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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十二

(2019.01オリジナル作成)



 
 完全リタイアの中での回想録 


1.わが人生での3つの奇跡

 2019年を迎え、いよいよとなりました。
 
 嘉悦大学での授業も終了し、やるべきことも少なくなりました。
 
 そうなると、「これからどうするんですか」などと聞かれることもあります。
 答えは、「何もありません」ですね。
 
 いままでも、「頼まれればやる」という受動的な姿勢でしたから、それはなにも変わらなくても、頼まれなくなればおしまい、というものです。まず間違いなく、「雇うから仕事してくれ」はありません。この歳で雇って下さる奇特な向きはないし、雇われて働いて、なにかの役に立つような能力も、「学位」も、資格免許も一切ありませんしね。

 ☆私の「履歴」はこちら、「書いたもの」はこちらです。

 
 というわけで、もういつまであるかわからない「余生」を、静かに、慎ましく過ごすのみです。
 

 残り少なくなると、懐古談ばかりになります。前向きのものはありません。
 
 唯一の「残務」で、共著の本を出すことにしております
 嘉悦大学大学院での足かけ7年間の「決算」として、大学院博士後期課程をおえられた人たち中心に、「中小企業研究」に一石を投じるとか、言いたい放題ぶつけるとか、そういった類のものです。嘉悦大学大学院叢書としての刊行を認めて頂いております。
 
 それはそれとして、「わが半生」を振り返るに、つまるところ、たいした力もなく勉強もしてない、好きでもないのに、研究者・大学教員として40年近くを過ごせたのには、いくつかの幸運と言うか、奇跡に近いことがあったのを否定できません。
 
 
 すでに機会ある毎に申してきたように、私は「お勉強大好き」でも、「成績優秀」でも、「研究心探求心に満ちていた」からでもなく、誰から期待推薦されたわけでもなく、大学院というところに進学したのは、「あまりに何もなかった大学学部時代」への悔悟の思い、「大学で学ぶ」ということへの憧憬からであったことを否定しません。そんな何もない学部生活を5年間も送ったのはなぜだったのか、4年生の「シューカツ」の際の某新聞社の面接でも突っ込まれたところです。ま、そのこたえは知る人ぞ知るというか、もちろん別に「道を誤った」とか「無駄に時間を過ごした」などと考えはしないし、「俺の青春を返せ」などとバカなことも口走りはしません。その時にはその時なりに、想いがあったのは間違いないし、そこから学んだ、得たことも多々あると思います。そして信じたことの延長上に、あくまで今の私自身がいるのです。
 ただ、それが自分が大学に進んだ目的であったのか、というところに大きな飢餓感を覚えずにはいられなかったという表現にもなりましょうか。「経済学部というところに入っていながら、経済学の1割でも理解しているのか」、という例えもできましょう。
 
 

 しかしなお、大学院に進んでからも、曲折は続くのみでした。
 結局なんと、学部大学院あわせて、14年間も在学をした果てに、まったくの僥倖で大学に職を得ることができた、これは正真正銘幸運としか申せません。いまどきだったらまずないんじゃないの、という線です。
 ただ、この幸運には伏線もありまして。まず第一には、当時大学院の授業料がとても安かったおかげでした。年間で3万6千円!今では考えられない額ですね。だから私大でも、長居ができたのです。そのうえに、それこそ、私がある意味道を外れたせいでもあるのです。学部後半から大学院では、私は「社会政策・労働問題」を専攻しているつもりでしたが、いっこうに芽が出ず、大した業績もあげられず、暗中模索のみのような有様でした。そのなかで、先輩からのお誘いで、「アルバイト気分」で、ある調査を手伝った、そこから軌道変更になってしまったのです。
 中小企業の研究者には、親や家族などが事業を営んでおり、そこから関心と問題意識を深めたというひとが少なくないのですが、私にはそれはありません。
 
 その調査を指導されていたのは、佐藤芳雄教授でした。もちろん授業を含めて、私は教えを頂いたこともありません。ただ、佐藤先生どう考えられたのか、コイツには使いでがあると思われたようで、この調査事業以外にもさまざまな勉強や議論や受託の仕事などに入れてくれたのです。そのなかでははっきり申してかなり「鍛えられ」ました。優れた先輩同輩諸氏の仲間に加えて頂いただけでなく、ものの書き方学び方のみならず、日常生活の姿勢にまで。逆に申せば、迷走空転を続けていながら、いかに怠惰な学生だったかということです。
 分けても、佐藤先生の推薦を得て、在学のまま社団法人中小企業研究センターというところの嘱託の仕事に就いた、これは幸運とともに、非常に大きなチャンスだったと思います。そこで私はかなり好き放題な調査や資料探索など行い、書を読み、「中小企業研究」というフィールドで、何かをなせるような気がしてきましたし、とりわけ「本業」としての企業調査等での経験を積み、またそのおかげでいろいろな先達の方々の有形無形の指導を得ることができました。こうした経験は以来40年以上を過ぎたいまに至るまで、私の血肉になっていると実感しております。

 そんな「踏み台」を許して下さった当センターには、いまもって恩返しもできてはおりませんが、有り難いことに、研究委員という肩書きをいまも頂いております。昨年9月、6thACSB中小企業研究アジア協議会第6回大会が東京で開催され、私は何も貢献できませんでしたが、その前夜のウェルカムパーティというのが持たれた会場の、その窓の向こうが、なんとこの中小企業研究センターの当時のオフィス(新橋)でした(いまは御徒町にありますが)。まさに40年前の記憶を蘇らせるにうってつけのお膳立てと実感しました。ここでよく、ほかのスタッフの方々が帰宅されたあとに勝手に一人で残り、資料を捜したり、本を読みふけったりしていたことが思い出されたもの(*これはちょっと誇張表現でもありまして、私は当センターに年中こもっていたわけでもありません。こもっていたのはその前後を含めて、主に慶大の三田研究室書庫でした。ここには同大での藤林敬三先生、伊東岱吉先生らの関係か、かなりの原資料や文献などがありまして、勉強にはよい機会でした。同じようなことは、それから20年近くのちの、英国ケンブリッジ大学DAE応用経済学科のマーシャルライブラリーやLSE図書館でも言えます。結構こもり甲斐がありました)。
 
 おそらくこの僥倖の機会を頂かなければ、私は中小企業研究の道を進もうとも考えなかったことでしょう。そして、佐藤先生からも、この領域でのシューカツもすすめられ、推薦状も頂戴しました。そうした後押しをいただき、大した業績もないのに、大学の職に手を伸ばしたのですが、もちろんそう簡単に問屋はおろしてくれません。いちど、「お祈り状」を頂いてしまった駒澤大学経済学部というところが、また同じ人事を募集しているというので、懲りもせず翌年再応募をした次第です。
 そんなことができたのは、佐藤先生のもう格段のお計らいで、先生編著の共同著作に、駆け出しの私を加えて下さっただけでなく、かなりのページを頂くことができた、それでなんとかシューカツにも様になったというウラがあったからなのです。それも、本はまだ出ない、それで原稿やらゲラやら、とうてい郵送もできない重さになるので(当時原稿というものは手書きでしたから)、ホントに担いで大学まで持っていったのがいまも記憶に残っています。駒澤大学の先生方も、よくもこんなものに目を通して下さったものです。まったくいまは身の縮む思いです。


 それで、1981年4月から、駒澤大学経済学部に「中小企業論」担当の専任講師として勤務することになりました。まったくの僥倖以上の機会です。実は私はその近くに長年住んでいたという、妙な巡り合わせのことはすでに書き記しました

 
 
 けれども、第二の幸運と記すべきなのは、駒澤大学経済学部に職を得られただけでなく、20年間の在職中に、二度、延べ二年半もの「在外研究」の機会を許して頂いたという事実です。まあその分もちろん「本業」の方では一生懸命に働きましたつもりですが。
 
 これもすでに記しましたように、「低空迷走飛行」の人生を続けてきた私は、「留学」どころか海外旅行の経験すらありませんでした。1986年まで、パスポートを持ったこともないのです。エイゴを使った経験皆無で、「苦手」の方、おかげで大先生の前で恥をかいた経験さえあります。それなのに、ちょうど機会の順番が回ってきそうというので、在職五年目の1985年に、次年度在外研究というのに手を挙げてしまったのです。いちども日本から外に出たことのない人間が、それからロンドンで一年半を過ごすことになったのです。
 
 これはもう、ものは試し、まずプールに飛び込んでアップアップしてみるのが、水泳同様エイゴ上達のコツよ、という以上のものがありました。もちろんいまに至るまで、私の語学力など大したことはありませんが、こういうの結構合っているんだ、ということを自分で発見したのです。この一年半は本当に楽しく、充実していました。まあ、授業や校務などしないで済むんですから当たり前ですが。
 しかも幸運だったのは、当時英国をはじめ欧米諸国では、「日本的経営」ブームで、非常に関心が高まっており、向こうが引く手あまたで待ち構えてくれておりました。現地展開する日本企業の実態も内外の関心事でした。そして「中小企業政策」、ひいては「中小企業研究」の欧州での勃興期でもあったのです。おかげでこの間に私はさまざまな研究者や政策担当者、団体関係者などと会い、情報交換し、対話することができたのです。
 
 そのうちでも、2人の名前を挙げれば、ジム・カラン氏、カレル・ウィリアムズ氏となりましょう。ジムは当時立ち上がってきたISBA英国中小企業研究学会の中心人物の一人であり、のちにはキングストン大学SBRC中小企業研究センターを設立しました(そのおかげで、私は二回目の在外研究の機会に、ここのvisiting professorにしてもらいました)。カレルとは偶然の機会で出会い、彼の関心事である日本的経営・サプライヤシステム研究の絶好のパートナーとなる巡り合わせになりました。1987年夏にはウェールズの自宅に呼ばれ、ともにウェールズ各地を旅したりしました。
 のちに彼は資金を工面して日本に来ての調査を行い、私も手伝いました。その結果等をもとに、いくつかの著作をまとめ、彼は英国でも知られた研究者になることが出来、マンチェスター大学の教授になりました。
 
 ジム・カランは昨年亡くなったという報です。年齢からすると、やむないのでしょうか。カレル・ウィリアムズについては近年便りもないので、ちょっと心配しておりましたが、現在も元気に研究者・論客として活躍しているようです。YouTubeで生の講演ぶりを見ることができました。やはりちょっと老けましたが、カレル調は達者です。
  カレル・ウィリアムズ語る
 
 カレル、ジム、そしてのちにジムの後継となったロバート・ブラックバーンはいずれも、日本の拙宅に泊まって貰っております。日本では大学教員なんて、なんて貧乏なんだろうと実感して貰えたことでしょう。
 

 こうした交友の機会を得ることができたのは、うえの日本ブームなどの環境があったとともに、私の方から情報発信に努めたからでもあります。いまから見れば拙いものにせよ、自分の書いた英文を諸方面に送ったりもしました。会議等の機会に積極的に顔を出しました。

 
 このような経験と「実践」を踏まえて、1987年には英国での創業促進政策に関する調査を行いました。資料文書の収集のみならず、政策関係者、実践者たちへのインタビュー、国のEAS(企業開設手当)を受給して起業した人たちへのアンケートと訪問調査をかなりの規模で行い、私としては「いい線いっていた」研究だったと思います。日本のその後の経過への教訓でもあったでしょう。
 こうした調査研究のできたことには、いくつかの僥倖があったと思います。当時の英国ではこういった政策課題と中小企業に関する研究自体が乏しく、私は一定「先を行って」いました。上記の日本への関心もあって、私のような日本の研究者が取り組むことを歓迎してくれる空気がありました。さらに、このときの私の滞在先の一つ(もう一つはLondon School of Economics訪問研究員)とした、ケンブリッジ大学DAE応用経済学科が好意的で、私の郵送アンケートの発送・返送宛先とするのを許してくれました。やっぱりケンブリッジの名にはご威光もありましょう。
 
 けれども、この研究をまとめた論文には、「まったく」注目はありませんでした。体裁の問題(元もと一本だったのが、当時の学内論集編集の先生から「長すぎる」とされ、「1」「2」に分けて掲載することになった。この書き方も誤解を招いた可能性)。
 
 今にして言えば、私はこれは自分の博士論文研究であったと考えます。誰ひとり注目してくれなかった、不幸な運命とともに消えたものとして。まあ、日本でなどと考えず、むしろ当の英国で発表公刊の機会をと、考える方が正しかったのでしょうが。

 
 まあこんなこともありました。一方で、私がいろいろなことに首を突っ込み、あたふたしている中、他にまとまった研究を公にするようなこともなく、年月が過ぎていきました。そして、10年ののちには、下記のように、かねてから「博士論文早く出しなさい、あとになると大変だよ」と言っておられた佐藤先生も世を去られ、私は完全に機会を逸してしまいました。近頃とは違い、学位を取らないと昇格もできないなどということもない、牧歌的時代にかまけていたとも言えましょう。

 ただ、若干の引け目というか、居直りの古証文かという観で、2011年に出した単著『中小企業政策と「中小企業憲章」』では、過去記載既発表の寄せ集め中心なのに、あえて「大論文」のような全体の体裁と構成にし、はじめの方には研究背景、先行研究レビューや研究方法論を並べ、膨大な付注をつけ、付属資料など含め、400ページあまりの大著にしてしまいました。ためにかなり不評を買いました。まあ、この出版には関東学院大学の研究プロジェクトのお金を使えるというよい巡り合わせもあったので、やっちゃえで膨らました観横溢です。おかげで、「中小企業憲章」普及のお役には立てませんでした。

 それでも、同書を出した花伝社は、高校同期の柴田氏が編集だったので、出版を引き受けてくれたものと感謝するしかないのですが、柴田氏は別に手間を省くとかいうことでなく、研究書の注は巻末にまとめて載せるのが正道と仰るので、それに従ったものの、改めて現物を見るに、かなり読みにくいのです。「脚注」にしないまでも、せめて各章ごとに掲載した方が見やすいといまも思うのですが。

 いずれにしても、単なる居直りというか、古証文というかの書の刊行で、アリバイ以上の意味は持てなかったのかも。


 この一年半の在外研究から帰国後、もちろん数々の仕事が待っておりました。授業や校務面はもとより、中小企業研究センターでの調査はじめ、いろいろ頼まれれば首を突っ込みました。また、日本企業の国際展開などに絡み、中央大学経済研究所などのプロジェクトをやらせて貰いました。まあ一年半も異国にいれば、どこに出かけるのも苦ではなくなります。しかもこの経験から、欧州では一国対象の研究より、EC欧州共同体といった枠組みで見ていくことが特に政策研究では必要だと痛感し、そういった見地からの資料収集等に心がけるようになりました。ただ、腰を落ち着けて大論文をまとめるというようなゆとりはやってきませんでした。

 
 そのようにあれこれ首を突っ込んでの成果は、結局中途半端であったという反省の思いもあるものの、この間に二度にわたって「中小企業研究奨励賞」を受賞できたなど、公刊物としても現れているとは思います。
 
 
 それはそれとして、1986-87年の在英から10年余で、また英国での在外研究を申請するという心臓を敢行しました。ものごとには順位というものもありますが、学部に割り当てられた枠を必ずしも消化できていない、それは私の前後の世代の方々が多くの場合、子の教育や親の介護等の関係で、長期海外滞在というのが困難であったせいもあるようです。そこは当方、気楽ではありました。
 けれども私が再度手を挙げた1998年度については、同学部でほかに申請する方がおられ、私の番は順位低位で困難かと思われたのですが、教職員組合の要求で実現した「特別枠」の方にその方は出されるとされ、おかげで二人の在外研究が可能になる運びとなりました。
 
 ただ、新たな困難が生じました。1997年夏に父が倒れ、完全寝たきりの状態になったのです。病院のベッドのうえで、身動きもならず、声も出せない父の姿に、何もできることはないものの、このまま一年も離れることができるのかという躊躇いは避けられません。その時、妹の言葉が救ってくれました。「今、日本にとどまっても何もできることはないよ、そんなことで海外に行く機会を逃しても、お父さん喜んではくれないと思うよ」と。それゆえ、98年3月末、父の枕元で再会を約し、再びロンドンに旅立ったのです。
 でも、やはり父に生きて再会することはかないませんでした。同年9月、父は静かに息を引き取り、兄からの知らせで、私は葬儀のために一時帰国しました。しかもこの間に大恩ある佐藤芳雄先生も亡くなられていたのでした
 これは別の場に記したことです。父の葬儀で一時帰国した自宅の電話に、留守電が入ったままになっていました。再生してみると、それはなんと佐藤先生からのもので、私がロンドンに向けて旅立ったすぐあとのようでした。先生は、ロンドンでは体調に気をつけ、元気に過ごしてくださいと、弱々しい言葉で語りかけられ、終わりには「ではまた会いましょう」と結ばれました。けれども、この録音された声を私が耳にしたとき、先生はすでに亡くなられていたのです。受話器を握ったままで、涙が溢れてくるのをとどめようもありませんでした。そのとき、佐藤先生がどんな思いで、話しかけられていたのか、想像するにあまりあります。
 いま、そのときの佐藤先生の年齢をずっと超えてしまった私には、先生の心中を想うだけで、語るべき言葉がありません(のちに聞いたことですが、その前、私が不在の時に受けた佐藤先生からの電話に出た妻は、自分の親族らの病気や治療のこと、予後のことなどを詳しくお話ししたそうです。それらに先生は熱心に耳を傾け、質問もされたそうです。先生がどれほど生きていたいと願われたのか、そこからも自明でしょう。でも、運命は非情でした)。
 
 
 この一年間、英国でいろいろなことをやりましたが、まあかたちあるものとなったのは、ISBA英国中小企業研究学会(現在はISBEと称す)のダラム大会で、日本中小企業の市場戦略に関する発表をしたことでしょうか。実は日本国外の学会等で、レフェリーを経ての研究発表をした経験はこれ一度きりです(招待講演や会議プレゼンテーション、名目的発表などもありましたが。一番ラストは、2017年10月のACSBネピードー大会での分科会発表でした)。それについては、一年間の滞在先であったキングストン大学SBRC中小企業研究センターの所長となったロバートのサポートとアドバイスが多大であったことを書き落とせません。また、元ネタは上記の中小企業研究センターでの調査の一つでしたし。



 一年間、充実した日々を送り、帰国すると、前回以上に失望の日々がやってきます。IT化インタネ化のおかげで、この間も日本サイドとのコンタクトは密で、そういったギャップはなかったものの、大学の置かれた状況は急速に困難になっているという現実でした。在外研究帰国者の義務として、大学全体の運営にかかわる全学教授会(評議会)の委員になり、また入試出題委員という、大学にとってもっとも重い仕事もやらされましたが、こうした責務を通じ、この大学の抱える病弊、先の暗さを痛感せざるを得なかった観です。
 
 入試委員にあっては、ともかく担当授業よりこちらの業務が優先だという、呆れた慣行にまず直面しました。入試はだいじだろうけれど、それで、入試打合わせ会議出席だから授業休講というのはどういうことなのか、大学の存亡を賭けるのは入試だけなのか、そういう思いです。しかも、そんなに重大なとりくみなら、つねに現状を見直し、大学の将来像を重ねて新たな方向を目指そうというつもりでの提案など、全く無視されました。「一般入試」より各種推薦入試等の方に流れが変わってきているんだから、それにあわせて日程を見直したら、という提案だったのですが。「従来通り」がすべてなのです(いまどき、さすがにそんなこともないでしょうが)。
 特に、私を唖然とさせた出来事は、私として受験生に「考えて貰う」問題を工夫して出したら即否定され、ある先生から「教科書にないことなんか、出しちゃいけないんだ!」と一喝された経過でした。日頃は進歩的、改革的言辞を示してきた方にしてそうなのです。教科書にあることを覚えさせる、それを試験で試す、それだけが大学と教員のやるべきことなのですね。あるいはこの先生も若かりし頃に、そうした新たな問題づくりを心がけ、一蹴された経験があったのでしょうか。
 
 
 いまひとつの出来事は、御時世で「セクハラ問題」への対応、問題教職員の扱いと処分に関する規程案が全学教授会にかかった際のことでした。もちろんそうした問題への対処の規定と体制を整備するのは当然必要でしょうが、出てきた案は、従来の教授会自治の慣行を飛び越え、学長理事長が個々の教職員を処分できるような内容になっているのです。それはやはりまずいのではないか、最終処分の権限は大学当局者にあるとしても。教職員の身分・地位にかかわる件は教授会の議を経るという従来の慣行を崩さなくてはならないのか、と私は問いただしました。しかしこの異論は押し切られました。「セクハラ問題は重大だ、急を要する」、「これは教学ではなく雇用にかかる件なので、理事長が行うのが当然だ」などという理屈にもならない珍論によって。
 しかもこういった法理にならない屁理屈を公然と支持し、私の異論を抑えにかかったのが法学部選出の委員でした。近年は法学部と経済学部はさまざまな学内の課題等で協力し合う関係が保たれていたのですが、いったい何ごとなのでしょうか。その裏は見えています。法学部は時流に乗っての「法科大学院設置」というので当時大々的に動いており、当然理事会・大学当局に全面的に協力協調すべき立場にあったのでしょう。対照的に、私の勤めている間には、経済学部からの教育や研究に対する構想・提案はほとんど認められませんでした。まったくもって「蚊帳の外」扱いでした(象徴的な出来事は、経済学部の一先生の個人的縁で、当時長年の獄中生活から釈放されたばかりのネルソン・マンデラ氏の訪日に際し、本学にて招待講演を持てるという画期的な学部企画があったのですが、事務方の一部長の判断でつぶされました。直接の理由は、講演にあわせて爆風スランプの演奏があるという、そんなので怪しいロックフアンが押しかけ、混乱する、設備を壊される恐れがある、だから講堂は貸せないということでした。経済学部教授会は怒りの抗議決議を出しましたが、もちろん蚊が刺したほどの影響もありませんでした。もしこの講演が実現していれば、と今更何を言ってもムダでしょう。のちの南アフリカ共和国大統領の招待講演を開いた、などという名誉も先見性も要らない大学ですから)。
 
 法科大学院と引き替えになった「セクハラ処分規定」はどう発動されたのか、寡聞にして知りませんが、法科大学院の方は見るも無惨な状態です。ただ、関東圏でも私学国立問わず、ほとんどが閉校となったのに、今もここは「孤軍奮闘」しているのです。「残余者の利益」で、繁盛しているからではありません。ともかく動きは悪い伝統なのです。それでもまあ、入学定員36人、収容定員108人に対し、在学者30人だそうですから、まだ消えてはいないようで。



 そんなこんなで、この大学にいることがだんだん楽しくなくなってきました。学生諸君とともにあることは楽しく、やりがいに満ちていますが、それにさえ相反するような大学の体質と行き方、将来展望です。ここにまだ20年近くも勤めていなくちゃならないのか、という気持ちが頭をもたげてきたとき、第三の幸運・奇跡が起こりました。2000年6月のある日、金澤先生というひとから突然大学に電話がかかってきたのです。それは、「うちの大学に来ませんか」というお誘いでした。その後の経過は別のところにもすでに記しておりますが、まったくもって青天の霹靂のような出来事でした。

 
 今だから記しますが(そしてその金澤史男教授はのちに大学内で急逝されてしまいました)、このまったく未知の方(ご専門は「地方財政論」)からのお誘いというのは掛け値ない事実です。ただ、「なんで私に」というのはある程度想像できます。当時横浜国大では文理融合の新大学院構想が進められ、各学部の協力が求められていました。そして、同大経済学部では「ポストは提供するが、教員は出さない、外から求める」という方針であったようです。国立大学では教員定員枠を動かすことはできませんので、こういったイスのやりくりをしないと、新部局は作れないのです。経営学部はイスと教員を供出したようですが、経済学部はひとは出さない、それで外から連れてくる、という経過になったのでしょう。その候補者としては、おそらくは私の前に内定していたひとがいたと思います(そうでないと、半年後の設置開設に間に合うはずがない)。それがなにかの都合でダメになり、急ぎ人探しになったのでしょう。
 
 ここから先は私の推理ですが、別に大物でもなんでもない私に話が来たのは、それから20年近く前のある出来事がきっかけと思われるのです。前記のように、佐藤芳雄先生に機会を頂き、若さのせいか身の程知らずにも、あっちこっちをなで切りに書きまくり、その勢いで当時すでに学界の著名人として仰がれ尊敬されていた、都市経済論の宮本憲一教授の名著にも、「ここには中小企業の存在がない!」「公害対策で大都市から中小企業が消えればいいのか」とけちをつけたのです。これを目にしたひとりが、宮本教授の直弟子であった中村剛治郎氏で、彼のお呼びで、身の程知らずにも私は宮本先生の面前で「自説を披露する」ことになったのでした。宮本先生は寛大温厚な方で、そんな私の言いようも笑って受け流しておられましたが、以来中村氏とは情報のやりとりもありました。その中村氏が20年後に横浜国大経済学部教授として、金澤教授に私の名を伝えた、こんなのもいるよと、鼻っ柱はつよそうだよと、それがおそらくウラの経過でしょう。ほかに私の名などご存じだったひとがいるはずもありませんので。
 
 
 という次第で、それから設置審向けの書類づくり、新授業準備その他の大ごとが進みました。大学院の設置申請で、学位もない私でいいのか、ということは確認しましたが、それはありだったようです。他方で、同年10月には日本中小企業学会全国大会を駒澤大学会場で開く予定で、準備作業等かなりえらいことだったのですが、なんとか無事に済ませ、その段階で、当時の岩下経済学部長に「実は……」と、打ち明けたのでした。
 
 真相としては、今でこそ言うと、この横浜国大からの話しのあとに、別の大学の方からもお誘いを頂きました。ものごとには順番というものがあるとともに、私としては国立大学というところでいちど仕事をしてみたかったというのが正直なところです。大学在学時代を含め、私学の世界しか知らない身としては、経験してみたくなるじゃないですか。実際転職して以来11年間、いろいろ新鮮な経験見聞を致しました。もちろん私の住まいから比較的近い、同じ横浜市内というのもあります(実は駒澤大学在職時代に、同僚のH教授というひとに帰路車に乗せて貰い、常盤台キャンパスの横を通った経験がありました。「ああ、横浜国大ってこんなところにあったんだ」「ここに通えてもいいかな」と、想像をたくましくしたことを今も覚えております)。
 
 このように、在外研究後2年でやめてしまうというのは、ほかでの話など聞くに、かなりの問題行動、場合によっては規則上許されないとか、費用の返還を求められるとか、ありそうなことなのですが、有り難いことに、少なくとも私には、けしからんといったような批判は皆無でした。一つには、辞めてもあと二年間、「残務」での登校と授業担当を求められたせいもあります。実際、まあ厚遇でもありましたが、2001年度は「客員教授」という名目で、研究室も使える代わり、週一日、朝から夜までの授業担当をすることになりました。翌年度は非常勤講師として、2コマほどをやりました。このおかげで、辞める2000年度末にやらねばならなかった引越やら何やらの大騒動を、実際には先延ばしできたのも事実です。
 そういったこともあってか、2000年度末にはなんと、「最終講義」までアレンジして頂きました。勝手に中途で辞めていく輩に、「最終講義」もないものですが、在学生、卒業生、同僚諸先生方が集まって下さり、相当に賑やかな集いともなりました。
 そういうわけで、私は2012年3月の横浜国大定年退職の際とあわせ、もう二度も「最終講義」を済ませてしまっているのです。

 

 私に横浜国大に来ないかというお誘いのあったのには、ほかの理由もありそうで、それはこうした「在外研究」経験に関係していそうです。来てみると、大学院国際社会科学研究科のMPEプログラムも手伝えと言われました。ここではなにごとも、言い方にひとひねりあって、私は新設の大学院環境情報研究院・環境情報学府の教員となったのですが、正式に「割愛願い」に来られた当時の萩原経済学部長は、経済学部での講義をするのは「義務」ではありません、「権利」ですと仰いました。もちろんそれから私は11年間権利を行使し、「比較中小企業政策」という科目をやらせて貰いました。同じように、大学院国際社会科学研究科の方でも、このように科目の担当を依頼されたのです(予算の関係で隔年でのことですが)。これは学外の機関との連携で、政府のカネで日本での勉学、Master取得を可能にするコースで、すべて英語で授業し、日本語を要さない仕組みです。そうなると、ともかく「英語で授業できる」教員が要るわけで、それも私を候補とした理由の一つだったでしょう。「二度在外研究で英国に行っている」「英国の大学のVisiting Professorだったそうだ」、これは使えるんじゃないのか、とね。
 そのご期待にこたえられたのかは非常に忸怩たるものがありますが、ともかくここでの「Comparative studies on policies for SMEs」という授業は実によい経験でした。出席する学生は主にアジア諸国のいわば政府留学生で、しかもそれぞれの国で政府機関等の幹部クラスの人たちです。アタマは切れる、知識は豊富、英語力も高い、授業はそのつど盛り上がっていました。書いてくれたレポートなど、そのまま出版したい誘惑に駆られるほど、貴重な資料内容に満ちていました。
  
 これでも私は以前から頼まれて、AOTS海外技術者研修協会、日EU産業協力センター、JETRO、JICAなどいろいろな場で、エイゴで日本の産業事情、サプライヤシステム、中小企業の実態や中小企業政策など講義してきた経験が多々あります。「ひどいモンだった」という評判がなかなか聞こえてこないのをいいことに、よくもまあ、恥ずかしげもなくやってきたものです。それでもなにかのお役には立っているのではないでしょうか。
 
 
 横に長い常盤台キャンパスの中を自転車で駆け回り、またあちこちに遠征し、誠に充実した11年間でした。加えて、新設の学際的大学院である環境情報学府には多くの社会人らが在学し、私にとって誠にやりがいのある教員生活となりました。学外・学界でも、日本中小企業学会の会長もやらせて貰いました。かつて佐藤芳雄先生の務められた職に、およそふさわしくもない輩でしたが。いずれにしてもその意味、2000年の選択は間違ってなかったと実感します。ただ、貰った給料ではいきなり、駒澤大学時代より基本給が10万円少なくなりましたが。

 まあ本務校のほか、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科、北星学園大学大学院経済学研究科、専修大学大学院商学研究科でも授業をやらせて貰いました。はじめの2つは集中形式で、特に北星大への出講では夏休みに一週間札幌に滞在でき、正直いい思いで、そのあとは北海道各地を旅しました(学生が来なくて、授業なしの年度も複数ありましたが)。専大の授業は夜間週一で、社会人院生相手に「起業論」をやり、ビジネスプランの作成とプレゼン中心にしたので、これも新鮮で面白いものでした。



 というわけで、この40年間に三回ほどの「奇跡」に出会え、そのおかげで、私のごとき者も大学教員・研究者になれ、そのうえに英国ロンドンで過ごすこともできました。さらには、非常に充実した教育と研究の機会を持つことができました。なにより40年間のおのれの成長を振り返れば、ここまでできたんだという充足感はあります。

 
 人生奇跡というのはあるもんだ、それも三度までと、「教訓は神頼み」というのが私の言いたいことではありません。その背後には、奇跡にはほど遠い、努力以上の回り道と、紆余曲折と失敗と、「恥ずかしきことのみ多かりき」の人生があります。それでもなお、目指すとおりにはいかなかった、さまざまな障碍困難の前に涙した方々も世に多いでしょう。そういった方々に比べ、私は幸運であったということです。
 もちろん、最大の幸運は結婚40年目を迎えた妻とのかかわりでしょう。妻の後押しというか、叱咤激励というか、寛容というか、そういったことが節目毎にあればこそ、「ここまでこられた」のは間違いありません。日々の暮らしのことは記すまでもないでしょう。いま、妻は「人生損した」、「絶対に同じ墓には入らない」と宣言していますけどね。



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