくてはならない」とコメントしたのは事件から二週間ほども過ぎてからのことだった。このとき、「なぜいままでふれなかったのか」と問われて、小泉は「いつも聞かれたことに答えている、これについては質問がなかったからだ」と答え、失笑を買ったものだった。

 戦争の口実にする時には「テロとの戦い」を大げさに叫ぶくせに、「テロ」の標的が民主主義となるとその反応が極端に鈍くなるのは、かつて赤報隊を名乗る者が朝日の記者をテロの標的としたとき、商売敵の不幸を喜んで、それを当然のことと書く言説を掲載して囃し立てたサンケイ新聞に見られるように、「右翼に襲われるような人間はそれだけの理由があるのだ、とっとと死ぬがいい」というのが小泉・安倍につながる政治屋どもの本心であるからに違いない。(4/17/2007)

 ・・・にじんだ星をかぞえて・・・「上を向いて歩こう」の一節だ。夕刊にこの歌詞を冠したコラムがある。始まったのは先々週。読者にエピソードを提供してもらって上原隆がインタビューし、まとめるという趣向らしい。きょうまでの三回のサブタイトルは「定年退職」。

 ことし製薬会社の営業で定年を迎えた男の話。中学卒である工場に勤めた。自分の頭で考えるタイプだった。命ぜられた仕事、こういう風にすればもっとうまくゆくと上司に提案したが、最初の上司はそれを快く思わない人だった。ソリがあわなかったのかもしれない。査定はいつも最悪、必然のように荒れた。上司が代わって芽が出た。

 サラリーマンなら誰でも経験することだ。最初の上司がもう少し心の広い人だったらと言っているが、寛容さや能力の善し悪しではない別の要素ですれ違うことの方が多いものだ。上下、いずれも必ずしも凡庸ではなくとも不幸な組み合わせなどたくさん見てきた。もちろん、それを使いこなしてナンボというのが上司なのだが、それでもすれ違ってしまうのが人間。

 物作りの現場に人減らしの風が吹き始めた頃、営業に応募してMR(Medical Representative)を担当するようになった。数ヶ月の研修で資格が取れたのだからセンスがよかったのだろう。「中卒者としては考えられないような給料をもらうようになった」けれど、学歴コンプレックスだけが残った。

 得意先の人を自分が親しくしている飲み屋に連れていった。カウンターの中の店主が「あんた中学しか出てへんのにようがんばってるな」といった。
 「店を出てから」笑っていう。「『私中学しか出てませんのや』って思い切っていったんです。得意先は『そんなことどっちでもいいことや』って。その時、すっと肩の荷が下りた感じがしました」
 最近では、学歴を人にきかれても抵抗なく中卒だといえるようになったという。

 結びは「自分の劣等感を認めることができた時、劣等感こそが自分の力の源泉になっていたのだと分かった」という平凡な結論になっている。ラストは「ま、いろいろありました」・・・と。

 **さんのことを思い出した。関西の営業、アンテナの鋭い営業で、お客の中にモヤモヤしている形をなさないニーズを的確に伝えていただいた。そのアイデアで開発起案したものがいくつかあった。対話作画はそれだった。会社では中卒の壁に阻まれて、******に移った。転職は成功だった。言葉だけの実力主義の会社ではない******で部長から本部長と順調に階段を上がって行かれたと聞いていたが、いまはどうしておられるのだろう。(4/16/2007)

 朝刊に「慰安婦強制示す調書:東京裁判に各国検察提出」の見出し。要旨は東京裁判の際に各国の検察団が提出した証拠資料が東大社会科学研究所図書館に所蔵されており、かなり具体的な調書と陳述書があるというもの。

 日本軍慰安婦問題をめぐり、東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林博史・関東学院大教授(現代史)が確認した。17日に日本外国特派員協会で会見して公表する。裁判で証拠として採用されたもので、東大社会科学研究所図書館に所蔵されている。
 東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出された。今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書など。
 インドネシアで、ジャワ島やモア島、カリマンタン(ボルネオ島)で女性たちが強制的に慰安婦にされたことを示す証拠資料が提出されたことが判明したほか、アジア各地で同様のケースがあった。これまで、国立国会図書館所蔵の東京裁判関係資料から尋問調書の一部が確認されていた。
 オランダが提出した、ボルネオ島で海軍の情報機関にいた男性軍属に対する46年3月13日付の尋問調書。日本人と親しくしていた地元女性が日本軍に拘束され、警備隊長に平手打ちをされ、裸で立たされる状況に触れて、取調官が追及する。
 彼女たちを拘束した理由について、男性軍属はこう答えた。「抑留したのは彼らを淫売屋に入れることができるための口実を設けるために警備隊長の命令でなされたのであります」
 46年5月16日付の尋問調書では、ジャワ島の民間抑留者の収容所にいたオランダ人女性が強制的に慰安婦にされたことを証言している。
 44年1月28日、インドネシア人警察官が彼女を含め計7人の女性や少女を日本軍捕虜収容所事務所に連れていき、日本人に引き渡した。さらに車で小さな収容所に運ばれた。同年2月3日に医師による健康診断を受けた際、日本人向けの「娼楼(brothel)」で働かされることを知ったという。
 「労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士官のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留された。時々一般の日本人が来た。私は常に拒絶したが無駄だった」
 フランスが提出したベトナム人女性の口述書の抜粋には「日本人はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数人に、光安に設けた慰安所(brothel)へ一緒へ行くよう強制しました」とある。
 中国の「軍事委員会行政院」が46年5月27日付で作成した資料は日本軍の桂林での残虐行為に言及、「四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き脅迫して、妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」と記す。東京裁判の判決も桂林の残虐行為に触れた中で、「工場を設立するという口実で、かれら(日本軍)は女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」と認定している。
 一連の資料について林教授は「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」と話している。

 ゴールデンウィーク直前の安倍首相の訪米に備えて、政府と外務省はアメリカのマスコミ対策に躍起になっているらしい。しかし「戦前レジーム」を「美しい国」とする安倍の考え方は基本的にアメリカの主張する歴史的継続性とは相容れないものだ。それはもともと岸信介の持っていた矛盾を受け継ぐものでもある。

 岸には「とりあえず」の意識とある程度のプログラム的展望があったように思われるが、パープリンの安倍にはそのような「眼」はないだろう。それは一方に拉致問題を抱えているのに、従軍慰安婦問題で匹夫の勇を発揮してみせたことで分かったことだった。(4/15/2007)

 **さんにお願いして、新座の玄関扉の鍵を最新のタイプに交換。取り替えに立ち会うついでに、新座に運んだ本をチェックした。いま家にあるのか、新座に仮置きしたのか、それが分からないでイライラすることが続いたからだ。

 週初め、ホームページに、石原の都知事再選のニュースに「地獄までつきあってもらうさ/俺たちを選挙で選んだのはドイツ国民だ」というのを使った。**さんが「『地獄まで付き合ってもらうさ』って台詞があるとかいう話ですが、映画とか小説に目を通す程のヒマが昨今ないもんで、確認も出来ず、困ったもんです」と書いていたのを思い出してのこと。

 段ボール箱の中の本を、一冊一冊、確認していたら「ヒトラー−最期の12日−」が出てきた。(リストによると購入日は05年9月2日、**さんの投稿は05年8月26日だ。映画を見る時間まではなくて、本を買っておいたというところか)

 ざっとページを繰ってみた(こんなことをしているからなかなか作業が終わらないのはいつものこと)が、件の台詞は見つからなかった。近いかなと思われる言葉はヒトラーの言葉ではなくゲッベルスの言葉だ。「・・・しかし思い違いをしないでもらいたい。われわれはドイツ国民に無理強いしてきたわけではない。(中略)国民が自分の方からわれわれに委任したのだ。・・・つまりは自業自得ということだ」。

 巻末に芝健介による「ヒトラーをめぐる現代ドイツの歴史学」には最後まで戦うことを命じたヒトラーと、当初その姿勢で臨みながら土壇場で軍部を切り捨てた昭和天皇ヒロヒトとを対比されたところがあった。いずれじっくり読み直してみよう。(4/14/2007)

 中国の温家宝首相が来日したのがおととい。きのうは国会で演説した。遣唐使、阿倍仲麻呂と鑑真和上から話を起こし、揚州の大明寺にある一基の石灯籠で結ぶという巧みな構成のものだった。なぜなら、その石灯籠は唐招提寺にあった一対のものの一方を、1980年、鑑真和上坐像が中国に「里帰り」した際、和上が渡日に備えたゆかりの寺に贈ったものだったから。

 中国の客人が手のひらを大きく拡げ、千数百年を超える時間幅に設定してスピーチを組み立てているのに、マスコミはほんのここ百年の歴史認識やら経済協力に関する謝意の表明があったのなかったのとそんなことばかり。何とも了見の狭い話。

 温家宝来日が目眩ましに絶好と思ったのだろう、政府・与党は、この数日の間に、国民投票法と在日米軍再編特別措置法の委員会採決と本会議採決をやってのけた。もはやこれは「了見の狭さ」よりは「心根の卑しさ」を表しているといってよい。憲法の改正手続きに関することくらいは明るい部屋で納得のゆくまで議論を尽くすべきことだろう。「押しつけ憲法」を改正するのだというのなら、それを押しつけた国の軍隊の移動を支援するためにわけの分からない補助金を用意するというのは、いったいどのような理屈によるものか誰にでも分かるように易しく説明してしかるべきであろう。それもできぬほどに後ろ暗い政治をやろうというのか。

 日経はけさの社説に「国民投票法案は憲法96条の改正手続きを具体化するものであり、本来なら現行憲法が施行された60年前に同時に制定されるべきものであった。憲法を制定・改正するのは主権者国民の固有の権利である。この重要な国民の権利を60年間も実質的に封じ込めてきた国会と政治の怠慢はあきれるばかりである」と書いた。一見正論のごとく読める。しかし国民の権利が不当に扱われてきたものは憲法の「改正権」だろうか。ためしに銀座の真ん中で片っ端から「あなたは憲法の『改正権』が不当に封ぜられていたと思いますか?」と訊いて「そう思う」という者を十人集めてみよ。オレはその隣で「あなたは一票の重さに関する公平性が不当に扱われてきたと思いますか?」と尋ねてみることにする。日経論説子が十人集める頃にはオレは数百人以上集めてみせるよ。

 日経論説子は国民投票法の成立を急げということが主張したくてこんなバカなことを書いたのか。改正手続き論議は始まったばかりだ。始められるべきで始めていなかった時間が長かったことは、手続き論議の時間を短縮すべき理由にはなり得ない。ことは「政策」ではなく「根本法の改正手続き」なのだ。スカスカの空疎な論議でバタバタと決めるような話ではない。走り出してから考えるようなことでもない。日経論説子は法案の内容をどのように考えているのか。内容に関する話がない社説を掲げて恥ずかしくはないのか。試しにたった一つ質問してみよう。18歳から投票できるとしているようだが、全体の法体系の中でそれは十分に理が通っていると証明してくれ。そしてこの法案が成立した場合、法体系全体にこの影響が及ばないことを証明してくれ。(4/13/2007)

 レッドソックスとマリナーズの試合開始は出勤途上のことだった。松坂とイチロー、マスコミは「夢の対決」と煽り立てるが、投手と打者の対決というところだけを切り取るならば、土俵がメジャーリーグにセットされたからといって何が変わるわけでもない。

 「夢」の始末。投ゴロ、中飛、空振り三振、二ゴロ。松坂の完勝、イチローの完敗。しかし松坂は7イニング投げて、被安打8、四死球2、失点3で負け投手になった。メジャーを引退して解説者をしている長谷川滋利はイチローを意識したあまりの敗戦と評していた由。その通り。とにかく話題作りをして盛り上げたいマスコミに松坂もイチローも乗せられたような気がする。

 松坂よ、メジャーリーグ球史に数行の記述を残したいのならば、イチローを打席に迎えるとき「対決」などという意識を持つべきではない。イチローは球史の真ん中に記録される選手ではない。単なる器用な選手、球史のコラムに登場する選手に過ぎない。夾雑物に目を奪われるようでは、もろともに「コラム」の選手になってしまうぞ。どうしてもマスコミサービスをしたいのなら、「対決」の相手はイチローではなく、松井に設定すべきだ。松井はそれだけの可能性を持った選手だ。

 イチローよ、マスコミの煽りに乗せられて自分の特質を殺してしまってはいけない。松坂は初球、カーブを投げてきたではないか。ならばおまえはいつもの「汚いヒット」で応ずればよかったのだ。クリーンヒットを意識したとたん、平凡なメジャーリーガーになってしまう、それがおまえではないか。平凡なメジャーリーガーならば、松坂に4打席凡退するのは不思議ではない。「汝自身を知れ」、これがおまえの座右銘でなくてはならぬ。

 この試合、松坂を打ったのは城島だった。得点に絡むツーベースを2本打っている。城島のコメントがいい。「イチローさんに力を使い果たして僕のところに回ってきた。おまけみたいなもんです」。じつにキャッチャーらしい言葉だ。状況は的確につかみ、嘘はつかず、真実も語っていない。

 夜のニュースも夕刊もメジャーリーグでの日本選手の成績をこれでもかというほど伝えている。なのにいま知りたいことには答えてくれない。野茂英雄はどうしているのか。(4/12/2007)

 今夜の「その時歴史が動いた」は「所得倍増の夢を追え−高度経済成長の軌跡−」。下村治がとりあげられていた。番組は池田勇人と組んだ所得倍増計画の成功とその最終局面での赤字国債の発行までを説明した後、「変節」ともいわれた晩年についてさらりとふれたものだった。

 下村−都留論争は下村に凱歌があがったとされる。高度経済成長はこの国を世界第二位の経済大国に押し上げたのだから、それは誰の目にも明らかだ。しかし勝手な想像をすれば、それはルートと所要時間の違いだったと考えることもできる。現実にやはり高成長のひずみは生じた。おそらく下村はとりあえずの場所に行き着いたなら安定成長に転じた後、いくつかの高成長がもたらした問題を解決すべきだと考えていたのだと思う。その点で下村と都留に敵対的というほどの思想の違いはなかったのではないか。つまり下村の縮小均衡論は「変節」ではなく「予定」だったと考えることもできる。

 つい2か月ほど前、格差問題を巡る国会論戦で菅直人の質問に対し、安倍がかつての「高度成長論争」をあげ「1960年代初頭にも成長か、格差是正かという議論があった。成長することで、その果実を広めていく政策が正しかったことが証明されている」と応えたのを取り上げ、水木楊が「これは当時の論争を自分に都合の良いように曲解している。というよりも、とんでもない勉強不足と言っていいだろう。こんなお粗末な認識で、経済政策を展開されては、たまらない」と書いていた。

 高度経済成長政策を安定着陸させる意識を持たなかったこの国は、手ひどいバブルの洗礼を受け、長期の視野を持たぬエコノミストたちに翻弄されたあげく、現在は持つべき目的(「経済」の二文字の中にそれは明確に表されている)すら完全に忘れてしまっている。暗愚の宰相が迷うのも無理はない。昨年だったと思うが、経済を看板にする新聞のコラムに「格差社会は成長の証し」などという嗤うべきタイトルが、天下堂々、書かれていたほどなのだから。

 下村の座右の銘は「思い邪無し」だったそうだ。この言葉を「私心無し」と解釈するには疑問があるが、あえてそのようにとるとすれば、当代の「エコノミスト・リーダー」の座右の銘は「思い邪ばかり」に違いない。ねぇ、竹中平蔵さん。(4/11/2007)

 朝刊に「60歳の憲法と私」という企画が始まった。きょうは内田樹。敗戦とアメリカ、戦争放棄と自衛隊。この捻れた関係を手際よく説明することは存外難しい。とすれば、結局こういう説明になってしまうのはやむ得ないところか。

 戦争の放棄をうたった憲法9条と自衛隊の不整合というのは、絶妙な政治的トリックだと思う。いわば、羊頭狗肉。羊と狗の間の不整合になんともいえない妙味がある。
 9条はアメリカが日本を軍事的に無害化するために与え、自衛隊は軍事的に有用化するために与えた。アメリカの世界戦略の枠組みの中で見ればその二つの間に矛盾はない。自衛隊をつくった時に9条に手をつけなかったのは、東西冷戦のさなか、「日本軍」とマルクス主義的反米ナショナリズムが結びつくことを警戒したからだ。9条という縛りがある限り、日本はアメリカにとって「安全な国」であり続ける。
 しかし、日本人にとって9条と自衛隊に矛盾がないと認めることは日本がアメリカの軍事的属国だと認めることであり、日本人はそれを受け入れるだけの心理的成熟を果たしていない。そこで、政治的トリックとして、戦後日本のすべての不幸は、9条と自衛隊の矛盾から生まれているという、日本人以外の誰も信じていない「物語」を信じるという病に進んで陥ったのである。
 その見返りに、日本は大きな疾病利得を得た。60年に及ぶ平和だ。
 「軍隊がないから国際社会で侮られる」という改憲派のロジックを突き詰めると、いずれは日米安保の廃棄、自主核武装、米国を含むどの国とも戦争することのできる「ふつうの国」になるという結論に行き着く。日本が侮られるのは9条があるからではない。アメリカの属国だからである。侮られたくないならアメリカと手を切って「アメリカに核を撃ちこむ権利」を留保するしかない。改憲派の諸君にその覚悟はあるまい。
 日本には世界に誇れるものがいくらもある。サービスの水準は世界最高だし、「水と安全がただ」のエルドラド(黄金郷)だ。世界でも例外的な「美しい国」を60年かけて営々と築き上げてきたのである。
 軍事的プレゼンスを取り戻す代わりにこの平和と生活の質を失ってもいいと改憲論者が本気で思っているなら、彼らこそ「平和ボケ」しているのだと思う。北朝鮮のような軍事国家になる覚悟がないなら、改憲は口先だけにしておく方がいい。

 痛烈な指摘。そういえば「日本が侮られるのはアメリカの属国だからである」というのは、いつぞや安保理常任理事国入りをめざしたときにも、最近の六カ国協議の折にも分かったことだ。北朝鮮などはそれをあからさまに言ったではないか。見下したつもりの北朝鮮に言われて我を忘れてカッとなった人たちだって、イラン問題の調整を常任理事国5カ国にドイツを加えたメンバーが行い我が国はつんぼ桟敷という一事を見ただけで得心がいくだろう。もっともそういう人ほど視野は狭く、焦点深度も浅い。まあ、そんなことだから「瞬間湯沸器」クンになってしまうのだが、それがこの国の平均値である間は内田のいうごとく「改憲は口先だけにしておく方がいい」のかもしれない。(4/10/2007)

 都知事選の確定投票数を書いておく。石原慎太郎:2,811,486、浅野史郎:1,693,323、吉田万三:629,549。以下は記すほどのこともない。

 勝ってしまえば地金が出る慎太郎。猫かぶりを脱いで天醜爛漫の発言。身につかぬ低姿勢やお追従笑いはよほど体に毒だったに違いない。いくらでも選挙戦の憂さを晴らすがいい。その先には冷厳な現実が待っている。任期の途中で死ぬなよ、シンタロー。

 2016年のオリンピックは、大量にIOC委員を買収でもしない限り、東京には来ない。都市博の取りやめはまだ自らの判断だったが、今度は無惨にも他国に夢を絶たれることになる。オリンピック期待からなされる施設投資は宙に浮き、ちょうど都市博に対する臨海副都心のごとく(ちょっと違うか)新たな経済負担となって東京都にのしかかる。

 新銀行東京はこのままでは破綻する。いくら石原が愚かでも、みっともないことになる前に「清算」せざるを得まい。東京都の出資金1,000億円はほとんど戻らない。もちろん石原は失敗を糊塗するために、精一杯、粉飾処理させるだろう。しかしミーイズムの石原が努力するのは自らの責任追及を回避することだけだ、東京都の出資金が戻ることはない。けっきょくツケは都民が払うのだ。大手都市銀行を狙い撃ちにして、返り討ちにあい巨額の和解金を支払ったとき同様、都民の税金はアワと消えるのだ。

 それまでの間、都民は石原がその「お友達」と飲み食いする費用まで「都知事交際費」として負担し続けるだろう。(脱線するが、石原慎太郎と安倍晋三には面白い類似がある。ともに「お友達」には度を超えた便宜を図るというインサイダー偏重癖だ)

 「正直者が馬鹿を見る」のではない、「愚かな都民に付き合わされて、賢明な都民までが連帯して馬鹿を見る」のだ。愚かな都民は石原の甘言に騙されて「夢」を見るつもりでいるだけ、よけいに惨めさがつのることだろう。賢明な都民は愚かな都民のバカ面を眺めつつ、やりきれぬ思いにとらわれるだろう。つくづく趣味のよい隣人を持ちたいものだと思う。東京都民でなくてよかった。いや、どこに住もうと同じことかもしれぬが。民主主義とはそういうものだから。(4/9/2007)

久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん

 **(母)さんの病室の窓、絶え間ない花吹雪。茨木のり子の詩など思い出しながら、ちょうど2年前、**(父)さんを車に乗せて狭山湖を一周してきたことを思い出した。車の中から窓外のサクラを見るだけ。それでも上宮病院に戻ったとき、「ありがとう、ありがとう、楽しかった」と言ってくれたっけ・・・。

 サクラはきれいだ。でも病室からは見えない方がいい。あんなに絶え間なく、花びらの散るのを見るのは、終日、ベツドに横たわる者にとっては耐えられないかもしれないから。

 **(母)さんは「小椋佳:63歳のメッセージ」を見ていた。

・・・時は、わたしに、めまいだけを残してゆく・・・

 前後の歌詞とはまったく別に、このフレーズ、死ぬまで、花吹雪の舞うのを見るたびに、耳の奥で鳴り続けるに違いない。

 統一地方選、第一ラウンド。都知事選は8時に投票を締め切って、朝日新聞のサイトは数分後に石原の当確を伝えた。時代の趣味とオレの趣味は合わない。これからはますます「見ぬ世の人を友とする」他はなさそうだ。(4/8/2007)

 **(息子)から連絡。「きょう、夜、予定ある? 巨人−阪神戦のチケットがあるんだけど」。チケットは4枚あるという。**に電話したが留守電。**はすでに予定がある由。きょうのきょうであいているわけもないかと思い直し2枚はムダにすることにした。

 池袋で買い物を済ませ「ダ・ヴィンチ展」を観覧する予定に野球観戦を追加。昼前に**(家内)と家を出た。買い物に時間をかけて昼時を外したつもりだったが、韻松亭の前には数人の順番待ち。座敷の方ではなく椅子席の方で花見客を見ながら食事。博物館に入ったのは3時を過ぎていた。「受胎告知」ひとつといっていい内容。それもまるで昔のパンダ舎のように、ただその前を行き過ぎるだけ。新館と旧館をつなぐ回廊の一角におかれたソファから裏の庭園のみごとなサクラを見られたことの方がよほど収穫だった。

 水道橋の方から東京ドームへ向かうのは久しぶり。6時を少し回ってから到着したおかげで鬱陶しい君が代を聴かずにすんだ。「国」は空気であってこそ有り難い。しゃしゃり出る奴にろくな奴はいないのと同じで存在を主張するようになったらもはや「国」は仇する存在に近くなったと知るべし。

 最近ほとんど野球を見ないせいもあって、いまひとつ乗れずに7回の裏が終わったところで帰ってきた。試合は4−3でタイガース。(4/7/2007)

 赤ちゃんポスト。「首相は不快感」という話を聞いて、安倍ならばその程度だろうと納得した。

 陋巷に住む者が「不快感」と言うのなら分からないではないが、天下の宰相が単に「不快感」を示すだけというのはいかにも情けない。

 田中角栄はかつて日本列島改造案を批判する者に対して「ならば代案を出しなさい」と言った。いまもときおりその選挙演説の映像が流れる。憎々しげでもあり、頼もしくも見える表情。宰相たる者、自ら問題を腑分けした上で、優先度をつけて、解決策を出すか、その検討を指示しなければ、職責を果たすことにはならない。安倍にはその才がない。まるで他人事のように「不快感」で終わりだ。

 「美しい」か「美しくない」か、あるいは「快い」か「不快である」かは、個人の感覚の問題であって、政治が直接目標とするものとはなりえない。当然、政策を評価する指標にもなりえない。

 それは「美しい会社」、「不快感を覚えない経営」などと書いてみれば一目瞭然。経営者ならばついて行かぬが、宰相ならばついて行くのか、つくづく愚かな連中と時代をともにすることになったものだ。(4/6/2007)

 ライオンズが05年6月の「倫理行動宣言」の後も東京ガスの木村雄太選手と早稲田大学の清水勝仁選手に金銭供与をしていたという「自白」を行ったのは一月ほど前のことだった。その発表の際、設置を約束した内部調査委員会の中間報告がきのうあった。

 球団創立から05年6月までの27年間で、今回明らかになった二人を除いて契約前の前渡しが5選手、計6,160万円、アマチュア野球側関係者に対する「謝礼」が延べ170人、一人あたり10万から300万、中には1,000万円というのもあるとか。さらに朝刊には「プロ野球12球団の実行委員会で申し合わせた新人に支払う契約金の最高標準額(1億円プラス出来高払い5千万円)を超えた支払いが選手15人に対して計11億9千万円あった」とも。中間報告はよくぞという気もする一方、木村・清水の両選手への扱いに比べ、過去の選手の実名を伏せている点に割り切れない感じがつきまとう。

 根来コミッショナーは、先月、「この際、徹底的に膿を出し切った方がいい」と言っていた由。これほどの実態がライオンズに限らないことは間違いない。最後までドラフトにおける「希望枠」にこだわったジャイアンツにはこだわりたかった「実情」があるはずだ。他の球団も同様。さらにはきれい事を主張してきたアマチュア野球関係者の中にもいろいろの名目で灰色のカネを受け取ってきた者がいるはず。コミッショナーは自分の言葉通り「膿を出し切る」調査を自ら率先して行うべきだ。(4/5/2007)

 夕刊トップ、「北朝鮮、2児拉致か」の見出し。

 73年に北海道帯広市出身の主婦渡辺秀子さん(当時32)とともに東京都内で失跡したまま行方が分からなくなっている長女の高敬美(こう・きよみ)さん(同6)と長男の高剛(つよし)ちゃん(同3)の2人について、警察当局は4日までに、当時、渡辺さんの夫が実質的に経営していた会社に在籍した女が、北朝鮮に拉致した疑いが強いとの見方を固めた。近く警視庁と兵庫県警で合同捜査本部を立ち上げ、この女に対する国外移送目的略取容疑などで捜査を本格化させる方針だ。
 警察当局などによると、渡辺さんら母子3人は73年12月ごろ、行方不明になっていた在日朝鮮人の夫を捜して東京都品川区の勤務先周辺にいたところ、この女に誘われて目黒区のマンションに監禁されたとされる。
 夫は後に北朝鮮の幹部に上り詰めた人物だったことが分かっており、その後に行方不明になったのは自主的に帰国したとみられるという。

 違和感の先に立つニュースだ。もともと北朝鮮による拉致犯罪に関するニュースには、恣意的なところがあって不自然さがつきまとって離れない類のものだが、このニュースに覚える違和感はそういうものとも違っている。

 まずいくつかの疑問。三十数年も前の事件が最近になってはじけたように次から次と新事実が分かったというのは、どのようないきさつがあってのことか。拉致されたのは二人の子供、その母親については殺害されたらしいとしている。曽我ひとみの母親については殺害された旨の公式発表はない。殺害の確証がないからであろう。とすると、今回、マスコミにリークするにあたって殺害されているとしたのはどのような根拠によるものか。その根拠はいつ頃のどのような証拠ないしは証言なのか。事件から時日をおかずに分かっていたことだとすれば、それが三十年以上、伏せられ続けた理由は何か。最近それが分かったとすると、三十年をへだてた証拠ないし証言の確度が信頼に足るものと判断できた理由は何か。

 母親を殺した上で頑是ない子供を拉致したというのだから憎んでも余りある「犯罪」ということになるが、彼女の死体は確認されているわけではない。そもそも拉致したのが母親と子供たちだとすれば、在日朝鮮人でスパイ活動を行い北朝鮮に「帰国」した彼らの父親と一緒になるためだったと北朝鮮当局に抗弁されたらどうなるか。警察のいうとおり母親が殺害されたとしても、北朝鮮国籍で「高」姓の子供たちを父親がどうしても引き取ることを主張したからだと反論されればどうなるか。

 常に人々に北朝鮮の犯罪について注意を喚起し、政権の浮揚力としたい事情があるのなら、もっとすっきりした拉致被害例を挙げた方がよい。わざわざこのようなデリケートな事情のある拉致被害例をあげることはない。

 それとも、安倍政権は北朝鮮に対するアメリカの「心変わり」にきびすをあわせて、「拉致の安倍」の看板を下ろし手仕舞いをするために、あえてこのような北朝鮮に抗弁の余地を与えるケースを選んで「条件闘争」の道に進もうとしているのだろうか。(4/4/2007)

 BSで「十二人の怒れる男たち」を見る。はじめてこの映画を見たのはもう四十年近く前のことだ。いま日記で確かめられるのは1970年12月17日の記載。

 ずっと以前にテレビでやった映画をもう一度みた。アメリカ映画で「12人の怒れる男たち」という題だ。

 映画は、陪審員たちが評決を出すために、裁判所内の一室へはいってくるところから始まる。被告は18才の少年で父親殺しの犯人として起訴されており、凶器のとびだしナイフ、階下の老人、線路をはさんで向かいの女性など、証拠、証人もいちおうそろっている。映画では裁判のもようについてはいっさい直接的に語ってはいないため、順次陪審員たちの話からいろいろなことがわかってくるといった具合になっている。どうやら被告の容疑は濃く、すぐに有罪、無罪の決をとることになる。11人が有罪とする。ところが8番の男だけが無罪へ手をあげる。

 「どこにでもこういうアマノジャクはいるもんだ。」と誰かがいう。8番の男は「無罪だといいきることはできないが、有罪を確信できない。だから、もっとよく話しあってほしいのだ。」という。陪審員の評決は全員一致でなければならないため、暑い夏の夕方から深夜へかけての話しあいが始まる。

 12人の陪審員のそれぞれの職業は、セールスマン、建築屋、運送屋、株屋、銀行員、左官などさまざまであって、性格も種々である。結局足の悪い老人、眼の悪い女性による証言にいくつかの疑問点がで、また凶器の使用法の不自然さなどが、何人かの陪審員から指摘され、有罪対無罪は11対1から、徐々に比率をかえ、ついに全員一致で無罪の評決がでる。

 その過程で、いろいろなタイプの人間の示す、偏見、勇気、誠意etc.といったものがみられるわけだ。ある意味ではかなり楽天的な希望に満ちた映画といえるだろう。なぜなら、徹底的に愚劣な人間は登場してこないからだ。ここには、陪審員制度を支えるだけの、民主主義の精神があるし、偏見を排除して公正に対処すべきであるという考えをほとんどの人が持っているし、「現実主義」をふりまわして保守的ニヒリストになる人も――その危険はあるけれど――いない。衆愚政治におちいることを制止する復元力がある。

 むろん、「現実主義」をふりまわす人はでてくる。「奴らのような、スラムに育った非行少年どもは、どうしようもない連中で、殺すことなんかなんとも思っちゃいないし、・・・・・・、社会のゴミのようなもので、・・・・・・、どうせ・・・・・・」と怒鳴りちらす何か店を2、3軒経営している人は、ぼくにもウォーレスやマドックスを思い出させた。「ああいう連中、なまいきな少年どもは焼き殺したほうがいいんだ」という頑迷な運送屋は、典型的なself-made man typeで、ニクソンやアグニューといった法律さえ厳しくすればなんでもかたがつくと考えている楽天的な動物飼育係を連想させた。そして、1、2ヵ月前の「自由」の「彼らはもともと、不良で・・・」といった愚劣な記事をも。そして、彼らの自分たちのことばが聞き入れられない時の、苛立つようす、当惑した表情は、「心弱き右翼」の素顔であったろう。

 映画は、陪審員が評決をくだすまでの間だけを描いている。だから、ほんとうに少年が犯人ではなかったのかとか、また、犯人でなかったとして、無罪釈放になった後どういう生き方をしたかについては、まったく問題にされていない。だが、ここに「現実主義者」が、陪審員評決を云々する場をみつけることはできないだろう。それはあきらかなことだ。

 いい映画だった。

 いつものことだが笑ってしまう。「ぼく」と自称していることを除いては、考えていることも、それを表す文体も、三十数年を経て、なお、ほとんど変わっていない。これほど、進歩のない男も珍しいのかもしれぬ。(4/3/2007)

 夕刊の「ファッション」欄、「女はここを見ている」から。

 私は男性のスーツをまず見ます。これまで財務省、国政と男性の中で働いてきた経験上、スーツの着こなしで、その人の仕事ぶりがわかるようになりました。できる男性はみな、スーツの着こなしが上手。これは品質が高級かどうかや、ご本人のスタイルがいいかどうかは別問題。人柄や風格が出るというか・・・。
 上着にしわがよっていたり、ズボンがプレスされていなかったりすると、その人は家庭でもぞんざいに扱われているように思われますよね。
 だから、夫のズボンは結婚以来17年間、私がプレスしています。
 でも、最近はあまりに忙しくなったので、「なんで私がやるって言ってしまったのかな・・・」と、ちょっとだけ後悔することもありますけど。
 もう一つ、スーツ姿で気になるのがネクタイです。5年落ちの高級ブランドのネクタイを締めている人を見ると、がっくりしてしまいます。
 いかにもお土産でいただいたものをブランド品というだけで身につけている人には、自分自身と相手に与える信頼感を表現しようという気概が感じられません。できる男性はそこまで見通して、ネクタイを選んでいるように思います。

 うんなるほど、水商売の女性はこのように品定めをするのか、こちらはそのような場所にあまり縁もないし、そういう場所で遊びたいとも思わないからどうでもいい話だが、まあ頭には止めておこう。最初、そのように思った。

 語り手らしき女性の写真が目に入った。ちょいと小首をかしげ、科を作った風。これこそ「5年落ち」のポーズではないか。小娘のポーズにしちゃ、薹が立っているのに、と嗤う。それにしても、どこかで見た顔だ??、・・・、代議士の片山さつき様だった。読み直してみると、なるほど「これまで財務省、国政と男性の中で働いてきた経験上」などと誇らしげに書いてある。けっこう可愛いところがあると言えぬでもない。

 思い出した。料亭の仲居さんはベルトと靴を見るという話だった。品定めのプロは「足元を見る」らしい。品定めの対象が「デキル」と「フトコログアイ」では違うのか。いずれも必要十分条件でないことは同じ、いうまでもないことだが。(4/2/2007)

 9時からNHK特集「激流中国:超格差社会の壁」を見る。中国はすでに社会主義の国ではない。しかも「都市籍を持つ者」と「農村籍を持つ者」とに別たれた階級社会だ。知っていたことだが、それにしても番組が伝えた現在の中国の現状はすさまじいものだった。年収百億を超える超富裕層と都市に出稼ぎに出る最下層の農民。ずいぶん前に読んだ本を思い出した。

 視点を中国に移します。1994年10月、私は北京で開かれた「日中《市場経済と文化》シンポジウム」に参加しました。十数年ぶりに見る北京は一変しており、城壁がくずされ、高速道路が作られ、地下鉄が動き、数多くのタクシーが走り、人々の服装もすっかり変わっていました。市場経済への移行が、経済の活性化をもたらしたのは否定すべくもありません。だが人民解放軍も営利事業を行っているというように、社会のすみずみまでが、市場経済にまきこまれ、利潤追求をせざるをえないようになっているのを知りました。
 もちろん私は、中国の市場経済化を否定しようというものではありません。中国は革命後平等化政策に大きなウェイトをかけてきました。その結果、経済は沈滞化しがちでした。だが、アジアの諸国の中で、今まで経済が沈滞していた韓国や台湾がテイクオフし、いちじるしい工業化、経済成長をとげました。日本の高度成長が中国に与える影響と韓国・台湾のテイクオフが与える影響とは決定的にちがうでしょう。韓国・台湾の工業化の躍進があるとすれば、中国はいかなる政権であろうとも、経済成長、工業化の進展なしに政権を維持することは難しくなります。したがって国内経済によし格差が生まれようとも成長政策をとらざるをえません。
 私は20年近く前、新彊ウイグル自治区に入ったことがあります。当時テレビが北京、上海の家庭には入っていない時、この中国西方のウイグルの人たちの家々にテレビのアンテナがかなり立っているのを見ました。他方、中国でもっとも豊かであると思われた上海の一人当り分配国民所得を1とすると、生産国民所得は2.5です。その差は社会主義の大義のために使われていたのです。ウイグル自治区への支援もそのひとつです。もし、中国が辺境のおくれた地域の多くを支えることなしに、先進地域であがった利益を、その地区に再投資したならば、先進地域の発展、現代化は急速に進むと思いました。社会主義の理想は重い−−これが当時の感想でした。
 だが、今日、中国が市場経済の波を大きく受け、海岸線や長江沿岸等の大都市を中心に工業化が大きく進み、その中から億万長者が生まれだしているのを見ると、自由な市場経済の発展は、いかなる国でも不平等の拡大を生むという一般法則を思い出さざるをえません。中国は、この不平等を調整する税制を完備していません。社会保障制度も、国民全体に一様に施行されておりません。戦争と貧困の中から戦いとった新中国が、こうした制度を作りあげ、社会主義の理想に向かって進むことは容易ではないでしょう。そのためには、ゆがみを承知で成長政策をとることも必要でしょう。だがそれがアメリカの新自由主義、M・フリードマン流の考え方に近づく可能性があるとしたならば、問題です。

 伊東光晴の「日本経済の変容−倫理の喪失を超えて−」の終章。伊東の指摘は的確で、現在の中国はその線上にある。伊東は不平等を調整する税制がなく、あまねく行き渡る社会保障制度のない中国社会を心配しているが、いまやその心配は中国国内に留まらず、この国にも当てはまりつつある。不平等を調整する税制は不平等を拡大する税制をめざし、あまねく行き渡っていた社会保障は財政健全化を理由に順次水準を切り下げられ、日々、空洞化した社会保障制度に向けて改悪されつつある。

 話は飛躍するが、安倍晋三も、石原慎太郎も、大陸中国が大嫌いらしい。しかし彼らがめざす理想社会をすでに中国は先取りしている。彼らはもう少し「中共(中国共産党)」に敬意を払った方がいいかもしれない、呵々。

 しかし番組を見終わって、強烈に残ったのはそういうことではなかった。

 内モンゴルの寒村から天津に出稼ぎに来ている二組の家族。一方は夫婦。一人息子が機械に右手を挟まれ、その手術代を稼ぎに来ている。中国には健康保険がない。手術代は30万ほど。それは夫婦の年収の3年分に相当する。たぶん息子の腕はそのままになるだろう。

 出稼ぎが多いため、男の子の通う小学校には寄宿舎がある。その授業風景。作文の課題は「将来の夢」。順に読み上げる作文は「よく勉強して、お父さん、お母さんを楽にしてあげることです」というのが続く。次の子も、その次の子も、みんな両親のいない寂しさに耐えつつ、なにゆえ両親が出稼ぎに行っているのかを痛いほど知っている。読み上げているうちに泣き声になる子がいる。やがてほとんどの子が机に突っ伏して泣き始める。

 もう一方は父と長男。高校生の長女の学費を稼ぐために出稼ぎに出ている。しかし来年からはいまの稼ぎでは足りなくなる。長男の嫁も春雪明けには出稼ぎに出ることになった。嫁にはまだよちよち歩きの息子がいるが実家の両親に預けての出稼ぎ。長男の嫁としてはそれでも出稼ぎに出ることに抵抗はないらしい。まだ家長が束ねる大家族意識があるのだろう。

 長女は出来がいいらしい。「学問以外にここから抜け出ることはできないのです。だからがんばって父さんにも兄さんにも姉さんにも恩返しをしなければいけない」と言う。「家貧しくして孝子出づ」。この国では死語になった言葉が彼の国には生きている。

 涙が出てきた。止まらなかった。この娘はどこまでゆけるのだろうか。マスの大きな彼の国、同じ貧しさから勝ち上がろうとするライバルは多かろう。彼女が勝ち上がって恩返しができるかどうか。村での秀才が郡でも秀才か、県でも秀才でいられるか。壁にぶち当たった時、それでも志を失わずにいられるか、そんなことを思うと、また涙が出てきてしまった。(4/1/2007)

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