悪人と美女 ★★☆
(The Bad and the Beautiful)

1952 US
監督:ビンセント・ミネリ
出演:カーク・ダグラス、ラナ・ターナー、ディック・パウエル、ウォルター・ピジョン

左:バリー・サリバン、中:ラナ・ターナー、右:ディック・パウエル

50年代初期のビンセント・ミネリの作品であるにも関わらず、ミネリにしては珍しく白黒作品です。他のレビューでも書いていますが、ビンセント・ミネリこそカラー映画の申し子と称するに値する資格を持つ監督さんであり、40年代以後徐々に浸透しつつあったカラー映画の特質を最もうまく利用した監督の一人が彼であったと考えられます。しかしながら、「悪人と美女」はカラーではなく白黒作品であり、他の同時代のミネリ作品とは同列に扱い難い側面があります。では、何故そのように言えるかを説明しなければなりませんが、実はこの作品、構成的には先週取り上げた「スリルのすべて」(1963)のレビューでも言及したジョセフ・L・マンキーウィッツの「三人の妻への手紙」(1949)にかなり似ています(そう言えば主演のカーク・ダグラスはそちらにも出演していました)。すなわち、カーク・ダグラス演ずる強引な映画プロデューサーに騙された3人が、それぞれ過去のエピソードを回顧する部分が「悪人と美女」の大方を占め、これは「三人の妻への手紙」(1949)で3人のハウスワイフが過去を回想するのと非常に似た展開になっているからです。しかしながら、似ていると言えるのはそこまでであり、「三人の妻への手紙」(1949)が40年代の映画でありながら既に50年代を先取りしたかのような自由な表現が感じられたのに比べ、「悪人と美女」は50年代に製作されながらも、まるで40年代的にフォーマルな雰囲気が色濃く感じられます。どこがフォーマルであるかを具体的なシーンによって例示するのはかなり困難ですが、幸いにもそれが一目瞭然になるシーンがあります。それは、ラストシーンです。ラストシーンでは、ウォルター・ピジョン演ずるプロデューサーにオフィスに呼び出された3人の人物が、もう一度だけダグラスと一緒に一仕事してくれないかと頼まれますが(というよりも、3人が呼び出されてオフィスにやってくるところまでが冒頭のシーンを構成し、それから3人それぞれの長い回想シーンが続き、最後にまたオフィスでのシーンに戻るというストーリー構成になっています)、過去のダグラスの仕打ちを許すことが出来ない3人は無言でオフィスを立ち去ろうとします。そこへ当のダグラスからピジョンに電話がかかってきますが、3人はそれを無視してオフィスを後にします。しかし、オフィスから出ていった三人は、外で子電話の受話器を取り上げて、ピジョンとダグラスの会話に聞き耳をたてます。このシーンで作品はジエンドになりますが、そこではアップになった3人が無言で受話器に耳を当てて2人の会話に聞き入っている様子が映し出され(上掲画像参照)、暫く無言の演技が続きます。この静止画像のみからはそのシーンが何故フォーマルに感じられるかがはっきりとは分からないであろうことは百も承知ですが、かと言って文章で書いても書きようがなく、これについては是非このシーンを見て下さいとしか言いようがないところです。ある意味で、この作品はこのラストシーンが全てであり、オーディエンスはこれまでの全てのシーンはラストシーンの伏線であったことに、最後にはたと気が付くはずです。ラストシーンでは、騙され且つ利用されたにも関わらず、抗い難いダグラスの悪の魅力にそれでも取り憑かれている3人の様子が描かれており、いわば一種の悪の美学が敷衍されていると考えられますが、それがフォーマルな、すなわちある意味で極めてスタイリッシュ且つ不自然な表現方法によって表現されているのです。「不自然な」とは映画の表現として絶対的に不自然であるという意味では決してなく、フォーマルな表現が主流であった時代の表現様式の中においてはむしろ逆に極めて自然であり、50年代以降のフォーマルな表現が希薄になった様式において不自然に見えるという相対的な意味においてであることに注意する必要があります。すなわち、このラストシーンは、スタイリッシュ且つフォーマルな表現を極めて自然なものとして受け入れる感性を持つオーディエンスには、極めて効果的なラストシーンであったと考えられます。ところで、フィルムノワールジャンルに属する作品が、年代を追う毎に振るわなくなってきたのは、何もフィルムノワールが読んで字の如く白黒画像にしか向かなかったという理由からのみではなく、映画の表現様式としてフォーマルであることが許容され得るか否かによって極めて左右されやすいジャンルがフィルムノワールというジャンルであったからだと考えられるのではないでしょうか。表現様式としてのフォーマルさが1950年代に入って急速に緩和されるに従って、それをベースとするフィルムノワールというジャンルは、次第に成立しがたくなってきたのではないかということです。たとえば、最近もそのものズバリのタイトルを持つ映画が公開されていたことに鑑みて、ファムファタール(悪女)というテーマについて考えてみましょう。まず第1に考慮する必要があるのは、何故現在よりもモラル意識が強かったはずの40年代にそのようなテーマが何の不自然さもなく扱われていたのかということです。その回答の1つとして、ファムファタールというテーマは、内容に関連するテーマではなく、フォームに関連するテーマであったからではないかという点が挙げられます。すなわちファムファタールというテーマは、悪女が登場するというような映画の内容面を指す以上に、フォームを指し示しているのであり、映画自体の強調点は内容そのものよりもフォームに置かれていたということです。その証拠に、悪女であればどんな悪女であっても良いわけではなく、ノワール的にスタイリッシュな悪女である必要があったのです。又、それを見るオーディエンスもそのことを知っていたからこそ、内容的に見ればそれが当時の倫理規範からすればいかにアンモラルなものであったとしても、焦点が内容自体には置かれていなかったが故に、その点は全く問題にはならなかった、或いは意識的な評価の対象からは免れていたということではないでしょうか。ところが、表現様式としてフォーマルであることに強調点が置かれていた時代にはそれが有効に機能しても、フォーマルであることの持つ重要性が希薄になってくると、そのような仕掛けはもはや成立しなくなってしまうのですね。何故ならば、表現と内容が様式的にも一致するからです。すなわち、アンモラルな内容は、映画の表現としてもアンモラルであるとしか見做されないようになるからです。裏を返せば、様式などどこかへ消し飛んでしまった現代のような時代になると、単純な内容比較のみによってモラル的側面も判断されてしまうことになるのです。たとえば、「え?「深夜の告白」(1944)のバーバラ・スタンウィックのあのワル(アンモラル)さがたまんねえって?何言っているんだ。「ターミネーター3」(2003)のお姉ちゃんの方がもっとすげえワルだぜ!」というような具合にです。実を言えば、個人的には、フォーマルな印象の強い映画があまり好きではなく、実際フィルムノワールというようなジャンルの映画も特に関心があるわけではありませんが、これはまあ個人の趣味の問題であると言えるでしょう。これに対して、所謂クラシック映画の愛好者は、フィルムノワール映画のようなフォーマルな表現が恐らく肌に合うのであろうとも考えています。ということで、結論的に言えば、ラストシーンが如実に示すように、「悪人と美女」という作品は、フォーマルな表現においてクラシック映画の時代に属する作品であると見なせ、カラー映画で新しい時代を切り開いていったビンセント・ミネリとしてはやや異質な印象があります。そのような理由で、「悪人と美女」は他のミネリの作品とは同列には扱えないと冒頭で述べたわけです。尚、個人的には海外ものDVDバージョンの「悪人と美女」を持っていますが、このプロダクトには素晴らしい映像特典が含まれいて、「A Daughter's Memoir」と題するラナ・ターナーの映像バイオグラフィーを見ることが出来ます。この映像バイオグラフィーの案内役として登場しているのがラナ・ターナーの実の娘のシェリル・クレインです。ラナ・ターナーのやくざなボーイフレンドが彼女の実の娘に刺殺されたスキャンダルを覚えている人もおられると思いますが、それが実は彼女です。この映像特典でも彼女が自ら当時を回顧しており、その意味でも貴重な資料です。


2003/09/13 by 雷小僧
(2008/10/06 revised by Hiroshi Iruma)
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