News >「仕事日記」2006年9月


9月2日(土) 東京ジャズ鑑賞
チックコリアは聞いておけば、と大坂昌彦がいうので東京フォーラムに出かけた。あんなに大きいホールが満席と言うことはなかろう、とタカをくくっていたら、なんとソウルダウト。昼間出ていたはずの大坂君に電話して関係者筋をたどろうかと相談したら彼はもう自宅。相変わらずクールなヤツだ。が、会場に残っているはずの誰かに連絡してくれるというので、表で待つ。ソロピアノをやっているがPAがでこぼこで聞きづらい。ピアニストが可哀相だが割れんばかりの拍手を受けてはいた。
クリヤマコト君が通りかかったので事情を言うと、何とかしてくれようとする。ところへ太田剣登場。大坂昌彦の意を受けて僕を探しに戻ってきたというから嬉しい。近くのビッグカメラから。お前はドナートか、という冗談は通じるはずもないが、関係者エリアに連れて行ってくれてすんなり入れてもらえたのは大感謝。途中I音楽事務所のKさんとすれ違ったので挨拶をするが無視される。
彼はずっとそうである。因縁があるのだ。デビューしたばかりのHのバンドで去るジャズフェスに行った折、演奏後に主催者が姿をくらましてギャラはおろか帰りの切符ももらえなかったことがある。その時になんと、ギャラはもらえない上に帰りの交通費は僕たちの借りになるというのだ。事務所にはリスクを負う義務はないそうだ。当然払ってもらっていないのだが、以来30年間、どこであっても挨拶してもらえない。しかしこちらからは挨拶するようにしている。時には顔を覗き込むようにして。

コンサートが始まる前の客席が僕は大好きなのだが、この催しはひどいものだった。スポンサーの関係だろう。テレビで見るうるさいコマーシャルが次から次へと大画面・大音量で流れるのである。テレビも極力見たくないのに、自分の大好きなシチュエーションのはずのところで、これは拷問だった。
考えてみれば映画館もそうなっているし、サッカーやバレーなどスポーツ番組を見てもどうやら会場で隙あらばなんだかテーマソングやCMをやってる模様。選手達も可哀想だが、それに耐えないと、あるいは試合直後でもよくわかっていないアナウンサーに愛想良く応えなければTV中継が成立しないのだろう。とは思っていたが、音楽の現場でこれはさすがに辛い。チックさんはあきらめているのか、と思っていたら、なんだか元気な若手トリオがまず演奏。前座付きかと、やり過ごしていたら

なんと上原ひろみトリオ。がしかし、これは素晴らしかった。聞きしに勝るというか、彼女は本当に素晴らしい。演奏中の舞台にまとわりつくカメラや、写りの悪い液晶大画面の余計なスイッチングで客席が演奏に集中できないような状況で一糸乱れぬ演奏を繰り広げる。世界の一流はここまで間近な邪魔にも打ち勝つ集中力があるのだ。後半のソロなど目をむいて食い入るように見入った場面が何度もあった。

疲れた。

なんだか食べ過ぎたような胸焼けがするのだがチックコリアを聞かないと、、、でも感受性がもう今日の分は磨耗してしまっているのがよくわかる。上原さんの多分最後の曲の途中でロビーに出ると、昔のビクターのスタッフに会った。彼の話によると、この後ハンク・ジョーンズで、最後がチックだそう。途端に帰ろうスイッチが入った。聞き逃せないお二人ではあるが、これもご縁のありようと諦めて、近場でビール。

上原ひろみトリオの興奮は夜中にぶりかえしてなかなか寝付けないまま、M'sの新レパートリィをいくつかアレンジして、朝の4時。この体力と音楽的精神力があるなら大御所二人を聴いて帰れたか、とも考えるが、そういうもんでもないのね。せめてコンサート会場の状況が品よく静かであってくれたら。上原さんのMCによると日本のオーガニゼイションは一流で、これほどスムースに本番をできることは(意外だが)そんなに多くない、とのこと。いいところも悪いところもある。受け入れられることと、そうでないことも、ある。
9月4日(月) M's 都城千日ホール
パチンコ屋跡の前・千日ホールから20mほどの映画館跡の現・千日ホールになったのは今年3月の松田昌ツアーで知っていたはずなのに、ついてみてから気が付く始末。といって困ることなどないはずがただ一点。以前の小屋だとグランドピアノを搬入してもらっていたのが、今の小屋は不自由な階段の2階であることと、備え付けのアップライトがあるを以ってM'sといえどもアップライト対応。これは計算外で、ホールライブレコーディングの予行演習とはちとかけはなれ、新曲の手ごたえもさほど参考にし得ず。

という下心とは勿論別途に演奏は楽しく、客は暖かく、スタッフはファミリー。ファミリアス、という言い方を僕は今までしていたのだが、この日の打ち上げで、ファミリー、という言葉自体が形容詞でもあることを確認(大坂昌彦氏の指摘による)ファミリー、ファミリア、まではある。じゃぁファミレストというのはあるのか。とこちらは伝兵衛氏の指摘。そのまま別の話題になったので結論は出ず。

Blue Keys
小井政都志新曲ブルース。ミディアムテンポで練習してみてなかなかいいね、となったのだが、大坂昌彦のアイデアで早めのバップ風にしてみると、キースの新譜のバップ演奏のようなムードが醸し出されて新鮮。大坂のイマジネーションの鋭さよ。

On A Clear Day
少々以前に高槻で演奏した折に思いついてアレンジしていたものを引っ張り出してみた。落ち着いた浮遊感のある演奏になって吉。

Peri's Scope
新作がやがて旧作になることで自ずから発酵して味わいが出る、という法則を時々感じるのだが、この日のこの演奏がそうだった。あんなにてこずっていた(そこを楽しんでいた)のに、基本アレンジメント部分などはすいすいとこなしながら新しい局面、今日なりの演奏が次々に生まれる。ジャズ演奏の醍醐味。

I Love You
曲決めのときに大坂が“ちと似た曲が続くかな”というのを僕が“大丈夫やろ”と踏み切ったのが間違い。大丈夫じゃなかった。Peri's Scopeがそこそこのテンポだった為に、I Love Youはチェロキーが!というくらい速々(ハヤハヤ)になってしまい、一糸乱れぬリズムセクションはそれなりに見応え聞き応えはあったものの、スピード以上に表面張力のように音楽を盛り込む、という理想には程遠いピアノプレイになってしまった。

Yesterdays
小井政都志の18番としてすっかり定着の感有之。

Ladies In Mercedez
ひたすらテーマを弾いてれば小井と大坂がどんどん盛り上げてくれる。のに!どうしてもどこかの音符が詰まってしまう。悩み、というには練習すれば片の付く問題なのだが、ドラムの聞き取りが英語にも似たリスニング不得手のコンプレックスが解消し難し。二人が暖かく見守り、対応してくれているうちに修正される日は来るのか?

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Falling In Love With Love
この転調アレンジがあまりにうまくいったので今回持ち込んだ何曲かに転調ものが多く見られることになったのかも知れぬ。ま、流行り・マイブームというやつか。

Cheek To Cheek
これもPeri's Scopeと同様新しい局面が多く見えてきて非常によい。ここしばらくは楽しめそう。

The Girl From Ipanema

Let's Face The Music And Dance
近年まれに見るくらい、曲自体に惚れ込んだナンバー。それもアステアのフィルムを見てのことだから面白い、というか僕には珍しい。4・6・4、4・4・4、4・4、4・8・4、という変則構成はアドリブしにくいがそれだけに手に馴染ませて独自のレパートリィにしたいもの。二メロの同主短調は元曲の平行短調に戻した方がよいかも知れない。<転調アレンジばやりの修正。

Laula
こういう、メロディの美しさをそのまま弾けばいい、という曲が意外と不得手。そういう演奏は自宅でしんみり弾けばいいだけのことだとどこかで思っているからだが、Spring Can Really Hang You Up The Mostとかニューシネマパラダイスのテーマだとか、ついアルペジオ(これも嫌いな手法の一つ)を弾きたくなるようなのは“鬼神はこれを遠ざく”ような気持ちで避けている。Laulaは繰り返しのメロに対するリハモニゼーションに天啓があり、そうなるとひたすら美しく弾く、という回路に入れる。大坂は耳馴染んだハーモニーじゃないところが違和感があるという。

But Beautiful
シェイクスピアジャズフェスティバルのオスカーピーターソントリオでのハウハイザムーンのアレンジにヒントを得た編曲。自然発展が楽しみな新レパートリィ。

P-Bop
11月のレコーディングでは是非入れる。バンド用に書き下ろしたものが、諸事情でソロバージョンしか今までなかったのがやっと陽の目を見るか。

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Spain
バーンスタインのシリーズで3日続けて演奏して従来のちょっとしたイヤさがこそげ落ちた。もう照れずに出来る。
9月5日(火) M's 大分・ブリックブロック
All The Things You Are
Cheek To Cheek
Blue Keys
The Girl From Ipanema
Peri's Scope
Ladies In Mercedez
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Falling In Love With Love
On A Clear Day
Deep Blue
I'm Old Fashioned
Yesterdays
Tadd's Delight
P-Bop
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Spain

PA作戦に新機軸。ドラム、生音。ベース、自分のアンプのみ。そしてピアノにだけマイクを入れて調整。実にやりやすい。ドラマーもべーシストも気を使わずに出したいところはボリュームを出せるし、二人を聞く当方としては誰の判断も通過していないナマの音色に反応できるので実に密なアンサンブルになる。コンサートホールは全員生音でいいが、ライブハウスはそれに比べて小さいながら、音響的に生音のためには作られていないのでかえってPAを必要とする場合が多い。ところが都城でもその嫌いがあったように、PAを通すとどうしてもドラムサウンドが中心になりがちでM'sのような室内楽的微妙なアンサンブルから遠ざかる。コロンブスの卵。思いつき、やってみたらばこんなにいい手があったのだ。なぜ今まで気付かなかったか。ちなみにアイデアの出場所は伝兵衛君。

甲斐さんの肝煎りで出前はしない海門のお弁当が届く。53年間で一番美味しいお弁当。鮭と鯖がきちんと違う味付け。酢の物が丁度イイ酢加減でおしんこは匂いの移らぬ工夫がなされ、焼き茄子の煮びたしは涙モノ。ほかにもいっぱいあって全部は思い出せないが、ウインナーまでがどこにもない味に感じる。技術と愛情が一致した境地だろう、と皆で話しながらおいしくいただく。ここまでのコラボレーションを見せる母娘の間には誰も入り込めないだろうからトモちゃんの旦那さん選びは大変だ、などと余計な話題まで出て、これは大きなお世話。

現場打ち上げでチャンコイ(小井ちゃん)大もて。6人の女性が彼一人を取り囲み、キャーキャー言っている。大坂はドラムを世話してくれた男性と音楽の話。その後、ほぼ全員でバードへ移動。ワインなどいただきながら大坂教授にオンビートの歌い方などのお話を謹聴していると、ラーメン屋に寄り道していたチャンコイと女性陣の半分がやはりキャーキャーいいながら入ってきて音楽ムードもそこまで。セッションも始まってどんちゃんする。演奏がうまくいったことが第一条件だが、それ以外にも、適度な女性の数や気遣い、気配りの完璧な仕切り(甲斐さん)、好意的なお店とそのスタッフなどなど理想的な条件が揃って楽しい夜は果てしなく続く。
9月6日(水) M's 岡山・Mo-Gra
All The Things You Are
Cheek To Cheek
Blue Keys
The Girl From Ipanema
Peri's Scope
Ladies In Mercedez
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Falling In Love With Love
On A Clear Day
Deep Blue
I'm Old Fashioned
Yesterdays
But Beautiful
P-Bop
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Spain
9月7日(木) M's 大阪・ロイヤルホース
All The Things You Are
Cheek To Cheek
Blue Keys
The Girl From Ipanema
My Shining Hour
Ladies In Mercedez
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Falling In Love With Love
On A Clear Day
Deep Blue
I'm Old Fashioned
Yesterdays
But Beautiful
P-Bop
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Spain

二部でピアニストのリズムがやや落ち着いて、それだけでぐっと演奏が締まる。
スバトットの初演ドラマー・原田桂和来る。懐。近況を聞くに堪えぬもの有之。ダルマードでじっくり話を聞いて涙する。高校時代のジャズ研仲間・奥田治来る。気付いた時には相当酔いがまわっており、その節は迷惑をかけた、とそればかり言うので少々閉口する。居合わせた十河君など別の友人グループに、僕は高校時代のほうがもっと凄かった、などと好きなことをほざく。同年の強み。富田林、箕面、西脇など今後のM'sホールライブの主催者さんたちが一堂に会するのも大阪の地の利のよさ。
9月8日(金) M's 名古屋・スターアイズ
演目昨日と同じ。やはり二部の方が音符が落ち着く。メニューによるものか、自覚の度合いか。クラッシックにかける努力の何割かでもジャズの様々に割けば上手になる、との苦言有之。努力とは何か、をテーマにしばし話に花が咲く。これは岡山から続いていて、今回の裏テーマ、、、なうちはよいけれど、今後の課題になるのがちょっといや。基本的には努力や責任は嫌い。
9月11日(月) クロニクル・コンサート リハーサル 東京文化会館小ホール
現場のリハーサルは有意義&気持ちよい。大坂昌彦はやはり大した者で、生音のオクテットを丁度よく音場に響かせるダイナミクスコントロールは天下一品。三木のアレンジのよさも会場の響きの素晴らしさでますます輝く。ピアノとその響きになんの心配もないのはやはりこの会場もただものではない。
9月13日(水) 国立音楽大学
後期
前期と違いこれからは毎週毎週僕もじっくり勉強しなくては授業にならなくなるので大変。前期もそこそこ予習はしたものだが。今日はサッチモに至るプレジャズ史。来週のサッチモからはアナリーゼを中心にするので生徒に予習宿題を出すことにした。とはいえサッチモのCDやレコードを1ダース以上聴き込んで授業に向いている、というか僕の知っている曲で解説しやすそうなもの(100曲以上のうち16曲だった。ちとショック)CD-Rにして、今回はTpの赤塚君に託す。
来週の授業の予習と再来週の為の宿題作成が今から心配。

第一回 ジャズが生まれるまで

前説:
ジャズがジャズになる頃には黒人は十分洗練されていて、意識も教養も高かった。奴隷というなら、ローマ人もエジプト人もその歴史を持っている。ただし、アメリカ人の中で自由を剥奪された過去を持つものはアフリカ系アメリカ人だけである。ヒスパニックなど少数派や先住民も差別や搾取はされたが、奴隷にはなっていない。

ニューオリンズ:あらゆる人種が集まっていて、1800年代初頭に最も活気に溢れていた。とともに奴隷売買の中心地でもあった。アメリカ黒人は適応能力を高めざるを得なかったろうし、そのことが即興能力につながったかとも思える。アフリカ人とアメリカ黒人は別のものだという認識は必要。

コンゴ広場:1817年に日曜日の集会が許可される。見学する人々はそこにアフリカンなものを感じていたようだが、ニューオリンズには西インド諸島経由の奴隷が多く、実際はカリビアンフレイバーが横溢していた。南部から連れてこられた黒人たちもいて、主にバプテスト教会の影響のスピリチュアルやコールアンドレスポンス形式、独自のワークソングなどを持ち込んだ。

クリオール:ヨーロッパ系の移民と黒人女性の混血、その子孫。ヨーロッパの血が入っていることを自慢し、より色の黒い人々をかえって蔑んだ。奴隷を持つものもいた。比較的富裕層のコミュニティだった。クラッシックを学ぶ人も多かった。

マルディグラ:1838年のピカユーン紙に“街中にブラスバンドが溢れている”と書かれているほど盛ん。あらゆる行事にパレードがつきまわり、中でもマルディグラというお祭りは現在まで続いている最大級のイベント。

ミンストレル・ショー:黒人に扮した白人がプランテーション・ソングなど明るい音楽とどたばた喜劇を見せるショーが1840年代に大流行し、80年ほども続いた。スチーブン・フォスターやジェイムス・ブランドなど名曲を多く生み出しているが、白人黒人双方に理解と誤解をもたらした。黒人の文化を白人が横取りする関係の始まりであり、今も続いている、とする人も多い。ミンストレル・ショーの大スターのひとりがダディ・ライス。黒人が歌っていた歌だとして自作を発表して大受けした曲を、その黒人の名前にちなんで“ジム・クロウ”と名付けた。この名前に悲惨な歴史がついてまわることになる。

南北戦争:1861年ルイジアナ州が合衆国を離脱。15週間後のミシシッピー海戦によるニューオリンズの陥落で幕を閉じる。奴隷制の廃止によって公衆の面前でも黒人による演奏が可能になった。その後の12年間は南部再建時期といわれ、北軍の駐留と監視により黒人の人権は守られようとした。が、1877年

ジム・クロウ法:南北両政府間の不正取引事件が元で北軍が撤退。南部は再び白人層の支配することとなった。自由になったはずの黒人は、農村では小作人となり、都市部では港湾労働者など最下層の労働力となる。敗北のリベンジかKKKなどの台頭もあり、リンチが日常化する中、隔離政策が法案となり、ミンストレル時代の流行歌にちなんで“ジム・クロウ法”と呼ばれた。

ラグ・タイムとブルース:全ての要素をごった煮にしたジャズの中でもとりわけ重要なパーツである二つのスタイルは1890年頃、時を同じく、場所とシチュエイションを違えて生まれた。
ラグ・タイムはジムクロウ法の影響の少ない、ということはクリオールがまだ富裕層として成立していただろう中西部の裕福な家庭出身のピアニスト、スコット・ジョプリンが編み出した奏法でシンコペイトするリズム、軽やかなダンスステップを伴い、楽譜の出版も預かってまたたくまに広がった。
一方、ブルースは南部ミシシッピデルタの小作人の立場を逃れて、まだしもましだと思われるニューオリンズの港湾労働者になろうと流入してきた人々の手土産だった。ミンストレルの黒人像を取り払い、同じ人間としての誇りを取り戻し、独自の美学を模索しながらブルースは成立していった。3コード12小節のシンプルな構造にどんな要素も盛り込んで発展していったブルースはもともとギターを弾いて歌うのがスタイル。独自のひずみやアクセント、三行単位のストーリー、それまでマーチ風だった奏法の管楽器奏者達はブルースの歌い回しを模倣してジャズの器楽スタイルを発達させた。
ブルースの中にはバプテスト教会の影響から来るコールアンドレスポンス、シャウト、モウン(呟き)などの要素も入っており、スピリチュアルな要素とブルースの世俗的な要素の両方を奏法として獲得することによって、天使の気持ちも悪魔のたくらみも表現する。ブルースは20世紀に入って様々な形に発展、拡散する。その中の一つが“ジャズ”である。スープのルーのように、ブルースが入ってなければジャズにはならない。

ファーガソン判決:1890年ごろともなるとジム・クロウ法(隔離政策)の影響がニュー・オリンズにも迫ってきた。1892年黒人労働者ホーマ・プレッシーは隔離乗車に反対して白人車両に座り続けた。裁判官ファーがソンは“人種の違い、肌の色の差は法律でも宗教でも乗り越えられないのだから隔離は正しい。(人権の平等をうたった)憲法に違反しない”との判決を出した。判例主義をひきずる習慣も手伝ってか、この判例はその後60年以上、南部を支配することになる。

クリオールの斜陽:ジム・クロウ法とファーガソン判決によってクリオールのステイタスが崩壊した。白人に告ぐ富裕層だったのが一気に黒人層、即ち下級市民層に組み入れられたのだ。祖父母が奴隷だったものは選挙権を剥奪された結果、名義上選挙民ながら黒人で投票できるものは5%に激減した。オーケストラも解散し、職を失ったクリオールの楽器奏者が黒人層に交じりこんできた。これが芸術上は飛躍的な発展を呼ぶ。クリオールのクラッシック技術と黒人層のブルースフィーリングがフュージョンする。
周囲から見ると濃淡の違いだけの黒人同士でも、長い歴史の中で、別人種、または別民族としてのアイデンティティが確立している二者の融合であることは銘記されるべきだろう。ジャズはその誕生から確立、発展、そして現在に至るまでフュージョン(融合)を以ってそのバックボーンを強固にしてきたのである。とはいえ、スピリチュアルでもブルースでもラグタイムでもない、或いはその全てであるこの新しい音楽にはまだ名前がなかった。

バディ・ボールデン:(1877〜)ビッグノイズと呼ばれ次々と新しいアイデアを音楽に盛り込んで1906年にはニュー・オリンズ一の有名ミュージシャンになっていた。とりわけ彼の編み出した“Big Four”というリズムの取り方はその後のジャズを決定付けており、ジャズの創始者といわれる所以。ボールデンの絶頂期はニュー・オリンズ・ストリービル(紅燈街=酒場街)最盛期でもあった。快楽の日々を送ってやがて酒などで心身を病み、ジャクソンの精神病院に入ったところで消息が絶える。

ジェリー・ロール・モートン:キング・ボールデンの感覚をピアノに持ち込む。クリオールには珍しく気さくな性格だったようで10代の頃からストリービルにもぐりこんでピアノを弾いて働いた。一家でフランスから渡って来た、と言っていたが勿論ウソで、母親は奴隷、先祖はハイチ人。育てた祖母の心配に夜警の仕事なのだと、これもウソをついていたが17歳の頃にばれて家を追い出される。その後は国内を放浪しながらボードビル、ポン引き、薬売り、ミンストレル・ショーにも出たというがピアノはいつも弾いていた。ジャズスタンダードを多く作った。ジャズを楽譜に下のは彼を嚆矢とする。

Jass〜Jazz:この頃からJassという呼び名が使われ始め、やがてJazzとなるが、語源に関しては未だ詳らかではない。1914年までに多くのバンドやスター・プレイヤーが現れて、それぞれ人気を博した。パパ・ジャック・レーン、フレディ・ケパード、キッド・オリー、ジョー・オリバー(<注:このくだり僕自身に疑似体験すらないので解説として説得力がなかった)、とりわけシドニー・ベシェのクラリネットをソプラノ・サックスに持ち替えての画期的なフレージングは奏法史上のエポックとなっている、、、らしい。

蓄音機:1901年ビクター・トーキング・マシン・カンパニーが蓄音機を発売。瞬く間に普及してレコーディングが大きなビジネスになっていく。ただし最も売れていたのは、オペラ歌手のエンリコ・クルーソー、そしてマーチ王・スーザだった。ジャズは未だに生演奏を聴くしかなかった。

第一次世界大戦:1914年の頃には音楽の中心地はニュー・ヨーク。タイムズ・スクエアの近くのティン・パン・アレイ大盛況。1913年のヘラルド・トリビューン紙に、その悪影響に対する警告が社説で乗るほどジャズが世を席巻していた。ジャズとダンスは一体で、特にセクシャルで破天荒なダンススタイルが識者の眉を顰める中、白人中〜上流の人々も安心して(やっと周囲の目を気にせずに)出かけられるダンス・カップルが現れた。

カッスル夫妻:腰は回さず、組んだ腕はあくまで伸ばして、黒人のナマな表現とは一線を画したダンススタイルで一世を風靡。父兄太鼓判のダンスショーを全国巡業した。この夫妻の功績は音楽監督に優秀な黒人を雇い、周囲の偏見にも負けず彼が生涯を閉じるまで援助、援護したことだった。

ジェイムス・リース・ユーロップ
:このワシントンD.C.の聖職者の息子は早くから音楽の才能を現し、23歳頃には色んな地方の黒人ショーの音楽監督をしていた。ニュー・ヨークで出会ったカッスル夫妻の申し出は、アフロ・アメリカンの持つ才能を世間に知らしめることこそ自分の使命だと考えるに至っていた若者には大きなチャンスだった。ポルカを始め様々なダンスの伴奏にラグ・タイムやブルースの要素を付足してダンスを見に来た聴衆の潜在にジャズ的センスをしみ込ませたが、もっとも大きい出来事は、W.C.ハンディのメンフィスブルースをフォックス・トロットにアレンジ(これには夫妻も共同作業をしたという)したこと。全米の聴衆は大流行しているフォックス・トロットを観に来てはブルース・フィーリングに酔いしれて帰るのだった。

W.C.ハンディ(挿話として):ブルースの作曲家として知られているが、ブルースは元々、歌う人が作家という“シンガー・ソングライター”なスタイル。ただハンディは自作“セント・ルイス・ブルース”を譜面にして発表(出版)し、これが史上初のブルースの譜面となったことで音楽史にその名を刻まれることになった。彼の父親は音楽辞典のヘンデル(Handel)とハイドン(Haydn)の間に息子の名前(Handy)がある、といって自慢してたと言う。19世紀末にして黒人の教養の高さを知るべき、というよりは悪意に満ちた差別感の植え付けに留意すべきである。信じがたいことだが、21世紀の日本の大臣からそのテの発言が出たこともある。

フレディ・ケパード:(1914〜)ミュート奏法で独自のスタイルも持っていたが、元の出音もごく大きくて、時にミュートを吹き飛ばすほどだったという。スタイルを真似されるのを恐れて指にハンカチをかぶせて吹くこともあった。ビクターからの録音の以来を断ったのも、模倣されるのを嫌がったからだというが、そのために初のジャズレコードは白人の作品になった。

オリジナル・ディキシーランド・バンド:イタリア人靴職人の息子、ニック・ラロッカ率いる白人ディキシーバンドの演奏が、大半のアメリカ人の初めて聴くジャズとなった。Dixieland Jazz Band One Step と Riverly Staple Blues の二曲が録音されたが、収録可能時間の関係で目まぐるしく速いテンポでの演奏となった。白人バンドによる必要以上に速いテンポの曲がジャズとして最初に全米人に聞かれる、、、。このバンドはイギリスツアーなども敢行して大人気。
やがて各メンバーの色んな都合で解散する。リーダーも神経症を病んで引退するが、生涯ひとつごとのように語っていたのは、ジャズは白人が作った、ということ。“黒人のリズムが云々いわれるが、それも彼らがアメリカに来て白人から学んだものだ。ジャズは俺達白人が作った。黒人は一切関係ない。”
スーザどころではない売上を記録して、その後ジャズと名のつくレコードが続々と出されることとなった。売れっ子ミュージカル作曲家アービング・バーリンも急遽ジャズバンドを作ってレコード制作している。新しいレコードが出るとそれにあわせた新しい踊りも考えられて、そのダンスを覚えるためにまたレコードを買いに走る。ダンスとジャズとビジネスの蜜月である。黒人ミュージシャンをその蚊帳の外に置いて。

発砲事件(予告として):1913年の大晦日、ニュー・オリンズの新年を祝う祭りの中で13歳の少年が家から持ち出したピストルを空に向けて発砲し、逮捕されて少年感化院に入れられた。手慰みあるいは更正の手段として与えられたコルネットに思いがけない才能を発揮し、やがてジャズ史に残る、いやジャズを大きく前進発展させる人物となる。リトル・ルイと呼ばれていたルイ・アームストロングだった。

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2006年