鴨長明 かものながあきら(-ちょうめい) 久寿二?〜建保四(1155?-1216) 通称:菊大夫 法名:蓮胤

下鴨神社の禰宜(ねぎ)、長継(ながつぐ)の次男。
幼時から二条天皇中宮(のちの高松院)の愛顧を得、応保元年(1161)、七歳にして中宮叙爵により従五位下に叙せられたが、以後、生涯昇叙されることはなかった。嘉応二年(1170)、父長継は禰宣職を又従兄弟の祐季(すけすえ)に譲って引退し、承安二年(1172)頃、死去。長明はこの頃から本格的に歌作に打ち込み、安元元年(1175)には高松院北面菊合に列席するなどしたが、翌年、後援を得ていた高松院も死去した。養和元年(1181)、家集『鴨長明集』を自撰(養和二年説もある)。初め六条藤家に近い勝命を歌の師としたが、のち俊恵に入門し、歌林苑の会衆として活動する。文治二年(1186)または建久元年(1190)頃、伊勢・熊野などを旅する(散佚した旅行記『伊勢記』がある)。文治四年(1188)に完成された千載集には一首入集の栄を得た。建久二年(1191)、石清水八幡の若宮社歌合に出詠。正治二年(1200)、後鳥羽院後度百首に詠進。以後、院や源通親主催の歌合に度々参加する。建仁元年(1201)八月、後鳥羽院により和歌所寄人に任ぜられ、昼夜奉公したが、元久元年(1204)、河合社の禰宣職に就く希望が破れ、和歌所を去る(『源家長日記』)。まもなく出家し、東山に遁世。のち、洛北大原に庵を移した。各所を転々としたあと、承元二年(1208)、五十四歳の頃、山科の日野山(京都市伏見区日野町)に落ち着く。建暦元年(1211)には飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向し、将軍源実朝と会見する(『吾妻鏡』)。翌年、『方丈記』を書きあげ、前後して随筆風の歌論書『無名抄』を著す。また仏教説話集『発心集』も晩年の作とするのが通説である。建保四年(1216)閏六月十日(九日とも)、没。享年は六十二か。
中原有安を管弦の師とし、琵琶などの奏者としても名高かった。『続歌仙落書』に歌仙の一人として見え、また新三十六歌仙にも選ばれている。千載集初出。新古今集には十首。勅撰集入集歌は計二十五首。

河合神社
河合神社 京都下鴨神社内摂社。
長明はこの社の禰宣となる希望に破れて出家したと言われている。

『方丈記』の名文家として日本文学史に不滅の名を留める鴨長明であるが、散文の名作はいずれも最晩年に執筆されたもののようで、生前はもっぱら歌人・楽人として名を馳せていたらしい。後鳥羽院の歌壇に迎えられたのは四十代半ばのことであった。当初、気鋭の新古今歌人たちの「ふつと思ひも寄らぬ事のみ人毎によまれ」ている有り様に当惑する長明であったが、その後急速に新歌風を習得していったものと見える。少年期からの長い歌作の蓄積と、俊恵の歌林苑での修練あってこその素早い会得であったろう。『無名抄』には、自己流によく噛み砕いた彼の幽玄観が窺え、興味深い。しかし、彼が文の道で己の芯の鉱脈を掘り当てたのは、家代々の禰宣職に就く希望を打ち砕かれ、いたたまれなくなって御所歌壇を去り、出家してのちのことであった。そしてそれは、歌人としてではなかったのである。

  3首  4首  1首  5首  7首 計20首

花を思ふ心をよめる

思ひやる心やかねてながむらんまだ見ぬ花の面影にたつ(風雅142)

【通釈】桜を想いやる私の心は、前以て眺めているのだろうか。まだ現実には見ていない花が、しきりと面影にたつ。

花歌とて

吹きのぼる木曾の御坂(みさか)の谷風に梢もしらぬ花を見るかな(続古今139)

【通釈】木曾の御坂の谷から吹き上げる風に、散った桜の花びらが舞いのぼる。それで峠の上では、どこに梢があるとも知れない花を見ることよ。

【語釈】◇木曾の御坂 信濃国の歌枕。御坂は美濃国との国境の峠。

【参考歌】源経信「経信集」「玉葉集」
春風の山の高嶺をふきこせば梢も見えぬ花ぞちりける

雲さそふ(あま)つ春風かをるなり高間の山の花ざかりかも(三体和歌)

【通釈】雲を誘い寄せて天を吹く春風が、ほのぼのと花の気を漂わせるようだ。高間の山は今や桜の花盛りなのだろうよ。

【語釈】◇かをるなり 香気がほのかに立ちのぼり、ただよう。ソメイヨシノなどと異なり、ヤマザクラには幽かな芳香がある。この「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。視覚以外の感覚によって判断していることを示す。◇高間(たかま)の山 奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山の主峰、金剛山の古名。

【補記】「三体和歌」は建仁二年(1202)三月、後鳥羽院が各歌人に三体六首の和歌を詠ませたもの。春夏の歌は「太く大きに」との注文が付けられた(『無名抄』)。下句は下記良経詠からの借用か。しかし上句は長明の作がまさっている。

【参考歌】藤原良経「花月百首」
葛木の峰の白雲かをるなり高間の山の花ざかりかも

宵の間の月のかつらのうす紅葉照るとしもなき初秋の空(三体和歌)

【通釈】夜の初めの時間、月の桂の木はまだ薄い紅葉の色で、照るともなく照っている、初秋の空。

【語釈】◇宵の間 宵は夕方と夜中の間の時間。◇月のかつら 月には桂の樹があるという中国の伝承に由る。桂はカツラ科の落葉喬木で、秋、葉は黄色からオレンジ色へと美しく染まる。

【本歌】壬生忠岑「古今集」
久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればやてりまさるらむ

秋の歌とてよみ侍りける

秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただ我からの露の夕ぐれ(新古366)

【通釈】袖によって秋風が届いたり届かなかったりすることはあるまい。誰の袖にだって吹くのだ。この露っぽい夕暮、私の袖が露ならぬ涙に濡れるのは、ただ自分の心の悲しさゆえなのだ。

【語釈】◇秋風 「飽き」を掛け、恋人に飽きられたことを暗示。秋の夕暮の寂しさに、片恋の悲しみを重ねている。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
春の色の至り至らぬ里はあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ
【参考歌】藤原直子「古今集」
海人の刈る藻に住む虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ
  よみ人しらず「拾遺集」
あまのかるもにすむ虫の名はきけどただ我からのつらきなりけり

月前松風

ながむれば千々(ちぢ)に物思ふ月に又我が身ひとつの嶺の松風(新古397)

【通釈】月を眺めると何となく悲しいことを思ってしまって、心が千々に砕けるものだが、月ばかりか、独り山に住む我が身には、峰を吹きわたる松風の声が響いて、いっそう悲しいのだ。

【語釈】◇千々に物思ふ 下記本歌を踏まえた言い方。◇月に又 物思いの種が月だけでなく、ほかにも…。◇我が身ひとつの 山で庵住いをしている自分にとってだけは。月は誰にも眺められるが、この山の松風を聞くのは「我が身ひとつ」である、ということ。これも本歌に拠った表現。

【本歌】大江千里「古今集」
月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど

八月十五夜和歌所歌合に、海辺秋月といふ事を

松島や潮くむ海人の秋の袖月は物思ふならひのみかは(新古401)

【通釈】中秋の明月の夜、松島の、海水を汲んで塩を作る人の袖は、びっしょり濡れて、そこに月の光を映す。秋の袖に月が宿るのは、物思う人の慣(なら)いかと思ったが、そうではなかった。私の袖も秋の哀れさに涙で濡れているけれど、悩んでない人の袖だって、こんな晩は、みな同じなのだ。

【語釈】◇月は物思ふならひのみかは 月光は、思い悩む人の袖に宿るのだけが慣例だろうか。いや、そうではない。「かは」は反語。

【補記】建仁元年(1201)撰歌合。

さびしさはなほのこりけり跡たゆる落葉がうへに今朝は初雪(無名抄)

【通釈】秋から冬に季節は移ったけれど、寂しさだけは相変わらずそのままであった。人も通わなくなった庭に散り敷いた落葉の上に、今朝は初雪が積もったよ。

【語釈】◇さびしさ 秋冬という季節が感じさせる淋しさであると共に、山居の宿に人が訪れない寂しさでもあろう。

【補記】初出は三体和歌。同会の記録によれば下句は「落葉がうへの今朝の初雪」。

恋のこころを

見てもいとへ何か涙を恥ぢもせんこれぞ恋てふ心憂きもの(鴨長明集)

【通釈】私の泣く姿を見て、嫌って下さい。どうして涙を恥じることなどしましょう。これこそが恋という、どうしようもなく辛いものなのだ。

秋の夕暮に、女のもとへつかはす

忍ばんと思ひしものを夕暮の風のけしきにつひに負けぬる(鴨長明集)

【通釈】こらえようと思っていたのに、夕暮に風が吹くと、そのありさまに恋心がつのり、とうとう抵抗し得なくなって、こうしてあなたに便りを送ってしまうのです。

【語釈】◇風のけしき 「けしき」は自然界のほのかな動き・様子を言う語。夕方は恋心のつのる時間とされたが、風の吹く趣にいっそう思いが高まってしまったのである。

題しらず

ながめてもあはれと思へおほかたの空だにかなし秋の夕暮(新古1318)

【通釈】空を眺めるにつけ、遠くで同じように空を眺めて物思いに耽っている私のことを憐れだと思って下さい。これといった事情も無しに眺めたって秋の夕暮の空は悲しいものなのです。あなたへの恋に苦しんでいる私なら、なおさらではないですか。

【語釈】◇おほかたの空だにかなし 普通に眺める空だって(秋の夕暮は)悲しい。

隔海路恋といへる心をよめる

思ひあまりうち()る宵のまぼろしも浪路を分けて行きかよひけり(千載936)

【通釈】恋しさのあまり、ふと眠り込んで見た宵の夢で、私のまぼろしも波を分けて行き、海の向うの恋人のもとへ往き通うのだった。

【語釈】◇まぼろし 夢の中の幻たる我が身。また幻術士をも意味する。ここでは『長恨歌』で、玄宗皇帝の命により海上の仙山に住む楊貴妃の生まれ変わりの仙女のもとを訪ねた幻術士を暗示している(→資料編)。

思二世恋といふ事を

我はただ来ん世の闇もさもあらばあれ君だに同じ道に迷はば(新続古今1292)

【通釈】私にしてみれば、もう来世の闇なんぞ、どうともなれだ。恋しいあなたさえ、同じ闇路に迷ってくれたなら。

【語釈】◇思二世恋 二世を思ふ恋。二世とは今生(こんじょう)と来世。

羇中夕といふ心を

枕とていづれの草に(ちぎ)るらむ行くをかぎりの野辺の夕暮(新古964)

【通釈】そろそろ野宿の場所を探さなくてはならない。今夜は枕として、どこの草と縁を結んで寝れば良いのだろう。あてもなく、行ける限りは行こうという旅で、野辺に夕暮を迎えてしまって。

【語釈】◇羇中夕 羇中(きちゅう)の夕べ。旅の途次に迎えた夕暮。◇枕とて 「草枕」と言うが、その枕として。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中はいづれかさしてわがならんゆきとまるをぞ宿とさだむる

【主な派生歌】
かへるべき道しなければこれやこの行くをかぎりの逢坂の関(*源具行[新葉])

詩を歌にあはせ侍りしに、山路秋行といふ心を

袖にしも月かかれとは契りおかず涙は知るや宇津の山ごえ(新古983)

【通釈】袖が涙に濡れて、そこに月が宿っている。私の袖になど懸かれと、月と約束はしていなかったのに。涙は知っているのだろうか。宇津の山を越えてゆく心細さを。それでわざわざ袖を濡らし、月を映してくれたのだろうか。

【語釈】◇宇津の山 今の静岡市宇津ノ谷(うつのや)あたり。東海道の難所として名高く、伊勢物語第九段によって歌枕となる。「うつつ」と掛詞になることが多い。

【補記】元久二年(1205)六月十五日詩歌合。

【主な派生歌】
いきて世にいつまでぬれん袂ぞと涙はしるや秋の夕暮(西園寺実氏[続古今])

和歌所歌合に、深山暁月といふ事を

夜もすがら独りみ山のまきの葉にくもるもすめる有明の月(新古1523)

【通釈】一晩じゅう、独り起きていて、奥山の針葉樹の葉に遮られた月を眺めていた。いま暁になり、曇りも払われて、澄んで見える、有明の月が空にかかっている。

【語釈】◇独りみ山 「み山」は深山。「(独り)見」を掛ける。「独り」には孤独な庵住まいを暗示している(但し、この歌を作った当時、長明はまだ出家はしていない)。◇まきの葉 まき(槙・真木)は杉・檜などの針葉樹。◇くもるもすめる 難解。「まきの葉に遮られて曇っていたのが、暁には梢を離れ、澄んで見えるようになった」とも、「涙で曇りながらも、心眼には澄んで見える」の意にも取れる。おそらく両意を含ませたのであろう。◇有明の月 明け方まで空に残る月。信仰による救済を暗示。

【補記】建仁元年(1201)八月十五日の撰歌合。

身の望みかなひ侍らで、(やしろ)のまじらひもせで籠りゐて侍りけるに、(あふひ)をみてよめる

見ればまづいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけはなれけん(新古1778)

【通釈】諸葛を見れば、何を思うより先に、涙がいっそうもろく溢れ出てしまう。前世にどんな契りを結んだせいで、賀茂の社と縁が切れてしまったのだろうか。

【語釈】◇身の望み 賀茂の神社の禰宣となる望み。◇社 賀茂神社を指す。下鴨神社(賀茂御祖神社)には玉依姫を、上賀茂神社(賀茂別雷神社)にはその子の賀茂別雷命(わけいかづちのみこと)を祀る。◇もろかづら 諸葛。桂に葵をつけたものという。賀茂祭で用いられた、髪や冠にさす飾り。「もろき」の意を掛ける。◇かけはなれけん 「かけ」は「もろかづら」の縁語。

述懐の心を

あれば厭ふそむけば慕ふ数ならぬ身と心とのなかぞゆかしき(玉葉2518)

【通釈】生きていればそのことを厭い、現世を背こうとすれば慕わずにはいられない。数にも入らないような我が身と、それを厭ったり慕ったりする心と――二つの間柄はいったいどうなっているのか、知りたいものだ。

出家の後、賀茂にまゐりて、みたらしに手洗ふとて

右の手もその面影もかはりぬる我をば知るやみたらしの神(続歌仙落書)

【通釈】川水で洗う右の手も、水面に映るその面影も、すっかり変わってしまった私だけれど、私だとわかって下さるでしょうか、御手洗川の神よ。

下鴨神社 御手洗川
下鴨神社境内の御手洗川

【語釈】◇みたらし 御手洗(みたらし)川。下鴨神社境内を流れる。この川の水を禊(みそぎ)に用いた。

【補記】出家の後、賀茂社にお参りし、御手洗川で手を洗おうとして詠んだという歌。源通光の手になると伝わる歌仙秀歌撰『続歌仙落書』に見える歌。同書の成立は貞応元年(1222)〜同三年頃という。

【参考歌】俊成「五社百首」
この世には又なぐさめもなきものを我をば知るや秋の夜の月
  寂超法師「新古今集」
古郷の宿もる月にこととはむ我をば知るや昔すみきと

鴨社の歌合とて、人々よみ侍りけるに、月を

石川や瀬見の小川の清ければ月もながれをたづねてぞすむ(新古1894)

【通釈】石川の瀬見の小川は、水が清いので、賀茂の神がここに鎮座されたように、月もこの流れを求めて射し、澄んだ光を川面に宿している。

下鴨神社 瀬見の小川
瀬見の小川

【語釈】◇鴨社の歌合 源光行主催の歌合。『無名抄』に記述があるが、歌合本文は散佚してしまったらしい。◇石川や瀬見の小川 「石川」は賀茂川の異称、あるいはその上流の称。「瀬見の小川」はかつては賀茂川の分流で、河合神社のそばを流れていたという。現在では下鴨神社の糺の森を流れる小川を「瀬見の小川」と呼んでいる(写真参照)。◇すむ 澄む・住むの掛詞。「住む」には神が住む(鎮座する)意が籠る。

【補記】この歌については、『無名抄』の「せみのを川事」に長明自身の詳しい記述がある。長明は新古今集に十首の歌を採られたことを「過分の面目」としたが、「この哥の入りて侍るが、生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり」と特にこの歌の入集を喜んだ。


更新日:平成14年11月20日
最終更新日:平成21年06月11日