中大兄皇子
なかちおおえのみこ
- 生没年 626(推古34)〜671(天智10)
- 系譜など 田村皇子(舒明天皇)の皇子。母は宝皇女(皇極・斉明天皇)。諱は葛城皇子。他に開別(ひらかすわけ)皇子・天命(あめみこと)開別皇子とも称された。漢風諡号は天智天皇、和風諡号は天命開別天皇。万葉集には近江大津宮御宇天皇・中大兄・近江天皇とある。中大兄は長男・末男以外の皇子に対する敬称であり、万葉巻1に見える通り「皇子」を付さないのが正しい呼び方である。本来固有名詞ではないが、その死後は天智天皇を指す代名詞となった。
大海人皇子は同母弟、間人皇女(孝徳天皇皇后)は同母妹。正室は倭姫王(古人大兄の子)であるが子をなさなかった。伊賀采女宅子娘との間に長子大友皇子を、遠智娘(蘇我山田石川麻呂の女)との間に大田皇女・菟野皇女・建皇子を、姪娘(遠智娘の妹)との間に御名部皇女・阿閉皇女(後の元明天皇)を、橘娘(阿倍倉梯麻呂の女)との間に飛鳥皇女・新田部皇女を、常陸娘(蘇我赤兄の女)との間に山辺皇女(大津妃)を、色夫古娘との間に大江皇女・川島皇子・泉皇女を、黒媛娘との間に水主皇女を、越の道君女郎との間に施基皇子をもうけた。
- 略伝 640(舒明12)年10月、遣隋使南淵請安らが帰国すると、中大兄は中臣鎌子(のちの鎌足)らと共に外典の講義を受ける。その教えは、のちの大化改新の政策に大きな影響を与えることになる。
641(舒明13)年10月、舒明天皇崩ず(49歳)。東宮開別皇子(中大兄。16歳)、誄をよむ。この時すでに皇太子だったか。
642(皇極1)年1.15、母の宝皇女が即位する(皇極天皇)。蘇我蝦夷が引き続き大臣となるが、その子入鹿が国政を壟断する。
645(大化1)年6.8、中大兄・鎌子ら、蘇我入鹿暗殺を計画。蘇我倉山田麻呂もこれに参加。同月12日、倉山田麻呂が大極殿で三韓の上表文を読む際、中大兄は佐伯連子麻呂らと共に入鹿に斬り付け、暗殺に成功(乙巳の変)。6.13、蘇我蝦夷は自邸に火を放ち、天皇記・国記・珍宝を焼くが、国記は危うく中大兄の手に渡る。6.14、皇極天皇は軽皇子に譲位、孝徳天皇即位。同日、中大兄が立太子。以後、中臣鎌足らと共に大化改新に参与、国政の改革に努める。同年9月、吉野に出家していた古人大兄(舒明天皇の第1皇子)の謀反の密告が中大兄のもとに届き、中大兄は兵を差し向け古人を殺させる。
654(白雉5)年10月、孝徳天皇が崩ずると、翌年宝皇女が飛鳥板蓋宮で即位(再祚。斉明天皇)。中大兄は皇太子に留まるが、この時ほぼ独裁的な実権を握ったと考えられている。
658(斉明4)年5月、子の建王(8歳)を失う。10.15、天皇の紀温湯行幸に同行するが、この間孝徳天皇の遺子有間皇子が謀反を企てたとの報を受け、11.11、有間皇子を紀温泉に召し、糾問の後、藤白坂で絞殺の刑に処する。
659(斉明5)年7月、第四次遣唐使を派遣。
660(斉明6)年5月、初めて漏剋(水時計。天智10年に実用化。下記関連サイト参照)を作る。7月、百済が唐・新羅連合軍に大敗して滅亡に瀕し、日本に救援を乞う。
661(斉明7)年1月、斉明天皇は新羅征討の途につくが、この年7月、崩御。中大兄は即位の式をあげぬまま皇位を継承(称制)。8.1、大行天皇の喪をつとめる。この日の宵、朝倉山の上に鬼が現れ大笠を着て喪の儀式を窺ったという。10.7、天皇の遺骸と共に京へ向け発つ。『日本書紀』には、斉明崩後、哀慕する皇太子の歌を載せる。また万葉の「中大兄三山歌」(01/0013〜0015)は「印南国原」の語から播磨国へ旅したときの歌と見る説があり、新羅征討のため筑紫へ向かう途中の歌とも考えられる(ただし後世の付託とする説も有力)。
662(天智1)年3月、唐・新羅連合軍はさらに高句麗を討ち、高句麗は日本に救援を要請。同年、帝の命により鎌足が律令(近江令と通称される)を刊定(『藤氏家伝』)。弘仁格式序にも天智元年22巻(のちの浄御原令と同数)の令を制したとある。
663(天智2)年3月、兵二万七千を新羅に派遣。8.28、日本軍は唐軍に敗退(白村江の戦)。9.7、百済は唐に降服し、滅亡。日本は朝鮮半島の同盟国を失い、大陸からの孤立化の道へ進む歴史的契機となる。またこの時百済王氏など百済から大量の亡命民が日本に渡来した。
664(天智3)年、唐・新羅の侵攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人・烽を置く。筑紫には水城を築き始める。
665(天智4)年2.25、間人大后が薨ず。8月、長門・筑紫両国に築城を始める。
667(天智6)年2.27、斉明天皇と間人皇后を小市岡上陵に合葬する。3.19、近江大津宮に遷都。10月、高安城(倭)・屋島城(讃岐)・金田城(対馬)を築く。
668(天智7)年1月、即位(天智天皇)。日本書紀は或る本に六年三月即位とする。2.23、倭姫王、立后。5.5、蒲生野に遊猟。大皇弟・諸王・内臣・群臣従駕。10月、高句麗が唐・新羅の攻撃を受けて滅亡する。新羅による半島統一がなる。
669(天智8)年10.15、東宮太皇弟(大海人皇子)を内大臣中臣鎌足宅に派遣し、大織冠と大臣の位を授ける。この日、藤原氏を賜姓。10.16、鎌足は薨じ、中大兄は無二の盟友を失う。
670(天智9)年2月、日本最初の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成する。2月、蒲生郡の日野に行幸、宮の造営地を視察。
671(天智10)年1.5、大臣・御史大夫を任命(近江令に基づく太政官制の施行か)。大友皇子、太政大臣。蘇我赤兄、左大臣。中臣金、右大臣。4.25、漏剋(下記関連サイト参照)を置き、初めて鐘・鼓を以て時刻を知らせる。9月、病臥。10.17、大海人皇子を病床に召し後事を託すが、皇子は病弱を理由に固辞し、大后(倭姫)への譲位と大友皇子の執政を提言して自らは出家を請う。天智はこれを許し、大海人皇子は吉野に隠る。12.3、天智天皇崩ず(46歳)。12.11、新宮で殯。この前後、天智不豫の時及び崩後の歌が万葉にある(02/0149〜0155、作者は倭大后・婦人・石川夫人・額田王)。
天智陵について紀には記載が無いが、万葉集には「山科の鏡の山」に御陵を築いた旨見え(02/0159)、延喜式に山科山陵を墓所とするのと一致する。なお『扶桑略記』には「一云」として、山科に行幸した際山林に入ったまま還御せず、崩所を知らず、とある。
万葉に御作と伝わるのは4首、01/0013・0014・0015、02/0091。
関連サイト:天智天皇の歌(やまとうた)
飛鳥の水時計(飛鳥資料館)
系図へ