第2章 なぜ生れてきたのか
地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこう言う身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。

ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。

あなたがた地上の人間にとっての大きな問題点は、やむをえないことかもしれませんが、人生というものを間違った視点から観ていることです。つまり余りにもこの世的・物質的観点からのみ人生を考えていることです。人生には確かに地上的な要素がありますが同時に霊的なものであり、永遠に続くものなのです。その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。それでは充全な判断は出来ません。

神の子には一人の例外も無く、善悪ともに〝埋め合わせ〟の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。

人生には目的があります。しかしその目的は、それに携る人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形では無いのです。人間の一人ひとりに分霊が宿っており、一人一人が無限の創造活動に参加できるのです。

つまりあなた方には個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意思が与えられているのです。自由意志と言っても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。

運命全体としての枠組みは出来ております。しかしその枠組みの中で、あなた方が計画した予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第だということです。
もしかしたら、そのブループリントさえ自覚できないかもしれません。でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。ときにはそれが悲嘆、無念、苦悩、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせることになります。

もしも神があなたを創造活動へ参加させ、そうすることによって潜在的神性を開発させることを望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味は無いことになりましょう。そこに〝埋め合わせの原理〟が働いていることを理解しなくてはいけません。

つまり創造活動に貢献する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組みです。

つまり二重の仕組みになっているわけです。進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。魂の奥には物質界のいかなるエネルギーよりも大きい威力が秘められています。宇宙は大霊の一部だからです。それが無ければ生命は存在しません。なぜなら生命は霊そのものだからです。物質はカゲにすぎません。霊という実在の殻にすぎません。この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟りの程度にかかっています。

霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命はありません。物質は殻にすぎません。霊という実在によって投影されたカゲにすぎません。物質それ自体には存在はないのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。

霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最期、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。物質を崇拝する人間は間違った偶像を拝していることになります。そこに実在が無いからです。物質は一時的な存在にすぎません。

霊は全ての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。人間という形態によって表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ、生命があるところには必ず霊が働いております。

自覚の程度、意識の程度にはさまざまな段階があります。霊の表現形態は無限だからです。無限なるものに制限を加えるわけには参りません。その生命の背後の力をあなた方は〝神〟と呼び、私は〝大霊*〟と呼びます。それは全ての霊の極致であり源泉であり頂上であるからです。

いかなる形態を取ろうと、創造者たるその大霊の表現であることに変わりありません。(*シルバーバーチはこの〝大霊〟Great Spirit の他に〝白色大霊〟Great White Spirit という呼び方をします。白色とは実は無色透明を意味しているのですが、やはり〝神〟Got という言い方もよくしますので、本書では特殊な場合を除いてこの〝神〟に統一しました。──訳者)

残念ながら、人の為に役立つ仕事はなかなか思うにまかせないものです。私が法則をこしらえたのではありません。宇宙の理法はこうなっているということをお教えしているだけです。最大の貢献をなさんと心がける人は、困難や難問を避けようとしてはなりません。その結果、困難、その難問こそが、そうした志をもつ人々の魂の奥底を掘り起こし、奉仕の仕事に役立つ道具として是非とも具えなければならない隠れた資質を活用させることになるからです。

奉仕という名の硬貨(コイン)にもその価値を示す表示があるということです。真に役立つ人間になるためには魂の最奥まで響く強烈な体験がなくてはなりません。

魂が円熟の花を咲かせるためには奥深く耕されなければなりません。そのことを思うと、私は時として、その逆であってくれればいいのだが・・・・と思うことがあります。つまり自己犠牲の道を歩む人間がいうなれば〝バラ色の人生〟を歩むことができればと思うのです。しかしその美しいバラにもトゲがあります。

以上、霊について真理を幾つか紹介しましたが、私がそれを変更するわけには参りません。できもしないことをあたかもできるかのように言うわけにはいきません。できないものはできないのです。無限なる霊である神の働きは完璧です。完璧なる公正のもとに働きます。

完璧というものは、未完成の地上の人間だけでなく私どもの世界の多くの界層の霊にとっても理解できるものではありません。物事には必ず埋め合わせがあり、応報があります。その計量は完璧な天秤によって行われます。犠牲的生活によって魂が〝損〟をすることはありません。

また利己的生活によっていささかも〝得〟をすることはありません。魂の進化の程度と悟りの指標はどれだけ〝ゲッセマネの園(※)〟に生き、どれだけ〝変容の丘(※※)〟に達するかにあります。そこには神の真の愛の働きがあります。(※キリストが最大の苦難と裏切りにあった場所──苦難の象徴。※※キリストがこの世のものと思えぬ輝ける姿に変容した丘──苦難克服の象徴──訳者)

人のために己を棄てる仕事にもいろいろあります。ある者は人目につく派手なものであり、ある者は人目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人のために役立つことです。霊的真理の悟りを一人でも多くの、受け入れる用意の出来た人に施すことです。

不安と恐怖に満ち、数知れぬ人々が明日はどうなるかと案じつつ生きているこの世においては、人生とは何かについて、表面的なことではなく、真実の姿を教えてあげなくてはなりません。

大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだという事実を知ることです。その地上生活を無知の暗闇の中ではなく、叡知の光の中で、肩をすぼめず背筋をまっすぐ伸ばして、恐れを抱かず堂々たる落ち着きをもって生きるべきです。

あなた方は一時の勝ち負けのために備えているのではありません。目先の結果、一時の勝利ではなく、永遠なる目的、無窮の闘いに携っているのです。成就したものがいかなる結果をもたらすかを安易に推し量ってはいけません。

今日世界各地で難攻不落と思われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われていきつつあります。

あなた方の懸念は無意味であり根拠がありません。しっかりとした手に守られております。これまでもずっと、それによって支えられてきました。もしそうでなかったら、とうの昔に地上を去っていることでしょう。霊的なものにとって〝恐れる〟ということがなによりも強烈な腐食作用を及ぼします。

恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。なんとなればそれが霊力が作用する通路を塞いでしまうからです。

光の中ばかりで暮らしておれば光のありがたさは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためにはそちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来たものは、こちらで用意している喜びを味わうことはできません。少なくとも永続的な幸せは得られません。

人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ちうけている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。

この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終われば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られないことになります。このことは地上だけでなく、私どもの霊の世界でも同じことです。

毛を刈り取られたばかりの羊は冷たい風に当たらないようにしてやるものです。神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の一つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別な言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるということです。

いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身に付きます。片方無くして他方はあり得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。

あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然のことながら罪を犯すことになります。私はこれを〝過ち〟と呼ぶ方を好みます。

もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰ひとり存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。

光を有難いと思うのは陰と暗闇を体験すればこそです。青天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対照の中において悟っていくものです。もしも辿る道が単調であれば開発は無いでしょう。さまざまな環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成就して行くのです。

時として、人生が不公平に思えることがあります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思えることがあります。しかしその観方は事実の半面しか見ておりません。まだ未知の要素があることに気づいておりません。

私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら、神の摂理がその通りに働かなかった例を一つとして知らないからです。こちらへ来た人間が〝自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている〟などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は一つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。

もしも誤りを犯すことがあったら宇宙は明日という日も覚束(おぼつかない)ことになります。あなた方が誕生する遥か以前から地球は存在し、あなた方が去った後も延々と存在し続けます。

何億年の昔、まだ地上に何一つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰一人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのおかげで石炭その他の太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とすることが出来ているのです。何と悠長な教訓でしょう。

せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことは出来ないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。

それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。

見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信を持つことです。不動の信念を持てば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践して見ればその通りであることを知ります。物質は霊の僕です。

霊は物質の僕では無いのです。身体が一人で呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。

霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値は有りません。その道に近道は有りません。王道は無いのです。各自が自分で努力し自分で苦労をしなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。