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                           王国維《莎士比伝》を読む       

                                                                          瀬戸宏
 
 王国維に《莎士比伝》(「シェイクスピア伝」)という評論がある。1907年10月《教育世界》159号に発表された。題名の通りシェイクスピアの生涯と作品を紹介したもので、ざっと数えて約四千字である。シェイクスピアの生涯を概観し、テキストの刊行事情に触れ、シェイクスピアの創作時期を四期に分けて紹介し、さらにほぼ全作品の題名を英語で記し、林糸予・魏易訳《吟辺燕語》(つまりラム姉弟『シェイクスピア物語』)紹介のものはその訳名を付している。最後に、『ハムレット』などが四大悲劇と呼ばれること、シェイクスピアは世界の一切の事物を記し“第二の自然”“第二の造化”とみなされていると締めくくる。一定の体系をもった比較的詳細なシェイクスピア紹介としては、中国で最初のものである。
 しかしながら、この評論を収録した《王国維文集》第三巻(中国文史出版社 1997年5月)が“此為佚文”と注するように、《莎士比伝》は同時代の人々に対して大きな影響力を発揮することのないまま、忘れられていった。今日まで最も詳細な中国シェイクスピア受容史研究である孟憲強《中国莎学簡史》(東北師範大学出版社 1994)も、この評論に触れていない。おそらく《王国維文集》第三巻刊行によって、初めて多くの人々の目に触れたことと思われる。その内容も、1907年当時はともかく、今日からみればもはや目新しい点はない。私も《教育世界》の初出テキストは未見で、《王国維文集》で初めてその存在を知った。
 
 さて、本会報322号(2008・8・31)に私は「《シ解外奇譚》 について」を寄稿し、その末尾で、現中学会関西部会大会で私が「林糸予のシェイクスピア観」を発表した際コメンテーターの樽本照雄氏が《吟辺燕語》序の“詩”はこの時代には劇を指す、という新説を提示したことに触れ、樽本氏の提示は十分な根拠を示さず同意しがたいが『清末小説』三一号に関連論文が掲載される予定なのでそれを待って更に考えたい旨を簡単に記した。これに対して、会報322号発行直後に樽本氏は氏の個人サイト「清末小説研究会お知らせ9月6日の項で、当日は十分な根拠を示した、と反論した。その根拠というのが、この王国維《莎士比伝》なのである。それに対して私は、「《シ解外奇譚》 について」を9月13日自己の個人サイトに転載する際、関西部会大会で樽本氏が王国維《莎士比伝》に言及したことはもちろん記憶しているが、これは根拠にはならない、その具体的理由は樽本氏の反論が全文公表されてから述べたい、という追記を付した。この追記に対して、樽本氏の再反論はなかった。
 実際には、樽本氏の関西部会大会での言及は、王国維《莎士比伝》の存在を口頭で突然述べただけで、当該部分のコピーなどを示すこともなく、学術討論の慣習からみてとても十分な根拠を示したとは言えないものであった。「清末小説研究会」お知らせでの反論も感情的なものだったが、これらについては深くは触れないでおこう。
 その後『清末小説』31号が9月末に発行され、私は10月初に書店経由で入手した。同誌掲載の樽本照雄「阿英による林糸予冤罪事件−『吟辺燕語』序をめぐって」(*本文末・追記2参照)を一読した私は、《吟辺燕語》序の詩=劇という樽本説が王国維《莎士比伝》の完全な誤読であることを改めて確認した。その理由をこれから述べることにしたい。

 「阿英による林糸予冤罪事件」の中で王国維《莎士比伝》に触れた部分は、『清末小説』31号では約一ページ(p25、以下ページ数は31号)分である。なぜ王国維《莎士比伝》が詩=劇の十分な根拠となるのか、その理由らしきものが二つ挙がっている。
 
 一つは、王国維がシェイクスピア戯曲の題名を“劇詩”という見出しの下に列挙していることである。王国維がシェイクスピア戯曲を劇詩と認識したのは、シェイクスピアを詩人とみなしたロマン派以来の一九世紀イギリス文学思潮の影響を受けたからだが、当時のイギリス文学界がシェイクスピアを詩人とみなしエリザベス朝時代の劇作家の中で極めて高い地位を与えたのは、シェイクスピア作品が韻文で書かれているだけでなく、高い文学性を持っていたからである。今日のシェイクスピア研究では評価は逆転し劇作家説が主流になっているが、十九世紀末のイギリスであってもすべての劇作家が詩人とみなされたわけではない。劇詩とは劇の形式をとった詩の意味であり、劇=詩とはまったく違う。詩すなわち劇という樽本説によれば、イギリスのすべての劇作家は詩人であり、すべての詩人は劇作家でなければならない。だが、王国維は《莎士比伝》を書いた翌月、やはり《教育世界》に《英国大詩人白衣龍伝》(「イギリス大詩人バイロン伝」)を発表している。樽本説に基づけば、バイロンは詩人であると同時に劇作家でなければならないが、王国維はもちろんそんなことは書いていない。
 これだけでも、《吟辺燕語》序の詩は劇を指すという樽本説の破綻は明らかであろう。林糸予は、シェイクスピアは中国の杜甫に匹敵する正真正銘の詩人だと考えて《吟辺燕語》序を書いたのである。杜甫が中国で劇作家とはみなされていないことも、いうまでもない。そして私は、そのような林糸予のシェイクスピア観を問題にしているのである。
 
 だが、樽本照雄「阿英による林糸予冤罪事件」には、もっと端的に“《吟辺燕語》序の詩すなわち劇”説の破綻を示す箇所がある。樽本氏の文章を直接引こう。
(王国維《莎士比伝》には)「さらに、『叙事及抒情之詩』という小見出しをつけた説明がある。ここに見える『詩』は、戯曲を意味していることはいうまでもない。」(p25)
 さて、王国維は“叙事及抒情之詩”という小見出しの下にどのような作品を挙げているか。これも原文を直接引こう。
「叙事及抒情之詩
“Venus and Adonis.”一五九二年(?)
“Lucrese.”自一五九三年至一五九四年之間
“Sonnets”(短歌集)自一五九五年至一六〇五年之間」(《王国維文集》第三巻p397 “ ”は原文)
 
 樽本氏は、シェイクスピアには戯曲のほかに純粋な詩作品もあることを知らなかったのだろう。ソネット(一四行詩)のどこが戯曲なのか。しかもこの文は、樽本氏が「ヴィーナスとアドニス」「ルークリース凌辱」「ソネット集」の内容を確認せずに「阿英による林糸予冤罪事件」を書いたことを示してしまった。日本語訳でよいからこれらの作品に直接当たれば、戯曲ではないことは一目瞭然だからである。これから別の場所でも明らかにしていくが、樽本氏の実証はけっこう杜撰なところもあるのである。もちろん、間違いは誰にでもある。問題は、間違いをどのように訂正するかであろう。

 (《吟辺燕語》序の)詩=劇説破綻を示す事例は、ほかにもある。樽本氏は林糸予冤罪説を唱えているが、氏がその原点とみなす劉半農《復王敬軒書》の一節“吟辺燕語本來是部英国的戲考,林先生於“詩”“戲”兩項,尚未辨明”がそれである。
 先の「《シ解外奇譚》 について」で私は、詩=劇とするとこの文は意味不明になることを指摘した。樽本氏はそれに対して「阿英による林糸予冤罪事件」で「劉半農は、林序に出てくる『詩』をそのままの詩だと理解した。・・・だが、ここの詩は、上述のように戯曲を意味する。劉の説明をあらためて日本語に翻訳すれば、林糸予は『戯曲[詩]』と『戯曲[戯]』の区別がつかない、ということになる。これでは論理が成立しない。劉半農は、林序を読んだが内容を理解していないのである」(p27)と述べる。だが「批判になっていない」(p27)のは樽本氏の方であろう。
 《復王敬軒書》発表の1918年は《吟辺燕語》刊行の十四年後で、《吟辺燕語》を同時代の出版物として読んだ人は多数いた。二十七歳の劉半農自身がそうだといえる。樽本氏の言うように、《吟辺燕語》刊行時は林序の“詩”は劇を指すとみなされ劉半農が誤読しているのであれば、気がつく人はただちに出てくる筈である。しかも《復王敬軒書》は、今日明らかなように八百長論争であった。だからこそ、確実に効果をあげなければならない。銭玄同など別人の意見も聞き、疑問をまねく書き方は極力避けるだろう。実際には、今日まで樽本氏以外には《吟辺燕語》序の詩は劇であると解釈した人は誰もないかった。これは、同時代の中国人からもここでの詩は「そのままの詩」であり、劇とは受け取られてはいなかったことを示している。林糸予自身をここに含めていい。もし劉半農の批判が樽本氏の言うようなお粗末なものだと林糸予が認識していたなら、彼はおそらく《荊生》《妖夢》で取り上げていただろう。樽本氏自身、『林糸予冤罪事件簿』では詩=劇という解釈をまったくしていなかった。樽本氏も「林序を読んだが内容を理解していな」かったことになる。
 
 樽本氏の林糸予冤罪説を読むと、冤罪という結論が先にあって、それに合わせて資料を強引に解釈しているという印象を強く受ける。樽本氏の王国維《莎士比伝》誤読は、それを示すものであった。
 
*追記1
「中国文芸研究会会報」第325号(中国文芸研究会2008.11.30)に掲載。ただし初出は6ページ左1、2行(/は改行)が「でも明らかにしていくが、樽本氏の/のである。もちろん間違いは誰に」となっており文意が通らない。これは会報編集部の編集ミスで、6ページ左1行・2行の間に、同右1行の「実証はけっこう杜撰なところもある」が入るのである。本HP掲載は、ミスを正してある。
 
追記2
08年12月13日『清末小説』31号PDF版がHP清末小説研究会で公開された。ところがPDF版「阿英による林糸予冤罪事件」では、私が問題にした「さらに、『叙事及抒情之詩』という小見出しをつけた説明がある。ここに見える『詩』は、戯曲を意味していることはいうまでもない。」(p25)という部分が何の断りもなく削除され、別の文に置き換えられている。論争対象の文章のこのような改変は偽造であり、極めて遺憾である。樽本氏の学術倫理を疑われても仕方あるまい。とりあえず紙媒体版『清末小説』31号p25の画像及びPDF版を掲げておく。この件については、近く別に文章を書く予定である。(2008.12.14、2017.6.1PDF版追加)
 
追記3
その後、『清末小説』31号PDF版は削除されている。(2016.2.23)
 
追記4
清末小説研究会HPの移転に伴い、現在では『清末小説』31号PDF版はHPに再掲載されている。(2017.5.2)
 
 
 
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