第3章 質問に答える(一) -地上の生活-
本章では誕生から死に至る人間の一生をたどりながら、その間のさまざまな問題を取りあげる。
まず受胎の問題から始めて肉体にまつわるさまざまな疑問、さらには寿命というものがあらかじめ定まっているのかどうか、そして死、それに伴う悲しみといったテーマについて、シルバーバーチの見解を質すことにする。
(小見出しは訳者による)
第1節 発達と進化
──アメーバから今日の人類にいたる進化の過程のどの段階において、霊的存在としての人間が登場したのでしょうか。最初の細胞の中ですでに宿っていたのでしょうか。
「ご質問が人類としての個霊のことを意味しておられるのでしたら、それはアメーバの段階ではまだ存在しておりません。が、生命のあるところには必ず霊が存在します。なぜならば霊とは生命そのものであり、生命とはすなわち霊だからです。最も原始的なものから最高の組織体へ、つまり最も単純なものから最も複雑なものに至るあらゆる発達過程と生命形態を通じて霊が顕現していると言えます。
人間的要素はアメーバの段階的発達の中で発生します。そして人類(ヒト)へ向けて絶え間ない発達過程を続けます。そして人間としての意識に目覚めた段階で、つまり自我意識をもつに至ったときに、いわゆる人間となります。しかし、進化は絶え間なく続いているのです。進化に始まりの一点というものはありません。常に始まりであり、終わりがないのです。なぜなら進化とは完全へ向けての永遠の過程だからです」
訳者注──シルバーバーチは発達development と進化evolution とを区別している。ここでも問題となるのがやはり用語についての認識の仕方であろう。これまでの進化論はあくまで地上の生命にかぎっての話であって、ただ一人アルフレッド・ウォーレスのみが、〝霊的流入〟spiritual influx によって動物が人類へと進化をしたという説を立てた。
スピリチュアリズム的に言えばそれが本当の意味での〝進化〟であって、その段階までは〝造化の霊団〟によってこしらえられた〝種〟が発現し、精霊の働きによって促進される〝発達〟である。それを進化と呼ぶのなら、次元が異なることを認識した上で使用しなければならない。シルバーバーチも重複して用いることがあるが、基本的には霊的向上つまり霊格が上がることを〝進化〟と呼び、その霊が使用する機能が開発されることを〝発達〟と呼んでいる。
第2節 霊が身体に宿る時期
──ではどの段階で身体に宿るのでしょうか。受胎の瞬間でしょうか。それとも胎動期つまり十八週ごろでしょうか。
「この問題はこれまで何度も尋ねられました。そしていつも同じお答えをしております。生命は受胎の瞬間から始まります。そして生命のあるところには必ず霊が存在します」
──受胎の瞬間から霊が宿り、そこから個性が発達していくということでしょうか。
「個性という用語を持ち出されるとまたややこしくなります。生命は霊であり、霊は生命です。両者は二つにして一つです。受胎と呼んでいるものは、そこに生命があるということを意味します。受胎がなければ生命は存在しません。したがって霊は受胎の瞬間に物質に宿ることになります。
その後の発達の問題ですが、これは環境条件によって異なりますのでさらに問題がやっかいです。受胎時に宿る霊も、霊としてはそれまでずっと存在していたのです。ですから、個性の問題は、その個性よりはるかに大きい霊全体のどの部分が表現されるかの問題となります」
──受胎後のどの段階で人間(ヒト)となるのでしょうか。胎内生活の正確に何か月目から人間となるのでしょうか。(三か月後の)胎児はすでに人間と呼べるのでしょうか。
「受胎の瞬間から生命が存在し、したがって霊が存在します。流産とか中絶とかがあっても、それは生命を破壊したことにはなりません。その生命の表現の場をあなた方の世界から私たちの世界へと移しただけです」
──子宮内の生命もれっきとした人間だとおっしゃるのでしょうか。
「潜在的には受胎の瞬間から人間であり、人間性のすべてを宿しております」
・・・受胎の瞬間からですか。
「受胎の瞬間から身体的機能のすべてを潜在的に宿しているごとく、霊的機能もすべて宿しております。霊的機能が存在しなければ身体機能も存在しません。物質は霊の影だからです」
──ということは、霊は誕生に際して地上で使用する身体をみずから選択する自由はないと理解してよろしいでしょうか。
「それは正しくありません。逆に、霊にはあらゆる自由が与えられています。大半のケースにおいて、霊は地上で果たさなければならない目的をもって生れてきます。そしてその仕事に合った身体に宿ります。ただ、自分は地上でかくかくしかじかのことをしようと(*)決意したその仕事に実際に目覚めるまでに相当な時間を要します」
訳者注──*ここでいう決意とは肉体に宿る前の〝霊〟としての意識による決意であって、肉体に宿ってからの脳を焦点とした意識にはそれがなかなか自覚されない。シルバーバーチがそれに目覚めるまでには相当な時間を要しますと述べているのは、必ずしも誕生前の霊としての決意と同じものを記憶として思い出すことを言っているのではなく、食べて働いて寝るだけの物的生活を超えて、何のために生きているのだろうかという疑問をはじめた時点からその段階に入るものと私は理解している。そのうち〝自分はこれでいいのだ〟という得心ともあきらめとも悟りともつかないものを自覚し、同時に生きる意欲が湧いてくる。シルバーバーチはそのことを言っているのであろう。
第3節 物的身体に関連して
「誕生の瞬間から肉体は死へ向かいます。この現象は誰にも変えられません。もともと肉体は不老不死を目指すようには意図されていないのです。本性そのものが儚い存在であることを自覚しております。従わねばならないサイクルというものがあるのです。
まず、ゆっくりと機能的成熟を目指します。成熟すると同時に、やはりゆっくりと、全機能が衰えはじめます。そして、リンゴが熟すると自然に木から落ちるように、肉体も与えられた寿命をまっとうして死を迎えます。何度も申し上げているように、人間は本来そうなるようにできているのです。
私たち霊界の者も完全ではありません。まだ霊的進化の頂点を究めたわけではありません。まだまだ延々と先が続いております。しかし地上での仕事を困難にする物的条件に直面したときは、私たちにできるかぎりのエネルギーを活用して、その克服につとめます。
いつも申し上げ、これからも繰り返し申し上げることでしょうが、私たちといえども全ての知識を手にしているわけではありません。無限に存在するからです。が、地上のあなた方は私たちにない肉体的条件によって制約を受けていますから、手にすることのできる知識はきわめて限られております」
こう述べてから、メンバーの一人で非常に疲れた様子をしている人に向かって・・・・
「休息が不足すると身体がその代償を支払うことになります。その代償の度合いが大きすぎると、完全な休息を要求されて、あなたは床につかねばならなくなります。各人各個の責務という教理を説きながら、その働きに例外があるかのようなことを申し上げるわけにはまいりません。無理して一度に多くのことをなさってはいけません。肉体は所詮は機械です。その限度を超えたことを要求してはなりません」
別のメンバーが意見を述べる。
──疲れすぎると床につかねばならなくなるとおっしゃいますけど、休むわけにはいかないこともあります。休まなくてはいけないことは分かっていても、世話をしてあげなくてはならない人たちとの関係においては、自分より気の毒な状態にあるのを見ていながら自分だけ休むわけにはいきません。
「自然の摂理の働きは変えようにも変えられません。私には皆さんに対する愛があります。もし無かったら今こうしてここにいることもないでしょう。私たちにとって地上という世界は何一つ魅力はありません。なのにこうして戻ってきて皆さんの中に混って皆さんとともに仕事をするのは、皆さんに対する愛があるからです。そうすることで何の利益を受けるわけでもありません。私たちの多くには(*)これまでに身につけたものを惜しげもなく犠牲にして皆さんのお役に立ちたいという願いがあるのです。
(*〝私たち〟とは言わずに〝私たちの多く〟という言い方をしたことには意味がある。『霊訓』のモーゼスの背後霊団をはじめとしてスピリチュアリズムの初期の霊団には、自縛霊の状態からやっと脱したばかりの低級霊が大勢いて、複数の高級霊の監督のもとに物的証拠を見せるための物理現象を担当した。
言うなれば〝勤労奉仕〟のようなもので、ある程度その仕事にたずさわって霊的に向上してくると、代って別の低級霊団が同じ仕事を受けもつというふうにして、よく入れ替りが行われた。
その種の霊にとっては、それまでの怠惰や罪の償いをする絶好のチャンスなのであるが、それを監督・指導する立場の霊にとっては光輝あふれる世界からどんよりとした息も詰まらんばかりの地上圏に降りてくるのは大きな犠牲を強いられることになる―訳者)
私たちは情愛に満ちた心で皆さんを愛しております。しかし、だからといって皆さんの都合のよいように摂理を変えてあげるわけにはまいりません。皆さんは肉体という機械をお持ちです。どんなに優秀な機械でも休息が与えられます。皆さんの肉体のように片時も休むことがないという機械は他にありません。機械は休ませないと故障します。
肉体はあなたのものですから、その健康管理はあなたの責任です。神はそのための能力として知性と理性とを与えてくださっております。宇宙の摂理について知り得たかぎりの真実を有りのままに述べている私を責めてもはじまりません。私は、私が間違いない真理だと信じたものを欺くようなことは申せません。目的とすべき理想、霊的真実に基いた処生訓、それを忠実に人生に応用すれば、霊としての当然の遺産であるべき豊かさをもたらしてくれるもの、それをお教えするだけです。
最終的にどう決めるかはあなたご自身です。私もできるかぎりの援助はいたします。が、時として私たちにも如何ともしがたい情況というものが生じます。あなたの自由意志を無視するわけにはまいりません。側に立ってあなたがなさることを見つめるしかないことがあります。あなたの霊的進化にとってはあなた自身による決断が重大な要素となるからです」
──その際には摂理にもとることをしても許されるのでしょうか。
「そのときの動機が大切な要因となります」
──でも、人間生活においては愛する人を救わんがために、悪いと知りつつも善意から、摂理にもとる行為をせざるを得ないというケースも有り得るのではないでしょうか。
「私に申し上げられることは、あくまで摂理は摂理であるということが摂理である、ということだけです。摂理は摂理であるがゆえに、その摂理どおりに働くしかありません。もしも私が原因と結果の関係に干渉することができるとしたら、これは大変なことになります。良かれと思ってしても、結果的には大へんな害をもたらすことでしょう。摂理は完璧にできているのです。定められた通りに働くのが一ばん良いのです」
──事態を収拾するためにさまざまな法則を集中的に動員することがあるとおっしゃたことがありますが。
「あります。絶対的窮地に陥ったときに救ってさしあげた方が皆さんの中に何人かいらっしゃいます。私たちが干渉できないのは原因と結果の関係です。また、いわゆるお情けというものも一切ありません。
私は指導霊としての立場から、あなたの身体が機械であることを指摘しているのです。休ませてやらねばならないことがあると申し上げているのです。疲労が度を過すと機能が停止します。停止すると再び機能を回復するまでに床についていなければならなくなります。
私がつくづく思うのは、これまでに啓示していただいた真理のすばらしさをみて、*われわれ一同はほんとうに恵まれた者たちだということです。それに加えてわれわれは又、霊力のすばらしさを見ることができました。事態を一変させ、進むべき道を指し示し、導きを与え、各自が天命をまっとうするための理想の生き方を教えてあげることができることを知りました。これはただごとではない大切なことです。
(訳者注=ここでいつものように*〝私たち〟とせずに〝われわれ〟という言い方にしたのは、気持の中でサークルのメンバーも含めているからである。ここではシルバーバーチは、霊団としての霊の力にこれほどすばらしいことができるのかという驚きを抱いている気持を表明している。
前巻の八章の〝シルバーバーチの最大の発見〟の中でも同じことを述べている。人間のために大きな犠牲を払いながら、これほどのことをやらせていただいていることに、その恩恵を受けるサークルのメンバーと共に感謝している気持が私には読み取れるのである。謙虚さが自然に出ていて、読んでいてこちらの方が恐縮させられる)
肉体は霊が自我を表現するための道具です。存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。そこで神は、その無限の叡知によって、肉体を休息させ、活力を取り戻させるための〝睡眠〟を用意したのです。
地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び覚醒め、夏にその壮観を披露します。人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です」
──ここで過労によって健康を害している二人のメンバーにこう説いた。
「無理をしていることを知りつつも無理を重ねて、けっきょく中途で倒れる人がいるものです。倒れたら休息するほかはありません。私たちはあなた方に自助の心構えを説き、霊と精神にかかわる摂理だけでなく、その肉体を支配している生理的法則にも絶対的に従わねばならないことをお教えしています。それを忠実に守り、霊と精神と肉体が調和状態にあるかぎり、あなた方は健康であり健全です」
メンバーの一人が「どうやら私は言うことを聞かない部類に入るようです」と述べると
「言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。〝スピリチュアリズムには七つの綱領〟(*)というのがあります。その一つに〝各個の責任〟というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。
あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則です」
(心霊誌 Two Worlds の創刊者である女性霊媒エマ・ハーディング・ブリテンを通じて地上で社会主義思想家として有名だったロバート・オーエンが提唱した基本原理で、あえて直訳のまま紹介すると次の通りである。
①神の父性 ②人類の同胞性 ③霊の交信と天使の支配 ④人間の霊魂の存続 ⑤各自の責任 ⑥地上生活における善行と悪行に対する死後の応報 ⑦すべての霊魂に開かれている永遠の向上。以上を基本として、さらに、キリスト教的信仰を忘れきれない一派や、反対にキリスト教的色彩を徹底的に抹殺したい一派などによって、それぞれに拡大したり敷延したりした綱領もある。訳者)
──各自に責任があるとは知識としては知っていましたが、これまでは他人事のように考え、自分の問題として真剣に自覚したことはありませんでした。これからは心掛けようと思います。
「ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。
このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。
いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。動機さえ正しければ絶対に間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。
(ここで〝間違ってはいません〟というのは霊性を傷つけることはないという意味であって、それによる結果に対しては責任は問われないという意味ではない。訳者)
あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです」
第4節 寿命の問題
みずからも霊媒である人が招かれて、シルバーバーチと語り合った中で「人生は目まぐるしく過ぎていくのに、やりたいことは山ほどあります」と述べると、シルバーバーチがこう語った。
「人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうかと案じていたことを知らなくてはいけません。
しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。あなたのあとにさらに次の人材が用意されていることでしょう。そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。
地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの不完全性を発揮しようとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。
縁あってあなたのもとを訪れた人に真の自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。
ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての荘厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです」
──人間の寿命は前もって決められているのでしょうか。それとも肉体の強健さ、そのほかの要因の問題でしょうか。
「肉体の強健さなども寿命を決定づける要因の中に入っております。物的身体構造すなわち肉体は、魂が成長するための地上的体験を得る上で無くてはならないものです。霊と肉体とは一体不離です。そして地上生活の期間、いわゆる寿命が切れる時期は大方の場合あらかじめ分かっております。
肉体を霊から切り離して考えることはできません。肉体は霊に制約を加え、霊は肉体に生命を与えるという具合に、両者は切っても切れない関係にあります。一個の存在を構成している二つの要素を分離して考えてはいけません。あなたという存在は数々の要素が互いに反応し合いながら一個の総合体を構成しているのです。すべての側面が融合し結合し混ざり合って、あなたという一つの統一体すなわち霊魂を構成しているのです」
──寿命が定まっているということから出る疑問ですが、もしも、たとえば千人の乗客が一度に溺死した場合、その人たちは皆その特殊な時期に死ぬことになっているということになるのでしょうか。つまり彼らの魂の成長のために定められた寿命は同じだったのでしょうか。
「問題は用語です。あなたは今〝定められた〟という言い方をされましたが、そういう言い方をすると、では一体だれが何を基準に、という疑問が生じます。そして多分その裏には神によって摩訶不思議な方法でそう仕組まれるのだという漠然とした考えがあるはずです。が、そういうものではありません。生命現象の広大なパノラマの一つ一つが自然法則によって支配されているのです。
地上の科学者がいかなる説を立てようと、いつかは必ず肉体に死が訪れます。それは霊を解放するという役目を果たすことになるのです。つまり肉体の死は肉体の誕生と同じです。前者は霊の〝退場〟であり、後者は〝入場〟です。
地上では死を悲劇と考えますが、私たち霊の立場からすれば悲劇ではありません。解放です。なぜなら、霊の霊的誕生を意味するからです。地上のあらゆる悩みごとからの解放です。よくよくの場合を除いて、死は苦労への褒章であって罰ではありません。死は何を犠牲にしてでも避けるべきものという考え方は改めなくてはいけません。生命現象に不可欠の要素であり、魂が自我を見出すための手段と見なすべきです」
第5節 命日は記念すべきか
招待客が友人からの質問として「悲しい命日は心の痛みを呼び覚ますだけだから愚かで無意味だという考えはいかがでしょうか」と述べ、それに自分の考えとしてこう付けくわえた。
──今更どうしようもないことは分っているのに年に一回、心の痛みを思い出すのは間違いだと思います。
「その質問者のいう〝悲しい命日〟というのは何のことでしょうか」
──故人が亡くなった日です。その日に何もしたがらない人がいます。改めて悲しい思いをしたくないのだと思います。
「誰にとって悲しいのでしょうか」
──その人を失った家族です。亡くなった本人ではありません。私はあなたのお考えに同感です。亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義だと思います。
「一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛するものを失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(自縛霊)がいますが、それは少数派に属します。
大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。
過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません!過ぎ去ったことをくどくどと思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に夢をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です」
訳者注──〝シルバーバーチは語る〟と題されたカセットテープの中で司会者が「ルドルフ・シュタイナーの一派では死者に向かってリーディング(仏教でいう〝読経〟で、読心術ではない)をするのですが、何らかの効用があるのでしょうか」と質問したのに対してシルバーバーチは「害もありませんが、さして薬になるとも思いません。こちらはこちらで救済のための施設がたくさん用意されています」と述べている。
たしかに、たとえば『ベールの彼方の生活』を読むと高級霊団が地上各地から地縛霊を大ぜい救出して戻ってくる一行を描写しているところがある。国籍が入り混じっているので服装もさまざまで、救出された者どうしがキョロキョロと互いの衣服を見くらべて不思議そうな顔をするユーモアあふれる場面もある。そのほか慰安や看護のための施設も何度か出てくる。
その観点から言うとシルバーバーチの言う通りなのであるが、私は日本人特有の問題として、供養とか戒名とか院号とかにまつわる日本的しきたりに余りにこだわった地上生活を送った人の中には、向こうへ行ってから自分もそうしてもらわないと気が済まない、いわゆる〝成仏できない〟霊がいて、霊界の指導者を手こずらせていることが多いことは、事実として認めざるを得ないように思う。
この種の地縛霊は日本ではけっして少数派とは言えない。そういう霊は言わば〝わからず屋〟なのであるから、そのわがままをある程度は聞いてやる必要があるので、それは地上の人間の協力を要する問題となってくる。
ただ、シルバーバーチはつねに永遠の時を念頭において説いていることを忘れてはならない。人間が余計な心配しなくても、いつかは霊界の方で何とかします、という意味に解釈すべきであろう。
──肉体に宿っているとそれが悟れないのが悲しいことです。みんな物質に惑わされて、物的なものには価値がないことが理解できないのです。そういう人にとって人生は舞台劇のようなもので、カーテン(幕)が下りるとそれでお終いです。
「それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。
私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。
そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。その事実を認識し受け入れることによって死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります」
これを聞いてサークルのメンバーが尋ねた。
── 一つの人生の旅が終わったのを見て悲しく思うのが人間の情だと思うのです。それは一時的な情ですから、たとえ悲しんでも、死を嘆いているのとは違うと思うのです。
「私の世界へやって来た人は死が階段を一つ昇った事を意味すること、大きな解放を得たことを理解します。」潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。
もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです」
──愛し合う二人のうち片方が先に他界した場合、残された方がのちに他界した時に間違いなく幸せの楽園が待ってくれていると考えてよいでしょうか。
「その通りです。ただし、互いに愛し合っていた場合のことであって、一方的な愛ではそうはなりません。愛はその対象から切り離して存在することはできません。地上というのはほんの一時的な場にすぎません。肉体に不老不死はありえません。
ですから、いずれは地上を去る時が来るのであれば、いよいよその時(死期)が近づいた人を祝ってあげるのが本当なのです。そして又、いずれは自分もあとから行って、地上では想像できない、より大きな光明と美と驚異の世界でいっしょに生活することになることを知ってください」
──そのことを私たちは物的観点から考えなくてはならないところに難しさがあるのです。死ぬまで待つことになりますが、ただ待ってはいられない・・・いろいろと生きるためのことをしなければなりません。生き続けなければならないのです。その辺がとても難しいのです。
「霊的真理を物的観点から考えるとなぜ難しくなるのでしょう?」
──私たちは物的存在だからです。
「でも本質的には霊的存在です。物的身体をたずさえているというだけです。あくまでも霊が上位で肉体は下位です。そうした観点から、お手持ちの知識に照らして、正しい判断を下さないといけません。何ごとも価値あるものは困難がつきまとうものです。霊的褒章が簡単に手に入るとしたら、それは手に入れる価値はないことになりましょう」
──死後の世界について多くのことを聞かされていても、死後に備えた生き方を心掛けている人は少ないように思います。本日お聞きしたことを肝に銘じて、たとえばテレビばかり見ていないで、美術とか工芸に手を染めるなどして今から準備を始めるのも一つの生き方だと思うのですが、何か良いアドバイスをいただけますでしょうか。
「その問題は結局悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば・・・もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば・・・もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです」
第6節 災害・事故による死
──霊的発達程度におかまいなく地震などによって一度に何千、何万もの人が死んでいくのはなぜでしょうか。
「なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかく死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。
あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で六十歳、七十歳、もしかして百歳まで生きたとしても、無限の時の中での百年など一瞬の間にすぎません。
大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです」
(霊としての意識と肉体に宿ってからの脳を焦点としての意識とは別である。地上での時間と場所の感覚は脳を焦点とした地上独特のもので、そこから人間的煩悩が生まれる。悟りの程度というのはその地上的感覚による束縛から脱する程度と等しいということであろう=訳者)
──地震その他の災害の話に戻りますが、その災害で生き残る人がいます。が、その人たちはそれから他界するまでの永い年月を苦しみながら生きることがあります。たとえば家を失ったまま我が家を持つことなく生涯を終える人もいます。そうした場合、その人たちはそういう体験を得るためにその土地に生を受けたのでしょうか。
「地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。〝蓮の台(ハスノウテナ)〟の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時こそ魂は自我を発揮するのです。あなたにはそれが得心できないお気持ちは分ります。地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有り難いことなのです。」
別の交霊会でもこう述べている。
「私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが〝死〟は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。
ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります」