ダイちゃん事件資料集−お祝いのメッセージ

ご協力いただいた皆様や関係者のメッセージです。

北海道大学 奥田安弘 立命館大学 二宮周平 弁護士 竹下政行 今西富幸(産経新聞社社会部)

藤原章裕(産経新聞広島支局記者) 支える会事務局長・崎阪治 蔵本正俊(国際婚外子の国籍を考える会世話人代表)

松村千賀子 高雄きくえ 弁護士 中島光孝 久保木要(中国新聞社) 水越紀子 広瀬正明 高畑 幸


ダイちゃん事件を振り返って

北海道大学 奥田安弘

 ダイちゃん事件について、弁護士の中島光孝先生から「意見書」執筆の依頼があったのは、1995年の春頃であったかと思う。アンデレの最高裁勝訴から数ヵ月後のことである。最初はとても勝ち目がないというのが正直な感想であったが、裁判資料を読んでいくうちに、あるいは勝てるかもしれないという気持ちになっていた。実際のところ、判決ではなく和解という形で、この裁判は終わったが、事実上の勝訴であった。その内容は、(1)ダイちゃんについて、胎児認知の成立を認めて日本国籍を取得すること、(2)Fさんについて、在留特別許可を与え「定住者」としての在留資格を認めることであった。
 まず(1)については、胎児認知と生後認知による国籍取得の違いを前提としている点で、国側は和解に応じやすかったのであろうが、本来は、裁判所がこの前提そのものを違憲とする判決を下すべきであった。しかし、この裁判をきっかけとして今後、少なくとも胎児認知の届け出を不当に拒否する例がなくなれば、一歩前進であったと評価してよいであろう。また(2)については、すでに1996年7月30日の通達により、日本人父親の認知があった子どもを養育する外国人母親に「定住者」としての在留資格が与えられることになっており、その結果、Fさんに在留特別許可を与える下地は出来上がっていた。しかし、私はむしろ、この裁判が7月30日の通達を招き寄せたのだと考える。すなわち、そもそも「定住者」という在留資格は、入管法上、「法務大臣が特別な理由を考慮し、一定の在留期間を指定して居住を認める者」に与えられるが、Fさんに在留特別許可を与える際には、この入管法別表に掲げられた在留資格のいずれかに当てはめる必要がある。したがって、7月30日の通達は、この当てはめるべき在留資格を用意したことになる。
 最後に、原告弁護団の先生方や支援団体の行動力に敬意を表したい。「支援ニュース」の発行、支援集会の開催、裁判の傍聴などはもとより、マスコミへの働きかけ、さらには日弁連の警告書など、あらゆる手段を使って、今回の和解を勝ち取られたように思う。これらの運動の中から、それぞれの方が自分なりの収穫を得られたに違いないが、私も、この輪の中に入って、いろいろ勉強させていただいた。その成果は、とくに2冊の著書の形で残したが、まだまだやり残したことは多い。今後も、皆さんと一緒に活動を続けさせていただきたい。


立命館大学 二宮周平

 アジアから来日した女性と日本人男性の間に生まれた婚外子が、日本で生活しているのに日本国籍を取得できず、母子ともに国外退去の処分を受け、父と強制的に分離されるという、人間の心情をくもうとしない法制度に疑問を感じていました。法秩序という建て前の下に辛い思いをする人がいれば、それをできるだけ少なくして生きやすい制度に修正していくことが、人間の智恵だと思います。ダイちゃん訴訟は、そうした智恵が試されていた裁判ではないでしょうか。
 本件の場合、結果としては役場の担当者が、お父さんが胎児認知の手続きに来所されたことを認めたことが決め手となり、国籍の取得が認められる和解に結び付いたわけで、こうした証言を導き出した原告、弁護士、支援する人たちのねばり強い努力と、最終的に証言をされた担当者の決意に、最大の賛辞を贈りたいと思います。つたない意見書でしたが、いくらかでもお役に立てたかと思うと、私自身もたいへん嬉しいです。
 私は、いささか大げさですが、個の尊厳と男女の対等性を基本にした家族法体系の構築を研究テーマとしています。ですから、婚外子に対する法的な差別は、家族の中の個の尊厳を侵害するものとして、あってはならないことと考えています。相続分の差別、戸籍の父母との続柄記載の差別、児童扶養手当の認知による支給打ち切りなどと並んで、この国籍取得の問題も婚外子の差別として位置付けることができます。
 日本人父と外国人母が結婚していれば、たとえ子の出生前に父母が離婚し父と子が没交渉であっても、子は嫡出子として日本国籍を取得できます。ところが婚外子であれば、事実婚で暮らしていても、あるいは本件のように父が別居している婚外子に対して継続的にかかわり続けていても、日本国籍を取得できません。父子の実質的な結びつきが全く考慮されません。一方で、日本人母と外国人父との間の婚外子や日本人父が胎児認知をした婚外子は、日本国籍を取得できます。こうした区別をする合理的な理由があるとは思われません。だから、智恵を働かせて、生後認知でも日本国籍が取得できるようにすべきです。
 本件は和解で終了したため、この点に関する裁判所の見解を聞くことができず、また他の同種の事件について解決の指針となるような判決を得ることはできませんでした。このことは残念ですが、ダイちゃんに日本国籍を認めるという裁判の最大の目的が実現されたのですから、そして和解とはいえ原告が勝ったという事実は、他の裁判の関係者を勇気づけるに違いないと思い、満足しています。私自身は、国籍取得に関する婚外子差別が法解釈や立法によってきちんと解決されるまで、研究者としてこの問題にかかわり続けるつもりです。今後ともよろしくお願いします。
 最後に、ダイちゃんとお母さんが、お父さんの励ましを受けつつ、元気に楽しく生活されることを願ってやみません。


裁判を振り返って

弁護士 竹下政行

 私は、この夏、初めての海外旅行としてフィリピンに出かけた。フィリピン従軍慰安婦事件に関わってである。旅程を終えて、今、多様な感情が整理のつかないままに胸中をさまよっている。それらの感情の基調をなすのは、一種の「物悲しさ」であることは確かであるのだが、それがどうして湧いてくるのかの分析を試みても、その営みが陳腐な表現にであう度に、再び振り出しに連れ戻されてしまうような幻惑を覚知する。身についている歴史・地理・人間のとらまえ方がいかに頼りないものであったかが切実に感じられている次第である。
 この裁判は、いままでの私の弁護士としてのキャリアの多くの部分を占めたものであったが、裁判を終えて、私の頭や胸に去来する想念について考えてみても、やはり、今までに自分の持ち合わせ得た知識・経験だけでは整理することのなし得ざるものであることを告白せざるを得ない。裁判の結果の喜ばしさは別として、そのような想念の基調をなしているのも同様な「物悲しさ」であるように感じられてならない。
 もとより、裁判の俎上にあった「事件」についての意見や推論や主張は、準備書面の作成や尋問の中で、あるいはそれらに結実するまでの議論において既に尽くされている。このような過程を経験することができたのは、そして、初期の目的を達成し得たのは、私にとって大変に幸福なことであった。その面での「未整理」や「分析未了」はない、というのが、形容矛盾ではあるかも知れないが、職業的な実感である。
 私が、ここで「告白」したいとしたのは、それらとはやや別な次元のことである。
未整理である分野領域は、きっとたくさんあるのだろうが、その中で大きなものの一つは、歴史と地理の諸条件のなかで、男と女や親と子の関わりあいのあり方を実相と規範を関連づけて考えてみることの困難さであるだろうと思っている。「未整理」であるが故にこのような生硬な表現に留まっていることをお断わり申し上げたい。
 ダイちゃんは、私の長男と同じ歳である。いつか私は、今はまだ整理し得ていない、この分野領域に関わる話を我が子とすることは間違いがないだろう。同じ頃、我が子と長じたダイちゃんに対して話すときの自分の言葉を探すのが、これからの私の課題である。


感想

今西富幸(産経新聞社社会部)

 F・ダイちゃん母子の裁判は、事実上の和解が成立するまでに実に三年半にも及んだ。国がその非を認めるまでと言い替えるなら、この歳月はあまりにも長すぎたというしかない。国がそこまでして守らねばならなかったものはいったい何か。いまもぬぐい難い思いにとらわれる。
 振り返れば、この裁判には特筆すべきターニングポイントがあった。最大の争点となった胎児認知の日付をめぐって、当時の真実を語る区役所側の証言者が現われたことである。それまで胎児認知の届け出はなかったと頑なに主張し続けた区役所側の詭弁が、はからずも同じ職員の証言で突き崩されることになろうとは、おそらく原告弁護団も予想できない展開だったに違いない。
 裁判の流れは大きく変わった。国側がダイちゃんの日本国籍を認めることに合意することになったのは、皮肉にも死守しようとしたはずの理論によって自らを破綻に追い込んでしまったからである。思わぬ証言者の出現には確かに僥倖であったが、だからこそ、国側が守ろうとしていたものの存在が不気味に浮かび上がってくる。
 この構図はF・ダイちゃん母子の裁判だけに言えることではない。和解まで七年もの歳月を重ねた薬害エイズ訴訟においても、被告の国の素顔は取材する側にとっても遠くおぼろげにかすんだままだった。被告側が責任を回避し続けた薬害の裏で、とても大切なものが置き忘れられていたような気がする。
 それはほんの少し目をこらせば、おのずと見えてくるものだ。例えば他人に向き合う心だったり、やさしさであったり。おそらく、そのことを身をもって学んだのはFであり、またダイちゃんであったのだろう。二人がこの間、日本という国でどのように生きたのか。母子が残した足跡の重さを国はしっかり受け止めるべきである。
 母子を支えた多くの人達との出会いはむろん、この裁判を動かしたのはダイちゃんとともに歩んだFの何ものにも代え難い愛情の大きさだったのだと私は思う。


藤原章裕(産経新聞広島支局記者)

 約1万人と言われるジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(日比混血児)の存在や国際婚外子に対する差別の実態、難解な民事訴訟の仕組み…。広島地裁で争われたダイちゃんちゃんの日本国籍確認訴訟は、新米記者だった私にとって勉強の連続であり、証言の一言が裁判の流れを大きく変えるという「法廷のドラマ」を十分に堪能させてくれるものだった。
 私が新聞記者として広島に赴任した平成6年夏、裁判は中盤を迎え、原告、被告双方の証人尋問が行われていた。裁判では、日本国籍の取得に必要な胎児認知があったかが最大の争点になっていたが、胎児認知を済ませたとする原告側に対し、被告の国側は「出生前の認知はなかった」と主張。証人として次々に出廷する西区役所側の職員も同じないようの証言を繰り返していた。
 取材を深めるにつれ、新聞記者を超えた立場でダイちゃんちゃんの日本国籍取得を願っていたが、正直なところ「勝訴」は極めて困難に思えた。裁判を側面から支援してきた「ダイちゃんを支える会」の崎阪治さんも「勝訴は難しいが、国際婚外子の差別の現状を世論に訴えることができれば…」と、苦しい心境を打ち明けていたことを覚えている。だが、その流れが大きく変わったのは、初秋の風が吹き始めた平成7年10月5日。忘れもしない第10回口頭弁論だった。
 この日、証言台に立ったのは、ダイちゃんちゃんの出生の6日前、父親が胎児認知を届け出た広島市西区役所に勤務していた職員だった。始めは、胎児認知に必要な手続きなどに関してマニュアルでもあるかのような型通りの答弁が続いていた。が、その直後に「父親が胎児認知を届け出ようとしたことを記憶しています…」と予想外の証言。原告弁護団の表情にも戸惑いが感じられ、私自身「一言一句聞き漏らすまい」とメモをとる手に力が入った。
 −−父親が胎児認知を出しに来たんですね。
 「ええ、そうです。」
 2時間にも及んだ職員の答弁は、国側の主張を完全に覆えすとともに、組織ぐるみ認知届を否定しようとした区役所の対応を明らかにするものだった。閉廷後、原告弁護団の野曽原悦子弁護士は「我々もびっくりしています。決定的ではないが、裁判の流れが変わったことだけは確かです」。
 興奮していたのは原告側だけではない。私も「このニュースを早く世間に知らせたい」との思いで約60行の長い原稿を書き上げた。その記事は翌日の地方版に掲載され、取材ノートとともに今も手元に残っている。ただ、記者2年目の私の文章は明らかにインパクトに欠けていた。職員の証言が裁判の流れを根底から覆えした点を強調しきれなかったのだ。
 「もう少しうまく書けていたら、全国ニュースで脚光を浴びていたのに」と後悔している。法廷のドラマに立ち合いながら、読者に伝え切れなかった苦い思い出だ。
 この証言を機に、裁判は昨年11月、原告側の「全面勝訴」の形で和解が成立。ダイちゃんちゃんの日本国籍とFさんの在留資格が認められた。記者会見したFさんが「ダイちゃんを日本の学校に通わせたい」と喜んでいたのが印象に残っている。裁判は、区役所側の対応のまずさを明らかにするとともに、外国人女性と日本人男性の間の婚外子にのみ、胎児認知の手続きを課す国籍法の運用解釈にも疑問を投げかけた。だが、この裁判が地元に与えた影響は決して大きいと言えないことが残念でならない。
 「裁判の当事者」とも言うべき広島市は、市が訴えられているのではなく、第三者としてコメントできない」と責任を回避。提訴前に「胎児認知の届け出はなかった」と明言していた当時の西区役所の市民課長は、「和解は好ましい」と述べるにとどまり、最後まで謝罪の言葉は聞かれなかった。また、ダイちゃんちゃんの支援運動が盛り上がった大阪に比べ、広島では国籍法に関する公演・シンポジウムはあまり開催されていない。現在、ダイちゃんちゃん母子が大阪に住んでいるとはいえ、地元で起こった事件にしては反応は今一つだ。
 和解成立から半年が経ったが、ダイちゃん裁判に関わった地元記者として、今後も国籍法の問題点や、広島市を始めとする行政問題には目を光らせて取材にあたりたい。そして少しでも、広島の人たちにこの裁判の重要性を理解してもらえることができれば、と強く感じている。


ダイちゃん事件を振り返って

支える会事務局長・崎阪治

 早いもので、私がダイちゃんの父と母に出会ってからすでに8年がたとうとしています。その間、最初は妻子ある日本人男性と超過滞在の外国人女性のケースとして、その後ダイちゃんの誕生にともなう子どもの国籍取得の事案として、そして国籍確認と退去強制の取消訴訟へと推移しました。裁判以後の経過については今までご報告してきたとおりですが、この長きに渡った争いにもようやく終止符が打たれました。
 この事件は、そもそも男女のおかした「あやまち」であったかもしれません。しかし、その「あやまち」に対し、責任を男女が等しく分担し、起こってしまったことに対して最善の措置を講じようとすることが許されなかった。弱いものに責任が押し付けられ、その口が封じられる。それが当事者によってではなく、国家により、社会により行われていることが露見した、そんな事件ではなかったでしょうか。一人の婚外子の誕生に際し、その子どもの責任はすべて女性にあり、子どもは女性に付随する存在とされたこと。それがために子どもの父とのさまざまな交流が阻害されても関知しないとし、さらには母の国が東南アジアの途上国であったため金さえ送ればその金が何倍にも価値を増し、子どものためになるといった金満日本の象徴とも言える主張が国側から出たこと。これらのことから考えると、ダイちゃんの父は「あやまち」に対して最大限の誠意をつくし解決しようとしたにもかかわらず、「日本人」「男」「大人」ということを武器に「馬鹿なことをせずに逃げなさい」と国家から言われていたような、そんな気がしてなりません。
 これに対して、私たち「ダイちゃんを支える会」では精いっばいの支援をし、弁護団におかれましてはそれ以上の尽力をしていただきました。私などは、正義は必ず勝ち、真実はひとつと信じておりましたが、しかし反面、行政のプロ集団に素人が一人で挑んだわけで、その立証という作業の中で苦戦を強いられるのも事実でした。こうして、困難な道を歩み始めたような裁判でしたが、大詰めにさしたかかった昨年秋、それまでまるで口裏をあわすかのような証言を繰り返していた役所側証人の一人から、突然真実が暴露されました。これで一気に流れが変わり、やはり正義は必ず勝つと自信を深め、国側の暴挙ともいえる一連の行為に司法による断罪がなされると期待に胸をふくらませておりました。
 ところが、司法により出された結論は、事実上のダイちゃん側勝訴ではあるものの「和解勧告」とう歯切れの悪いものでした。一時は「どうしてこの期におよんで和解勧告なのか、所詮裁判所も同じ法務省でしかなかったのか」と強い憤りを感じ、「この和解は飲むな、ここまできたのだから、判決できっぱりと断罪されるまでやるべきだ」と思いました。しかし、冷静に検討してみますと、確かに裁判所が助け船を出したかのような印象は否めませんが、裁判所もダイちゃん勝訴の心証は得たがその確証にまでは届かず、それでも救うべき事実であるという思いからの苦肉の策ではなかろうかということに気付きました。もしそうだとすれば、無理に突っ張って良い判決がとれなかったらどうなるのだろうか。また、当事者が相手への断罪や謝罪を強く求めていないなら、事実上勝訴に等しい結論が得られる場合は確実性を優先して実をとるべきではないか、というように変わっていきました。
 今回のダイちゃん事件では、運動的には最後の詰めができなかったという悔しさが残るのは事実ですが、具体的当事者のある個別事件の支援としてはほぼ100点の結論が得られたのではなかろうかと考えています。皆様のご支援に感謝しつつダイちゃん母子にとってほぼ希望にそう形での解決ができましたことを率直に喜びたいと思います。


蔵本正俊(国際婚外子の国籍を考える会世話人代表)

 裁判によらなければ権利が認められず、裁判に訴えてもなかなか権利が認められない日本社会の状況の中で、ダイちゃんに日本国籍が認められて本当によかったと思います。
 ダイちゃんの日本国籍について、裁判所が法務省が和解という形で解決しようとしたのは、裁判により求めている日本国籍の取得さえ認めれば、訴えの利益がなくなることにより、問題点を公開の場で指摘されることを避けて、国籍法の解釈をそのままに維持しようとしたのではないかと推察しています。
 ダイちゃんの父は日本国民ですので、「出生時に父又は母が日本国民であるとき」子は日本国民とする、と定めている国籍法第2条1号の規定により、当然ダイちゃんに日本国籍が認められるべきでした。
 ところが、法務省はこの規定について、「婚姻関係がない場合、胎児認知がされなければ、出生時の父は不明であり、母の国籍しか取得できない」と解釈し、国籍取得の条件として、婚姻関係と出生前に子どもを認知する胎児認知の条件をつけています。
 この解釈によると、一方が外国籍で婚姻関係のない両親から生まれ、胎児認知されていない子どもについては、母が外国籍(父は日本国籍)の場合、子どもは外国籍となり、父が外国籍(母は日本国籍)の場合、子どもは日本国籍となります。
 子どもの国籍を母の国籍に従属させようとするこの解釈は、母親に責任を押しつけ、父親は無責任でいられるという女性差別そのものであるとともに、婚外子差別を再生産するものであるといえます。
 また、両親の一方が外国籍の場合に胎児認知を条件とすることは、両親が共に日本国籍の場合、胎児認知を必要としないことの対比からして、明らかに外国人差別であるといえます。
 人権の国際化を図るためにも、この解釈の過ちを法務省に認めさせて、是正させる必要があると痛感しています。
 私たちも、ダイちゃんの国籍問題から多くのことを学びました。ご支援いただきました多くの人々にお礼を申し上げますとともに、今後とも婚外子差別をはじめ、あらゆる差別の撤廃に向けてご協力いただきたくお願いいたします。


ダイちゃん、Fさん、おめでとう

松村千賀子

 大阪で「ダイちゃんを支える会」が発足したのは、ちょうど3年前になります。東京でアンデレ君事件(長野県の少年の国籍取得事件)の裁判を傍聴した時、崎阪さんと偶然であって話をしたのがきっかけとなり、私も支える会を手伝うことになりました。
 集会を開催したり、ニュースを発行したり、思い返せば3年の間にいろいろなことをしましたね。私は会計担当で、集まってくる会費を管理すること、ニュースを発行する際の宛名シール、封筒、切手などを用意するという役割を担っていました。あまりたいしたことはできないけれど、少しでも役にたてたらと無理のない形で参加してきました。
 裁判はゆっくりとしたペースで進んでいたので、いったいいつになったら、ダイちゃんに日本国籍が認められるのだろうと、先が見えないいらだちを感じた時期もありましたが、急転直下の進展で、解決へとこぎつけることができ、本当にうれしかったです。
 Fさんやダイちゃんとは会合の時に会って話をする程度で、それ以上のおつきあいはできませんでしたが、最初ははにかみ屋さんだったダイちゃんは何回となく顔をあわせているうちに、だんだんとうちとけてくれるようになりました。
 やっと、ダイちゃんが日本国籍を取得でき、Fさんも在留資格が得られ、二人とも日本で安心して住むことができ、いつでもフィリピンに里帰りできるようになります。本当によかったですね。これで支える会は解散になりますが、こんなうれしい解散はないと思います。


高雄きくえ

 「子どもは13歳、フィリピン国籍です。子どもを引き取って離婚したいので、どうしても子どもを日本国籍にしたい。どうしたらいいですか。」
 私は電話を受けて、ドキッとした。思わず「婚姻届を出している?」と聞き、「はい」とすぐ返ってきたMさんの答えに一瞬安心した。ダイちゃん裁判を思い出したからだ。
 ダイちゃん裁判は、胎児認知をしたという「事実」が確認された上で「日本国籍」が認められることになった。しかし、この裁判では胎児認知をしたという事実確認だけではなく、大きく国籍法第2条の解釈に迫ろうとしたもの(であると思う)。つまり、生後認知でいいではないか、外国人女性と日本人男性の間の婚外子は「胎児認知」しないと日本国籍が取得できないというのは、国際婚外子差別であり、外国人女性差別ではないか、という問題提起をしていた。しかし、和解解決の結果、法解釈に関しては何の判断もされなかった。そして国籍法第2条は何もなかったかのようにまた静かに一文として収まってしまった。
 Mさんに「なぜ子どもはフィリピン国籍だけなのか」と尋ねた。「子どもはフィリピンで産み、出生届けを出し、フィリピン国籍を取った。日本に帰って夫にすぐ役所に届け出るように頼んだけど、やる、やると言いながら実行せず、今に至っている。子どもに対して責任を取らない夫、家庭生活を顧みない夫とは別れて再出発したい。離婚に関しては子どもも納得している」と言う。
 Mさんの居住区の区役所に電話し、どんな書類を提出したらいいか聞いた。まず係の人は「Mさんは結婚していますか」と聞く。実はダイちゃん裁判の当事者、西区役所であったからだ。かなり慎重になっている。
 係の人は再度結婚していることを確認し、書類(国籍取得願い、戸籍謄本、出生証明書、母子の外国人登録済証、父親の身分証明書、父母子が一緒に写っている写真、印鑑)を揃えて申請するようにと言った。
 Mさんの子どもは、約1ヵ月後日本国籍を取得した。私は、離婚が浮上している夫婦なので夫が了承するかどうか不安であったが、Mさんが「大丈夫、ゴマすりするから」といっていた通り、すんなりと事は運んでいたようだ。
 子どもの日本国籍は取った。次は離婚手続きだ。「日本人の子を養育する外国人の親の定住は認める」という法務省の通達によって、Mさんは離婚後も日本に住むことができる。Mさんの不安もそこにあったわけで、この通達によって彼女たちが「安心して離婚後の生活設計」を立てることができるようになったのは嬉しい。これまで私がいくらかの相談を受けてくる中で、「希望の抱けない結婚生活」から抜け出るための一番のネックがそこにあると感じていたからだ。
 13年も自分の子どもの国籍取得を放置していた日本人男性の無責任さは言うまでもないが、さまざまな事情で離婚せざるを得ない多くのフィリピン女性にとって、安心して「自分と子どもが生きていくことのできる社会は遠い。何せ、私も含めて日本人の母子家庭にとって、世間のまなざし、低収入など、生きがたい社会であるのは変わりないのだから。しかし、同じ母子家庭というところで、彼女たちとまた別な出会いができることは心強い。
 フィリピン女性にとって、まず無責任な夫という日本人男性との闘いがあり、やっと離婚すると異質なものを排除する日本社会との闘いが始まる。しかし、彼女たちは逞しい。彼女たちが闘う具体的な相手、それが日本社会のはらむ問題であることを肝に命じたい。
 ダイちゃん裁判は、「日本という国のかたち」をよく現わした裁判であったと思う。広島での裁判であったにもかかわらず、具体的な支援ができなかったことを心苦しく思ってはいるが、彼らの残したものは大きい。


感想

弁護士 中島光孝

 ダイちゃん事件は私にとって受任1号の事件でした。1993年4月5日、井上二郎法律事務所にて勤務開始。そして14日頃、崎阪さんから上原弁護士に、広島でこういう問題があるのでぜひ取り組んでもらいたいとの電話があり、遇々同室で仕事をしていた私もその話に参加することになったのです。早速、竹下弁護士にも私たちの事務所に来てもらって、弁護士3人がダイちゃんの父親から話を伺いました。そして子を思う親の気持ちに打たれ、急遽退去強制命令の執行停止の申し立てと国籍確認訴訟を提起することになったのです。現在の日本が子どもにとって幸いをもたらす国かどうかは問題ですが、子ども本人や一番身近な親が日本で育てることを望んでいるならその意思を尊重すべきですし、まして日本国籍をもっていると主張する子どもを、その言い分を十分に聞かず、日本から追放する行政のあり方には多大の疑問を感じます。それを司法の場で行政やさらには市民にも訴えていくことは非常に大きな意義があると思いました。
 こうして、弁護士になって早々からダイちゃん事件に関わり、たくさんの人と知り合い、また、戸籍や国籍についてのそれなりの勉強ができたことは大きな幸運でした。特に、「裁判は決してあきらめてはいけない」ことを身をもって知りました。極めて不利な状況から裁判が開始されたにも拘わらず、北大の奥田先生、立命館大学の二宮先生には種々アドバイスをいただき、意見書も書いていただき、また集会にもパネリストとして参加していただくなどして、裁判を粘り強く進めた結果、市役所職員の画期的な証言を引き出し、ダイちゃんや両親の主張を全面的に通すことができました。今後、こんなにうまく行く裁判があるだろうかと思うくらいです。
 今、日本はまさに世紀末的状況を呈していますが、ダイちゃんの人生の大半は21世紀のうちにあります。裁判で新しい時代を示してくれたダイちゃんの、今後のご多幸を願ってやみません。


久保木要(中国新聞社)

 ダイちゃんの日本国籍取得、おめでとうございます。取材という立場でダイちゃん裁判に関わって4年余。ダイちゃん、Fさんはじめ、公判のたびに広島地裁に集まった支援者の方々、JFCの取材もかねてフィリピンでお会いしたFさんの家族たち…一人一人の顔が今、記憶の中に飛び切りの笑顔で浮かんできます。

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 「どうして私、生まれてきたの?」少女が突然、問いかけてきた。黒い瞳がまっすぐにこちらを見つめている。心臓をナイフで刺されたような一瞬だった。傍らにいる少女の母親の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちるのが見えた。「何か答えろよ」「でも何と?」「僕に聞かれても…」心がぐるぐると回った末に、結局、僕は、目を伏せてしまった。その自分は紛れもなく、少女を捨てたあの父親だった。日本人として、男性として生まれたことを、心から情けなく、恥ずかしく思った。

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 この文章は、1994年7月、JFCに関するフィリピンでの取材を終えた後、地元のミニコミ紙の依頼でまとめた取材後記の一部です。JFCを取り巻くさまざまな不幸は、決して「個人的な男女関係」で片付けられる問題ではありません。出会いの時点から既に「客とホステス」という「対等でない」関係で知り合い、「職場や家庭の問題を忘れられる」スナックという空間で、悲しいかな、「金満ニッポン」でに暮らす日本人男性は「疑似恋愛」に浸ってしまいがち。夢中になって追いかけた末に、子どもができたという現実を前にして、後は逃げるばかりの悲劇が始まる…。この日本人男性側の意識の背景には、経済大国としてのおごり、アジア諸国・地域やそこに住む人々への歪んだ優越感があるのではないでしょうか。
 加えて、出稼ぎ女性たちが「異国での水商売」という「弱い立場」に組み込まれていることを日本社会が容認している事実…。「国際化」とは名ばかりの日本の法制度がJFCの父親の逃げ得を助長している事実…。戦後、アジアを中心とした「第三世界」の資源を搾取し、失業の増大と都市への流入を促し、今再び、出稼ぎ労働力を「景気と欲望の調整弁」として都合良く利用する。フィリピンの貧困の片棒を、私たち日本人一人ひとりは、しっかりと担いでいるのです。
 ダイちゃん裁判で明らかになったように、JFCをはじめとした国際婚外子の問題は、決して「大人の論理」で語られてはなりません。涙を流すのは何より生を選べない子どもたちなのです。そして忘れてならないのは、国際婚外子の不幸を生み出しているのは、現代日本の「大人社会」全体だということです。
 「どうして私、生まれてきたの?」というJFCの問いは、そんな大人たち一人ひとりへの断罪の言葉である…。それに対して目をふせ、「関係ない」とそむけてしまえば、自分たちもまた、あの少女たちをすてた父親になってしまうと僕は思います。

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 ダイちゃん裁判は一応、良い方向で決着をみました。しかし、ダイちゃんとFさんの歩みはまだ始まったばかりです。小学生、中学生…とダイちゃんが日本で成長していく中で、どれだけ彼と彼女に対して、周囲の人間や社会がサポートできるかが今後も問われると思います。ダイちゃんの「生」に対して目を背けず、真正面から向き合ってきたダイちゃんの父親に対してもまた、同じことが言えるでしょう。そして何より、それら一連の歩みが、日本国内のみならず、海を越えた地域に住む国際婚外子たちに希望を開く道になることを目指しましょう。


国籍確認訴訟の傍聴席から

水越紀子

 私が初めてフローラに逢ったのは4年前である。ダイちゃん君はまだおむつをしていた。その彼が今年の誕生日には6歳になる。公判の度に成長していく姿を見るのは楽しみだった。
 フローラは、迷いながら裁判に踏切り、その後何度かやめたいと言った。けれどもダイちゃん君を日本で育てたいという強い意思が彼女をここまで引っぱった。勿論、弁護士さんや支援の会の皆さんの支えがなかったら、彼女の選択は違ったものになったであろう。その間の心の動揺や苦しみを少しだけ知っている私は、ただ「よかったね」と拍手を送りたい。そして苦労した分だけ、彼女自身の成長に繋がったと感じている。ダイちゃんが、国籍を取得して日本での生活基盤を獲得したことで彼女はようやく将来を描ける生活を手に入れた。将来を描けない生活がどれほど辛いか私たちは想像できるはずだ。彼女はそれを乗り切った。だからこそ成長したのだと思う。
 私はこの裁判で様々なことを勉強させていただいた。最も興味をひかれたことは、日本の「法」が未だ前近代性を内包しているということを知ったことである。「胎児認知」という言葉も初めて知った。その言葉の裏に隠された意図を思うとき、生まれた命の尊厳はどうなのかと考えた。命に対しての配慮が見られない法律が存在する。それが私たちの国、日本であると思った。嫡出子と非嫡出子の差異が法で規定されているというのは、前近代的と言わねばならない。弁護士さんたちは、そこのところも含めてこの裁判で問いたかったのであろうと思う。
 今回の裁判は、まさに私たちの国日本の問題であると思う。その基本のところを押さえなければ、フィリピンの社会状況や女性問題や子どもの人権問題を語っても堂々巡りをするだけである。
 日本の国籍法は多くの問題を抱えているという。今回の国籍確認裁判は、その問題性を明らかにしたと思う。それは日本に働きに来るフィリピン女性の問題や非嫡出子を生む彼女たちの問題にすりかえてはならない。なぜならそれは日本の法律が彼女たちを規制する機能として制定されているからである。
 日本の法律は、日本人に対しても同じく差別的である。非嫡出子の例がそれである。社会通念の慣習からはみ出した者は除外される。それは日本の集団性の保護である。外国人もその集団性を壊す存在として見られる。外国人排除、特にアジアの人々に対しては厳しい差別がある。今回の裁判は、その二つを同時に抱えていたと思う。しかしその二つは偶然に重なったのではなく、根っこが同じだから当然として現われたものである。外国人排除の社会通念があって、その外国人が妻子ある日本人男性の子どもを生むということ、そこに二重の防御策を講じた。それが「胎児認知」という枠ではないだろうか。
 私は日本で暮らす外国人が差別に泣く場面をたくさん見た。そしてその都度日本人として恥ずかしい思いをしている。
 排外的な日本の法律は、私たちが作り出した社会の規範によって支えられている。その排外性を温存させている土壌の中で、私たちはそれを当然のように享受して生活している。
 だからその法律を支えている私たちは、構造的に外国人排除を共有していることになると思う。私は、差別は受ける側に問題があるのではなく、それを作る側つまり日本人の側の問題だと思う。そのように見てみると、ほとんどの場合、自分の問題として考えなければならならないことがはっきりしてくる。
 差別で苦しむ人々の声は、社会の有り様の歪みを教えてくれる。悲しむ人の存在なくして私たちは日本の国の影の部分を見ることはできない。この国籍確認訴訟によって、初めて日本の国籍法が明らかになった。それは良い例ではないだろうか。
 友人のフィリピン人が、「<平和>とは戦争をしないということだけではないでしょう。人の心を傷つけたり差別をしたりしないことも<平和>というのでしょう」と言う。いつも私は彼らから教えられている。この裁判でもフローラから学んだことが多い。
 そしてこの判決に至る過程で差別的な法律の改正に向けて尽力された弁護士さんたちに感謝をこめて拍手を送りたい。


ダイちゃんの支援にかかわって

広瀬正明

 ダイちゃんが日本国籍を取得し、フローラさんが在留権を取得することによってダイちゃんを支援する会の活動はその目的を達することになった。
 ここで、ダイちゃんの支援の活動を私なりに振り返ってみたいと思う。
 93年4月、広島入管が、国籍訴訟をおこなっているダイちゃん親子の国外退去を決定した時、それを阻止し得たのは、日本人の男性が胎児認知をした子どもとその母親が追放されることの余りにも不合理な問題を感じた、後にダイちゃんを支える会の事務局長となる一人の友人と弁護士と新聞記者の力だったと思う。「審判の結果如何では日本人を国外追放したという現代版島流しともなりかねない暴挙をまさかしてくるとは思っておらず、その荒っぽさに強い憤りを感じた」(崎阪さん)「この事件を受任するかどうか、相当悩みました。それは国籍に絡む非常に難しい事件であるということ…弁護士だけでの裁判闘争にならざるをえなかったこと…同質の文化をもっていない人たちを排除していこうということにわれわれが声を上げていかなければ」(上原弁護士)「超過滞在という『違法状態』にあるとはいえ、何の罪もない子どもの立場を配慮した、極めて慎重な裁判所の判断が求められる」(今西記者) 93年6月、退去強制処分の執行停止が決まる。
 93年から94年になると、ダイちゃんとフローラさんを支援しようとする人びとがさまざまなルートで集まり始め、ダイちゃんを支援する団体を作ることや、ダイちゃんの問題を世間にアピールする集会を持つことを決めた。私が、労組の委員長として地労委でお世話になっていた上原弁護士の誘いでかかわり始めたのはこの頃だった。地域で外国人登録法や在日の問題に取り組んでいたので積極的にかかわりたいと思った。
 94年2月、「ダイちゃんの国籍を考える集会」を開催した。この集会に関して、多くのテレビや新聞社が報道し世論に大きく訴えることになった。また、長野国籍訴訟(アンデレちゃん事件)との強い連携も生まれた。当日「ダイちゃんを支える会」を結成し、ダイちゃん支援ニュースも発行することになり、「ダイちゃんの国籍を考える集会」報告集とともに、ダイちゃんの支援を広げていく役割を担った。この報告集はダイちゃんの問題をその経過、内容、問題点、そしてなぜ支援するのかをわかりやすく整理した。「国がその姿勢を転換しなければ同様の問題にさらされる子どもたちは増加の一途をたどるでしょう」(発刊にあたって)。
 会は、裁判の支援を続け、支援ニュースの発行を続けながら、95年6月の「国際婚外子と国籍法--ダイちゃんの国外追放を許さない--」の集会を準備していった。当日の集会は、国際子ども権利センターの「シノ・バ・アコ?JFCと子どもの権利条約」と共催できることになった。「JFCとダイちゃんの問題は表裏一体のものです」(国際子ども権利センター事務局長[当時]の浜田さん)という視点から共催はスムーズに進んでいった。
 「国際婚外子と国籍法」の集会も、JFCの集会とともに、多くのマスコミが報道することになり世論に強く訴えた。この集会は、国際婚外子のなかにこの問題を位置付けることによってより広い観点を得、国籍法や家族法の学者の参加によってより専門的な広がりを持つことになった。すなわち、社会的な広がりと理論的深化を獲得したのである。
 マスコミもNHKをはじめとして特集番組を報道するようになり、多くの人びとがこの問題を認識するようになっていった。同時に、子ども権利条約や人種差別撤廃条約を日本が批准し、国際人権法の行政的視点からも問題点がより明確になっていった。
 同時に、子どもの権利条約や人種差別撤廃条約を日本が批准し、国際人権法の行政的視点からも問題点がより明確になっていった。
 こういった運動の盛り上がりのなかで、ついに西区役所の職員の決定的な発言「生まれる前に胎児認知のために窓口に来ていた」が飛び出すのである。
 95年10月広島地裁。何回か前の公判で、市の職員のあからさまな嘘の証言に思わず「嘘をつくな」と傍聴席から発言してしまっていたが、今回はどのような証言をするのかと思っていたら、先の発言が出たのである。
 担当の検察官は、この発言に驚き、この職員に対して「私に言った証言とは異なりますね」と尋問を行ったが「今の発言が事実です」と切り返された。
 会は、上原、竹下、中島といった3人の弁護士、事務局長の崎阪さん、会計実務を堅実に担った松村さん、ニュースの発行を献身的に担った高畑さんらによって運営されていた。
 会は、忘年会等を行いながら、緊張感ももちながら、和気あいあいと運営され、本当に出席するのが楽しかった。今後も、みんなとつきあっていけたらと思う。


ダイちゃん事件と婚外子、そして国際婚外子

高畑 幸

はじめに

 あれは5年前の4月だっただろうか。マニラ留学へ旅立つ何週間か前に、崎阪さんから当時ほんの小さな赤ちゃんだったダイちゃんを抱いたFさんを紹介された。当時のFさんは、控えめでおとなしい女性という印象で、はかなさをも感じさせるようなたたずまいであった。彼女が婚外子のダイちゃんを出産し、崎阪さんのところに相談にきているという話だったが、その時にはどんな相談なのかはわからず、Fさんによるとまもなく帰国するということだったので、マニラでの再会を約束して別れたように思う。
 フィリピン国立大学に籍を置いた私は、生活に落ちつくとFさんの生家へ行って見ることにした。私が通っていた大学と下宿の間で、ちょうどターミナルのようになっている場所が、彼女の実家のあるバララという地域だった。そこで道を聞けばわかるだろうと気楽な気持ちで足を運んだ。バララには大きな木が一本あり、その木陰にオープンテラスの食堂や学生相手のコピー屋、ジープニーターミナルがあり、絶え間なく人々が行き交う。軽食堂のおばちゃんに聞くと、すぐ横で並んでいるペディキャブに乗れという。ペディキャブというのは、自転車にサイドカーを着けた乗り物で、少年たちが小遣い稼ぎに客を乗せているものだ。それに乗って、パンソール通りへ、というと、こぎ手の少年より重いであろう私を乗せたペディキャブは、見上げるほど高い壁と壁に挟まれた1.5メートルほどの細道を走り出した。
 しばらく走ると住宅密集地に着いた。家と家とがくっついている様な都市下層地域である。スクウォッターというほどひどくはなく、家々はコンクリートでできているから、下層というほどでもないかもしれない。ときたま改築中の家があり、海外出稼ぎ者を送出する場所であることを知らせている。適当なところで降りて歩くことにした。歩きながら道を尋ねると、あやしげな中年男性が出てきて親切に道案内してくれた。彼の言うとおりに進むと、Fさんの実家に着いた。二階建ての家の中を覗くと、Fさんそっくりの女性が応対してくれた。妹のジョナさんであった。彼女はFさんはまだ帰国していないと言い、Fさんの様子を知っているならば教えてほしいと言われた。意外だった。それもそのはず、後で知ったことだが、この頃Fさんは日本でダイちゃんを育てており、入管に収容されようかという時だったのだから。私は「日本で元気にやっている。子どももできて幸せそうだよ」と生返事をした。
 Fさんのお父さんは、枯木のように細い腕をしているがすこぶる元気な老人だ。彼は日本人の客が来たという知らせに二階から降りてきてくれた。Fは元気か、あんたはフィリピンにいつまでいるのか、何をしているのか、などと聞いてくる。フィリピン大学で勉強していると答えると、フィリピン大学は戦争中は馬小屋があって、何があって…、大学の前のあの道を山に向かって日本軍が行進していったのを見た、などと昔話を始めた。ジョナさんが「お父さんてば」とたしなめるがお父さんは止めず、スペイン語混じりで話を続け、私も途中から理解力が枯渇してきたこともあり、また訪ねる旨を約束して辞した。
 そして一年後の93年5月、私は日本へ戻ったのだが、この時点ではまさかFさんがまだ日本にいるとは思いもしなかった。そして、彼女が息子の国籍訴訟を提起することも。

支える会へ

 帰国して再び崎阪さんに会った私は、ダイちゃんの国籍確認訴訟を知らされ、協力を求められた。私は迷わず支援の会に参加すると返事した。その理由は、崎阪さんには日頃お世話になっているからFさんと弁護団をつなぐ通訳として協力すべきだろうと思ったこと、そして何よりも、この裁判を通して自分に何か得るものがあるに違いないと思ったからである。
 支える会に入った私には、ダイちゃん支援ニュースを各公判ごとに出版することが役割として与えられた。私はこのような仕事は大得意である。難なく活動は続けられた。支える会はこぢんまりしたものだったが、集まったメンバーの得意とする分野を生かせるようなものだった。当事者とは一定の距離を置きながら、何かの勉強会のように淡々と続いていったという印象がある。

裁判の中で

 私は、ダイちゃん裁判に法廷通訳者として関わった。法廷通訳者は、普通は裁判所が任命するのだが、私は原告側弁護団の持ち込み通訳者として入廷することになった。都合2回、広島へ通ったことになる。1回目は、問題の西区役所職員が突如ダイちゃんの胎児認知があったとする証言をした第10回公判だった。この証言のためにFさんに対する尋問は10分ほどで時間切れとなり、私の出番もこれだけだった。この日、ダイちゃん事件は大きく勝訴へと前進したわけだが、実を言うと私はこの証言を聞いてはいたものの頭に入っていない。通訳者としての出番を控えて緊張していたからである。
 続く第11回公判は、全面的にFさんへの尋問となった。この時の様子は、ダイちゃん支援ニュース第8号に詳しい。国側はFさんに「フィリピンへ帰って、ダイちゃんの父からの仕送りを受け取って暮らしたほうがいいのではないか」と執拗に迫り、それに対してFさんが「お金の話をしているんじゃない」と涙を流す場面があった。これをFさんの一番近くでタガログ語で聞き、日本で発話していた私は、最も強く彼女の感情を吸収したのではないかと思う。私は、支援ニュース第8号に、以下のように書いた。
 今回のFさん尋問でも、彼女が泣き出してしまった…その涙と悔しさが入り交じったタガログ語の一言一言をどう日本語で表現するか、頭では急速かつ技術的に考えながらも、目には自然と涙がにじんでくる。ここに「知り合い」が通訳することの功罪がある。(中略)法廷ではクールな通訳人も、被告人や証人のすぐ脇で幾多の涙を飲み込んでいるのである。(高畑幸「通訳席から」ダイちゃんを支える会『ダイちゃん支援ニュース第8号』1996年5月)
 通訳者は、証人台に立つ人々の感情に流されてはいけない。そのために、通常は事件関係者と無関係、中立の立場であることが強く求められる。しかし、弁護団が用意した通訳者として法廷に参加したこの公判では、表面的には難なく仕事は終えたのだが、傍聴席に戻ってから目頭をおさえざるをえなかった。それは自然に出てきた感情だった。
 そして、事件は和解という形で終わった。この経緯については他の方々が詳述されているので割愛する。次に、事件が終わって、ダイちゃん事件を国際婚外子という点から考えてみたい。

婚外子、そして国際婚外子

 善積京子の著書『婚外子の社会学』によると、『世界人口年鑑』は婚外子を「出生時に各国の法律に従った結婚をしていない両親から生まれた子ども」と定義している(善積1993:43)。これは法学的にも合意されると思う。同書では、ハートリーの「非嫡出の連鎖理論」を援用して、婚外子発生の過程を(1)妊娠可能な年齢の女性で結婚していないこと、(2)性関係を持つこと、(3)妊娠すること、(4)出産する前に結婚しないこと、(5)自然流産や人工妊娠中絶をしないこと、の5段階としている。(ibid:31)ダイちゃんのような国際婚外子を考える場合に、ここでは便宜上「出産時に父母の国籍が違い、母は父が国籍[永住権]を持つ国で在留資格の有無にかかわらず生活しており、その国は出生地主義で国籍を取得することができない」場合と想定する。
 次に、善積が1975年から1977年にかけて大阪市内の愛染橋病院で行った婚外子の妊娠・出産に関する調査から、婚外子の父母の関係に着目した婚外子発生の分類を紹介する。
 まず、第一の類型が<離婚期待型>である。妊娠相手の男性が他の女性と法的な婚姻関係にあるが、非婚女性にその相手との結婚の意志がある(あった)場合である。そして第2が<愛人型>、結婚する意志がなく相手に妻がある場合だ。第3に、<事実婚型>。妊娠相手が独身であり、結婚する意志があり、一緒に住んでいるが婚姻届を出していないケースである。第4が<同棲型>、妊娠相手は独身であるがその相手と正式に結婚する考えずに一緒に住んでいるケースである。第5に<婚約型>、妊娠相手は独身であり、その相手と結婚の意志があるが一緒に住んでいないケース。最後に<シングル型>、相手は独身であるが女性に結婚の意志がなく、一緒に住んだこともないケースである。このほかに、<複数関係型><売春型><暴行被害型>がある。(ibid:107-112)
 Fさんとダイちゃんの父親の関係は、第一の<離婚期待型>である。ダイちゃん妊娠が発覚する前、妊娠相手のAさんはFさんに対し「フローラ、結婚しよう。もう妻とは別れるから」と言ったという(今西ほか1996:181)。さらに妊娠が発覚すると、Aさんは「絶対に産んで。ちゃんと面倒みるから」と言い(ibid:186)、崎阪氏にも「妻と別れてFと結婚したいと思っています。でも、子どもは思春期。その影響を考えると今すぐには踏み切れない」と語っている(ibid:18)。また、第11回公判のFさん本人尋問で、ダイちゃんの父Aさんとなぜ結婚しなかったのかと被告側代理人から質問され、「本当は結婚するつもりだったけれど、相手がいつになっても離婚せず、もう待ちくたびれてしまった」と泣き出したことがあった。
 ダイちゃんが生まれてしばらくしてからの様相を見ると、彼女は<愛人型>に見えるが(例えば、被告側答弁書[後掲訴状など文書の3]には「Aと原告Fとの実際の生活実態は、まさしく愛人関係であったにすぎず、継続して同居したことはない。」とある)、ダイちゃん誕生当初、ふたりは結婚するつもりだった。しかし結果的にそれはならず、残念なことだがダイちゃんの父親はFさんらから離れてしまっている。
 善積は、調査のまとめとして婚外出産に導く要因の考察をしている。3つの要因が挙げられている。まず第一に、嫡出制の規範の内面化である。第二に、妊娠相手との関係の程度。婚外子出産に至る人びとは、妊娠相手と同居している場合が多いという。第三に、経済的な要因である。<事実婚型>や<同棲型>は子どもを産み育てる余裕がない場合は経済的要因が婚外子の発生にネガティヴに働くが、<同棲型><売春型>では中絶する費用がなかったために婚外子を産んでおり、経済的な要因が婚外子発生にポジティヴに働いている。(善積1993:114-115)
 Fさんの場合、最初は明らかに<離婚期待型>であり、時間的経過の中でその期待は期待のまま終わってしまうのである。
 善積の婚外子発生要因をFさんにあてはめて考えてみると、第一に、国民の8割がカトリック教徒であるフィリピンでは、嫡出制規範の内面化は日本より十分にされていると思われる。カトリックにより、また法的に中絶は法的に禁止されており(国際連合1995:78)、さらに離婚はできない(その代わり、法的別離、婚姻の解消が制度としてあるが、日本の離婚よりも手続きが繁雑である)。
 在日フィリピン人が日本国内で妊娠し、中絶したとしても罰せられることはないが、信仰上の理由から中絶せず出産する人がほとんどであろう。Fさんもカトリック教育の中で育ち、妊娠したならば中絶を考えない規範を内面化していた。例を上げると、妊娠したときの気持ちとして、Fさんは「中絶は全く考えなかった」と言っている(今西ほか1996:185)。
 次に、妊娠相手との関係の関係であるが、彼女は妊娠当時、ダイちゃんの父親Aさんが借りた広島のアパートに住み、いつでもAさんが出入りできる状態だった。転勤が決まった時、単身赴任をして広島でFさんとの生活を始めようとも考えていたが、結局かなわず、妻子とともに赴任した。そしてしばらく遅れて、Fさんが広島へ行き、Aさんもそれを受け入れマンションを借りた。その後Aさんは出勤前にFさんの家に寄り、帰りも顔を出し食事はともにするものの、夜は妻子の元へ帰るという二重生活を続けていた。
 第三に、経済的状況であるが、当時のFさんには収入がほとんどなく、Aさんから生活費を手渡されていた。事実、妊娠が発覚した時にAさんは「絶対に産んで。面倒みるから。」と約束している(ibid:186)。Fさんは経済的にも精神的にもAさんに依存しており、また、依存できる関係であった。中絶するお金もないほどの貧困ではない。そのかわり、子どもを育てるにはAさんの援助が不可欠だった。それをAさんは約束していた。こうしてFさんは婚外子を出産したのである。
 さて、ダイちゃんは生まれた。次に、善積の類型化に依拠して、婚外子養育の要因を考えてみよう。里親依託のケース分析から、善積は婚外子の母親を(A)不本意出産グループ、(B)結婚希望グループ、(C)婚外子出産希望グループ、の3つに類型化している。(善積1993:118-119)Fさんは前述のように<離婚期待型>なので、(B)結婚希望グループに入る。それでは、なぜ彼女は結婚できず、ダイちゃんは婚外子になったのだろうか。
 善積によると、Bグループが婚外子を出産する要因には、(a)妊娠相手の無責任な行動、(b)結婚への憧れ、妊娠すれば結婚できるのではないかとの期待、(c)結婚への親族の介入(二人は「つりあわない」など)、(d)妊娠相手の法律上の妻が離婚に反対している、の5つをあげている(ibid:122-124)。
 Fさんの場合は、a,b,dが観察される。(a)は後で詳述する。(b)については、Fさんは妊娠がわかった時に、「これでスムーズに結婚できるかな」と思ったという(今西ほか1996:185)。また、(d)の、妊娠相手であるAさんの法律上の妻が離婚に反対していたという事実は明らかにされていないものの、Aさん自身が「(法律上の妻との)子どもは思春期。その影響を考えるとすぐに(離婚には)踏み切れない。」と当初から離婚に及び腰であり(ibid:18)、それは最後まで叶えられることのない約束に終わった。
 ここで、国際婚外子に顕著に見られる要因を、(a)を深める形で考えていきたい。婚外子の母親が外国人女性、特にFさんのようなフィリピン人女性の場合は、さらに(a−1)入管法上不利な立場、(a−2)識字の限界からくる権利知識の欠如、(a−3)水商売の外国人女性に対する社会的蔑視と構造的差別、が挙げられよう。すなわち、以下のようなことである。

 (a−1)入管法上不利な立場:日本人はフィリピンに入国と同時に3週間の短期滞在ビザが与えられるが、逆にフィリピン人が日本に来るためには、簡単に短期滞在ビザは取得できない。日本行きの飛行機に乗る前に、在比日本大使館で査証(ビザ)を取得しなければならないのである。しかも、70年代から80年代に観光ビザで来日して超過滞在をするフィリピン人が激増したため、現在ではフィリピン人の庶民が日本への観光などを目的とした短期滞在ビザを取得するのは極めて困難になっている。
 すなわち、Fさんのように、超過滞在を続けるうちに日本人男性と知り合い、妊娠してしまった女性は、一度フィリピンに帰国するとその男性と結婚しなければ再来日は極めて難しい。もし、男性の気が変わったりすれば、彼女はフィリピンで婚外子を抱えて自活するしかない。こうした女性たちがマニラのバティスセンターに救済を求めて集まるのは周知の通りである。
 逆に男性からすれば、フィリピン人女性を「追いかけてこさせなくする」ことは簡単なのだ。女性に妊娠が発覚すれば「フィリピンの実家で出産したほうが安心できるだろう」などと甘言を操り、恣意的に帰国させてそのまま遺棄することも可能なのである。また、超過滞在中の女性であれば、過度に結婚を迫って妊娠相手やその妻が怒り、入管や警察に通報して彼女を逮捕させてしまうかもしれない。このように、日本人同士の婚外子出産に比べて男性側の権限は大きく、女性は相対的に非力である。

 (a−2)識字の限界からくる権利知識の欠如:フィリピン人女性は、英語は得意でも、中国など漢字圏で育った人びとに比べて漢字が不得手である。すなわち、六法全書が読めない。超過滞在であれば一人で役所に相談しに行くことさえ怖く、さらに窓口で渡される書類が読めない。このため、自分の置かれた法的地位と権利について、よほど良いアドバイザーがいなければ、胎児認知などの制度さえ知らないままに終わってしまうだろう。

 (a−3)水商売の外国人女性に対する社会的蔑視と構造的差別:そして、妊娠相手の男性からの、そしていわゆる「世間」からの外国人女性に対する冷たい視線を無視することはできまい。ダイちゃん事件では、特に後者の目を強烈に感じさせるエピソードがいくつもあった。
 例えば、ダイちゃんの父親であるAさん関係者には、何本もの怪電話が入っている。1992年5月19日には彼の法律上の妻のもとへ中年女性から「いま、ご主人が犯罪者であるフィリピン女性に対して欲望を満たすため援助を行っている重大な行為について、あなたはすでにご主人よりお聞きになっておられますね…」との電話があった(今西ほか1996:54-55)。さらには翌5月20日にはAさんが勤務する会社の上司へ入国管理局のオオトモと名乗る人物から「Aが今、広島に来ております。出張だと言っていますが、本当でしょうか、Aが犯罪者であるフィリピン女性に自分の欲望のために行っている事件のことはすでにご存じのことと思いますが…」との電話(ibid:55-56)。
 また、弁護団が広島入管に対し抗議申入書を提出していた頃、Aさんが広島入管へ出向くと、審査官から「F母子の裁判は、あなたの本意ではなく、弁護士や支援者に踊らされてやっているのだろう。そうであれば、直ちに手を引くことを勧める」などと(ibid:56-57)、ダイちゃんの国籍取得のために奔走するAさんの邪魔をしようという力がどれほど働いたことか。これらの根底をなすのは、外国人女性との間の婚外子と真面目に向き合うことを美徳と思わない「世間」ではないか。
 そして、ダイちゃんはFさんにより養育されている。Fさんは、Aさんがいつ結婚してくれるかと待っていたが「待ちくたびれて」自分ひとりでダイちゃんを育てていると言うが、彼女が育った環境、フィリピンでの婚外子状況を最後に見てみよう。
 フィリピンの婚外子出生率(利用できる統計の都合上、ここでは未婚の女性からの出産の割合)は高い。国連統計によれば同国内で6%(国際連合1995:49)、ちなみに日本は1%にすぎない(ibid:48)。また、在日フィリピン人に限って言えば、フィリピン総領事官によると月間約30件のフィリピン人出生登録があり、そのうち婚内子は1人か2人であるという(Takahata:1997)。日本人とフィリピン人の間の婚内子はフィリピン総領事館に届出られることは少ないので、この数字からは「月間30人弱のフィリピン人婚外子が統計上明らかにされている」と読めるにすぎない。出生の報告義務はあるはずなのだが、実際には届け出ないほうが多い。それにしても、この数は無視できない。
 フィリピンの家族社会学者メディナによると、フィリピン社会は必ずしも婚外子出生を好ましいと思わないが、婚外子に罪はないと認識する。従って婚外子は社会的地位は婚内子と平等ではないものの、母親や親戚により面倒を見られ、愛され、そして良く扱われるのが常である。また、法的にも保護されている。親族法によると、「非嫡出子は母親の姓を用い、母親の監護と扶養を受ける」とある(Medina1991:99)。すなわち、婚外子は多く、さらに彼ら/彼女らを受け入れ育てる社会的メカニズムが存在する。
 私の主観的観察からだが、知り合いのフィリピン人家庭を思い浮かべてみても、婚外子はあちこちに見受けられる。その子どもたちは、時には母方の祖母のもとで学校に通い、出稼ぎに行っていたり外国人と結婚して海外に住む母親からの送金を受け取っている。また、日本でエンターテイナーとして就労するフィリピン人女性の多くが婚外子を抱え、その子どもたちを養うことを動機として日本へ来ているという事実も、経験的にわかっている。
 そして、フィリピン人と日本人の間の婚外子、さらには遺棄されたJFCたち。その数は増えることはあっても経ることはない。出生時に社会的父を持たない子どもが相対的に不幸だということは否定できない。国際婚外子の増加速度を少しでも減らすためには、上述の3要素を改善する必要がある。私にはここで具体的施策提案をするほどの能力もないので問題点を整理するにとどめておく。
 言い尽くされた言葉を繰り返すが、男性の逃げ得を制度的に促進してはならない。

今後

 ダイちゃん事件を通じて様々な人々と知り合うことができた。弁護士の先生方。法学者の先生方。ボランティアで支援に関わる方々。直接支える会には入らなくても、シンポジウムの後援や支える会ニュース購読を通じてこの問題に関心を向けて下さる諸団体、個人の皆さん。マスコミの作り手として支援してくださった方々。『国際婚外子と子どもの人権』を出版して下さった明石書店さん。もちろん、Fさんとダイちゃん。ダイちゃんのお父さん。 ダイちゃんを支える会(大阪)は、弁護士の先生方とマスコミの今西さんを除くと、崎阪さん、広瀬さん、松村さんと私の実質4人で活動してきた。人数は少ないが、それぞれの経験や知識を生かして効果的な活動ができたと思う。上述したような私の思考も、支える会のメンバーとの対話、議論を通じて醸成されたものがほとんどである。一番の年少者ではあったが、責任ある仕事をまかせてもらい、私の拙く生意気な言動や議論にも真剣につきあってくれたメンバーと弁護士の先生方なしには、私はここまで活動を続けられなかったのではないかと思う。ダイちゃん事件を支え、支える会を支えて下さった皆さんに心より感謝しています。特に、支える会に誘って下さった崎阪さんには深謝します。ここで知り合った皆さんとは今後も良いおつきあいを続けていきたいし、Fさん、ダイちゃんとは同じ市内に住む友人として行き来をしたいと思っています。

*本稿執筆にあたって、私の同居人であり元バティススタッフの園崎寿子さん、そして支える会事務局長の崎阪治さんに助言をいただいた。記して感謝する。本稿へのご意見はメールでsachi@osk.threewebnet.or.jpへ。

[参考]

善積京子(1993)『婚外子の社会学』世界思想社
今西富幸/上原康夫/高畑幸(1996)『国際婚外子と子どもの人権』明石書店
国際連合編/日本統計協会訳(1995)『世界の女性1995』日本統計協会
Medina, Belen T.G. (1991) The Filipino Family, University of the Philippines Press.
Takahata, Sachi (1997) "PINOY in Fourth Year: Where Are We Now?" PINOY No. 37
ダイちゃんを支える会『ダイちゃん支援ニュース』1〜10号

以上



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