紅の翼 ★★☆
(The High and the Mighty)

1954 US
監督:ウイリアム・A・ウエルマン
出演:ジョン・ウエイン、ロバート・スタック、クレア・トレバー、ジャン・スターリング
左:ジョン・ウエイン、右:ロバート・スタック

ジョン・ウエインと言えばやはり西部劇ということになりますが、1950年代に入るとそれ以外のジャンルで出演が多いのが飛行機乗り役としてですね。彼にとっては、馬も飛行機も同じようなものなのかもしれません。「太平洋作戦」(1951)、「男の叫び」(1953)、この「紅の翼」(1954)、「荒鷲の翼」(1957)、「ジェット・パイロット」(1957)の5本があります。因みに「ジェット・パイロット」の公開年は1957年になっていますが、実はそれよりもかなり以前に製作されていた作品であり実際には1950年近辺の製作です。かのハワード・ヒューズが、しばらくお蔵入りさせていたそうです。「荒鷲の翼」がジョン・フォードボックスセットの中の一本として今月初頭発売されましたので(「荒鷲の翼」は単体購入可で私めもセットではなくバラで購入しました)、嬉しいことにこれらの作品は海外からであれば全て簡単に手に入れられるようになりました(「ジェット・パイロット」のDVDはまだであると思いますが、このタイトルは国内でもビデオレンタルが容易に出来るはずです)。典型的なmasculine figureであるジョン・ウエインにとっては飛行機乗りも自分のイメージにピタリとマッチしているということに気が付いたということかもしれませんが、「紅の翼」のみは民間航空機のパイロットを演じており、しかも過去墜落事故を起こしたという設定なので機長の座はロバート・スタックに譲っています。ところでこの映画は、太平洋上空でエンジンが故障した旅客機を舞台としてその中で発生する乗客達のドラマが描かれており、展開的にはジョージ・シートンの「大空港」(1970)に類似しています。というよりも、製作年を考えればこれは言い方が逆で、「大空港」が「紅の翼」の展開に類似しているというべきでしょう。従って、ドラマ的側面でも類似したキャラクターを見つけることが容易であり、たとえば前者のバン・ヘフリンは後者のシドニー・ブラックマーに、前者のヘレン・ヘイズは後者の韓国人と人物配置的には似ていますね。ヘレン・ヘイズと韓国人という比較は、前者がコミックなキャラクターを演じていたのに対し「紅の翼」の韓国人はコメディフィギュアなどではないので適当ではないように思われるかもしれませんが、実はこの両者ともに登場人物達の中で唯一の社会周辺的人物を演じているのであり(前者は年齢により、後者は国籍により)、人物配置という点から見れば相同的な位置を占めていると言えます。「大空港」という基本的にはシリアスなドラマ映画の中でヘレン・ヘイズがコミックなキャラクターを演じ、のみならずそのコミックなパフォーマンスによってオスカー(助演女優賞)に輝くことが出来たのは(考えてみればヘイズのような大女優があのような役でオスカーを手にしたというのは一種の皮肉にも見えますが)、まさに彼女が演じているキャラクターが、社会の周縁に位置する人物であったからです。たとえば、「大空港」で機長であるディーン・マーティンがかつてジェリー・ルイスとコンビを組んでいた古き良き時代を偲んで得意のコメディパフォーマンスに走っていたならば映画が滅茶苦茶になったことは敢えて指摘する必要すらないでしょう。その意味で言えば、シリアスなドラマである「紅の翼」の中にコメディシーンが散りばめられているのはイマイチ理解に苦しむところで、あまりよくは知りませんが「男の叫び」の音声解説によると、どうやら監督のウイリアム・A・ウエルマンは時々そういうことをすることがあったそうですね(50年代以前の映画をあまり見ないので、個人的には「戦場」(1949)でバン・ジョンソンか誰かが卵を溶いたヘルメットを被って行進しているシーンくらいしか他には思い出せませんが)。まあそのようなウエルマンの特異体質は別としても、ある意味で「紅の翼」は「大空港」或いはその後の70年代のパニックムービーの先祖的存在と言うことも出来ますが、但し1970年代のパニック映画が英語ではdisaster movieと言われることからも分かるように災害(しかも基本的には災害発生後の)映画であったのに対し、こちらは災害映画(飛行機のエンジンが潰れたのを災害だと言えるならば災害かもしれませんが)ではありません。従って、死亡者0人でありいわばパニック状況をバックグラウンドとしたドラマ映画だと言うべきかもしれません。パニック映画と言えば丁度「ポセイドン」(2006)が公開されていますが、あまりにも当たり前ではありますが敢えて言うと、この映画を見た後「紅の翼」を見直しているといかに現代の映画と1950年代の映画が異なるかが分かります。「ポセイドン」では、ストーリーを進行させるのに次から次へと凄惨なシーンを繋げていき、要するにショックバリューでオーディエンスの興味を維持しているのに対し、「紅の翼」では人物相互間でのドラマの展開によりストーリーを進行させます。正直に言えば「紅の翼」でのパニックに陥った飛行機内で発生する人間ドラマは、そのような状況であるという前提がなければ凡そ洗練されているとは言えないような内容であり、まともに気合を入れて見てしまうと必ずしも出来がよいとは言えないところがありますが、しかしそのような状況だという前提があるからこそドラマが洗練されていないことに1つの意味が発生するわけです。それに比べると「ポセイドン」は、ほとんどビジュアルイメージのみなのですね。「ポセイドン」は広い船内が舞台であるのに対し「紅の翼」は狭い飛行機内が舞台なのでそのような展開になるのは仕方がないと思われるとすれば、「ポセイドン」と1970年代に製作されたオリジナルの「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)の間に既に大きな相違があることに注意する必要があるでしょう。「ポセイドン」を見ていて不思議に思ったことの1つが、どういう動機でカート・ラッセル(うーーん、かつてのディズニーの子役も初老の域に達してしまいましたが、まあロニー・ハワード坊やが「ダ・ヴィンチ コード」(2006)のような作品を監督するようになったということでしょう、関係ないか)達は上へ上へと行こうとするのかということです。この最新作を見ていると、それの欠乏によって余計にオリジナルの「ポセイドン・アドベンチャー」の真髄が何であったかが分かったような気がします。つまり、「ポセイドン・アドベンチャー」の真髄は、やはりジーン・ハックマン演ずる主人公が持つ盲目的とも言える信念にあったのですね。最初から主人公達は、転覆した豪華客船の船底に向かって昇っていったとしても、船底から脱出するには一番薄いところでも何センチもある鋼鉄の板をブチ抜かなければならないことを知っているのであり、それでも尚且つ主人公達がそうするには余程強力な動機がなければならないわけですが、それを主人公たるジーン・ハックマン演ずる牧師が強烈な信念に基いた自らの行動という形式を通じて提供していたのです。だから不自然さがないのですね。すなわち、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「パニック映画は宗教テーマの復活? 《ポセイドン・アドベンチャー》」にも書いたように、「ポセイドン・アドベンチャー」は強烈な宗教テーマがその根幹を成していたということです。それに比べると、「ポセイドン」には「ポセイドン・アドベンチャー」が持っていたこのドラマ的なモチベーションが全く欠けていると言わざるを得ません。その代わりに出現するのが、局所的なお涙頂戴的自己犠牲テーマで、たとえば「アルマゲドン」や「ディープ・インパクト」のような最近のパニック映画はそのようなテーマ無しで済ませることが出来ないようです。勿論、「ポセイドン・アドベンチャー」でも最後はハックマン演ずる主人公が自己を犠牲にするわけですが、それが取ってつけたような印象を与えないのは、それまでの彼の行動が、最終的な彼の自己犠牲を必然なものとして位置付けるように描かれていたからです。「ポセイドン」のカート・ラッセルは、最善の解釈をしない限り(つまり自分の娘に対する愛情というテーマを最大限に解釈しない限り)そのような強烈な動機を持った人物には見えないのですね。つまり「ポセイドン・アドベンチャー」は災害シーンをバックグラウンドとして強烈な人間ドラマを演出しようとしていたのに対し、「ポセイドン」ではウイークな人間ドラマをさかなにしてド派出な災害シーンを見せようとしているということです(ドイツ出身のペーターゼンも現代のハリウッド色に染まってしまったということでしょうか)。うーーん、また例によって「紅の翼」のレビューが全く別の映画のレビューにすり替わっていますが、要点は「紅の翼」もパニック状況をうまく利用してドラマ的側面を強調しようとした映画であり、従って強調点はパニック状況よりもドラマ的側面にあったということです。尚、ジョン・ウエインも映画中でしばしば口ずさんでいるディミトリ・ティオムキンのメインテーマは、当時ヒットしたようですね。また後にスタンリー・クレイマーの奥さんになる(うーーん、年齢が恐ろしく違いますが)カレン・シャープ(・クレイマー)のデビュー作ではないでしょうか(若いカップルの一人)。


2006/06/17 by Hiroshi Iruma
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