群衆の中の一つの顔 ★★★
(A Face in the Crowd)

1957 US
監督:エリア・カザン
出演:アンディ・グリフィス、パトリシア・ニール、ウォルター・マッソー、アンソニー・フランシオサ



<一口プロット解説>
酔っぱらって刑務所に入り浸りのロンサム・ローズ(アンディ・グリフィス)の持つエンターテイナーとしての才能を、あるラジオ局のプロモーター(パトリシア・ニール)に見出され、その後、彼は、人気街道を驀進して世論を動かすことすら出来る程のパワーを手に入れる。
<入間洋のコメント>
 好んでエリア・カザンの作品を見ることはないが、彼の作品の中で最も頻繁に見るタイトルは何かと問われれば、それはオスカーを受賞した「紳士協定」(1947)や「波止場」(1954)ではなく、より人口に膾炙した「エデンの東」(1955)でもなければ、また「欲望という名の電車」(1951)や「草原の輝き」(1961)でもなく、実はこの比較的知られていない「群衆の中の一つの顔」を挙げる。エリア・カザンはシドニー・ルメットではないので社会派監督と呼ばれることはまずないが、この映画はカザンにしては珍しく社会性の強い映画であり、ルメットの映画が好きな小生の所蔵するDVDビデオライブラリの中の輝ける一本になっている。何しろ、ラジオからテレビの時代へと移行しつつあった当時にあって、刑務所に収容されていた一介の浮浪者が、ラジオスター、テレビスターを得てついに己のパワーを過信し政治に首を突っ込もうとして最後は自ら墓穴を掘ってしまうという、何やらシドニー・ルメットが好んで取り上げそうなテーマが扱われているからである。

 一言で言えば、この作品の扱うテーマはマスメディアが持つパワーについてということになるが、当時にあってはそのようなテーマが扱われること自体が極めて斬新であった。1970年代を過ぎると本書でも紹介予定のシドニー・ルメットの「ネットワーク」(1976)を始めとしてテレビが有する巨大なパワーの持つ危険性をテーマとした映画が出現し始めるが、これからテレビ時代に本格的に突入しようとしていた1950年代半ば頃に既にこの「群衆の中の一つの顔」が製作されたという事実はそれだけでも注目に値する。興味深いことにこの映画では、アンディ・グリフィス演ずる主人公ロンサム・ローズ(Lonesome Rhodes)は最初にラジオ局に見出されしばらく地方のラジオ番組で人気を集めてから、中央のテレビ局から注目される。そのような点を考慮すると、当時はまだ完全にテレビ時代に突入していたわけではなく、ラジオからテレビ時代への過渡期にあったことがよく分かるが、この映画の興味深い点はラジオの人気パーソナリティ→テレビに出演する有名人、ローカル→中央という過程を歩むにつれ、主人公が周囲から幾何級数的に孤立していく様子が描かれているところである。考えてみれば、小生が小中学生であった1960年代後半から1970年代前半にかけて、勿論テレビは一般家庭に既に浸透していたとはいえ、テレビよりもラジオ番組について話題になることがしばしばあった。片やテレビがありながらもラジオ番組の話題が俎上にのぼるということは、それだけ若者にラジオ番組の受けは良かったと言うことを意味するが、この映画にはそれが何故かという問いに関する1つの回答がある。すなわち、ラジオというメディアは双方向的なメディアだということである。視聴者からのリクエストコーナー等の多くの視聴者参加企画がラジオ番組にはあるという面も勿論あるが、耳で聞くラジオ放送とは共同体的な連帯感を強く喚起させるパワーを持つメディアであるという点も指摘可能であり、マスメディア論の御大マーシャル・マクルーハンならば部族的という言い方をするかもしれない。この映画でもラジオ局のコーディネーター(パトリシア・ニール)に見出された主人公のロンサム・ローズは、最初はラジオのディスクジョッキーとして、地元の人々との密接な関連を確立し大きな人気を博する。このようなシーンを見ているとラジオというメディアは、ある連帯感を持って視聴者全員が番組に参加する双方向的なメディアであることが分かる。その一方で、それがメディアとしてのラジオが持つパワーの限界であったこともまた明瞭になる。つまり、ラジオとは中央集約的且つ官僚的な社会には向かないメディアであり、本質はローカルなメディアであらざるを得なかったということである。そのようなラジオの限界は、ロンサム・ローズがより大きな名誉とパワーを求めるようになるに従って、ラジオからテレビへと活躍の舞台を移していくことからも窺える。

 それにしても、後半テレビに活躍の舞台を移してからのロンサム・ローズの成り上がり方にはすさまじいものがある。あっという間に世論を左右するパワーを持ち、政治家までもが彼を無視出来なくなる程である。このようなパワーの掌握はラジオのような基本的にローカルなメディアに依拠していたのではおよそ不可能であり、テレビという強大なメディアにバックアップされてこそ始めて可能になる。では、テレビの持つそのようなパワーはどこに由来するのであろうか。1つの回答はラジオとの比較により明白になる。すなわち、ラジオによって代表されるメディアがその本質として有する聴衆との連帯感が捨象されたところでテレビというメディアが成立するという点に大きなポイントがあるのではないかということである。一言で言えば、ラジオが双方向的なメディアであるとすれば、テレビは一方向的なメディアであるということである。このように述べると、テレビにも視聴者参加番組は存在するではないかという反論があるかもしれないが、テレビの視聴者参加番組はラジオのように視聴者相互間でのコミュニティ的連帯感を喚起するのではなく、むしろ個々の視聴者をアトム化する傾向が遥かに強く、実体的には参加者個々人が知らず知らずの内にテレビ局のシナリオにきっちりと当て嵌められていると言う方がむしろ正しいのではなかろうか。クイズ番組がその一例であり、「群衆の中の一つの顔」が製作された頃が舞台となる「クイズ・ショウ」(1994)などが良い参考になるだろう。またやらせが社会問題として取り上げられるようになるのはテレビが普及してからであり、ラジオのやらせなど聞いたことがない。オーソン・ウエルズの火星人来襲騒動も意図的ではなかったはずである。そのようなわけで、絶大なる影響力を持ったロンサム・ローズが「俺は視聴者に俺の考えているように考えさせることが出来るのだ」と豪語する時、あながちそれは過信などではなく、ある意味で事の本質を示す真実を語っているのであり、これこそテレビが本質的に有する一方向性という特質から由来する巨大なパワーについて言い尽くす言葉であると言えるのではなかろうか。ロンサム・ローズ自らが考案したというボタンを押せば自動的に拍手歓声が沸き上がる奇怪な装置もまた、テレビというメディアの持つ一方向性を象徴するものであり、番組を受動的に受入れ半ば自動反応する視聴者という図式がこの奇怪な装置と重なる。彼が絶大なパワーを持てば持つ程、ますます周囲から孤立し、芸名通りロンサム(孤独)になっていくのは、彼が一方向性のメディアたるテレビにどっぷり漬かっていくのと比例してであり、彼がますます孤独になっていく理由は、テレビというメディアに不可避的に内在する一方向性という要素に彼自身いやでも絡みとられてしまうが故である。ラストシーン近くにおいて、彼を見出したラジオ局のコーディネーター自身の手により彼の怪物性が視聴者に暴露された後で、客が誰もいない宴会場で彼はボーイ達を捕まえて「俺を愛せ」と次々に訴えるが、ここに至っては、双方向的な関係というものがいかなるものであったかをもはや彼は思い出すことすら出来ない。勿論彼はもともとスター性を持っていたが故にスターになることが出来たことには間違いがないとしても、そのような素地が怪物的な方向に変形されてしまったのは、テレビというメディアを通じてであり、ここにメディアの持つパワーの大きさを見て取ることが出来る。マーシャル・マクルーハンも言うように、メディアが持つパワーとは決してメディアにより搬送されるメッセージが持つパワー、すなわち人間の認知力に訴えかけるパワーに限られるのではなく、人間の無意識的な部分にメディア自身が直接的に働きかけ、その人物の生き方そのものすら変形してしまうパワーの方が遥かに強大であることが、この作品からも十二分に読み取れる。

 かくして「群衆の中の一つの顔」は、これからテレビ放映が全盛期を迎えんとする時期に、テレビの持つ両刃の剣的な側面が見事に指摘されている点において、極めて先駆的な作品であったと言えるが、テレビが全盛期を迎え成熟した後に製作された作品、たとえば前述の「ネットワーク」等に比べ決定的に異なる点があることも確かである。それは、テレビというメディアを組織という観点から捉えた「ネットワーク」に比べると「群衆の中の一つの顔」においてはまだそのような側面が表面化することがほとんどないことである。クローズアップされるのはテレビというメディアによってグロテスクに歪曲されていく一個人ロンサム・ローズのみであり、「ネットワーク」におけるフェイ・ダナウェイやロバート・デュバルが演ずるキャラクターのように、巨大な組織をバックとして大手を振る人物はここにはいない。従って「群衆の中の一つの顔」においては、決してテレビ局という組織としての大企業或はテレビ界というような産業組織そのものが実体的に出現することがない。このことは、この作品が高度な官僚化とは無縁なベンチャー的要素がテレビというメディアにまだ残されていた時代の産物であることを雄弁に物語っている。いずれにせよ、この映画からは一種のアメリカンドリーム、すなわち個人が一夜にして成り上がることも不可能ではないというメッセージ、もしくはそのような成功に伴う落とし穴に対する警告を読取ることも可能であり、必ずしも「ネットワーク」のように官僚的な組織によって個人が徹底的に搾取されるプロセスが強調されているわけではない。かくして、1950年代に製作された「群衆の中の一つの顔」と1970代に製作された「ネットワーク」を見比べると、映画とは1つの文化社会史でもあることがよく分かる。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2001/03/03 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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