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          清末小説研究の貴重な成果−樽本照雄『清末小説論集』書評
                                                  瀬戸宏
 
*この書評は『東方』136号(1992.7)が初出です。発表後、樽本照雄氏よりいささか感情的な反論(「画期的な書評」 、「中島利郎『晩清小説研叢』について」)が寄せられました。そのため『中国話劇成立史研究』収録にあたっては、副題に「樽本照雄『清末小説論集』書評」をつけ、括弧記号を他と統一し、誤植を正したほかは一切手を加えていません。樽本氏の文章は氏の個人サイトである清末小説研究会に転載されていますので、サイト開設を機にこの書評文を転載します。私としては、読者が拙文を読み自分で判断していただければ十分であると考えています。(サイト転載時の付言)
中国語版を電脳龍の会中文版に掲載しました。(2010.10.18)
 
 清末小説研究という目立たない分野の専著である本書の出版を、まず喜びたい。著者の樽本照雄氏にとって前著『清末小説閑談』(一九八三)につぐ、二冊めの著書である。樽本氏はこの間、ほぼ独力で清末小説研究の専門誌『清末小説』『清末小説から』を精力的に発行しており、きらに『野草』『中国文芸研究会会報』等を発行している中国文芸研究会の中心メンバーとしても活躍している。樽本氏のエネルギーとその持続力には驚嘆しないわけにはいかない。私は清末小説を直接専攻する者ではないが、これまで清末民初の話劇成立史に関心をもってきたので、樽本氏の論文も私なりに目を通してきた。この機会に本書を紹介し、さらに樽本氏の研究についての感想を述べることとしたい。
 本書は上述の諸雑誌および樽本氏の勤務先の紀要『大阪経大論集』等に発表された論文を編集したものである。各論文はほぼ初出のままのようであるが、論文の冒頭には発表時の状況等を説明した簡潔なコメントが付されており、読む者の理解を助ける。巻末に『清末小説閑談』にはなかった索引がつけられているのもありがたい。
 本書は大きく三つに分かれる。
 第一部にあたる「『繍像小説』をめぐってー編者問題から盗用問題へ」では、清末四大小説雑誌の一つ『繍像小説』の編者をめぐって、従来の定説李伯元説に疑問を提出した中国の研究者王家熔に樽本氏が反論したことから端を発した、一連の論考が収録されている。その一つ「ワクドキ清末小説」は、論争の経過を三人称でユーモアたっぷりに概観したものである。
 第二部にあたる「作家と作品に関連して」では、『老残遊記』やその作者劉鉄雲についての考証、呉ケン(サイト注1)人『電術奇談』の原作さがし、李伯元と日本人の関係、清末の女性革命家秋瑾の来日についての調査などが含まれている。『電術奇談』の原作が日本の菊池幽芳『新聞売子』であること、秋瑾の来日が七月二日神戸着、七月四日東京新橋着であると明らかにした部分など、樽本氏の面目躍如たるものがある。
 第三部の「本・出版社・その他」では、清末小説全般の概観、商務印書館を中心とする出版社研究および第一・二部に収まらない文章を集めている。私自身は、自分の関心もあってこの中の「清末民初小説のふたこぶラクダ」「清末民初小説目録の構想」「引き裂かれる清末」の三編を最も興味深く読んだ。「ふたこぶラクダ」は、清末民初に刊行された小説雑誌や単行本等の発行年月日をコンピュータで整理分析したものである。清末民初の小説発行件数や単行本発行点数の推移が、辛亥革命を底にして、ふたこぶラクダのような形態を描くという状況が明らかにされている。
 「清末民初小説目録の構想」は、すでに刊行されている「清末民初小説目録」の解説といっていい。目録についての樽本氏の考え方が述べられると同時に、氏が“清末民初”を基本的に一九〇二−一九一八年と考えていることとその根拠が記されている。
 「引き裂かれる清末」は、建国前・後に発行された一九五種の文学史で清末がどのように扱われているかを分析したものである。建国前の文学史では清末を新文学の起点とするものが多かったのに対して、建国後の文学史では清末を古典文学の終点と位置づけるものが圧倒的に増えていることなどが明らかになった。
 本書に収められた諸論考は、いずれも個々の文章は論旨が明快で読みやすい。強靭な実証精神に裏打ちされた発言は、強い説得力をもつと同時に、読む者の気を引き締める。電脳など最新の研究機材を文学研究に活用した成果としても、本書は先駆的なものに属する。本書が清末小説研究の貴重な成果であることは、恐らく何人も異議がないであろう。
 しかしながら、私は本書の価値を認めるがゆえに、同時に不満も感じざるを得なかった。一言でいえば、清末小説の全体像が本書からは見えてこないのである。
 その理由として、まず第一に樽本氏自身が清末という時代をどうとらえているのかがわからないということがあげられる。言葉を換えれば、清末小説と古典文学、現代文学の関係が本書の中で充分に明らかにされていない、ということである。先にあげた「引き裂かれる清末」でも、肝心の樽本氏自身の見解はまったく述べられていないのである。
 このことはまた、樽本氏が清末小説の文学的価値をどう考えているのか、本書を読んでも明らかにならないこととも関連している。別の表現を使えば、清末小説は今日では忘れられているけれども実際にはなお、多くの人に読まれてしかるべき魅力をもった生きた文学だと樽本氏は考えているのか、それとも文学としてはすでに死んでおりその研究上の意義は文学史的なものに限られるとみなしているのか、ということである。
 もし生きた文学だと樽本氏が考えているのなら、その時代背景や文学史的意義を鑑賞上無視することも、一面では許されうる。しかし、本書では清末小説の文学としての価値・魅力はまったくといっていいほど語られていないのである。従って樽本氏の考えは後者すなわち死んだ文学であるようにも思われるが、そうであるなら今度は研究上の意義を明確にしなければ広い範囲の読者に訴えかける力は生じてはこない。
 さらに、なぜ清末文学の中で研究の対象を小説に限定したのか、ということも本書からは明らかにならない。本書では詩文、演劇、表象芸術等他のジャンルにはほとんど言及がないし、また小説と他ジャンルとの関係や清末の文学芸術全体の中で小説の占める位置についても、本書ではまったくといっていいほど記されていないのである。
 もちろん、一人の人間の能力には限りがあるから、樽本氏が研究の主要な対象を小説に限定すること自体は、一向にさしつかえないことである。しかし、研究が説得力をもつためには、他のジャンルにも目配りをしなければならないのではないだろうか。また他ジャンルとの比較を通して、文学(言語芸術)の一ジャンルとしての小説の特性が一層明らかになるのではないだろうか。
 このように、本書はタテ(文学史)との関係においても、ヨコ(他ジャンルとの比較)の関係においても“清末小説”の意義を充分に解明しているとは言い難いのである。丸山昇氏は数年前、日本の中国文学研究の現状を評して、「現代中国文学に関するかぎり(中略)問題のあまりの狭さとか、悪い意味でのアカデミズム・・・そこに書かれていることはその通りなのだが、それで一体何が明らかになりましたか、というようなものになっている」(『野草』三九号)と述べたことがある。私は丸山氏の指摘が日本の中国現代文学研究全般にあてはまるかどうかにはかねてから疑問をもっているが、これを樽本氏にあてはめたらどうであろうか。樽本氏が後書で述べている、氏の研究には「主義」がないという一部からの指摘も、おそらくこの点と関連しているのであろう。
 繰り返すが、清末小説というあまり注目されない分野で研究のクワをふるう樽本氏の努力は貴重なものである。氏の研究はもっと多くの人に注意されていい。樽本氏も認めているように、清末小説の研究はまだ始まったばかりと言っていい(サイト注2)。氏の研究が一層進展しそれによって私の不満が解消されることを願って、本稿の結びとしたい。
 
サイト注1 足(あしへん)に研の右側の旁
サイト注2 『中国話劇成立史研究』テキストは最後の「い」が脱落していたがサイト版では補う。正誤表参照
 
 
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