赤染衛門 あかぞめえもん 生没年未詳

生年は天徳四年(960)以前、没年は長久二年(1041)以後かという(『赤染衛門集全釈』解説による)。
赤染時用(時望)の娘。『中古歌仙伝』『袋草紙』などによれば、実父は平兼盛。赤染衛門の母は兼盛の胤を宿して時用に再嫁したのだという。貞元元年(976)頃、のち学者・文人として名を馳せる大江匡衡(まさひら)の妻となり、挙周(たかちか)・江侍従を生む。権中納言匡房は曾孫。
藤原道長の室、源倫子(源雅信女。上東門院彰子の母)に仕え、養父の姓と官職(衛門志)から赤染衛門と呼ばれた。『紫式部日記』には「匡衡衛門」の名で歌人としての評価が見える。夫の親族(一説に姪)であったらしい和泉式部とは何度か歌を贈答し、親しかったことが窺える。
長保三年(1001)と寛弘六年(1009)、二度にわたり尾張守に任ぜられた夫と共に任国に下る。長和元年(1012)、匡衡に先立たれ、多くの哀傷歌を詠んだ。長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」に出詠したのを最後の記録とし、まもなく没したかと思われる。
家集『赤染衛門集』がある。拾遺集初出。後拾遺集では和泉式部・相模に次ぎ第三位の入集数。二十一代の勅撰集入集歌は九十七首(金葉集三奏本を除く)。『栄花物語』正編の著者として有力視される。中古三十六歌仙女房三十六歌仙

「赤染衛門集」群書類従277(第15輯)・桂宮本叢書9・私家集大成2・新編国歌大観3・私家集全釈叢書1・和歌文学大系20

  4首  1首 哀傷 4首  3首  8首 計20首

題しらず

消えはてぬ雪かとぞみる谷川の岩間をわくる水の白浪(玉葉2065)

【通釈】消えきらずに残っている雪かと見える――谷川の岩の間を分けてゆく水流の白波。

【補記】下記参考歌のように落花を融け残った雪に擬える趣向はありふれていたが、春先の急流の白波を雪かと見たのは感覚表現としても新鮮で、玉葉集に採られたのも尤もと頷かれる。『赤染衛門集』には詞書「二月にくらまにまうでしに、いはまの水のしろくわきかへりたるが雪のやうに見えしに」とあり、鞍馬寺参詣の際の嘱目詠と判る。

【参考歌】よみ人しらず「拾遺集」
あしひきの山路に散れる桜花きえせぬ春の雪かとぞ見る
  源重之「重之集」
消えはてぬ雪かと見ゆる山桜にほはざりせばいかで知らまし

鷹司殿の七十賀の月次(つきなみ)の屏風に、臨時客のところをよめる

紫の袖をつらねてきたるかな春立つことはこれぞうれしき(後拾遺14)

【通釈】公卿の皆さんが紫の袖を列ねてやって来ましたねえ。春になることはこれだから嬉しいのです。

【語釈】◇鷹司殿 藤原道長の室、源倫子。七十賀は長元六年(1033)十一月。◇臨時客 年始に大臣以下の上達部を招いて行なった摂関家の私的な饗宴。◇紫の袖 紫は公卿の式服の色。◇きたる 「来たる」だが、「着たる」と掛詞になり、袖の縁語となる。

【他出】赤染衛門集、栄花物語、後六々撰、古来風躰抄、今鏡

【主な派生歌】
九重や玉しく庭にむらさきの袖をつらぬる千代の初春(藤原俊成[風雅])
もろ人の袖をつらぬる紫の庭にや春も立ちはそむらん(藤原定家)
むらさきにつらぬる袖やうつるらむ雲のうへまで匂ふ白菊(西園寺実氏[玉葉])
紫の袖をつらねし面影のかすみもいくへ今日の初春(*崇光院)

かへる雁をよめる

かへる雁雲ゐはるかになりぬなりまた来む秋も遠しと思ふに(後拾遺68)

【通釈】北へ帰って行く雁たちよ――その声からすると、遥か雲の彼方に去ってしまったようだ。再びやって来る秋は遠いと思うのに。

【補記】「またこむ秋」は「雁が再びやって来る秋」「来年再び巡ってくる秋」の両義。長久二年(1041)二月十二日に披講された「弘徽殿女御歌合」出詠歌。六番右勝。

【他出】後六々撰、定家八代抄、題林愚抄

【参考歌】凡河内躬恒「躬恒集」
かへる雁雲居はるかに聞くときは旅の空なる人をこそ思へ

落花満山路といへる心をよめる

踏めば惜し踏まではゆかむ方もなし心づくしの山桜かな(千載83)

【通釈】踏んでは勿体ない。踏まなければ行きようもない。心をすり減らせる山桜の散り花であるよ。

【語釈】「心づくしの」は、「やきもきさせ気疲れさせる」といった意。古今集の「心づくしの秋は来にけり」以来、和歌で愛用された語。

【他出】『赤染衛門集』には次のように載る。
   またいみじく散るところに、庭のまもなくをかしく見えしに
 踏めば惜し踏まずはゆかむ方もなし散りつむ庭の花桜かな

【主な派生歌】
踏めば惜し踏までは人もとひがたみ風吹きわけよ花の白雪(西園寺公経[続後撰])
つむも惜しつまであせなむ色も憂し芝生の菫あかぬ夕露(三条西実隆)

ひさしくわづらひけるころ、雁の鳴きけるを聞きてよめる

起きもゐぬ我がとこよこそ悲しけれ春かへりにし雁も鳴くなり(後拾遺275)

【通釈】雁の帰るところは常世と聞くが、ずっと起きもせずにいる私の寝床――その「とこ」世こそ悲しいことだ。春に帰ってしまった雁が、秋になって帰って来て、啼いてている。それを私は相変わらず寝床にいて聞くのだ。

【掛詞】◇我がとこよ 「私が臥せる床」「(雁の故郷である)常世」の掛詞。

【補記】『赤染衛門集』によれば、作者は春から秋まで病に臥せっていた。春、故郷に帰って行った雁の声を病床で聞き、秋になって再び渡来したその声を、今また病床で聞いた、という感慨である。

哀傷

上東門院にまゐりて侍りけるに、一条院の御事など思し出でたる御気色なりけるあしたに、たてまつりける

つねよりもまたぬれそひし袂かな昔をかけておちし涙に(千載566)

【通釈】常にもまして濡れまさった袂ですことよ。ご存命中の昔に思いをかけて溢れ落ちました涙に。

【語釈】◇上東門院 藤原彰子◇一条院御事 一条天皇は寛弘八年(1011)六月、譲位の直後に崩じた。◇昔をかけて 一条院在世中の昔に想いをかけて。

【補記】『赤染衛門集』の詞書もほぼ同内容であるが、「匡衡が御文つかうまつりしほどのことども仰せられて」とあり、作者の夫大江匡衡が一条帝の侍読を勤めたことに触れている。同集によれば上東門院の返しは「うつつとも思ひわかれで過ぐるよに見し夜の夢を何かたりけむ」。

【他出】赤染衛門集、新撰朗詠集、続詞花集、時代不同歌合

八月(はつき)の廿日ごろ、月くまなかりける夜、むしのこゑいとあはれなりければ

有明の月は袂になかれつつ悲しきころの虫の声かな(続古今482)

【通釈】有明の月の光は涙で濡れた私の袂に流れ流れして、聞くにつけ切ない頃おいの虫の声であることよ。

【語釈】◇なかれつつ 「泣かれつつ」に、「(月の光が涙で濡れた袂に映って)流れつつ」の意を掛ける。

【補記】『赤染衛門集』では夫の死を悲しむ歌群の中にある。以下二首も同様。

梅の花もさきにけり、桜の花みなさくけしきになりにたりと人のいふをききて

君とこそ春来ることも待たれしか梅も桜もたれとかは見む(赤染衛門集)

【通釈】あなたと一緒だからこそ春の訪れも待たれたのだ。梅も桜も、誰と共に見ればよいのか。

【補記】夫の死の翌春の作。家集に次いで載せる歌「こぞの春ちりにし花は咲きにけりあはれ別れのかからましかば」も心打たれるが、具平親王の作より初句のみ変えて借りたものである。

【参考歌】紀貫之「貫之集」「新古今集」
年ごとにおひそふ竹のよよをへてかはらぬ色をたれとかは見む

さみだれ空晴れて月あかく侍りけるに

五月雨の空だにすめる月影に涙の雨ははるるまもなし(新古1491)

【通釈】五月雨の降り続いていた空に、珍しく顔を出し澄み渡る月――その光のもとでさえ、私の涙の雨は晴れる間もない。

【補記】新古今集は雑歌に入れるが、前歌同様、『赤染衛門集』では夫の死を悲しむ歌群の中にある。この「涙」も亡夫を思ってのもの。

中関白少将に侍りける時、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり、頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代りてよめる

やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな(後拾遺680)

【通釈】迷ったりせず、さっさと寝てしまえばよかったものを。夜が更けて沈もうとするまで、月を見ていましたよ。

【語釈】◇中関白 藤原道隆。少将であった期間は天延二年(974)から貞元元年(976)。◇はらからなる人 赤染衛門の同母姉妹。◇やすらはで (あなたが来るかも知れないからと)ためらわずに。

【他出】赤染衛門集、馬内侍集、古来風躰抄、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首

【補記】『赤染衛門集』でも、「はらから」に代って藤原道隆に奉った歌としている。以下新編国歌大観より引用。
  中関白殿の、蔵人の少将と聞えしころ、はらからのもと
  におはして、「内の御物忌にこもるなり。月のいらぬさ
  きに」とて出で給ひにしのちも、月ののどかにありしか
  ば、つとめて奉れりしにかはりて
入りぬとて人のいそぎし月かげは出でての後も久しくぞみし
  同じ人、たのめておはせずなりにしつとめて奉れる
やすらはでねなましものをさ夜更けてかたぶくまでの月をみしかな

【参考歌】素性法師「古今集」
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな

【主な派生歌】
やすらはで寝なまし月に我なれて心づからの露の明ぼの(藤原定家)
やすらはで寝なむものかは山の端にいさよふ月を花に待ちつつ(藤原良経[続古今])
やすらはで寝なましものを梅の花こぬ人の香に匂はざりせば(土御門院小宰相)
人待たで寝なましものを梅の花うたて匂ひの夜はの春風(*宗尊親王)
誰故かかたぶくまでの月影にねなまし人の衣うつらむ(源邦長[続千載])

右大将道綱久しく音せで、「など恨みぬぞ」と言ひ侍りければ、むすめに代りて

恨むとも今は見えじと思ふこそせめて辛さのあまりなりけれ(後拾遺710)

【通釈】恨んでいると今は見られたくないのです――そう思うのは、あなたの態度がひどくつれなかった余りのことなのですよ。

【語釈】◇右大将道綱 藤原道綱。兼家と『蜻蛉日記』作者の間の子。◇むすめ 『赤染衛門集』によれば、赤染衛門の娘は道綱のもとに仕えていたらしい。但し同集の次第によれば相手の男は教通(道長の子)。◇せめて辛さの この「つらさ」は恋人の態度の無情さを言う。

【補記】娘のもとに通いを絶やしていた道綱のもとへ、娘に代って贈った歌。道綱が「なぜ恨み言を言わないのか」と訝ったのに対し、恨まないのは表面だけのこと、弱みを見せたくない女の心情を推し量ってほしいと訴えたのである。

題しらず

いかに寝て見えしなるらむうたたねの夢より後は物をこそ思へ(新古1380)

【通釈】どんな寝方をして、あの人が夢に見えたのだろうか。うたたねの夢から覚めたあとは、物思いばかりしているのだ。

【補記】枕の置き方などによって夢見をコントロールできるとの俗信があった(下記本歌参照)。『赤染衛門集』によれば、親しくなって歌の贈答などした男に、その後すげなく扱われ、「もの嘆かしげ」な思いで詠んだ歌。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
宵々に枕さだめぬ方もなしいかに寝し夜か夢に見えけむ

【参考歌】小野小町「古今集」
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき

七月朔ごろに、尾張にくだりけるに、夕すずみに関山を越ゆとて、しばし車をとどめてやすみ侍りて、よみ侍りける

越えはてば都も遠くなりぬべし関の夕風しばしすずまむ(後拾遺511)

【通釈】ここをすっかり越えたら、都も遠くなってしまうに違いない。関山に吹く夕風にしばらく涼んでゆこう。

【補記】長保三年(1001)七月、尾張権守に任ぜられた夫大江匡衡と共に任国へ下る際、逢坂の関の山で小休止しての作。

丹後国にまかりける時よめる

思ふことなくてぞ見まし与謝(よさ)の海の天の橋だて都なりせば(千載504)

【通釈】物思いもなくて、存分に眺めを楽しんだろうに――与謝の海の天橋立よ、ここが遠い異国でなく都であったなら。

【補記】晩年丹後国(今の京都府の北部と兵庫県の一部)の国守に任ぜられた夫匡衡に伴っての下向であろう。「与謝の海」は天の橋立のある海。今の阿蘇海または宮津湾にあたる。

【主な派生歌】
思ふことなくてぞみまし紅葉ばを嵐の山の麓ならずは(藤原輔尹)
思ふことなくてぞみましほのぼのと有明の月の志賀の浦波(*花山院師賢[新葉])
よさのうら松の中なるいそ清水都なりせば君もくみみむ(細川幽斎)

思ふこと侍りけるころ、寝(い)のねられず侍りければ、夜もすがら眺めあかして、有明の月のくまなく侍りけるが、にはかにかきくらし時雨けるを見てよめる

神な月ありあけの空のしぐるるをまた我ならぬ人や見るらむ(詞花324)

【通釈】神無月、有明の空に時雨が降るのを、私以外の人もまた寝られずに見ているのだろうか。

【補記】『赤染衛門集』の詞書は「十月にありあけの月のいみじくあかきに、にはかにかきしぐれ、またうちあかりつつあはれなるをひとりながめて」。

【他出】赤染衛門集、後葉集、定家八代抄、時代不同歌合、女房三十六歌仙

和泉式部、道貞に忘られて後、ほどなく敦道親王にかよふと聞きて、つかはしける

うつろはでしばし信太(しのだ)の森を見よかへりもぞする葛のうら風(新古1820)

【通釈】心移りせずに、しばらく和泉国の信田の森を見守りなさい。葛に吹く風で葉がひるがえるように、あの人がひょっとしたきっかけで帰って来ることもあるのですよ。

信太の森葛葉稲荷神社 大阪府和泉市葛の葉町

【語釈】◇道貞 橘道貞。和泉式部の夫。◇うつろはで 心移りせずに。◇信太の森 和泉国の歌枕。大阪府和泉市葛の葉町の葛葉稲荷神社あたりの森。和泉守であった道貞を暗示する。◇かへり 葉が翻る意に道貞が式部のもとに帰る意を掛ける。◇葛(くず) マメ科の蔓性植物。秋の七草の一つ。葉は大きく、裏が白いので、風に翻るさまが印象的である。

【補記】敦道親王が和泉式部のもとに通い始めたと聞いて、赤染衛門が式部に送った歌。二人は上東門院の女房仲間であった。式部の返しは「秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみがほには見えじとぞ思ふ」。

【他出】赤染衛門集、和泉式部集、玄々集、続詞花集、時代不同歌合、女房三十六人歌合

伊勢大輔、「しきしまの道もたえぬべきこと」などいひつかはして侍りければ

やへむぐらたえぬる道と見えしかど忘れぬ人は猶たづねけり(玉葉2439)

【通釈】和歌の道は(むぐら)が幾重にも繁茂して途絶えてしまった道と見えましたけれど、忘れない人はやはり訪ねてくれたのですね。

【補記】伊勢大輔が「和歌の道も絶えてしまうに違いありません」などと言ってきたのに対する返事。『伊勢大輔集』によれば、父大中臣輔親が亡くなった後、伊勢大輔は赤染衛門に「あとくれてむかし恋しきしきしまの道をとふとふたづねつるかな」と贈り、これに赤染が応えた歌。

大江挙周(たかちか)朝臣重くわづらひて限りにみえ侍りければよめる

かはらむと祈る命は惜しからでさても別れむことぞ悲しき(詞花362)

【通釈】身代わりになろうと祈る我が命が惜しいのではなくて、それでも結局は死に別れることが悲しいのだ。

【補記】挙周は匡衡との間の子。治安三年(1023)、挙周が和泉国の国司の任を終えてのち病に臥した時、赤染衛門は守住吉明神に御幣を奉って祈った。その効験あってか、のち挙周の病は平癒した。和歌の功徳を伝える話として、各種の説話集に採られている。

【他出】後六々撰、袋草紙、古来風躰抄、今昔物語、古本説話集、十訓抄、古今著聞集、沙石集

天王寺にまゐるとて、長柄の橋を見てよみ侍りける

我ばかり長柄の橋はくちにけりなにはのこともふるる悲しな(後拾遺1073)

【通釈】私と同じ程、長柄の橋は朽ちてしまった。難波ではないが、何もかも古くなってゆくのは悲しいなあ。

【語釈】◇長柄の橋 難波の歌枕。淀川にかかっていた橋で、古いもの、とっくに朽ちてしまったもの、などの喩えとして歌に用いられた。◇なにはのことも 何ごとも。「何は」に地名「難波」を掛ける。

【補記】四天王寺参詣の折、古今集に詠まれて名高い長柄の橋(淀川の河口付近に架けられていたらしい)を見て詠んだという歌。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中にふりぬるものは津の国のながらの橋と我となりけり
【参考歌】伊勢「古今集」
難波なる長柄の橋もつくるなり今は我が身をなににたとへむ

匡房朝臣うまれて侍りけるに、産衣(うぶきぬ)縫はせてつかはすとてよめる

雲のうへにのぼらむまでも見てしがな鶴の毛ごろも年ふとならば(後拾遺438)

【通釈】鶴が雲の上まで翔るように、雲上人となるまでその成長を見ていたいものだ。鶴の毛衣と呼ばれる産着を着た子も、年を経たならば。

【語釈】◇匡房朝臣 大江匡房。赤染衛門の最初の曾孫。生年は長久二年(1041)。◇鶴の毛ごろも 鶴の羽毛のように真っ白で暖かい産着。

【補記】曾孫が成長し、栄達するまで、長生きすることを願った。


最終更新日:平成17年03月12日