カプリコン・1 ★★☆
(Capricorn One)

1978 US
監督:ピータ・ハイアムズ
出演:エリオット・グールド、ジェームズ・ブローリン、ハル・ホルブルック、ブレンダ・バッカロ

左:ハル・ホルブルック、右:ジェームズ・ブローリン

 「カプリコン・1」という映画は、必ずしもメジャーな映画であるとは言えないが、或る意味でこれまで解説してきた1970年代に製作された映画の総決算とでも呼べるような内容を持つ作品である。というのも、火星探検という宇宙開発に関する一大イベントを擬似イベントとして政府官僚組織がデッチ挙げるというストーリー展開を持つこの映画には、「パララックス・ビュー」(1974)や「コンドル」(1975)或いは「大統領の陰謀」(1976)などの作品で描かれている政府官僚機構に対する不信感の表明というテーマに加え、「ネットワーク」(1976)で言及したテレビという強大なマスメディアが持つ欺瞞性を暴くというテーマが、それらの作品とはまた異なった観点から描かれているからである。いわば政府官僚組織批判とマスメディア批判がミックスされているとも言えるが、この作品がユニークな点は、それらのいかにも1970年代的なテーマが宇宙開発という素材を通して語られているところにある。注意すべきことは、1950年代後半から始まるアメリカとソビエトの二超大国による宇宙開発とは、純粋な科学発展の現代史としてだけでは語り尽くされない側面があったことは誰もが知るところであり、東西冷戦をベースとしたパワーポリティクスとの関連を抜きにそれを語ることは出来なかったということである。一見すると科学は客観的なデータに基づく価値中立的なドメインであるが故に特定の価値観に依拠した政治などのイデオロギーの影響からは独立しているかのように見えるかもしれないが、「方法への挑戦」を書いた科学史家ポール・ファイヤアーベントのような極端な例を持ち出すまでもなく、たとえば科学における各個人のコミットメントの重要性を強調し暗黙知という用語でIT業界でも何故かお馴染みのマイケル・ポランニーの著書などを読んでいても、政治やイデオロギーはひとまず脇に置いたとしてもそもそも科学が本当に価値観と全く無関係たり得るとは必ずしも言い切れないことが十分に分かるはずである。またたとえ科学が本当に価値中立的であり得るとしても、そうであればむしろ科学は政治などの特定の価値を担った領域からの侵食を受けやすいことが逆に示唆されているとも言えるのである。遺伝学におけるミチューリンやルイセンコの説は、科学がイデオロギーに大きく侵食された好例であることは改めて指摘するまでもない。また、アポロ計画における月面着陸は「カプリコン・1」における有人火星探査同様にデッチ上げではなかったのかと考えている人々すら実際に存在する程であり、要するにアポロ計画とは単なる政治的な宣伝の為の一大擬似イベントではなかったかという疑いを誰の目からも完全に払拭することすら困難なのである。

 従って東西冷戦がたけなわであった1950年代後半から1960年代においては、宇宙開発とは米ソ二超大国間でのパワーポリティクスと無縁ではあり得なかった。すなわち、ベトナムなどの第三世界諸国で米ソ両国が代理戦争に明け暮れていたのと同じような意味において、宇宙事業でも両者が武器を使用しない代理戦争を行っていたようなものだと言ってもそれ程見当違いではないような状況が続いていたのである。前述したように、真実がどうかは別として一般には科学はニュートラルであると考えられているだけに、そのニュートラルな領域で最大の成果を発揮出来た方が、社会体制或いはイデオロギーとしても優れていることの証明になるという考え方がその根底には存在するのであり、宇宙開発という科学の最先端部分で相手を出し抜くことが、第三世界諸国を資本主義或いは社会主義で染め上げること同様、或いはそれ以上に重要なことであると考えられていたからこそ、莫大な予算を必要とする激しい宇宙開発競争が10年以上に渡り繰り広げられていたのである。その証拠に米ソ二大国によるパワーバランスが崩れ始める1970年代以降は、経済的にガタガタになってしまうソビエトにおいてばかりでなく、おゼゼにはソビエト程困っているようには見えないアメリカにおいても象徴的な華々しさはあっても現実的な意味合いがどれ程あるか疑わしい月に人間を送り込むなどという計画を繰返すよりも、他の惑星への無人探査船の派遣、スカイラブ計画或いは現在でも続いているスペースシャトル計画等の地球周辺のより現実的可能性を帯びた対象を調査する方向へと主要な関心が移行していくのである。

 そのようなわけで、1960年代には宇宙開発がパワーポリティクスの出汁として利用されることを揶揄する映画がいくつか製作されている。たとえば、政治風刺のようなテーマには全く縁がないように見えるディズニーですら「ムーン・パイロット」(1962)のような作品を製作しているほどであるが、ここでは日本劇場未公開とはいえ政治風刺映画としては小生が隠れた傑作であると見なしているリチャード・レスターが監督した英国産作品「The Mouse on the Moon」(1963)を紹介しよう。この作品はピーター・セラーズが主演した「ピーター・セラーズのマ・ウ・ス」(1959)の続編ということに表面上はなっているが、そちらがほとんど全く記憶に残っていないのに比べるとこちらは皮肉たっぷりの政治風刺映画に仕上がっており非常に面白い作品である。ストーリーは、グランド・フェンウィックという世界一小さな架空の国の大臣(ロン・ムーディ)が、アメリカとソビエト二大国間の宇宙開発競争を舞台としたパワーポリティクスの間隙をうまく利用して、自国の財政難を解消する為に有人ロケット開発を名目としてアメリカから大金(と言ってもグランド・フェンウィックにとっての大金であり、アメリカからするとはした金ではあるが)を口八丁手八丁でせしめるところから始まる。勿論、アメリカも馬鹿ではないのでグランド・フェンウィックなどという国がロケットはおろか花火ですら作れないことくらい先刻承知しているが、国際協調に務めているというフリを政治的な駆引きに利用する為にフェンウィック大臣の要求額の倍の金額の援助を行う。ソビエトはソビエトでいかにも平和的な国際協調に気を配っているフリをするために、何と使い古しのロケットをグランド・フェンウィックにプレゼントする。しかしながら、米ソの大きな誤算は、実はグランド・フェンウィックには天才科学者がいて、自国特産のワインから抽出した燃料及び両国からの援助品を有効に使って本当に有人ロケットを打上げてしまうことである。驚いたのはアメリカとソビエトの首脳陣の方であり、何しろグランド・フェンウィックなどという地図にも載らないような弱小国に月着陸一番乗りをされれば大国としての自国の大恥であるとばかりに、まだ安全性が確認されてもいない自国のロケットを大急ぎで打上げる。かくして、グランド・フェンウィックの天才科学者と米ソのパイロット達が月面でご対面ということになるが、地球に一番早く戻った者が歴史に名を刻むであろうというようなたぐいのことをくだんの天才科学者が述べると、米ソのパイロット達は我先に地球に戻ろうとする。ところが彼らが乗るロケットは、悲しいことに安全性が確認されてはいなかった為、地球に戻る為に飛び立とうとした途端、飛び立つのではなく仲良く月面にもぐりこんでしまう(因みに、この漫画的なシーンは傑作である)。かくして地球では、この3国のパイロット達が皆死んだと思い込んで盛大な記念式典を催すが、そこへグランド・フェンウィックのロケットが、米ソ両国のパイロットを連れて無事に戻って来る。しかしながら、パイロット達が一歩地上に足を踏み入れた途端、誰が月に一番乗りしたかを巡って各国首脳陣が喧嘩を始める。その横では、マーガレット・ルザフォード演ずるグランド・フェンウィックの公爵婦人が記念碑の除幕を行っているが、皮肉にもその記念碑は死んだと思われていた3国のパイロット達を型取った記念碑であり、3国間の協調をシンボライズした記念碑なのである。

 ストーリー展開からも分かるように、「The Mouse on the Moon」では、うわべでは国際協力をしているように見せかけながら、実際には世界支配を巡る覇権争いが行われている様子が面白可笑しく皮肉たっぷりに描かれており、人類の科学の発展の為というお題目の裏で米ソ両国によるパワーポリティクスが半ば公然と展開されていた当時の時代風潮が見事に風刺されている。この映画で最も可笑しいのは、グランド・フェンウィックなどという国がロケットなど作れるはずはないと皆が知っている上に、皆が知っていること自体を皆が知っているにも関わらず皆が援助しようとすることであり、それは何故かというと、いくら援助しようがグランド・フェンウィックなどという国が、ロケットを完成させる時など未来永劫やって来ないであろうことを皆が知っているからである。すなわち、他国に出し抜かれれば自国の不名誉であると内心考えているにも関わらず、国際協調に努めているように見せかけるには、いくら援助をしても絶対にその目的を果たすことなど出来はしないだろうと考えられているグランド・フェンウィックという国は丁度良い隠れ蓑(というよりもその目的は最初から誰の目にも明らかなので免罪符という言い方がより適当であろう)として機能するからである。傑作なのは、テリー−トーマス演ずる間抜けスパイがどのように援助資金が利用されているかを確認しようとしてグランド・フェンウィックにのこのこやって来るが、それは何の為かというと資金がきちんとロケット開発に使われているかを確認する為ではなく、資金がきちんとロケット開発に使われていないことを確認する為なのである。

 東西冷戦下におけるパワーポリティクスの行使がいやでも宇宙開発という事業にも反映せざるを得なかった1960年代に製作されたそれらの映画とは異なり、「カプリコン・1」が製作されたのは1970年代も末であり、「コンドル」のレビューでも述べたように、この頃のアメリカにおいては外部の脅威よりも内部の問題が大きくクローズアップされていた時期でもあった。従って「カプリコン・1」では、かつては外部からの脅威の象徴であったソビエトのソの字にすら言及されることはなく、1960年代の宇宙開発において米ソがしのぎを削っていたという事実がまるで嘘のように思われる程である。しかしながら、この作品で描かれているのは、行使の対象となる相手がソビエトではなかったとしても、内外を問わずアメリカの健全性が示されねばならない相手に対して向けられたパワーポリティクスの行使についてであることには変わりがない。たとえば、かつては専ら外部の敵に対して行われていた欺瞞や隠蔽等の情報操作が、ここではアメリカ国内に住む一般市民(及びイデオロギーには関係なく世界中の一般市民)に対して行われる。実を言えば、何故そのような情報統制及び欺瞞が敢えて行われなければならないかという点に関してはこの映画にはやや不明瞭な点があるが、要するに宇宙開発という壮大な事業はアメリカの政治及び経済の健全性堅牢性の象徴でもあるが故に、失敗が許されなかったということだろう。予算の都合もあろうが、問題の原因を発見しそれを是正してから再打ち上げするオプションも当然あるはずだが、少なくともこの映画ではそのような展開になっていないのは、ロケットの打ち上げとはニュートラルな科学実験におけるトライアルアンドエラーと同等であると見なすことは出来ないということがそこでは示唆されているからだろう。すなわち、宇宙開発事業で失敗することは、内外に対して自らの脆弱性を曝け出すことと等価であると見なされていたからこそ、マスメディアの創り出す擬似イベントという虚構の力を借りてでも、失敗は糊塗されねばならないという大前提がストーリーの基底に存在するということである。ここでは、東西冷戦という文脈を離れたとしても、それでも尚且つ宇宙開発はポリティクスとは決して無縁ではいられないということが浮き彫りにされていると言えよう。マスメディアの作り出す擬似イベントがその手段として利用されているところは極めて1970年代的ではあるが、宇宙開発が本質的にポリティカルなものであるという点に関しては、外向きのベクトルが内向きになったという違いはあったとしても東西冷戦たけなわであった1960年代とそれ程事情が大きく変わったわけではないのである。宇宙開発がポリティクスとそれ程関係ないものとして描かれるようになるのは、宇宙飛行士達のプライベートな生活に大きな焦点が当てられているフィリップ・カウフマンの「ライトスタッフ」(1983)あたりからであり、これはむしろ1980年代の映画においては核家族などのよりミクロな生活単位がテーマとしてクローズアップされるようになるという別の時代傾向が影響しているとも言えるが、1980年代の映画が持つ傾向についてここで詳述することはしない。

 かくして、「パララックス・ビュー」(1974)、「コンドル」、「ネットワーク」、「カプリコン・1」、「大統領の陰謀」と政治的コノテーションが大きな度合いで含まれる1970年代の映画を何本か見て気がつくことは、取り上げられている問題がいずれも内向きになっていることである。すなわち、外部の敵に対する脅威ではなく内部の脆弱性に対する問題がより大きな関心事としてクローズアップされるようになってきたということであり、そのことはベトナムからの撤退、ウォーターゲート事件などの現実世界におけるネガティブなイベントとも密接に関連していたことは既に述べた通りである。比喩的な言い方をすれば、内部矛盾によって発生する内部に向かっての爆発すなわち内部破裂(implosion)に対する不安が大きな焦点となり始めるのが1970年代後半ということになるが、内部破裂というテーマは、「チャイナ・シンドローム」(1979)という1970年代末に製作された映画に即してフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールが主張するところでもあり、ついにその決定的な様相をあらわにするのである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。また、同様の理由で一部「The Mouse on the Moon」(1963)のレビューと内容が重なります。


2005/09/19 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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