蝉丸 せみまろ(せみまる) 生没年未詳

伝不詳。後撰集の詞書によれば、逢坂の関のあたりに庵室を営んでいた隠者。『今昔物語』などに説話化され、盲目の琵琶の名手で、源博雅(918〜980)に秘伝の曲を伝授したという(下記付録参照)。但し鴨長明の『無名抄』は良岑宗貞(出家前の遍昭)の和琴の師とも言い、仁明天皇の頃の人とする伝えもあったようである(『和歌色葉』)。後世、音曲・芸能の神として祀られる。後撰集初出。勅撰入集は計四首。小倉百人一首に歌を採られている。

題しらず (二首)

秋風になびく浅茅の末ごとにおく白露のあはれ世の中(新古1850)

【通釈】秋風に靡く浅茅――その葉末葉末に乗っている白露のように果敢ないこの世であるよ。

【語釈】◇浅茅(あさぢ) 丈の低いチガヤ。荒れた野や庭に生えるものとして詠まれる。

【他出】新撰朗詠集、定家八代抄、時代不同歌合

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
思ふよりいかにせよとか秋風になびく浅茅の色ことになる

【主な派生歌】
はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中(*藤原実定[新古今])
難波潟うきふししげき蘆の葉におきたる露のあはれ世の中(源実朝)
なにごとのかはるとなしにかはり行く人の心のあはれ世の中(*遊義門院[玉葉])
風吹けばおつる桜のあだにのみとまらぬ色のあはれ世の中(伏見院)

 

世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋もはてしなければ(新古1851)

【通釈】この世は、どう過ごそうと同じことだ。華やかな宮殿も、粗末な藁屋も、最後にはなくなってしまうのだから。

【語釈】◇宮 皇居、または皇后・皇子などの御殿。◇わら屋 藁で編んだ小屋。

【他出】和漢朗詠集(作者不明記)、江談抄、俊頼髄脳、今昔物語、和歌童蒙抄、古本説話集、定家八代抄、時代不同歌合、平家物語(延慶本)、源平盛衰記
(第三句を「ありぬべし」あるいは「すぐしてむ」とする本が少なくない。)

【主な派生歌】
ながらへてつひにすむべき都かは此世はよしやとてもかくても(西行)
山の端に思ひもいらじ世の中はとてもかくても有明の月(藤原盛方[新古今])
世の中はとてもかくてもありぬべしといひし人の心をぞしる(慈円)
世の中にとてもかくてもあられぬはとてもかくても有るにぞありける(〃)
けふといへば蓬の若葉かりそへて宮もわら屋もあやめふくなり(藤原定家)
なげかれずおもふ心にそむかねば宮もわら屋もおのがさまざま(〃)
世の中よとてもかくてもありはてぬ命まつまをなになげくらむ(藤原雅経)
里からの秋とはことにながむとも宮もわら屋もおなじ夕暮(後鳥羽院)
世の中は寝ても起きてもありぬべし煙はのぼり水はながれて(熊谷直好)

題しらず

逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよを過ぎむとて(続古今1725)

【通釈】逢坂の関の嵐があまり激しくて、無理をして動かずにいたよ、この夜を過ごそうとて。

【語釈】◇相坂の関 逢坂の関に同じ。滋賀県大津市逢阪。山城・近江国境にあたり、畿内と東国を限る関があった。◇よを過ぎむ 「よ」は夜・世の掛詞。

【補記】今昔物語では末句「よをすごすとて」とする。

【他出】江談抄、今昔物語、秋風集、歌枕名寄

相坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、ゆきかふ人を見て

これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬもあふさかの関(後撰1089)

【通釈】これがまさにあの、東国へ旅立つ人も、その人を見送って引き返す人も、ここで別れを繰り返す一方、知っている同士も、知らぬ同士も、ここで出逢いを繰り返すという、逢坂の関なのだなあ。

【語釈】◇これやこの これが当の。これがまさにあの。「この」は話題になった物事を指す連体詞で、今で言えば「あの」「その」にあたる。「や」は詠嘆の助詞。「門人位田義比云、この歌は、旅ゆく人のよめりしならむ。そこに庵室つくりて常に住をる人の、これやこのとはいふべくもあらじ、といへり。げにさることに侍り」(香川景樹『百首異見』)。◇行くも帰るも 行く人も帰る人も。畿内から東国へ出て行く人も、関まで旅人を見送って都へ帰る人も。「帰る」を、「東国から都へと帰って来る人」の意にとる説もある。◇別れつつ 「つつ」は二つの異なる動作が同時進行する意をあらわす助詞。人々が別れを繰り返す一方では、出逢いもまた繰り返す、と続く文脈。百人一首歌留多では「別れては」。◇知るも知らぬも 知っている同士も、知らない同士も。◇あふさかの関 逢坂の関。山城・近江国境の関。「逢ふ」と掛詞になる。

【補記】この歌は素性集にも載る。以下、和歌文学大系より引用。
   逢坂に室(むろ)作りて住みしころ、行き来の人を
 これやこの行くもとまるも別れては知るも知らぬも逢坂の関

【他出】素性集、五代集歌枕、古来風躰抄、近代秀歌、定家八代抄、八代集秀逸、別本八代集秀逸(家隆・定家撰)、時代不同歌合、百人一首、源平盛衰記、六華集、歌林良材
(第二句を「ゆくもとまるも」、第四句を「わかれては」とする本もある。)

【参考歌】紀貫之「貫之集」
立ちかへりかなしくもあるかな別れては知るもしらぬも煙なりけり

【主な派生歌】
わかるとも又あふさかの関ちかく知るも知らぬもまどはざりけり(藤原朝忠)
知る知らぬ相坂山のかひもなし霞にすぐる関のよそめは(藤原定家)
山ざくら花の関もる逢坂はゆくもかへるも別れかねつつ(〃)
これや此のしるもしらぬも君が代の春の光にあふ坂の関(藤原有家)
逢坂や関の杉群かすむめりゆくもかへるも春の道とて(後鳥羽院)
けふはまた知るも知らぬもあふ坂の秋のわかれや思ひわかれむ(藤原為家)
しるしらず行くも帰るも逢坂の関の清水に影はみゆらむ(順徳院[新後拾遺])
人めもる心のうちの関なれは行くもかへるも誰かいさめむ(西園寺実氏[新続古今])
心とやゆくもかへるも歎くらむ人やりならぬ鄙の別れ路(後嵯峨院[新後撰])
越えじただ行くも帰るもとどまらぬ別れの道の逢坂の関(二条為定[新千載])
かへるべき道しなければこれやこのゆくをかぎりの逢坂の関(*源具行[新葉])
あふ坂は心をとむる関なれや花に別れて行くも帰るも(加藤枝直)
逢坂の関のこなたにあらねども往き来の人にあこがれにけり(*良寛)


付録:今昔物語の蝉丸伝説(巻第二十四の第二十三話)
 
―源博雅朝臣、会坂(あふさか)の盲(めしひ)の許に行く語―
今は昔、源博雅朝臣という人がいた。醍醐天皇の皇子、兵部卿の親王と呼ばれた克明(かつあきら)親王の子である。よろずのことに優れた人であったが、なかでも管弦の道を極めていた。琵琶はいとも優美に弾き、笛の音は艶にして得も言われなかった。この人は村上天皇の御代の殿上人であった。
その頃、逢坂の関にひとりの盲人が庵を作って住んでいた。名を蝉丸といった。宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶の上手になったのである。
さて、博雅は音楽の道を非常に好んだので、この逢坂の関の盲(めしい)が琵琶の名手だと聞いて、なんとかその弾奏を聞きたいものだと思った。しかし盲の庵は異様なありさまであったので、人を遣って内々に蝉丸に伝えさせたことに
「何ゆえにこのような思いもかけぬ所に住んでいるのか。京に来て住めばよい」
と。盲はこれを聞き、答えるかわりに歌を詠んで言うことには、
  世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてし無ければ
使いは帰って事情を語った。博雅はこれを聞くと、居ても立ってもいられぬ思いに駆られ、心の内で思ったことには、
「私は管弦の道に心をかける余り、何としてもこの盲(めしい)に会おうと深く心に願ったが、あの者の命もいつまでもつかわからない。私とて命は明日も知れない。琵琶には流泉・啄木という曲があるが、世に絶えてしまった秘曲である。ただあの盲のみが知っている。如何にしても聴いてやろう」
そう心に決めて、夜、逢坂の関に行ったのであるが、蝉丸がその曲を弾くことはなかった。博雅はその後三年間、夜な夜な庵のほとりへ行っては、今か今かと立ち聞きしたが、一向に弾く様子が無い。
三年目の八月十五日、月はおぼろに霞み、風が少し強く吹く夜、博雅は「ああ、今宵は興も乗ろうか。逢坂の盲、今夜こそ流泉・啄木を弾くだろう」と思い、出かけて行って立ち聞きすると、盲は琵琶をかき鳴らし、感興ありげな様子である。
博雅が期待を篭めて耳をすませるうち、蝉丸はひとり憂さを晴らすように、
  逢坂の関の嵐のはげしきに強ひてぞゐたる夜を過ごすとて
そう詠じると、琵琶をかき鳴らした。博雅はこれを聞き、涙を流し、感激すること限りなかった。
(めしい)が独り呟いて言うことに、「ああ、興のある夜だことよ。私以外に数奇者が世におらぬものか。今宵芸道を心得た人が訪ねて来たら、物語しようものを」。
博雅はこれを聞き、声に出して
「王城にある博雅という者が、ここにおるぞ」
と言った。
「そのように申されるのはどなたでいらっしゃる」
「私はしかじかの者。管弦の道を好む余り、この三年間、庵のほとりに通っていたが、幸い今夜そなたに会うことができた」
盲はこれを聞いて喜んだ。博雅も喜色を浮かべ、庵の内へ入ると、うちとけて物語などしあった。
「流泉・啄木の奏法を聞きたい」と博雅が言うと、
「亡き親王はこのようにお弾きになったものでした」
と盲は言って、件の奏法を博雅に伝えた。博雅は琵琶を携えて来なかったために、ただ口伝によってこれを習ったのである。
博雅は大いに満足し、暁に帰って行った。
 
この話を思うに、諸々の道はこのようにひたすら好むべきものである。今の世はそうでない。だからこの末代、諸道に達者が少ないのである。まことに哀れなことである。
蝉丸は賤しい者ではあるが、長年親王の弾く琵琶を聴き、このように道を極めた上手になったのであるが、盲目となったので、逢坂にいたのである。この時以後、盲者が琵琶を弾くことが世に始まったと語り伝えているのである。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年04月13日