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                           林糸予のシェイクスピア観   pdf版
                                                                          瀬戸宏
 本論文の原型は、日本現代中国学会2008年度関西部会大会・文学分科会(2008年6月15日 関西大学)でおこなった口頭発表「林糸予のシェイクスピア観−林糸予は冤罪か」である。当日の議論などを踏まえて論文化し、『演劇映像学2008第一集』(早稲田大学演劇博物館グローバルCOEブログラム「演劇・映像の国際的教育研究拠点」 2009.3.15)に掲載した。
 
 学会当日コメンテーターを担当した樽本照雄氏は、その後「瀬戸宏報告を評する」(『清末小説から』92 2009.1.1 清末小説研究会)を発表している。たいへん感情的な文章であるが、それを読めば、樽本氏の当日の態度は与えられた時間とコメンテーターとしての役割を無視したうえ、自己の意見がその場ではみとめられなかったからと学会を一方的に退会するという研究者として遺憾なものであったことが逆にわかる。
 
樽本氏が当日提起した《吟辺燕語》序の詩は戯曲を指すという説については、「《シ解外奇譚》 について」 「王国維《莎士比伝》を読む」「武漢大学・2008シェイクスピア国際シンポジウムに参加して」(特に後二者)で反論してあるので、関心のある人は参照していただきたい。樽本氏の研究方法については、「清末小説研究の貴重な成果」で私の基本的考えは述べてあるので、あわせて参照していただきたい。私としては、読者が拙稿と樽本氏の論の双方を読み比べていただければ結論は自ずから出ると考えている。
 
 本論文は長文のため、html版では注を含め三ページに分けて掲載する。また、html版では表現できない漢字は、糸予のように表記するか、中国語ローマ字で示した。正しい字体は、pdf版を参照されたい。html版、pdf版とも単純な誤植は訂正した。
 
 pdf版は原稿ファイルを直接pdf化したものを掲載していたが、掲載誌『演劇映像学2008第一集』pdf版が10年4月に早大演劇博物館より送られてきたので、差し替えた。(サイト転載時の付記、10.4.28修正)  
 
《林糸予的莎士比亜観》が熊傑平・任暁晋主編《多重視覚下的莎士比亜−2008莎士比亜国際学術討論会論文集》(湖北長江出版集団・湖北人民出版社 2009.11)に収録され、公開された。本論文の前半部分を中国語化したものである。電脳龍之会・中文版にも転載してある。(09.12.15)ここ
 
単行学術書『中国のシェイクスピア』(松本工房、2016.2)刊行にあたり、以下、差し『吟辺燕語』の概要などを述べた第2節前半は他の章と重複するので、『吟辺燕語』序の訳文に差し替えた。差し替え部分はこちら。(2017.7.31)
 

 中国のシェイクスピア受容史は、実質的にはラム『シェイクスピア物語』中国語訳である林糸予・魏易訳《吟辺燕語》(一九〇四)から始まる。《吟辺燕語》は二十世紀初年代から前半にかけて中国国内で広く普及し、林糸予は中国シェイクスピア受容史の上で高く評価されてきた(1)。
 林糸予は一九一六年再び『リチャード二世』など『シェイクスピア物語』に収められていないシェイクスピア歴史劇を集中的に紹介した。これらは《吟辺燕語》と同様に小説体になっており、林糸予は英国莎士比原著とのみ記していたため、林糸予は戯曲の原作を小説体に改めて訳したという通説が生まれた。近年、樽本照雄氏により、林糸予の歴史劇紹介はすでに小説体となったものの翻訳であることが明らかにされた(2)。これは樽本氏の大きな功績であるが、樽本氏は同時に、通説は鄭振鐸ら新文化運動関係者が新文化運動敵対者としての林糸予をおとしめるための「捏造に近い」もので林糸予は「冤罪」であると主張している(3)。本稿ではこの問題を検討し、通説がなぜ生まれたのか、通説の成立に林糸予は責任がないのかを考察し、中国シェイクスピア受容史における林糸予の位置を改めて確認することとしたい。
                                      一
 まず、林糸予の生涯を簡単に確認しておこう(4)。
 林糸予は一八五二年福建省の商人の家庭に生まれた。幼名は群玉、号は畏廬、字は琴南である。林糸予という名は、彼が挙人に合格し礼部試に参加した時使い始めたという。林琴南でも知られている。実家はまもなく商売の失敗で没落し、林糸予は苦しい少年時代を過ごした。しかし彼は貧困の中にあっても読書を好み、多くの中国古典に触れた。彼も科挙合格で立身出世をめざし、挙人までは合格したが、それ以上には合格できなかった。そして私塾などの教師で身を立て、役人になることはなかった。
 一八九七年、四五歳の彼は妻を失った。その頃フランス帰りの知人王寿昌が小デュマ『椿姫』の内容を彼に語った。林糸予は興味を覚え、翻訳してみることにした。彼の訳は一八九九年に《巴黎茶花女遺事》の題で出版された。巴黎はパリ、茶花女は椿姫のことである。この《茶花女》は内容が新鮮で訳文も流麗だったので、たちまち大きな歓迎を受けた。林糸予はなかば偶然から『椿姫』を訳したのだが、この翻訳は、林糸予が考えた以上の大きな文学史的・思想史的意義を持つことになった。中国人は『椿姫』によって、初めて西洋流の恋愛概念を知ったのである(5)。

 『椿姫』の成功は林糸予の翻訳意欲をかきたて、その後彼が触れ得た外国文学を次々に翻訳した。一つには、生活上の必要もあった。その数は計二四六種以上に及ぶという。林糸予訳の一連の小説は林訳小説と呼ばれ、清末の中国で広く読まれた。清末中国知識階層も、外国に対する知識を渇望していたのである。中国話劇の嚆矢とされる春柳社も、林訳小説《茶花女》、《黒奴yu天録》(ストー夫人『アンクル・トムの小屋』)脚色上演でその活動を開始したのである(6)。
 すでに著名なことであるが、林糸予は外国語を解しなかった。彼の翻訳は、協力者が口頭で原文(主に英語)を中国語に訳したものを、中国語古文に書き直していくものであった。林糸予の古文の腕前は見事で、協力者が一文の口述を終えるか否かの時に、しばしばもう端正な古文が書きあげられていた。翻訳態度もかなり厳格で、口訳に意味が通じないところがあると、ただちに問い直されたという。今日残されている《吟辺燕語》をみても、多少の省略・意訳などはあるものの、基本的に原文の内容を正しく伝えている。林糸予はこのような翻訳活動を、毎日午前、午後それぞれ二時間続け、上述の膨大な翻訳作品群を生んだのである。

 二十世紀初頭の林糸予は、政治的には英明な君主による社会改革に期待する立憲派に属し、とりわけ戊戌の政変で幽閉された光緒帝を崇拝していた。この立場から、当時の林糸予は社会改革にも肯定的であった。清末の林糸予は、決して後にイメージされるような守旧派ではなかった。翻訳書にもしばしば序文を執筆し、その意義を解説した。
 辛亥革命による清朝崩壊は、英明な君主による改革の可能性消滅をも意味し、林糸予に大きな失望を与えた。これ以後、林糸予の姿勢は変化し隠遁的性格が強くなる。翻訳書への序跋文執筆もほとんどなくなった。一方、光緒帝崇拝は変わらず、清朝崩壊後もしばしば光緒帝の墓に詣でている。一九一九年五四運動の直前には、《新青年》に拠る新文化運動活動家と強く対立した。この事件は林糸予のイメージに大きな影響を与えた。守旧派という印象は、主にここから生じたのである。こうして林糸予は時代の変化に背を向けたかたちになり、一九二四年十月十九日七二歳で逝去した。

                                      二 *第二節単行本差し替え部分
   林糸予のシェイクスピア紹介検討に移る前に、林糸予以前の中国でのシェイクスピア紹介について簡単に確認しておこう。
 中国に最初にシェイクスピアの名が伝えられたのは、一八五六年イギリスの伝道師であるウィリアム・ミュアヘッド(慕維廉 William Muirhead)訳トーマス・ミルナー(托馬斯米爾納 T.Milner)《大英国誌》に舌克斯畢と記されたものとされる。その後もいくつか紹介が続くが、これらはいずれも断片的なものにすぎなかった。この中で特筆しておきたいのは、一九〇二年梁啓超の紹介である(7)。莎士比亜という今日定着している中国語表記は、彼から始まったのである。
 シェイクスピア作品の内容が具体的に伝えられたのは、一九○三年出版の訳者無記名、英国索士比亜著《シ解外奇譚》(達文社、目次・本文中では《海外奇譚》)である(8)。これはラム『シェイクスピア物語』中十編の翻訳だったが、『マクベス』『リア王』『オセロ』『ロミオとジュリエット』のような悲劇の名作を収録しなかったなどの弱点があり、一年とたたずに『シェイクスピア物語』全訳である《吟辺燕語》が刊行されたこともあり、ほとんど普及しないまま忘れられていった。ただしこの本は、冒頭の“叙例”で「本書はもとは詩体であった。イギリスの学者ラムが散文にあらため、名をTales From Shakespere とした。ここからその最もよいもの十章を選んで訳する」と述べ、底本がラム『シェイクスピア物語』であることを明らかにしていた。このことは、林糸予《吟辺燕語》などの翻訳態度を考えるために記憶しておく必要がある。

 《シ解外奇譚》刊行の翌年、林糸予・魏易訳《吟辺燕語》が刊行された。目次・本文は《英国詩人吟辺燕語》、奥付には、原著者 英国莎士比、翻訳者 min県林糸予 仁和魏易、発行者 商務印書館、とある。これは『シェイクスピア物語』二十編の全訳で、各編に中国古典小説風の題名がつけられていた。いま、その題名を記しておく。配列は、《吟辺燕語》の掲載順である。
肉券(ベニスの商人)、馴悍(じゃじゃ馬馴らし)、luan誤(間違いの喜劇)、鋳情(ロミオとジュリエット)、仇金(アテネのタイモン)、神合(ペリクリーズ)、zhong征(マクベス)、医諧(終わりよければすべてよし)、獄配(尺には尺を)、鬼詔(ハムレット)、環証(シンベリン)、女変(リア王)、林集(お気に召すまま)、礼哄(から騒ぎ)、仙獪(真夏の夜の夢)、珠還(冬物語)、黒mao(オセロー)、婚詭(十二夜)、情惑(ベローナの二紳士)、颶引(あらし)

 《吟辺燕語》は林糸予の端正な訳文もあり、大いに歓迎された。郭沫若は、幼年時代に《吟辺燕語》を読んだ印象を自伝の中で次のように語っている。
「Lamb(英、一九世紀の文学者)の《Tales from Shakespeare》−林琴南訳では『英国詩人吟辺燕語』(一般には『莎氏楽府』と訳されている)−も、わたしに無上の興味をもたらした。それは無形のうちにわたしに大きな影響を及ぼした。後日さらに《Tempest》《Hamlet》《Romeo and Juliet》など、シェイクスピアの原作を読んだが、どうしても子どもの時に読んだ童話的な訳ほどには親しめなかった。」(『わたしの少年時代』)(9)
辛亥革命直後に最盛期を迎えた文明戯はシェイクスピア作品を二十編上演しているが、その上演はシェイクスピア戯曲に基づくものではなく、《吟辺燕語》各編を脚色上演したものであった。歓迎のされぶりが理解できるであろう。《吟辺燕語》は林糸予没後も刊行が続いた。私が確認したものだけでも、一九三五年、一九八一年に出版されている。出版社はいずれも商務印書館である。なお、この林糸予没後のテキストは、Charles Lanm著(一九三五年版)、蘭姆著(一九八一年版)と、著者がシェイクスピアではなくラムであることを明記している。
 《吟辺燕語》以後林糸予はシェイクスピアから離れるが、十二年後の一九一六年再びシェイクスピア紹介の筆を集中的にとった。この時の紹介は『シェイクスピア物語』に含まれていなかった歴史劇であった。なぜ林糸予が一九一六年再びシェイクスピア紹介に手を染めたのか、今はわからない。その紹介作品の題名などを記しておこう。
《雷差得紀》(リチャード二世)  《小説月報》七巻一号
 英国莎士比原著 min県林糸予、静海陳家麟同訳(以下の三編も訳者名などは同文であるので省略)
《享利第四紀》(ヘンリー四世)  《小説月報》七巻二号〜四号
《享利第六遺事》(ヘンリー六世) 商務印書館単行本(四月)
《凱徹遺事》(ジュリアス・シーザー)《小説月報》七巻五号〜七号
なお、林糸予死後の一九二五年、《享利第五紀》(ヘンリー五世)が林琴南遺稿として《小説世界》週刊一二巻九,一○期に発表された。共訳者の明記はない(10)。

 これらの歴史劇紹介もいずれも小説体になっており、英国莎士比原著とのみ記されていたので、上述のように林糸予はシェイクスピアの戯曲を小説体で訳したとする通説が生まれ、それが長く通行した。冒頭に述べたように、二〇〇七年樽本照雄氏により一九一六年訳の四編いずれもがクイラー・クーチ、(A.T.Quiller-Couch)“Historical tailers From Shakespeare”(『シェイクスピア歴史物語集』)(Edward Arnold, London 一八九九)に基づく訳であることが明らかにされた。
 クイラー・クーチ(一八六三〜一九四四)はイギリスの作家、ケンブリッジ大学教授、シェクスピア研究家で、『シェイクスピア歴史物語集』はラム『シェイクスピア物語』に欠けた歴史劇の児童向け梗概集として一時期歓迎され、中国では全訳が、日本でも抄訳がある(11)が、対象が地味な歴史劇である上に梗概としては長すぎるなどの弱点があり、今日では忘れられている。林糸予の翻訳も、《吟辺燕語》と異なりほとんど反響を呼ばず、初出のままに終わり単行本発行あるいは再刊行はされていない。
 林糸予はまた一九二一年イプセン『幽霊』を《梅nie》の題名で翻訳した。《梅nie》も文語の小説体で翻訳され、原著者 徳国(ママ)伊卜森 訳述者 min県林糸予、呉県毛文鍾、とのみ記されていた。このため、『幽霊』についても、イプセンの戯曲を林糸予が小説体で訳したという通説が生じた。《梅nie》も、樽本照雄氏により、Draycot Montage Dell(一八八八〜一九四〇)によるIBSEN'S “GHOSTS” Adapted as a Story (1918?)(12) の圧縮翻訳であることが明らかにされた。《梅nie》もその後再刊されていない。

                                      三
 なぜ、誤った通説が生まれ広く流布したのだろうか。すでに指摘したように、林糸予は歴史劇紹介にあたって直接の底本を記さなかった。これは《吟辺燕語》も同様である。林糸予がもし翻訳にあたって底本を記していたら、誤った通説は生じる筈もなかった。ただ《吟辺燕語》の場合は、底本のラム『シェイクスピア物語』があまりにも著名なために誤解が生じる余地がなかっただけである。
 なぜ林糸予は、底本を記さなかったのだろうか。
 《吟辺燕語》には林糸予署名による約六二〇字の序が付されており、林糸予のシェイクスピア観を知ることができる。序の大意は、西洋人が伝奇的な内容に満ちたシェイクスピア作品を強く好んでいることを指摘して、改革にはやる中国の若者が性急に中国古典を捨て去らないよう戒めたものである。しかし、見逃せないのは、林糸予が「シェイクスピアの詩は我が国の杜甫に匹敵する。・・・私の聞いているところによれば、彼らの名士はシェイクスピアの詩を酷愛し、あらゆる家々で愛唱された。そしてそれにとどまらず、劇界に与えて台本としたという」と述べていることであろう。ここに、林糸予のシェイクスピア観が集中的に表現されている。林糸予の認識では、シェイクスピア作品はまず詩として書かれ、それが広く愛唱されたため演劇の上演台本として用いられるようになったのである。序の末尾には、「夜中の暇な折りに、魏君はたまたまシェイクスピア筆記を一つ二つ取りあげた。私はすぐに明かりをつけ、書き記した。二十日を経て本が書き上がった。その文はすべてシェイクスピア詩の要約である」と述べ、題名の《吟辺燕語》も“詩を吟じる場所での親しげな語らい”の意味であり、ここからも林糸予はシェイクスピアを詩人として認識し、『シェイクスピア物語』をシェイクスピアの詩の要約集だと理解していることがわかる。
 林糸予が《吟辺燕語》の底本を記さなかったのも、ラムが『シェイクスピア物語』を書いたのは単なるシェイクスピア作品の圧縮にすぎず、両者の間には本質的な相違はないと考えたからであろう。この翻訳態度は、一九一六年の歴史劇紹介にも引き継がれる。

 林糸予がシェイクスピアを詩人とみなしたのは、当時のイギリスの文芸思潮の影響である。シェイクスピア戯曲は韻文で書かれていた。そして一九世紀に入ってロマン派文学観が勃興しその文学性が高く評価されると、イギリスではシェイクスピアは劇作家としてよりも詩人として高く評価される風潮が生じた。シェイクスピア作品の詩としての価値を強調するあまり上演不可能論を唱えたのは、ほかならぬチャールズ・ラムである。林糸予が《吟辺燕語》翻訳に当たった二十世紀初年はこのようなシェイクスピア観が支配的だった。林糸予はもとより、梁啓超、王国維らもシェイクスピアを詩人とみなしている。
 しかしながら、二十世紀に入るとこのシェイクスピア観は逆転し、イギリスはじめ欧米諸国でもシェイクスピアは再び劇作家として認識されていく(13)。
 シェイクスピアは劇団の座付き作者であり、彼はまず彼の劇団の上演台本として戯曲を執筆したのである。戯曲自体は、上演時には未公表であった。そして、上演から一定期間がたち名声を獲得した後、初めて戯曲が印刷出版されたのである。今日では研究の進展により、シェイクスピア作品は劇団所属俳優にあてて書かれた部分も多いなど所属劇団の制約を強く受けており、シェイクスピアが自分の頭の中で舞台とは無関係に想像力を働かせて書き上げたものではないという考えが、シェイクスピア研究者の定説になっている(14)。すなわち、シェイクスピア戯曲の実際の発表、受容過程は、《吟辺燕語》序の認識とは完全に逆だったのである。このことを、林糸予は与えられた歴史的条件、限界により理解できなかった。

 戯曲は上演されることを最終目的とし、そのことを明確に自覚して書かれた文学作品である。戯曲が存在することによって、俳優は舞台で演技できるのである。「上演」という制約があることが、逆に台詞の美しさ、詩情など独自の様式美を生みだす。従って、戯曲の小説化や梗概の翻訳は、戯曲のあらすじ紹介にはなってもその戯曲そのものを翻訳したことにはならない。たとえば、近松門左衛門『曽根崎心中』、『心中天網島』上演パンフレット掲載などの詳細な梗概を翻訳発表した外国人がいたとして、それは『曽根崎心中』などの内容紹介にはなっても、近松門左衛門作品『曽根崎心中』『心中天網島』そのものの翻訳紹介と言えるだろうか。また、《吟辺燕語》諸編をそのまま用いて、俳優は演技できるだろうか。実際には、文明戯劇団は《吟辺燕語》諸編を上演する際、脚色という作業を経なければならなかった。そして上演舞台は、シェイクスピアの元の作品とは大きく異なったものとなったのである(15) 。
 林糸予にも戯曲体文学(伝奇)の創作はある。しかし彼が創作したものは上演とは無関係に書かれたレーゼドラマでしかなく、林糸予は演劇作品の本質が理解できなかった。林糸予は、小説体に書き直されたラム『シェイクスピア物語』を訳すこととシェイクスピア作品を訳することは同じではないことに、気がついていない。当然、クイラー・クーチ歴史劇小説化作品翻訳にあたっても、原著者としてただシェイクスピアの名前しか出さなかった。林糸予は、シェイクスピア作品ではないものをシェイクスピア作品として紹介したのである。

 ここで思い出されるのは、《吟辺燕語》に先立つ《シ解外奇譚》の訳者が底本を明記していたことである。《シ解外奇譚》叙例は同時に「氏は絶世の名優であり、詩詞に長じていた。その編んだ戯曲小説は一世を風靡し、英国空前の大家とされた」と述べていた。シェイクスピアが絶世の名優であったかは異論があろうし、シェイクスピアが小説を書いたというのも誤解である。しかし少なくとも《シ解外奇譚》訳者は、シェイクスピアは演劇人でありその作品は戯曲(原文は戯本)であることを理解していた。これと《シ解外奇譚》に底本が記されていることは無関係ではあるまい。林糸予は、シェイクスピア理解の点では、《シ解外奇譚》訳者に明らかに劣っているのである。
 林糸予は冤罪であるとした樽本照雄氏は「林糸予+陳家麟は、小説化された英文原作にもとづき漢訳した。だが、その書きかえた人物の名前を明らかにしなかった。単にシェイクスピア原著と表記したのは、林糸予の間違いになるのだろうか」(16)と指摘したが、これは小説と戯曲の相違を無視した議論である。樽本氏は魯迅の翻訳例をあげて林糸予を弁護しているが、林糸予《吟辺燕語》と小説体から小説体への翻訳であった魯迅とは性格が異なるのである。樽本氏は更に、イプセン『幽霊』を中国語訳した潘家洵を引いて「たしかに戯曲のままに訳してはいるが、もとづいた英訳については何も記していない」(17)と述べ林糸予も同じだと再び弁護している。しかし、これは今日からみて潘家洵の翻訳態度が不十分であることの証明にはなっても、シェイクスピア、イプセン作品ではなくなったものをシェイクスピア、イプセン作品として紹介した林糸予とは同一には語れないことは、いうまでもないであろう。
 林糸予がなぜ《吟辺燕語》などの翻訳にあたって底本を記さなかったか、その理由はもはや明らかであろう。それは、林糸予のシェイクスピア観と密接に結びついていたのである。通説発生の主な原因は林糸予にある。もちろん、林糸予が当時の歴史的条件の強い制約を受けていたことも、確認しておかなければならない。

 
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