西園寺実氏 さいおんじさねうじ 建久五〜文永六(1194〜1269) 号:常盤井入道

太政大臣公経の長男。母は中納言藤原能保女。実有・実雄・実藤ほかの兄。大納言四条隆衡女、貞子(北山准后)を正室とする。子に公相・公基・大宮院(後嵯峨院后)・東二条院(後深草院后)ほかがいる。
後鳥羽天皇の建久八年(1197)正月、叙爵。土御門天皇の建永元年(1206)二月、左少将。承元二年(1208)十二月、左中将。順徳天皇に代が替った同五年正月、従三位に叙せられ、参議に任ぜられる。建保六年(1218)十月、権中納言。その後、左衛門督・春宮権大夫・皇后宮権大夫を兼任し、後堀河天皇の貞応元年(1222)八月、右大将に任ぜられる。同三年十二月、権大納言に進み、寛喜二年(1230)二月、中宮大夫を兼任。同三年四月、内大臣。同年十月、東宮傳を兼ねる。四条天皇の文暦二年(1235)十月、右大臣に就任。嘉禎二年(1236)三月、従一位。仁治三年(1242)六月、娘(のちの大宮院)を後嵯峨天皇に入内させる。寛元四年(1246)正月、大宮院所生の後深草天皇が践祚し、実氏は外祖父となる。同年三月、太政大臣に就任(十二月に上表して辞任)。またこの年、失脚した九条道家に代り関東申次となった。康元二年(1257)には公子(のちの東二条院)が後深草天皇の中宮となる。正元元年(1259)、大宮院所生の亀山天皇が践祚し、実氏は二代にわたり外戚の地位を占めた。文応元年(1260)五月、出家。法名、実空。文永六年(1269)六月七日、薨去。七十六歳。承久元年から三年までの記事を収める日記『常盤井相国記』がある。
歌人としての活動は後鳥羽院・順徳天皇歌壇に始まり、建保三年(1215)の院四十五番歌合、同四年の内裏百番歌合、同五年の右大臣家歌合、同年四月二十日の内裏歌合、同年十一月の冬題歌合、承久元年(1219)の内裏百番歌合、承久二年(1220)以前の道助法親王家五十首などに出詠した。承久の変後も、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首、宝治二年(1248)の宝治百首、弘長元年(1261)以後の弘長百首など、主要な催しに参加している。新勅撰集初出(17首)。続後撰集・続古今集、いずれも入集数第二位。勅撰入集歌は計245首にのぼる。新三十六歌仙

  3首  1首  3首  1首  1首  3首 計12首

宝治二年百首の歌中に、梅薫風といふことを

誰が里の梅の立ち枝をすぎつらむ思ひのほかににほふ春風(続古今62)

【通釈】どこの里の梅の立ち枝を通り過ぎて来たのだろうか。予想外にはっきりと匂う春風よ。

【補記】「梅の立ち枝(え)」は、天を指すように伸びた枝先に花をつけ、香を高く「たち」のぼらせる梅の形状を良く言いあらわした詞。春風にその香りを嗅いで、いったいどこの里を過ぎて来たかと驚いてみせた。正治初度百首の小侍従作「いづかたの梅の立ち枝に風ふれて思はぬ袖に香をとどむらん」など類想の歌は多いが、実氏の作は梅の香を運んで春風の吹いてきた距離の遥かさが感じられ、大らかな風格が出ている。

【本歌】平兼盛「拾遺集」
我が宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひの外に君がきませる

建保四年の百首歌に

かへりこぬ昔を花にかこちてもあはれ幾世の春か経ぬらむ(続古今118)

【通釈】再び帰っては来ない昔の日々を、花に向かって恨んでも、詮方ないことであるが、そんな思いのうちに、ああ、幾とせの春を経てきたことだろう。

【補記】建保四年(1216)、後鳥羽院の百首歌か。懐かしい過去を取り戻せない悔やしさ。「年年歳歳花相似」(→資料編)を敷衍した常套的発想だが、理に落ちず、情のよく伝わる歌になっている。二十代初めの作で、作者の天稟を窺うに足る。

【参考歌】式子内親王「新古今集」
かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘

春雨

とはばやな心よいかにともすれば眺められぬる春雨の空(宝治百首)

【通釈】訊いてみたいものだ。心よ、どういうことなのか。どうかすると、つい眺めてしまうのだ、春雨の降る空を。

【補記】見上げれば、しとしとと単調に降り続く春雨。分かりきっているのに、ついまた空を眺めてしまう。そんなことを繰り返している自分にむかって、これはどういうことかと訝しむ気持である。

宝治二年百首歌の中に夕立を

山たかみ梢にあらき風たちて谷よりのぼる夕立の雲(玉葉412)

【通釈】山は高くて、木々の梢に荒々しい風が立つと思えば、谷から湧き昇って来る夕立の雲よ。

【語釈】◇山たかみ 「たかみ」はいわゆる上代のミ語法で、「山が高いので」と理由を示すのが本来の用法。ここでは、山の高いところに立っていると想定された話手の視点を示している。

【補記】山から谷を眺める人の立場で詠む。荒い風が吹き上げて、梢をざわめかせたかと思うと、谷の方から積乱雲が昇ってくる。その雲はやがて夕立をもたらすのだ。自然の生動をとらえて如何にも京極派好みの歌であるが、玉葉歌人たちのような過敏なほどの繊細さは見られず、太い線で描き切っているところがこの作者らしさだろう。宝治百首では第三句「風すぎて」。

宝治二年百首に、秋夕

ながむればすずろに落つる涙かないかなる時ぞ秋の夕暮(続古今367)

【通釈】眺めれば、わけもなくこぼれ落ちる涙であるよ。一体いかなる時であるのか、この秋の夕暮とは。

【補記】数知れぬ秀歌を生み出した歌題、いまさら趣巧を凝らして何になろうとでも言うような、放胆な歌いっぷりがいっそ心地よい。第二句「心におつる」とする本もある。

【本歌】和泉式部「和泉式部続集」「万代集」
夕暮はいかなる時ぞめに見えぬ風の音さへあはれなるかな

建長三年、吹田にて十首歌たてまつりける時

うらがるる葦の末葉に風すぎて入江をわたる秋の村雨(続拾遺342)

【通釈】枯れた葦の葉尖に風が通り過ぎたと思うと、秋の叢雨が入江を渡ってゆく。

【語釈】◇うらがるる 葉の先端が枯れる。「うら」に「浦」を響かせ、入江と縁語になる。

【補記】岸辺の葦の葉尖を靡かせて吹いた風は、入江に出れば、秋雨となって水面を叩いて渡る。下句は一種の秀句であろう。詞書の「吹田」は摂津国吹田に営まれた実氏の山荘を指す。建長三年(1251)閏九月、後嵯峨院の御幸があり、十首歌が講じられた。吹田御幸の記事は『増鏡』にも見える。

建保二年秋歌たてまつりけるに

湊川秋ゆく水の色ぞ濃きのこる山なく時雨ふるらし(新勅撰341)

【通釈】湊川を秋、流れてゆく水の色が濃い。山という山は残らず時雨が降っているらしい。

【補記】「湊川」は摂津国の歌枕。「みなと」に水門すなわち河口の意を響かせる。河口付近の水が紅葉を浮かべて流れる、その色濃さから、上流の山ではさぞ時雨が降っているのだろうと思いやっている。「ゆく」は秋が去りゆくことと川が流れゆくことに掛けて言う。六甲山地を源とし一気に海へと流れ下っていた湊川の性格をうまく用いている。建保二年(1214)、順徳天皇に奉った歌。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし
  藤原興風「古今集」
み山よりおちくる水の色みてぞ秋は限りと思ひしりぬる

弘長百首歌に落葉を

大井河秋のなごりをたづぬれば入江の水にしづむ紅葉葉(もみぢば)(玉葉883)

【通釈】大井川に秋の名残をもとめると、入江の水に沈んでいる紅葉した葉があった。

【補記】大井河は桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。延喜七年(907)九月、宇多法皇の御幸があり、紀貫之らが供奉して歌を詠んだ。「秋のなごり」には、この時の御幸の名残を偲ぶ気持が籠められている。承久の変後、壊滅状態に近かった内裏歌壇を復活させた後嵯峨院の召しによって、弘長元年(1261)頃に詠まれた百首歌の一つである。

題しらず

夕さればあまつ空なる秋風にゆくへもしらぬ人を恋ひつつ(続後撰919)

【通釈】夕方になると、空をゆく秋風に、どこへ行ったとも知れぬ人を恋しがってばかりいる。

【補記】宝治百首、題は「寄風恋」。古今集読人不知の恋歌(下記参照)を本歌取りし、秋の情趣で味付けした。「秋風」に「飽き」(恋人に飽きられた)を暗示するのは常套手法。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて

百首歌たてまつりし時、寄社祝

蜻蛉羽(あきつは)のすがたの国に跡たれし神のまもりや我が君のため(続後撰531)

【通釈】とんぼの姿をした国に現れた神のご加護は、我が君を護るためである。

【補記】続後撰集神祇歌巻頭。「蜻蛉羽のすがたの国」は、神武天皇が大和で国見をした時、「蜻蛉(あきつ)の臀(と)なめの如し」と国のありさまを誉め讃えた伝説(日本書紀)に由る。山々の緑が途切れなく連なる美しさを、交尾しながら飛ぶ蜻蛉によって喩えたもの。かつまたトンボの盛んな繁殖力によって自然の豊饒を祝福した詞である。宝治二年(1248)、後嵯峨院主催の百首歌に詠進された作。

今上くらゐにつかせ給うて、太政大臣のよろこびそうし侍りける日、牛車ゆりて、そのころ西園寺のはなを見て

くちはてぬ老木に咲ける花ざくら身によそへても今日はかざさむ(続後撰1341)

【通釈】なお朽ち果てぬ老木に咲いた桜の花――老いて思いがけぬ栄誉を得た我が身になぞらえて、この花を今日はかざしに挿そう。

【補記】寛元四年(1246)正月、後深草天皇が践祚し、その二カ月後の三月、実氏は太政大臣に就いた。詞書に「牛車ゆりて」とあるのは、実氏が牛車のまま宮中に入ることを特別に許可されたことを示す。位人臣を極め、天皇の外戚として並びない栄光を手にした実氏は、自邸の老桜を見て感慨にふける。当時の実氏の栄華は、『増鏡』(増補本系)の「内野の雪」に詳しい。

老ののち西園寺にてよみ侍りける

いつといはむ夕べの空に聞きはてむ我が住む山の松風の音(玉葉2225)

【通釈】いつと言おうか。夕暮の空に、我が住む山の松風の音を聞いてこの世を終えるのは。

【補記】詞書の「西園寺」は、父公経が造営した北山の山荘を指す。邸内に御堂を建てたので、寺の名で呼んでいる。『増鏡』に「艶ある園につくりなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつ海をたたへ、峰より落つる滝の響きも、げに涙もよほしぬべく、心ばせふかき所のさまなり」と幽雅な佇まいを謳われた。その山の松風の音を、いつという日、夕暮の空に聞いてこの世を終えるのだろうか、との感慨。実氏は文永六年(1269)六月七日、七十六歳で世を去った。西園寺第はのち足利義満に譲られ、金閣寺となる。


公開日:平成14年08月03日
最終更新日:平成21年01月09日