ネットワーク ★★★
(Network)

1976 US
監督:シドニー・ルメット
出演:ピーター・フィンチ、フェイ・ダナウエイ、ウイリアム・ホールデン、ロバート・デュバル



<一口プロット解説>
落ち目のニュースキャスターハワード・ビール(ピーター・フィンチ)は、或る日ニュース番組の中で、次回の放映時に番組内で頭を銃で撃ち抜いて自殺すると予告する。
<入間洋のコメント>
 1976年と言えば自分はまだ高校生であったが、勿論この頃は既にテレビ放映は現在と変わらない程の隆盛を誇っていた。しかし同時に、テレビの悪影響が本格的に取り沙汰されるようになったのも1970年代ではなかったか。テレビが現実をシミュレートするのではなく、逆にテレビが創り出すシミュレーション世界が現実を支配するような逆転現象が発生し始めるのもこの頃からであり、擬似イベントという用語を流通させた「幻影の時代」のダニエル・ブーアスティンやジャン・ボードリヤールの著書がもてはやされるようになる。最も分かり易い例で言えば、「やらせ」のような視聴者騙しの擬似イベントが平然とニュース番組などとともにミックスされるようになり、画面に映し出される映像がリアリティそのものであるかのような錯覚がクリエートされ、虚構と現実の境界が曖昧にされるようになる。これは、「パララックス・ビュー」(1974)のレビューで言及した広告業界におけるサブリミナルテクニックを用いた消費者搾取とも軌を一にするが、そこでの用語を借りれば擬似イベントとは視聴者の内面に視差をクリエートすることであると言っても良い。「ネットワーク」では、かくして当時全盛期を迎えたテレビというメディアが持ち始めた強大なパワーが極度の誇張を通して描かれているが、同様なテーマが扱われていた1950年代の作品「群衆の中の一つの顔」(1957)と「ネットワーク」が大きく異なる点は、「ネットワーク」では題名通りネットワークテレビ局という強大な組織がクローズアップされ官僚主義的な側面が大きく強調されている点である。すなわち、この頃までには、テレビというメディアからベンチャー的な色彩が消え、人々の生活の隅々までをコントロールする巨大な産業としてテレビ局が君臨し、またそれに伴って官僚化が高度なレベルまで達していたことが、テレビ局という組織が決して前面に現れることのなかった「群衆の中の一つの顔」との対比によって浮き彫りになる。この作品の誇張された表現に関しては、多分に「ホスピタル」(1971)のレビューでも名を挙げたパディ・チャイエフスキーの手になる壮絶なシナリオに負うところが大きく、ある程度のリアリティを犠牲にしてまで社会問題の本質的側面を鋭く明快に抉るスタイルは、「未知への飛行」(1964)で米ソ間の確執の本質的な危険性を荒唐無稽とも言えるようなストーリー展開により抉ったシドニー・ルメットのスタイルとも見事に合致する。

 さて、この作品に関してはストーリーを紹介しないとこれ以上先に論を進めることが困難であることもあり、次にそれを簡単に紹介する。落ち目のニュースキャスター、ハワード・ビール(ピーター・フィンチ)は、次週の番組中に自殺することを予言し大きな反響を捲き起こす。勿論、実際は番組中で自殺などしないが、神のお告げと称して自分の言いたいことをカメラの前で言い放つ彼にフリークショーのような人気が沸騰し記録的な視聴率を稼ぐようになる。その背景では、視聴率さえ稼ぐことが出来れば悪魔ならぬテロリストとも取引きする番組プロモーターのダイアナ(フェイ・ダナウェイ)や、番組製作よりも専らテレビ局内での権力抗争に明け暮れる役員フランク(ロバート・デュバル)が糸を引いている。しかしながら、神のお告げを聞いたというハワード・ビールの精神状態はますます悪化し、やがてテレビ局の利益にマイナスの効果を及ぼすようなことを口走り始める。これが会長(ネッド・ビーティ)の逆鱗に触れ、会社の利益を優先させるように彼に諭される。その後ハワード・ビールは、会長に言われた通り自社の利益に沿うことばかり口にするようになるが、視聴者は誰もテレビ局の自己宣伝など聞きたくないことは会長とほとんど錯乱状態に陥ったハワード・ビール以外の誰の目にも明らかであり、視聴率は当然のことのように急降下する。やがて、視聴率を考慮すれば彼を降ろさざるを得ないが、会長のお墨付きがある為、降ろそうにも降ろせない状況になる。そこでダイアナやフランクは協議した結果彼を暗殺することに決定し、ダイアナがかつて取引きしたテロリストに依頼してテレビカメラの前で彼を暗殺させる。

 というように、現実にはまずあり得ないようなストーリーが展開されるが、「ネットワーク」の凄まじいストーリーには、マスメディアが支配する現代社会の問題点に関して正鵠を射抜いている側面があることもまた確かである。勿論、実際にテレビ局がテロリストと取引きしてテレビ番組を制作したりはしないだろうが、視聴者が今までに見たこともないようなシーンを演出して視聴率を稼ごうとするのは日常茶飯事であり、「やらせ」のような問題が発生するのもそれ故である。また、いくらモラルがそれを抑制したとしても、視聴者は自分がそれに巻き込まれていないという条件付きで恐いもの見たさに大災害を見たいという欲望を持っているものであり、自分はその現場に不幸にも居合わせた被害者の一人ではなかったことを確認して安堵する機会をテレビの実況放送は提供出来るが、そのような大衆心理をテレビは巧妙に利用する。「象徴交換と死」を書いたジャン・ボードリヤールならば、それは人間が古来より持つ象徴交換的な欲望のメカニズムに沿うものであると言うかもしれないが、この種のメンタリティに対する効果は、テレビのような即時伝達メディアが大規模に発達してこそ最大限に得られるたぐいのものである。何故ならば、リアルタイム性に由来するテレビの持つダイレクトなインパクト無しには、それを見ている聴衆に対してその災害に巻き込まれる可能性が十分にあったという臨場感溢れる印象を伝達することが困難だからである。たとえば、事件の発生からオーディエンスへの情報伝達までのタイムラグが大きく、イメージではなく文章が主な媒体となる新聞というメディアによっては、直接的な体験は伝わりにくい。「先生のお気に入り」(1958)というただ見ているだけでも面白いロマンティックコメディの中で、ジャーナリズムを教える先生(ドリス・デイ)がしきりにこれからの新聞は「why」の解明が重要になることを強調するが、丁度「先生のお気に入り」が製作された頃はテレビ放映がいよいよ本格化しつつあった時代であり、テレビという新興メディアの台頭に対して新聞という旧来のメディアがいかに対抗すべきかが大きな課題になっていた当時の状況がそこには見事に反映されている。言い方を換えると、テレビというマスメディアが持つリアルタイム性、直接性は、視聴者にそれまでにはなかったマインドセットをクリエートしたと言っても過言ではない。またこのことは大災害や暴力シーンに対する渇望をクリエートしたということでもあり、1970年代のパニック映画や昨今のバイオレンス映画の隆盛は、テレビ放映の隆盛と全く無関係であるとは言えないはずである。大災害や暴力の持つ迫真性とはそれがリアルタイムに呈示された時最も威力を発揮し、時にそのような迫真性は見る者に強烈なインパクトを与えるが、テレビというメディアはそのような要件にパーフェクトに応えられるからである。テロリストに乗っ取られた飛行機が世界貿易センタービルに突入する映像が自粛されるまで繰り返し放映されたが、それが何故であり、また何故それが自粛される必要があったかを考えてみれば、テレビというメディアの持つパワーの一端を垣間見ることが出来よう。「ネットワーク」は、テレビカメラの前でハワード・ビールが射殺されるシーンで終わるが、このシーンにはリアルタイムメディアとしてのテレビが持つ恐ろしく強大なパワーが凝縮されており、およそ四半世紀後に発生する同時多発テロ事件のあの映像を予言していたと言えばそれは言い過ぎであろうか。

 また、テレビというメディアが持つ別の問題点として、暴力的な非日常シーンと日常的なシーンを並行的に呈示する能力がある点が挙げられる。ハワード・ビールが暗殺されるシーンの直後に、暗殺シーンと通常のコマーシャルがテレビ局のモニター画面上に同時に映されるシーンがあるが、人心撹乱的なこの映画の中でも最も撹乱的なイメージがここには呈示されている。あるシーンで赤字ニュース部門の長マックス(ウイリアム・ホールデン)がダイアナに言うように、テレビが視聴者に対して持つ大きな効果の1つとして、銀行強盗や暗殺のような非日常的なイベントを日常的なレベルに迄引き下げ、それらをあたかもフリークショーやコマーシャルのように扱うことにより視聴者を一種の麻痺状態に陥れることが出来るという点が挙げられる。安定した社会を維持するには非日常的な出来事は非日常的なものとして扱われねばならないが、テレビはこの非日常と日常の境界をなし崩しにして、全ての事象を均質化するパワーを有している。あるシーンでテレビ局会長がハワード・ビールに、今や国家や民族ではなくIBMやGMが世界を支配し、世界のバランスがドルという均質的な貨幣価値によって維持されていると説教する。はからずもそれによって言及されていることは、国家、民族間の差異を無視した世界の均質化であり、独自性の消滅であり、そのような時代の象徴としてテレビが君臨するようになったことが、このテレビ局会長の説教からも透けて見える。

 最後にもう1つこの映画の持つ人心撹乱的要素を挙げてみよう。ハワード・ビールが、怒りを爆発させるようにテレビカメラを通して番組の視聴者を扇動する有名なシーンがあるが、その矛先は単にこの映画の中のハワード・ビールショーの視聴者に対してのみではなく、この映画を見ている我々に対しても向けられていることは明らかである。「I'm as mad as hell. I'm not gonna take this anymore(私は怒っているのだ。もうこれ以上我慢ならん)」というフレーズは、ニュースキャスターが本番中に発するのが適当であるとはとても思えないが、この「this」という代名詞には実は具体的な対象がない。というよりも、ハワード・ビールが扇動する怒りは何らかの具体的な対象物に対する怒りではなく状況全般に対する怒りであり、怒りの矛先を特定することは出来ない。このことは、たとえば、偽善を告発することによって怒りを噴出させる(articulating rage by denouncing hypocrisy)などのフレーズにも見て取ることが出来る。怒りを噴出させる目的で偽善を告発するというのは目的と手段が逆転しており、ここには根源的な混乱がある。要するに偽善を告発することは、怒りを噴出させる為の単なる言い訳に過ぎない。怒りとは、何ものかに対する怒りでなければならないが、コンピュータ用語を拝借すれば怒りの対象となるものが変数として扱われている。何が悪であるかが明瞭ではない状況があるのも確かであろうが、重要なことは怒りを表現する個人個人のアイデンティティが極めて不明瞭で流動的である為、その個人個人の怒りのターゲットも状況に応じてコロコロ変わることである。また個人がそうであれば、集団としての統一もなく、個人それぞれがブラウン運動のようにランダムに振舞う状況が生まれる。テレビ局の重役達が会議をするシーンで、ダイアナとフランクが互いに相手の言うことを全く無視して手前勝手なことを独り言のように同時にしゃべりまくっているシーンはまさに象徴的である。単に言葉を発しているだけで真の意味での会話及び社会的インタラクションが全く成立していないのは、「探偵スルース」(1972)のレビューで述べた状況と全く同様である。そのような状況下では、どこの誰が誰の責任で何をしているかが曖昧な匿名的官僚組織が我が世の春を謳歌するのは当然であり、それを隠れ蓑にして他人を犠牲にしてまで自身の誇大妄想を実現しようとするエゴばかりが肥大化した輩が出現することは、「コンドル」(1975)のレビューで述べた通りである。「ネットワーク」は、とても後味が良いと言えるたぐいの映画ではないが、その最大の要因はオーディエンスに怒りを喚起しながらもそれに対するカタルシスがどこにも提示されていないところにある。むしろ安易なカタルシスが用意されていないのは、「未知への飛行」のシドニー・ルメットや「ホスピタル」のパディ・チャイエフスキーが関与した作品であれば当然のことであり、それは我々オーディエンスが自身で探求していかねばならないということなのであろう。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2000/12/31 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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