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   林糸予のシェイクスピア観(後半)
                                     四
 しかし、樽本氏は冒頭でも述べたように通説が発生しそれが流布していったのは、新文化運動関係者が運動敵対者としての林糸予を意図的におとしめた結果であるとしている。次に、この問題を検討してみたい。
 今日、中国現代文学は《新青年》が一九一七年に胡適《文学改良芻議》を、翌月陳独秀が《文学革命論》を発表し、白話文を提唱し新文化運動を起こしたことから始まるとされている。彼らは中国旧文化を強く批判したが、暫くの間は何の反響もなかった。苦慮した《新青年》グループは、なれ合い論争を誌上でおこない、読者の関心を引くことを思いついた。そこで、銭玄同が王敬軒の名で旧文化擁護の投書をおこない、それを反駁する論文を劉半農が執筆し、両者を「文学革命の反響」の題で掲載することにしたのである。劉半農の文は今日「王敬軒への返書」(《復王敬軒書》)(18)の題で知られているが、《新青年》第四卷三號 (一九一八年三月)での初出時には題名はない。なれあい論争の真実は、一九三五年鄭振鐸執筆《中国新文学大系・第二集文学論争集》導言によって明らかにされた。

 このなれ合い論争の文章には、林糸予に触れた部分があった。林糸予は当時古文派の大家であり、古文擁護の意見も発表していたからであろう。“王敬軒”が林糸予を賛美し、劉半農がそれに“反論”する形式である。劉半農の“反論”の中に、「《吟辺燕語》はもともとイギリスの戯考であるのに、林先生は“詩”と“戯”の二項を区別していない。その知識は“豆と麦の区別もつかない”(愚かの意−訳者)とさして変わりはないのである」(19)という部分があった。《戯考》は当時刊行されていた京劇の観劇手引き書、粗筋集で、同時に戯曲(劇本)も掲載していたがそれは観劇の便を図るためのものであった。(後に発行された《京劇大戯考》《越劇小戯考》など戯考と題する刊行物では、劇本集の要素はほとんどなくなる。)劉半農は、《吟辺燕語》が戯考であるなら詩(文学的側面)の項のほかに戯(演劇的側面)の項についても触れなければならないのに、林糸予はその区別をつけていないと批判したのである。
 樽本氏は劉半農の文を「『吟辺燕語』は、本来は英国の戯曲である。林氏は「詩」と「戯曲」のふたつの区別がついていない」と翻訳し、「林糸予は、シェイクスピアの戯曲を小説に書き換えて翻訳してしまった。戯曲と小説の区別もつかないでたらめな翻訳である。そのことをいうのに『吟辺燕語』で代表させた。/なにが重要かといえば、戯曲の小説化というこの指摘は、のちのちまでもくり返して引用されることになるからだ」(20)という解釈を導きだした。しかし、この解釈には無理がある。もし劉半農が樽本氏の言うように戯曲(日本語)と小説の区別もつかないという批判をするなら、劉半農は“戯考”ではなく、“戯本”“劇本”を使うであろう。《吟辺燕語》序は“余今譯莎詩紀事”と《吟辺燕語》の原本がシェイクスピアの梗概であることを明記しており、劉半農がそれに気がつかなかったとは考えにくい。樽本氏の「冤罪」説は出発から無理があるのである。

 ラムは文学作品としてのシェイクスピア戯曲梗概集として『シェイクスピア物語』を書いたのであり、『シェイクスピア物語』(《吟辺燕語》)が戯考であるというのは劉半農の認識不足であった。ただし、「林先生は“詩”と“戯”の二項を区別していない」は上述のように林糸予のシェイクスピア理解の限界を突いており、後の論者に影響を与えた可能性は否定できない。
 翌月、胡適は《建設的文學革命論》 を《新青年》第四巻四号( 一九一八年四月)に発表し、ここでも林糸予のシェイクスピア紹介に触れ「林琴南はシェイクスピアの戯曲を記述体の古文で訳した。本当にシェイクスピアの大罪人だ」と述べた。胡適の文学素養からみてラム『シェイクスピア物語』を知らなかったとは考えにくい(21)。ここでの記述は一九一六年《雷差得紀》以下の翻訳を指しているのであろう。これが胡適の錯覚であるのは樽本氏の指摘の通りである。しかし小説化された底本が明記されていない以上、当時の条件では胡適を一方的に責めることはできないであろう。
 この劉半農・胡適の批判は、林糸予逝去直後に発表され林糸予評価を定めたとされる鄭振鐸《林琴南先生》(《小説月報》第一五卷一一号 一九二四年一一月)に引き継がれることになる。鄭振鐸は次のように述べていた。

「さらにもう一つの事がある。林先生は彼の口頭翻訳者によって間違うことになったのだ。小説と演劇は、性質がもともと大きく異なる。しかし、林先生は多くの極めてよい戯曲を小説に訳してしまった−−多くの叙述を加え、多くの対話を削り、まるで原本と完全に異なる本にしてしまった。たとえばシェイクスピアの『ヘンリー四世』『リチャード二世』『ヘンリー六世』『ジュリアスシーザー』およびイプセンの『幽霊』はみな彼によって別の本に変えられてしまった−−原文の美と風格および重要な対話は完全に消えてしまった。これはまるでチャールス・ラムが『シェイクスピア物語』でしたようなもので、どうして“原著者シェイクスピア”および“原著者イプセン”と書く必要があるのか。林先生はおそらく小説と戯曲の区別があまりわかっていなかったのだ。−−中国の旧文人はもともと小説と戯曲の区別ができなかった。たとえば『小説考証』は、名前は小説だが、無数の伝奇を含んでいる。だが、口訳者はなぜ彼に言わなかったのだろうか。」(22)

 鄭振鐸によって、林糸予はシェイクスピア(およびイプセン)戯曲を小説化して訳したという通説が確立した。これが錯覚であったのは樽本氏の指摘の通りである。だが、鄭振鐸はなぜ林糸予が『リチャード二世』などを小説体にして訳したと錯覚したのだろうか。これには、林糸予側、鄭振鐸側双方の理由が考えられる。
 林糸予側の理由として、まずこれまで指摘してきたように、林糸予が翻訳の底本を明記しなかったことがあげられよう。歴史劇紹介では、林糸予は作品の意義を解説する序文の類も執筆しなかった。(《梅nie》には短い“発明”があるが、底本などには触れていない)

 次に、林糸予が劉半農、胡適に対して反論しなかったことが挙げられる。林糸予自身が戯曲と小説の本質的な相違を区別できなかったため、劉半農、胡適の批判の意味が理解できなかったのかもしれない。劉半農、胡適批判後の《梅nie》も底本を明記していないのは、このことを示している。
 鄭振鐸側の原因としては、シェイクスピアの作品の中でも地味な歴史劇であり、林糸予の翻訳もそれほど大きな反響を呼ばなかったため、《雷差得紀》などの訳文を検討しなかったことが挙げられる。底本のクイラー・クーチ『シェイクスピア歴史物語集』はラム『シェイクスピア物語』の知名度に遠くおよばず、鄭振鐸がその存在を知らなかったことはまず間違いあるまい。当時の条件では、原著を探すことも困難だった。
 林糸予はシェイクスピアの戯曲を小説化して翻訳した、という従来の通説は正しくなかった。しかし、戯曲を小説化したもの、すなわちシェイクスピア作品ではなくなったものをシェイクスピア作品そのものとして翻訳紹介した事実は変わらない。だから、「林糸予はおそらく戯曲と小説の区別があまり理解できていなかった」という鄭振鐸の判断は、現在でも正しい。鄭振鐸は同時に、口頭翻訳者の責任にも触れ、更に「中国の旧文人はもともと小説と戯曲の区別ができなかった」と述べ、単なる林糸予個人の問題ではなく中国の伝統文化に根ざしたものであることも指摘しているのである。公平な判断というべきであろう。

                                      五
 しかし、樽本氏の林糸予擁護はさらに続く。
「等身大の林糸予では、陳独秀あるいは銭玄同、劉半農ら文学革命派が抵抗すべき強大な敵対者にはなりえない。彼らが切望したのは、文章を発表して大声で罵って攻撃してくる敵でなければならなかった。さらに軍閥を後ろからあやつり武力をちらつかせて恫喝を加える強力な敵がどうしても必要だった。これが、風説風聞を広め、それを林糸予に関係があるように印象づけ、実際よりも数倍にふくらませ、軍閥と関係をもった林糸予像が作られた理由である。・・・結局のところ、林糸予批判そのものが文学革命派によって作り出された冤罪事件だった。」(23)
樽本氏のこの断定は正しいだろうか。しばらくシェイクスピアから離れて、中国現代文学史の文脈の中でこの問題を考えてみよう。

 “王敬軒”(銭玄同)と劉半農のなれあい手紙や胡適の批判に対して、林糸予はすぐには反論しなかった。しかし、林糸予が不快感を覚えたのは間違いない。一年後、林糸予は突然反撃に出るのである。
 まず、一九一九年二月一七、一八日林糸予は文語体小説《荊生》を《新申報》に発表した。荊生という青年が、明らかに陳独秀、銭玄同、胡適をモデルにしたとわかる人物の会話を聞き、怒って彼らを痛めつけるというものである。翌三月一八日には、胡適・陳独秀ら《新青年》グルーブが拠っていた北京大学の学長蔡元培にあてた古文擁護の有名な公開書簡が《公言報》(24)に発表された。突然新聞に公開書簡を掲載するのは、相手に対して特定の攻撃的意図がある場合がほとんどである。さらに、この公開書簡発表に続けて三月一九日から二三日にかけて、林糸予は再び文語体小説《妖夢》を《新申報》に発表した。《妖夢》では、蔡元培、陳独秀、胡適をモデルとした人物が阿修羅王に食われてしまう。
 二つの小説は共に一見して新文化運動の中心メンバーがモデルとわかる人物が暴力をふるわれ痛めつけられたり殺されたりする内容であり、林糸予が彼らに強い悪意を持っていたことが理解できる。これと前後して林糸予は武力で《新青年》グループの打倒を企図している、という風説が北京で広まり、《荊生》《妖夢》はその証拠とされた。

 これに対して樽本氏は次のように言う。
「モデルを特定して武力での制圧を意図していると批判する。この『毎週評論』の反応は、どうみても奇妙である。なぜなら、現実と小説という虚構を混同しているからだ。
 虚構と現実は違う。この当たり前のことを、わざわざ書かなくてはならないのは、林糸予批判に関しては、この基本原則が無視されるからだ。無視するのは文学革命派の人々とその支持者である。」(25)
 だが、この樽本氏の批判は妥当か。ここで中国文学における影射の伝統に触れなければならない。影射とは、小説に仮託して現実をあてこすることである。当時の中国にも、小説の内容を事実と受け取る文化風土があった。たとえば数年後に魯迅《阿Q正伝》が発表された際、「この作品が連載された当初、多くの人が、これは自分を風刺、攻撃したのではないかと誤解し、恐れたという話もある」(26)と魯迅研究者の丸山昇は指摘している。林糸予が《新青年》グループ、北京大学に強い悪意を持ち暴力で自分たちの打倒を狙っていると描かれた側が(たとえ誤解であっても)受け取った可能性は充分あるのである。樽本氏の主張は、中国文学における影射の伝統を無視している。三島由紀夫『宴のあと』裁判(一九六一年)はじめモデル小説をめぐる日本での各種のトラブルをみても、現在の日本社会でも「小説という虚構は、あらゆる制約から自由である。何をどのように書いてもよい」(27)という樽本氏の考えはとても通用しがたい。

 そして、実際にも林糸予は軍閥関係者の徐樹錚と密接な関係にあった。徐樹錚(一八八〇〜一九二五)は国務院秘書長、陸軍総次長などを歴任した北洋軍閥の将軍である。徐樹錚の子徐道鄰の回想によれば、民国八、九年すなわち林糸予と《新青年》グループの対立が表面化した時期には、徐樹錚は毎週水曜日定期的に林糸予ら何人かと料亭で食事をするのを常としていた。会食の場では、ほとんど林糸予が一人でしゃべっていたという(28)。
 多くの人の回想・指摘によれば、林糸予は極めて短気な人であったという(29)。林糸予の性格と《荊生》などにみられる《新青年》グループへの強い悪意からみて、林糸予が徐樹錚らとの会食中《新青年》グループなどを罵倒する放言をしていた可能性は極めて強い。当時林糸予は六七歳で文壇上の高い地位にあり、段祺瑞政権の重要人物である徐樹錚と定期的に会える関係にあった。これに対し《新青年》グループは最年長の陳独秀も四十歳で北京に来たばかりであり、その社会的地位は安定していなかった。辛亥革命後の反革命で大量の革命派・国民党員が軍閥に虐殺された記憶はまだ鮮明だった。

 風説の真実性については、文字通りの風説であるとするものと、林糸予らは実際に武力制圧を企んでいたが五四運動の勃発で果たせなかった、という二つの説がある。風説の内容をみると、景山に大砲をすえて当時北京城内にあった北京大学を砲撃するなど荒唐無稽なものもあり(30)、これらが単なる放言であり実際の武力制圧を林糸予らは考えていなかったことを証明しているようにも思える。しかし、たとえ林糸予にその意思がなくとも、放言の内容が尾ひれの付いた風説となって社会に流布し、《新青年》グループ、北京大関係者が強い脅威を感じたことは十分にありうることである。
 だが、直後に起きた一九一九年五月四日の五四運動は、林糸予と新青年グループの論争を吹き飛ばしてしまった。そして林糸予が一九二四年十月十九日一種の遺老として逝去したことは、すでに述べた通りである。
 林糸予の死の翌月、すでに触れた鄭振鐸《林琴南先生》が《小説月報》一九二四年一一月号に発表された。この文は「林糸予の生涯、思想およびその中国近代文学、現代文学上の貢献に全面的な評価をおこなったものである」(31)とみなされてきた。鄭振鐸は、林糸予晩年の守旧の「主張は一つの問題であり、彼の中国文壇での地位は、また別の問題である。彼の一時的な守旧の主張により、彼の文壇上の地位を完全に覆し、彼の数十年の営々とした仕事を完全に埋没させてしまうのは、あまり公平ではないようにみえる」(32)と述べ、林糸予に対してかなり高い評価を与えたのである。

 これに対しても、樽本氏は「鄭振鐸『林琴南先生』は、評価の公正を標榜しながら根本から公正ではなかった。林訳小説冤罪事件の原点になる論文である。」(33)と述べている。樽本氏がこう述べるのは、先に引用した林糸予はシェイクスピア(およびイプセン)戯曲を小説化して訳したという部分があるからだが、それだけではない。「五四時期の文学状況について説明する場合、鄭振鐸が前出『中国新文学大系』第2集文学論争集に掲載した『導論』(ママ)に基づくことが多い。鄭振鐸は当事者の一人であったから事情に詳しいと考えられる。・・・彼は、文学革命派の一員なのだ。・・・鄭振鐸の文章は、一方に偏向しているという前提で読まなければならない。」(34)というのである。
 だが、この批判も成り立ちがたいと思われる。

 一九一九年当時の《新青年》グループをみると、陳独秀(当時四〇歳)、魯迅(三八歳)、銭玄同(三二歳)、劉半農(二八歳)、胡適(二八歳)と二十代の終わりから三十代の者が多く、当時二一歳であった鄭振鐸とは大きく年齢が異なっている。もっとも、《新青年》グループにも傅斯年(二三才)、羅家倫(二二歳)のように二十代前半のものもいるが、それは彼らが北京大学学生であったからである。これに対して当時の鄭振鐸は北京鉄路管理学校(現、北京交通大学)学生で、北京大学とは無関係だった。《魯迅日記》に鄭振鐸の名が現れるのは、彼が上海に移った後の一九二一年四月十一日からである。鄭振鐸は後に上海で《小説月報》編集の中心人物になり《新青年》グループメンバーと近い位置にいて当時の事情を聞く機会もあったと思われるが、一九一九年当時グループの一員(当事者の一人)だったとは考えにくい。また《新青年》グループの多くは、文学研究会に参加していない。銭玄同・劉半農のなれ合い手紙の事実を明らかにした《中国新文学大系》第二集導言は、「居直った」のではなく、隠されていた事実を記録しようとする鄭振鐸の責任感、良心の現れだと私には思える。
 これまでの検討から理解できるように、胡適、鄭振鐸は「林糸予はシェイクスピア戯曲を小説化して翻訳した」と信じており、故意に事実をねじ曲げたとは考えにくい。胡適は《新青年》戯劇改良特集号を編集し、鄭振鐸は《戯劇》第一巻三号に「光明運動の開始」を寄稿するなど、演劇活動(話劇運動)にも一定の理解があり、小説と戯曲の相違にも敏感だった。林糸予の翻訳態度自体に錯覚を引き起こす要因があったことはすでに述べた通りである。樽本氏も「捏造に近い」(35)とは言うが「捏造」とは断定できていないのである。

                                      六
 林訳《雷差得紀》などがシェイクスピア戯曲を林糸予が小説化して翻訳したのではなく、クイラー・クーチ『シェイクスピア歴史物語』の翻訳であることを明らかにした樽本氏の発見は重要である。私は樽本氏の発見を、中国シェイクスピア受容史研究の貴重な成果と呼ぶことをためらわない。しかし、これまで明らかにしたように、林糸予は戯曲と小説の本質的な違いが理解できず、依拠した底本の著者を記さず、これが鄭振鐸らの誤解、錯覚を引き起こす直接の原因となった。“林糸予はシェイクスピアの戯曲を小説化して翻訳した”という通説が形成された主要な原因は、林糸予自身にある。鄭振鐸は、それは中国旧文人全体に共通する問題であり、時代的文化的要因があり、単に林糸予個人の問題ではないことも指摘している。鄭振鐸《林琴南先生》は全体としてみれば林糸予を高く評価している。通説形成の原因を劉半農、胡適、鄭振鐸ら新文化運動活動家の「恣意的な断定」に求め、林糸予は冤罪であったとすることは、歴史的事実に合致しないだけでなく、鄭振鐸らに対する別の冤罪を形成することにつながると思われる。
 私を含めて、これまで研究者が「《雷差得紀》などはシェイクスピア戯曲を林糸予が小説化して翻訳したもの」と記してきたことは事実である。樽本氏は研究者の責任問題を提起しているが、樽本氏によりその間違いが指摘された後は、可能な方法で事実関係を訂正すればよい。これが研究者の責任の取り方である。本論文発表も、私なりの責任の取り方の一端である。同時に林糸予がシェイクスピア作品ではないものをシェイクスピア作品として翻訳紹介したのも事実であり、「林糸予はおそらく戯曲と小説の区別があまり理解できていなかった」(鄭振鐸)という部分など、中国シェイクスピア受容史の本筋は訂正する必要はないと私は考える。

*『 』は日本語書籍、「 」は日本語論文、《 》は中国語書籍、論文を示す。ただし引用文中のものは、引用文に従った。
(原載『演劇映像学2008第一集』 早稲田大学演劇博物館グローバルCOEブログラム「演劇・映像の国際的教育研究拠点」 2009年3月15日発行)

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