地獄の英雄 ★★★
(Ace in the Hole)

1951 US
監督:ビリー・ワイルダー
出演:カーク・ダグラス、ジャン・スターリング、ボブ・アーサー、リチャード・ベネディクト



<一口プロット解説>
田舎の新聞社に職を得た新聞記者が、哀れな男が鉱山に生き埋めになったことを偶然知り、わざと救出が遅れるように地元の救助隊員に入れ知恵してそれを一大スクープに祀り上げる。
<入間洋のコメント>
 さすがに著名な監督さんだけあって、ビリー・ワイルダーの作品はそのほとんどがビデオやDVDで発売されていましたが、少なくとも1950年代以降の作品に限って云えば、唯一国内でも国外でも入手困難な状況が続いていたのがこの「地獄の英雄」です。しかしながら、ようやく本年になってCriterionからDVD版が発売されました。Criterionのプロダクトは値段が一般的に高めなのであまり買わないようにしており、あまつさえ会社を辞めてプー太郎になった現在ではなおさら無駄な出費は控えるようにしていますが、このタイトルについてはいの一番に購入しました。実は「地獄の英雄」は、公開当時は興行的失敗作と見なされた作品で、つまり客が入らなかったのですね。しかしその内容の斬新さに、次第に人気が出てきた作品でもあり、現在では一種のカルト的傑作と見なされる場合も多いようです。ユダヤ系のワイルダーは、ナチスが政権を握った1933年に故郷のウイーンを去り、パリ経由でアメリカに渡った経歴を有していますが、その意味では極めてヨーロピアンなテーストを基盤として持っていた人物であり、保守化が著しかった1950年代前半のアメリカにおいては、彼のそのような非アメリカ的なテーストは、フレッシュな赤い血を持つ壮健な(redblooded)アメリカ人のオーディエンスの口には合わなかったのかもしれません。現在では、ワイルダーは、「七年目の浮気」(1955)、「お熱いのがお好き」(1959)、「アパートの鍵貸します」(1960)を典型とした一見極めてアメリカ的色彩の濃いコメディ作家として見られることが多いのではないかという個人的な印象がありますが、勿論ご存知のごとく、当初はかの「深夜の告白」(1944)や「失われた週末」(1945)のようなノワール作品や極めて陰鬱な作品を撮っていたのであり、ややそれらの作品と趣自体は異なる面があるとは云え「地獄の英雄」はそのような傾向の延長戦上にあるものと見なされ得る作品です。因みに、私見では「七年目の浮気」に関してはやや異なるかもしれませんが、「お熱いのがお好き」、「アパートの鍵貸します」には内容面はともかくとしてプレゼンテーション面ではかなりノワール的な残り香が色濃く存在しているのではないかと考えています。確かにこれらの作品が製作された頃は伝統的なスタジオシステムの崩壊に由来する資金難から1950年代中盤あたりよりもむしろ白黒作品が先祖帰り的に増えていたという事実もあり、又「お熱いのがお好き」の場合には主演男優が女装しているという理由もありますが、いずれにせよこれらの作品が白黒撮影されているのは象徴的と云えるかもしれません。しかし「地獄の英雄」には、これらのコメディ作品はもとより初期のノワールフィルムとも大きく異なる側面を持っていることも指摘されねばならないでしょう。というのも、「深夜の告白」や「失われた週末」においては、たとえ後者のテーマがアルコール中毒という一般化されたテーマの敷衍に関するものであったとしても、実際の作品のコンテンツとして提示される範囲はあくまでも局所的なプライベート領域に限定されていたのに対し、「地獄の英雄」においてはカーク・ダグラス演ずるあくどい新聞記者のみならず、マスメディア自体は勿論のことマスメディアに煽られて他人の悲劇に群がる群衆としての一般大衆も大きな批判のターゲットとなっており、広範且つ包括的なパブリック領域が対象になっているからです。つまり「地獄の英雄」は射程が極めて長い作品であり、殊に保守化が著しかった当時にあっては、オーディエンスもこの作品のそのような特質を掴み損なってしまったのではないでしょうか。繰り返すと、この作品のターゲットは、ずばり扇情的なマスメディアの横暴と大衆消費社会であり、更に云えばそのようなメディアに載せられて他人の不幸に群がる痴愚な大衆をも含められていると見るべきであり、いわばオーディエンスすら批判のターゲットに含められているこの作品が、公開当時はほとんど誰にも受け容れられなかったのは或る意味で当然と云えば当然な結果でした。「地獄の英雄」では一種の「やらせ」(但し、後述するように一人の犠牲者が本当に存在するので完全なやらせではありませんが、本来犠牲者にならなくとも済む人物がマスコミによって犠牲者として捏造されているという意味ではマスコミの「やらせ」の犠牲者であることになります)が扱われていますが、マスコミが捏造する擬似リアリティ或いはボードリヤール流に云えばハイパーリアリティを扱った有名な作品「ネットワーク」(1976)や「カプリコン・1」(1978)が製作されるのは、「地獄の英雄」から四半世紀後であり、いかにこの作品が時代を先んじていたかが分ります。エリア・カザンの「群衆の中の一つの顔」(1957)にもそのような要素を多少なりとも見出すことができますが、しかし徹底性ではむしろ「地獄の英雄」の方が極めて現代的に見えます。

 実を云えば、「ネットワーク」、「カプリコン・1」、「群衆の中の一つの顔」のマスメディア批判のターゲットになるのはテレビであったのに対し、「地獄の英雄」ではテレビよりも遥かに歴史の古いメディアである新聞が取り上げられています。この違いは容易に理解できるところで、「地獄の英雄」が製作された1950年代初頭はテレビの普及が始まって間もない頃であり、まだ批判の対象となる程際立った存在としては成立していなかったということでしょう。そのことはこの作品の5年後に製作された「群衆の中の一つの顔」にすらある程度当て嵌まりますが、テレビの黄金時代に製作された1970年代の「ネットワーク」と(1980年代に入るとケーブルテレビの登場など様相がやや変わってきます)、未だテレビ放映黎明期とも云える時代に製作された「群衆の中の一つの顔」との間にあるマスメディア批判の論点の相違に関しては、「群衆の中の一つの顔」のレビュー或いは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「テレビ放映黎明期のマスメディア論 《群衆の中の一つの顔》」で述べましたのでそちらを参照して下さい。少し本題とははずれてしまいますが「群衆の中の一つの顔」が話題になったついでに、そこで書いた内容について1つ釈明すべきことがあるので、丁度良い機会でもあり寄り道してそれについて少し述べることにします。関心がなければ、次の段落まで読み飛ばしても構いません。これらのレビューでは、ラジオが視聴者参加度の高いメディアでありテレビはその逆であるとも取れる議論を述べましたが、実はその後よくよく考えてみるとマーシャル・マクルーハンなどはホットなメディアとしてのラジオを視聴者参加度の低いメディアとして、クールなメディアとしてのテレビを視聴者参加度の高いメディアとして論じており、それに比べるとそこでは全く逆の議論が展開されているように見えます。それらのレビューのどこかでマクルーハンの名前を持ち出したこともあり(マクルーハンと云えばウディ・アレンの「アニー・ホール」(1977)でマクルーハン論を人混みの中で得意気にひけらかしていたキザな野郎を見たウディ・アレン演ずる主人公がマクルーハンをどこからともなく連れてきて彼に「君は何も理解しちゃいない」とか言わせていましたが、あれはどうやらマクルーハン本人だったようですね)、余計に論旨の展開に矛盾があるように見えるかもしれません。マクルーハンの有名なメディア論に関する著作を読んだのは10年以上も前なのでやや間違った理解があるかもしれませんが、彼が、あるメディアがホットであるとかクールであるとか述べる場合、それにはそのメディアが扱うことのできる情報の稠密度が関与しているように思われます。要するに情報の稠密度が低く高い曖昧性を有するクールなメディアは、その部分を視聴者が積極的に補完する必要があるので視聴者参加度が高まるということであるように思われます。この議論自体は勿論ベーシックな知覚レベルに関するものではありますが、しかしベーシックなレベルがそうであれば実践的な参加という意味でもそのような傾向が高くなることは十分に考えられます。ここからが釈明になりますが、しかしこれはあくまでも観客を個人個人として捉えた場合の話であり、それとそれが共同体的なヨコの連帯感を喚起するか否かは全く話が別であるように思われます。確かに、個々のアトムとしての個人レベルで見た場合には、テレビはラジオよりも遥かに個人の参加度を要請します。ラジオが単に聴覚の動員のみを要請し、テレビは聴覚と視覚双方の動員が必要であるという単純な理由もさることながら、マクルーハンが述べるように知覚様式そのものに訴えるクールなメディアとしてのテレビの本質面もそこには大きく関与していることが考えられます。従って、テレビを見ながら勉強をすることはおよそ不可能であっても、ある年代以上の方々であればよくご存知のようにラジオの深夜番組を聴きながら勉強をするということは効率うんぬんを度外視すれば普通に行われていたのです。しかし個々の視聴者を結合させる連帯性ということになれば、テレビはむしろネガティブに機能しアトム化すなわち孤立化を促進し、ラジオはポジティブに機能し連帯化を促進するように考えられます。それは何故かについて直ちに回答する能力は持ち合わせていませんが、ラジオの深夜番組などが受験生諸君の連帯感をかきたてる存在であったのに対して、一家団欒すら破壊したと云われるテレビは常に連帯感を疎外する方向で機能してきたことは経験的事実であるように思われます。従って、それらのレビューで述べたようにテレビはラジオに比べれば遥かに個人をコントロールする中央集権的な装置として機能し得ることになります。もしそれらのレビューで書かれている内容がマクルーハンの議論の逆であるように見えるとしたならば、書き方がよくなかったことはあったとしても、少なくとも逆ではないとここに釈明する次第です。そのようなわけで、もし地球村のような概念が現実化するとするならば、それは決してアトミックなレベルでは視聴者参加が要請されても連帯化という面ではかえって孤立化をもたらすテレビのような中央集権的なメディアによってではなく、逆説的にもより分散化傾向を有するメディアによってではないかというのが個人的な考えです。その意味ではインターネットなどはどうなのでしょうか。マクルーハンが生きていたいたならばインターネットに関して何と言ったかが興味のあるところです。

 ということで本論から大きくはずれてしまいましたが元に戻ると、「地獄の英雄」はテレビというメディアが十分に確立されていなかった時代に製作されたこともあり、その代わりとして新聞がその対象として取り上げられていますが、この作品をよく見ていれば分かるように、そこで展開される批判内容は新聞よりもむしろテレビに適切に当て嵌まるような印象があります。たとえば、この作品では前述したように一種の「やらせ」が描かれますが、テレビメディアの「やらせ」に関しては現実世界でもしばしばスキャンダルとして取り沙汰されることがありますが、新聞メディアの「やらせ」というのはほとんど聞きません。これは恐らくテレビが常に大衆消費社会に結び付いており、大衆の欲望を満足させるという視点から切り離されることがほとんどなかったのに対して、新聞は必ずしもそうではなく現在ですら大きな倫理規制がそこでは機能しているということかもしれません。「地獄の英雄」でも、カーク・ダグラス演ずる何でもありの記者とは全く逆の、報道倫理を常に第一に考える編集長?が登場します。勿論、新聞メディアにおいても他社を出し抜くスクープが大きな価値を持っていることは確かですが、たとえば「地獄の英雄」と同じくワイルダーが監督した「フロント・ページ」(1974)やロン・ハワードの「ザ・ペーパー」(1994)のような新聞メディアを扱った作品でも「やらせ」は全く問題外であり、その意味では同じ活字メディアでも突撃リポーターとかパパラッチとか扇情路線に走り易いイメージを持つ雑誌メディアを扱った「大統領の陰謀」(1976)にしても、脅しすかしは存分に行使したとしてもでっち上げだけはご法度であり、ある一線が越えられることは決してありません。つまり、現実世界においてにせよフィクションの中においてにせよ、「やらせ」とは少なくともこれまでの実績から見れば現代的な映像メディアに専ら関わることであるように思われ、そのように考えてみると未だ映像メディアの黎明期に差し掛かった頃に製作された「地獄の英雄」がいかに時代を先取りしていたかが分ります。時代を先取りしていると云えば、考えてみればハイパーリアリティという用語で知られるジャン・ボードリヤールはおろか、擬似イベントという用語を人口に膾炙させた「幻影の時代」(東京創元社)のダニエル・ブーアスティンや、劇場社会に関する批判を繰り広げた「スペクタクルの社会」(平凡社)のギー・ドゥボール或いは「意識産業」(晶文社)を書いたハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーのような人々が活躍する遥か以前に「地獄の英雄」が製作されているのは、並み居るオールスター社会学者達よりも以前に問題の所在に気づいていたことを意味し驚異的とすら云えるかもしれません。そこで次に、「地獄の英雄」とこれらの社会学書の中でも最も知られたブーアスティンの「幻影の時代」がいかにメディア批判において呼応しているかについて考えてみることにします。実はブーアスティンの著書を読んだのもマクルーハン同様既に10年以上前なので、あらかたの内容を忘れていてこのレビューを書く為にもう一度読み直さなければならないかなとも思っていましたが、都合のよいことに先日入間の図書館で借りてきた桜井哲夫氏の「TV 魔法のメディア」(ちくま新書)の中に簡潔に要旨が纏められていたのでそれを利用させて貰うことにしました。以下にその部分を書き出してみました。尚、各項目の先頭に命題という接頭辞が付いていますが、これは後で参照しやすいように私めが勝手に付加したものです。

命題1.報道の自然さよりも、物語の迫真性や、写真の「本当らしさ」が好まれ、報道する方もまた、ある種のイメージをふりまくことがメディアの役割だと錯覚するようになった。ニュースは、発掘するものではなく、作り出されるものとなった。

命題2.役者と観客の関係が崩れ、誰でも役者たりうることになった。人は、テレビで、パレードに参加する自分を、あるいは、街頭でインタヴューされる自分をお茶の間のテレビで見ることができる。誰でもが、ある日、人間的擬似イヴェントとしての有名人(能力や地位に関係なく、ただ単にひろく人に名前を知られている人)になりうる。

命題3.擬似イヴェントは、かつての意味での「本物−偽者」という構図を脱却している。テクノロジーが、現実そのものよりも、いきいきと説得力のあるものを生み出してしまい、現実のほうがぼやけて、曖昧化してしまうからである。テレビの中での出来事のほうが、現実の出来事のほうを圧倒してしまうのである(たとえば1960年の大統領選挙における、ケネディ対ニクソンのテレビ討論では、肌の白いニクソンは、やつれて顎ひげを生やしているように見え、はつらつとした若いケネディと対照的に見えた。視聴者は、テレビ画面の中の二人の候補者の外見、演技力から、その政治的力を選択させられたのだ)。

命題4.複製技術革命による「オリジナル」の崩壊。カラー複製技術のおかげで、オリジナルと寸分たがわぬ複製を多くの人々が親しむようになった結果、オリジナルの価値が低下した。美術館で展示されたオリジナルのゴッホの絵よりも、複製のほうが親しみがあるという人々がいる時代となったのだ。また「いま」「ここで」という一回性の消失に関しては、映画という形式の場合、はっきりしている。途中から見て、みそこなった初めのほうをあとで見るということが可能になったし、何度も見ることが可能だからである。

命題5.経験の断片化が生じた。テレビの場合、意のままに、チャンネルを切り替え、次から次へと断片的に番組を見ることができる。情報量が圧倒的に増えたためであるが、こうした事態は、活字文化のほうでも、『リーダーズ・ダイジェスト』のようなダイジェスト版の隆盛を生んだ。


 この内、ヴァルター・ベンヤミンのアウラとその喪失を巡る有名な芸術論を思わせる命題4に関しては、「地獄の英雄」中に関連する部分を見出すことはできませんでしたが、他の項目に関してはこの作品の中にも多かれ少なかれ問題提起的な要素として見出すことができます。「地獄の英雄」が新聞メディアを対象としているのに対し「幻影の時代」はテレビメディアを対象としていますが、そのような相違があるにも関わらずそれだけ共通部分が存在するということを考慮すると、後年になってテレビメディアが突きつけるようになる問題領域に「地獄の英雄」がいかに接近していたかが分るのではないでしょうか。まず命題1からですが、確かにカーク・ダグラス演ずる主人公の新聞記者テータムは、全くの一から擬似イベントを創り出すわけではなく、鉱山に生き埋めになったレオ(画像左参照)の存在がまず必要であったことには相違がありません。しかし、そのままでは地元の小さな新聞社のニュースにはなったとしても、アメリカ全土の注目を浴びる一大スクープには成り得ないので、彼はそこからメディアサーカスとも云うべき超ウルトラCによって、アメリカ中が注目するまさに擬似イベントを文字通り捻り出してしまいます。そのようなミラクルを実現する彼のエネルギーは、東部のエスタブリッシュメントから追い出された苦い経験に基く一種のルサンチマンに由来し、これはこれでこの作品の立派なテーマの1つではありますが、マスメディア批判という論点から大きくはずれるのでここでそれについて述べることはしないことにします。彼は、鉱山に生き埋めになったレオの救出をわざと遅らせるような提言を行うことによって、マスメディアによって創り出された虚構のスターそして悲劇のスターとしてレオを一時的に祀り上げてしまうのです。すなわち、テータムにとってはニュースは、発掘するものではなく、作り出されるものであり(命題1)、地方の名もない一介のおっさんを悲劇のスターに仕立て上げてしまった(命題2)ことになります。テータムは、レオが救出されても或いはその逆に死んでしまっても、地元のニュースにはなっても全国区のニュースには決してならないことを敏感に覚って、まさしく宙吊りの状態にレオを置くことにより彼を一人の演技者に変えてしまうのであり、ここにメディアサーカスの持つマジックを解くカギがあります。つまり後述するように、浮遊する記号を経験領域から分離し、それがあたかも現実であるかのように見せかけるトリックが実践されるのであり、それにはそのような幻影を維持するスターが必要だということです。かくして生み出されるのが、現実よりも説得力のあるドラマであり、レオが生き埋めになって死に掛かっているという本来厳然として存在するはずの現実は虚構のドラマの影になって全く曖昧化されてしまうわけです(命題3)。というよりも、虚構のドラマというよりは、視聴者にとってはそちらの方が現実として立ち現れると云う方が正しいでしょう。従って、ここではマスメディアによって提示されるイメージ=現実という呪術的とすら云える恐るべき等式が成立します。命題5の経験の断片化とは、まさにかくして現実のコンテクストから経験が引き剥がされることによって生じるのであり、それはそのような場面に立ち会うオーディエンスの孤立化にも繋がります。「地獄の英雄」で最も興味深い点の1つは、テータムのニュースを読んでアメリカ中から人々が観光客のように現地に押し寄せてきますが、彼らは実際に生き埋めになったレオの姿を実際に目にすることは一度としてなく、一儲けしようと企む業者達によって鉱山の入り口周辺に雨後の筍のように設置された遊戯施設(画像中央参照)で遊んでいる様子が始終映し出されていることです。それならば別に彼らはわざわざ現地まで出掛けてくる必要はなく、新聞で経過を知ればよいだけの話ですが、それにも関わらず現地に押し寄せる群衆の姿は、大衆消費社会或いはギー・ドゥボールの云うスペクタクルの社会の大きな矛盾を示唆しているものと考えることができます。つまり出来事や経験の持つ真の意味が土台から浮遊して、その代わりとして本来あるべきものとは別の資本主義的な意味合いがベットリと貼り付いてしまっているということです。本来鉱山に生き埋めになったレオの悲惨な状況によって彼らは現地に惹き付けられているにも関わらず、そこで彼らが経験することは新聞誌上で知りうる事実以下でしかないのであり、自分達の住む町で普段行っていること以上でも以下でもないのです。それにも関わらず、彼らは心の中では現地に押し掛けることによって何か特別な体験をしていると思っているに相違なく、ここにはマスメディアの専制を許す現代社会の持つ矛盾が鋭く描かれていると考えられます。経験の断片化の問題を含めこのあたりの議論については、ギー・ドゥボールの「スペクタクルの社会」が詳しく、それについて以下のように述べられています。因みに、以下は英語訳からの私めの訳であり平凡社刊の「スペクタクルの社会」から抜粋したものではありません。また、もともとフランス語からの英訳を参照したので訳元の文も省略しますが悪しからず。

◎今日支配的な経済システムは、疎外に基礎付けられている。またこのシステムは同時に、疎外を再生産するようにデザインされている循環プロセスでもある。疎外はテクノロジーを強化し、テクノロジーは疎外を強化する。スペクタクルなシステムによって提示される商品は、自動車からテレビに至るまで、「孤独な群衆」の疎外をせっせせっせと強化しながら、そのシステムの為の武器として機能する。スペクタクルは己の基本的な前提を確認しつつ存在し続けるのである。

英訳では疎外と訳した部分は「isolation」で原文のフランス語も恐らく同じであろうと推測され、その意味では「疎外」という日本語は価値中立的ではない特殊な意味があり、本来はより価値中立的な語「分離」や「隔離」が適当であるようにも思われますが、文としての通りがよくなかったのでとりあえず疎外としました。ギー・ドゥボールは左派の思想家でもあり従って上に云う「今日支配的な経済システム」とは、具体的には資本主義システムを指しますが、更に特定すれば大衆消費社会のことであり彼の云うスペクタクルの社会のことになるでしょう。要するにこれらの社会の根底には、常に疎外或いは隔離という契機が本質的な様態として存在するということであり、そこからそのような社会に住む人々が被る経験の断片化が由来することになります。更に悪いことに、このような社会では、システムが生産する具体的な生産物が更にシステム自体を強化するような循環的関係にあることです。文中にある「孤独な群衆」とは、勿論有名な社会学者デビッド・リースマンの著書で述べられている現代の群衆の病理的とも云える様態のことを指していますが、「地獄の英雄」でレオの悲劇に群がる群衆達はまさにこの孤独な群衆なのですね。

◎スペクタクルの起源は世界の統合化の喪失にあり、現代におけるそのような現象の拡大は、そのような喪失がいかに巨大であるかを示している。−−−中略−−−。スペクタクルは世界を二分し、二分された一方が、世界への自己言及として定立され、世界に優越するものと見なされる。スペクタクルとは単純にこの二分割を架橋する共通言語である。観衆(Spectator)は、中心に至る一方通行的な関係によってのみ互いに結び付けられるが、この関係はまさに観衆間の関係を隔離するように機能する。スペクタクルはかくして隔離されていたものを結び付けるが、まさに隔離性をその内に維持したまま結び付けるのである。

 「地獄の英雄」では、まさしく上記のようなプロセスが具体的に機能している様子が描かれています。すなわち、レオが鉱山に生き埋めになったという正真正銘の生きられる体験が、テータムの繰り出すメディアマジックというスペクタクルによって二分され、レオの生きられる体験からメディアの創り上げたメロドラマという記号が分離浮遊し、かくして分離された記号の方が逆に全てを支配し始めるのです。かくしてクリエートされたスペクタクル劇、すなわち浮遊する記号に向かってまさに夜灯に誘われる蛾(うげ!)のごとく一方的に惹き付けられた群衆は、本来レオの悲劇という体験の共有基盤で結び付けられて然るべきであるはずなのに、中味のない浮遊する記号に支配されているが故に生きられる経験を媒介とする共通基盤などまるで共有することがなく、鉱山の周りに設けられた遊戯施設でブラウン運動のように好き勝手なことをしながら浮遊する記号の内容をそれぞれが勝手に埋め自己満足しているのです。スペクタクルとは日本語で云えば見世物というようなところでしょうが、伝統的な見世物である演劇を考えてみれば分るように、勿論劇場で見知らぬ観客同士がお友達になるということはあまり考えられないとしても、少なくともたとえばシェークスピア劇ならシェークスピア劇という1つの生きた演劇空間を観客全員が共有しているのに対し(演劇が好きな人は、演劇そのものは無論のことそのような特殊な空間を共有することに1つの意義を見出しているのではないでしょうか)、マスメディアが醸成するスペクタクル空間においては観客個人は全くバラバラであり、浮遊する記号以外には共有すべきなにものもそこには存在しないのですね。要するに、ギー・ドゥボールの言を踏襲すると、テータムによってクリエートされたスペクタクルは、人々を群衆として外見上は統合するけれども、かくして統合化された群衆とは、互いに生きられる経験を共有することの全くない隔離性をそのまま内に孕んだままの「孤独な群衆」なのです。そしてここにあるものは、共有基盤を全く持たない各自の経験の断片化以外のなにものでもないということです。

 さて、ここまででいかに「地獄の英雄」では、マスメディアに由来する現代的な問題がいかに見事に捉えられていたかが分りますが、それはまた主演二人の強烈な個性によっても際立たされています。その二人とは、えげつない新聞記者を演ずるカーク・ダグラスと、鉱山に生き埋めになったレオのシニカルな奥さんを演ずるジャン・スターリングです。カーク・ダグラスは、サーカス出身のバート・ランカスターと同じように、アクションスターであるような見られ方をされる場合が多いとは云えドラマティックな演技にもそれなりに長けた俳優さんであり、今日のブルース・ウィリス、スティーブン・セガール、アーノルド・シュワルトネッガー(やや古いか)などといったアクションスター達とは異なった側面を持っていました。殊に1950年代初頭のカーク・ダグラスは「情熱の狂想曲」(1950)、「ガラスの動物園」(1950)、本作、「探偵物語」(1951)、「悪人と美女」(1952)と彼の本来持つキャラクターを効果的に生かした作品に出演し、まさに油が乗っていました。「地獄の英雄」でも情け容赦なく自らの名声を盲目的に追い求め最後に破滅する人物を見事に演じています。まさに彼は、DVD音声解説で知られるドルー・カスパー氏の主張する戦後ハリウッドに新たに出現した男性メロドラマ(male melodrama)の典型的な主人公であると云えるでしょう。それから、アンドロイドのようなコールドな印象を与えるジャン・スターリングがまた素晴らしい。彼女が演ずる虚栄の塊のような奥さんは、カーク・ダグラス演ずる新聞記者とある意味で瓜二つであり、自分の窮地に陥った旦那をネタに一儲けした後、旦那が死んだと知るや否やそこに住むことがもともと本望ではない田舎町をさっさと立ち去ってしまいます。従って主演二人の間には、このような状況ならば十分に考えられる甘っちょろいロマンスなどは微塵もなく、それどころかカーク・ダグラス演ずる主人公は本質的な面において自分と瓜二つである彼女を見るのは自分の汚い部分をモロに見せ付けられるかのごとく、彼女の横っ面をいきなり張るは、ミンクの襟巻きで首を絞めるは(画像右参照)、美女を相手に暴力に訴えることすら少なからずあります。ジャン・スターリングは、そのアンドロイドのようなクールなブロンド美貌を活かして、心に空洞を穿つ虚栄心の強い人物を演ずることが多く、「紅の翼」(1954)ではそのような演技でオスカーにノミネートされたりもしました。長いブランクの後1970年代後半に復帰しますが、ロナルド・ニームの「First Monday in October」(1981)でもいまだそのような印象が残っているのを見て思わず唸ってしまいました。「地獄の英雄」は、国内でも2007/12/25に発売予定のようであり、www.amazon.co.jpによれば値段は\3,730となっています。公開当時興行的に失敗したことからも分るように、この作品は決して万人向けではありませんが、やや高めですがこの記事を一種のプレビューとして読んで関心を持った人は是非見て下さい。

2007/11/24 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp