近衛天皇 このえてんのう 保延五〜久寿二(1139-1155) 諱:躰仁(なりひと)

鳥羽院の皇子。母は美福門院藤原得子。崇徳天皇後白河天皇覚性法親王は異母兄。
保延五年、生後三カ月で立太子。永治元年(1141)十二月、崇徳天皇の譲位を受け、三歳で即位。久安六年(1150)、藤原多子(頼長の養女)を皇后、藤原呈子(忠通の養女)を中宮とする。在位十四年にして、久寿二年七月二十三日、十七歳で崩御。千載集初出。勅撰入集五首。

題しらず

この寝ぬる夜のまの風やさえぬらむ(かけひ)の水の今朝はこほれる(続古今626)

【通釈】寝ていたこの夜の間に風が冷たくなったのだろう。筧の水が今朝は凍っている。

【参考歌】安貴王「万葉集」巻八
秋たちていくかもあらねばこの寝ぬる朝明の風は袂寒しも
  藤原季通「久安百首」「新古今集」
このねぬる夜のまに秋はきにけらし朝けの風の昨日にも似ぬ

従一位藤原宗子、病重くなりて、久しくまゐり侍らで、心細きよしなど奏せさせて侍りけるに、つかはしける

浮雲のかかる程だにあるものを隠れなはてそ有明の月(千載1000)

【通釈】夜がすっかり明けてしまえば、見えなくなってしまう有明の月。浮雲がかかっている間も、せめて少しだけでも見ていたいものを。どうか隠れきってしまわないでおくれ。

【語釈】◇藤原宗子 近衛天皇の准母皇嘉門院聖子の母。◇浮雲のかかる程だに… 「浮雲」には生命のはかなさを暗示すると共に、浮雲がかかる月に、具合の良くない宗子を喩えている。

【補記】近衞天皇にとっては祖母に等しい存在であった藤原宗子の病が重くなり、会いに来ることも絶えて、不安な旨の手紙を贈って来たのに対し、答とした御製。宗子を有明の月に喩え、病を浮雲に喩えて、生き永らえることを願った。

御心ち例ならずおはしましける秋、よませ給うける

虫の音のよわるのみかは過ぐる秋を惜しむ我が身ぞまづ消えぬべき(玉葉2321)

【通釈】衰え弱ってゆくのは虫の音だけだろうか、いや、過ぎてゆく秋を惜しむ私の身こそ、先に消えてしまいそうだ。

【補記】近衛天皇は在位の末には病がちで、十七歳で夭折する。『今鏡』は天皇崩御の記事に続け、歌を好まれたことを特筆し、「世を心細くや思し召しけん」としてこの歌を引用している。

【参考歌】源俊頼「散木奇歌集」
なきかへせ秋におくるるきりぎりす暮れなば声のよわるのみかは


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年01月04日