おまけ 私の「海外体験」


 私は、こうした場も利用して、「世界の中で」とか、「グローバルに通用するとは」などとエラソーなことを申したりするので、よほどの「国際通」などといった誤解を招く恐れは大です。もしそうなりますと、これは「誇大広告」もいいところで、私の人生を知っている筋からは、「ウソもいい加減にせい」とお叱りを受けること間違いありません。


 もちろん当人としては、ウソをついたり読者をだます意図は毛頭ないのでして、そう取られたならば、まさしく「不徳の致すところ」以外の何ものでもありません。


 いずれにしても、誤解を避けるために、なるたけ「真相」は明らかにしておきたいと思います。




 私は、ニッポンの外へ出たのは、いまから12年前、御歳四〇近くになってのみぎりが、生まれてはじめての経験でした。

 もう少し正確に言うと、12年前、勤務先駒澤大学の「在外研究制度」の恩恵を得て、花の都ロンドンに旅だった、それまで一度として、「パスポートコントロール」の外へ出たことはなかった(もちろん、自分のパスポートを持ったことも)のです。

 それどころか、この地上を離れた、つまり「ヒコーキに乗った」のは、31歳、結婚したときがはじめてのことでした。もちろん、「国内線」です。

 つまり、いま私が接してきている学生諸君と同じ、学生時代から二〇代、私の人生にはほとんど何もありませんでした。「海外旅行」なんて夢のまた夢、国内を自分で旅行するなんていうのも大変な贅沢でした(おカネも時間も)。


 これは私が特別貧しかったからじゃありません。そんなことを口にしたら、親に申し訳ないことです。贅沢を許してくれはしなかったが、人並みの学生生活を送らせてくれた、だいたい大学に行かせてくれたこと自体、有り難いことです。


 今年亡くなった私の父は、それこそ苦学して大学を出ました。長野県の寒村の貧しい農家の10人兄弟の次男に生まれ、ひたすらの向学心ゆえ、上京してひとりで学費生活費を稼ぎ、のちには同じように進学したい末弟の面倒まで見ました。あまりに苦しい生活のため、胸の病に倒れ、一年間休学もしました。

 その父が、「中学出したら親の義務は済んだ、あとは自分で好きなようにやれ」と命じたわけではなく、私の勝手を、大学どころか大学院に「長期滞在」するまで許してくれていたのですから、これを感謝せねば、それこそ罰が当たります。もっとも、大学院の学費は当時チョー安かったので、ちょっと稼げばそのくらいは払えたわけですが。


 ですから、私だけじゃなく、昭和四〇年代の学生は、いまから見ればみんな貧しかったのです。大学生がマイカーを運転しているなんて、社長か医者の息子ぐらいなものでした。「運転免許をとりたい」というだけで、贅沢なやつだ、という目で見られました。そういう贅沢をしたいのなら、大学なんか来ないで、はやいとこ自分で稼ぐか、シューショクして一人前になるまでじっと待つか、というのが当たり前でした。

 私が「並み」であった証拠に、当時でも苦学して大学へ来ている知人はいくらでもいました。家にそんなゆとりはないから、学資から生活費まで、なんとか自分で稼ぐ、そういうことを当人も特に気にするでもなく、そういうめぐり合わせなんだ、というかたちで当人もまわりも納得していました。


 ちなみに、そうした「プロレタリア学生」が、日本経済の成長のおかげで、やがては結構いい思いをする、ところがそこで落とし穴が待っていた、という話しかと、とんだ誤解をした件がありました。

 かつて世間を騒がせた(いまもまだ)、「疑惑の銃弾・ロス事件」のM被告という大事件がありましたな(ワールドカップへ出そこなった方じゃない)。その「第二弾か!?」となりそうだった事件がその後ちょっと囁かれました。「モルジブ疑惑」か「モーリシャス疑惑」だったか、新婚の花嫁が旅行先で謎の死、その夫に疑惑、というわけです。これは、「公安警察の陰謀だ!」と、その夫を知る筋は怒り狂い、そして実際「疑惑」は消えたようなので、多分にマスコミやさんの想像の産物、濡れ衣であったのでしょう。

 なんで、「公安警察の陰謀」なんて騒いだのかと言えば、疑惑を噂された当人はかつて、「プロレタリア学生同盟」の活動家だったんだそうで、それを警察権力に陰険にねらわれたんだ、というわけです。あ、そうか、かつての貧しき「プロレタリア学生」も、疑惑云々はともかく、新婚旅行で海外へ、紺碧の熱帯の島のリゾートへ行かれる、確かに本人の意思とは別に、ニッポンも豊かになったんだなあ、と私は余計なことを連想しました。


 これはとんだピンぼけであったようです。「『プロレタリア学生』同盟」じゃなく、「プロレタリア」というのは形容詞で、「学生同盟」というのにかかるんだって?


 まあ、「プロレタリア学生」ほどじゃなかった私ですが、学生時代は旅行にもマイカーにも縁がなく、もちろん日本から一歩も外へ出たこともありませんでした。そしてまだ職にも就けなかったオーバードクター時代に結婚、生まれてはじめてヒコーキに乗って、上から見下ろす景色に感激しました。まるで地図みたいじゃないか、って。行ったのは無論モルディブじゃなく、九州でしたが。


 ヒコーキにはその後何度も乗る機会がありましたが、日本の外へ出る機会はないままでした。もちろん、私の二〇代にも、気の利いたのは、自分で奨学生試験を受けたり、さまざま留学先を探したりして、海外での勉学機会に旅立っていきました。学位取得をめざし、頑張っているという便りがあちこち聞かれました。それに比べ、能力も才覚もない私は、ただ見送るのみでした。大学院で、「英国の経済社会」だの、「ドイツ社会政策史」だの、「ヨーロッパの労働運動動向」だのとかじってみたところで、文字通り「別世界の話し」だったのです。



 たまたま、職を得られてからもそれは大差なく、「中小企業の研究」という、地をはいずる調査に日々を送る定めとなってから、ますます外国とは縁遠くなりました。もちろん、この分野にだって国際比較研究というのがあるわけですが、昭和五〇年代にはそんなに活発であったわけじゃなく、海外の研究書や統計資料などを見て想像をするのが関の山の水準でもあったわけです。でもこのころに、英国の中小企業動向を統計資料をもとに指摘した共同研究は、その当時にしてはかなりいい線を行っていたものと、これに加わった私は現在も思っています。なんせそうした資料の存在や読み方さえ、日本ではよくわかっていなかったんですから。


 そうこうするうちに、大学で機会が得られ、1986年度、国外での「在外研究」に行けるめぐり合わせとなりました。思い切って手をあげてしまったものの、経験はもちろん、知識もゼロに近く、もちろん自信は限りなくゼロである私として、大胆なことをしてしまったものと思います。

 もちろん独力では何もできません。海外での研究経験ある大先輩、友人知人の方々のひとからならぬ援助をいただくことができ、はじめて可能になったことです。滞在先大学への紹介、住まい探しに至るまで、I大先生のお力添えのおかげでした。また、一年前から在英のW氏のいることは、誠に心強い限りでした。

 自分でだって、自信ゼロのエイゴくらいちゃんと事前に勉強しなくては、と思いましたが、いわゆる「英会話学校」は役に立たない、というアドバイスもあり、また自分でも若い生徒に混じるというのが甚だ抵抗感あったこともあり、あえて費用は惜しむまいと、これも友人に紹介して貰って、「プライベートレッスン」を受けました。

 私を指導してくれた米人講師のアリス、まったくもって「不思議の国のアリス」みたいな人物でしたが、彼女から得られた最大のものは、教科書通りの「会話集」ではなく、自分に自信を持つ、自分の言いたいことを相手にわからせるよう、自分なりの方法で努力をしてみる、ということであったと思います。これは普遍の真理であるといまも痛感をします。

 訪英後、W氏の紹介でついたプライベートレッスンの教師ジュリア、彼女からも同じことを学びました。「教わる」というのではなく、自分でいろいろ語ってみる、また相手の話に耳を傾ける、そういう「対話」の原点をいつも実践してくれたのです。もちろん、書いたものについてもさまざまアドバイスをして貰いました。「英語らしい表現」というのはどういうことなのか、少しずつでもわかってきたような気がしました。

 もっともそのジュリアは、こういった私などを相手にしてきた経験から考えるところがあったのか、いまでは、英会話じゃなく、英国人のエクゼクティヴ相手に、「自分に自信を持つ」ためのカウンセリングとアドバイスの商売をしていて、かなり流行っているようです。マインドコントロールでも、「自己啓発セミナー」でもなく、また「自己表現ハウツー」でもなく、その人自身のうちにあるものを引き出す、そのためにはその人に語らせ、さまざま耳を傾けてあげる、そこからその人は自信を得ていくことができる、という方法のようです。ストレス大きいビジネス界などでは、こういった機会が意外に大切なのでしょう。




 話しはもとへ戻ります。ともかく、まったくの初体験のまま、日本を旅立ち、ついにロンドンに着いてしまいました。このときも、たまたま飛行機には、いまはオックスフォードの教授である酒向真理さんが同乗していて、ヒースローでの入国にあたり助けてくれました。もっともはじめから、一年のビザを得るのが限界であったのですが。

 空港にはW氏が車を運転して、夜食のサンドイッチまで用意して迎えに来てくれていました。ですから、成田を発ってきり、他人のお世話になりっぱなし、そのままその夜の宿におさまっただけなのです。はじめて車の窓から見る「異国の町」、オレンジ色の街灯に照らされた家並みは、誠に印象的でした。そこで、「○○court」と書いてある建物に、「あれは裁判所ですか?」などととんちんかんなことをW氏に聞いて、失笑を買ったことを覚えています。


 その夜は仮の宿のB&Bで過ごし、翌朝、ブラックバードたちのさえずりと、庭の向こうを通る地下鉄ノーザンラインの電車の音で目を覚ましました(もちろんここでは地上を走っているのです)。こういった「最初の印象」というのは強烈で、いまもつよく記憶に残っています。ともかく、これでロンドンでの生活が始まったわけです。


 このロンドン生活で、うえに書いたように、ジュリアのプライベートレッスンを受けたほか、甚だ自信がない英語力を少しでも向上させるべく、滞在先のLSEでの英語指導の機会も受けました。もっとも最初会っていたLSEの語学非常勤講師は、本業はアメリカン大学ロンドン校であったのですが、よほどそこが気に入らないらしく、いろいろ愚痴を聞かされました。何か「教わった」というより、「しっかりやンなさいよ」と叱咤激励された、という記憶の方が大です。

 その一方、ロンドン大学全体(University of London というのは、巨大な「大学連合」のようなもので、これに加盟しているLSEはそれ自体一つの「大学」規模なのですが、「連合」としてのさまざまな機会や設備も利用できるわけです)での、英語教育の機会も利用しようと考えました。ロンドン大学各スクール・カレッジでの新年度の課程に入学する外国人学生のために、「pre-sessional English course」というのが夏休み中に開かれると知って、これへの参加を申し込んだところ、その前提条件として、ブリティッシュ・カウンシルが実施している英語学力テストを受けることと、指示されました。その点数によって、所属するクラスが分けられるというわけです。

 テストを受けてみた結果は、最上のレベルで、本来「これ以上の英語事前教育は要せず」という判定になってしまいます。当方、長年の「英語」語学授業のおかげで、読み書きにはかなりの自信もあったので、まあそんなとこかと思いますが、それでは英語コースに申し込む意味がなくなってしまうため、ともかく「入れて貰う」ように頼みました。ただ、そのおかげで、のべ二ヶ月近くに及ぶ英語コースの最後の段階からの参加となり、時間も費用もだいぶ節約できました。


 LSEのすぐそば、King's College で実施されたこの英語コースから何が得られたのかというと、正直にはあまりなかったような気もします。これは、いわゆる「会話コース」ではなく、アカデミックな教育機会についていけるための、読み書き能力の強化、また講義などでノートを取る練習、プレゼンテーションの実習という性格が強いものでした。それはそれで意味あることなのでしょうが、やはり個人指導でない以上限界がありますし、私はいまだ「中国びいき」のような担当教師のものの考え方に反発するところもありました(元「マオイスト」だったんでしょう)。それでも、さまざまな国の出身の若い諸君と知り合えたこと(日本人も含めて)、自分の英文の書き方には、いくつかの重大な思い違いやまずさがあることを教えられたことは、大事な収穫です。

 いずれにしても、一ヶ月足らずであったけれど、「学生生活」を久しぶりに送ったことは、思い出深いものです。King's College のメシは大したことなかったので、昼にはよくLSEのコモン・ルーム(教職員食堂)に食べに行っていました。



 この英語コースののちは、もっぱらジュリアのプライベートレッスンで過ごしました。かたちのうえではLSEとケンブリッジ大学の応用経済学部(DAE)のビジターでしたが、何も別に義務もないので、それぞれの図書館で資料を探したり、本を読んだりするのが主、ただそれで一年間を送ったのではもったいないことです。

 そうではなく、やっていたことの一つは、自分なりの「英作文」をして、各方面に送り、その反応で会いに行き、いろいろ情報を得るという、原始的な方法でした。書いた中身の方は、いまから見ても甚だお粗末なものでしたが、こうした機会を通じて、いろいろ知己を得られるようになったのは大きな収穫でした。キングストンのジム・カラン、当時はウェールズ大学アバリストゥイス校というところにいたカレル・ウィリアムズ、彼らともこういった機会から出会えたのです。

 このほか、いくつかの会議に参加しました。「参加」したというのは正確ではなく、「聞きに行った」というべきですが、現在のISBA英国中小企業政策・研究学会の第9回大会(スターリングのグレンイーグルスホテル)、ISBC国際中小企業会議のロンドン大会(クイーンエリザベスコンファランスホール)、こういった機会があったので、W氏や当時スターリング大学滞在のI氏など、在英の日本人とともに行っております。また、ISBCには日本からも来られた人たちがあり、旧交を温めました。

 こうした機会を「のぞいてみる」だけじゃなく、これを利用して、政府関係などの政策情報集めの足がかりともしてきました。そういった場に参加していた政府関係者などに接近、以後いろいろ情報を提供して貰う、というやり方です。


 これらの足がかりから、87年の半年間は主に、「実態調査」に回りました。「中小企業熱中時代」を呈していた、当時のサッチャー政権下で、日本では想像だにできなかった「失業者に手当を与えて独立開業を勧める」政策というのは誠に興味深く、この辺に焦点を当て、その政策の実態、また支援を得て独立開業した人々のその後を知ろう、というわけです。英国の学会の場で会った、エセックスビジネスセンターという開業支援機関の長、ロイ・マクラーティや、その他さまざまな人たちから紹介と援助を得て、郵送アンケート調査と訪問面接調査を相当数やることができました。

 今から考えると、かなり大胆なことをやってきたものと思います。ロンドンとその周辺、エセックス、北東部のニューカッスル周辺という3つの拠点で調査を行いました。車は運転できませんでした(いまも)が、電車とバスと、必要なときはタクシーで、ほぼ用が足りました。郵送アンケート調査はケンブリッジの応用経済学部をベースとして、エセックス中心に発送しました。これらの詳細な結果は、「英国における『中小企業政策』と『新規開業促進政策』」(『駒沢大学経済学論集』第20巻4号・第21巻1号、1989年)として公にしています(当時はほとんどだれも読んでくれなかったようですが)。

 こうしたことができたのは、当時中小企業政策・新規開業支援策というのが、英国でもきわめてトピカルかつコントロバーシャルなテーマであったこと、またそれに比べて英国の研究方法が未発達であったことがあげられましょう。そういったことに興味を持つ「ニッポン人」というのも珍しかったことでしょう。いまは、これはずっと困難になっていると思います。英国「国産」の調査研究も、非常に高度化してきましたし。

 ただ、おかげで私の予想通り、10年後の日本では「創業支援」だ「ベンチャー支援」だといった政策が、話題の中心となりました。そういったことは私はもう10年前に英国で勉強してきましたよ、と言えるようになったわけです。


 調査研究の中身は別としても、こういうかたちで各地の施策機関や団体や、企業を訪れ、いろいろな話を聞いてくることができたのは、大きな自信になりました。地理の点でも、英国は地図さえあればどこへでも行かれる、と確信を持てました。エイゴでの「対話」の方は甚だ心許ないところもありましたが、ともかく必要なことは伝えられる、そして必要なことはなんとかつかんでこられる、という経験となりました。

 第一、手紙を送り、そして電話をかけて当方の趣旨を今一度確認し、訪問できる日程をアレンジする、というのはそれ自体大きな訓練です。その電話も、私はほとんど公衆電話を使ったのです。I大先生紹介の寄寓先はいろいろ親切にしてくれ、家賃も安かったのですが、いくつか不便なこともありまして、付いている電話がコイン式の古いやつ、さしずめ日本でなら古いアパートなどによくあったピンクの電話なのです。これですと、国際通話はもちろん、長距離電話もできません。立て続けに10p.コインを放り込むという離れ業をしなければ、すぐ切れてしまいます。本当は、そうした際はコインカウンターを解除するキーを家主が持っているはずと思うのですが、家主の、お年寄りのウィリアムズ夫人はすっかり忘れてしまったようでした(ボックスのカギを開けて、入れたコインを回収するのは私の方だったんですが)。ですから、長距離をかけるときには、どこかの公衆電話からやるしかなかったのです。これがまた大変なんですな。だいたい町中の公衆電話はいつも半分は故障していましたし。


 このようにして、「異国でサバイバルする方法」から、「調査をやるすべ」まで経験し、自信をつけました。エイゴが通じなくちゃ仕方ないけれど、ヨーロッパではエイゴを知っていればほぼ生存可能で、政府や地方自治体機関などではエイゴでほぼ用が足ります。まして、英国内ならなんの不便もありません。

 もちろん、はじめて英国に上陸し、「ロンドンのエイゴ」に接したときのカルチャーショック、「トゥダイ」ってなんだ?「today」のことか、と納得するまでには時間がかかりました。さらに、ニューカッスルへ行ったときの北東アクセント、この地で独立して印刷屋を開いた青年に、インタビュー後「飲みに行こう」と誘われ、一緒に海岸やらパブやら回ったものの、彼の言っていることの2/3どころか半分も理解できなかったんじゃないかと思います。好人物で、あまりビジネス向きではないようにも見えましたが、いまはどうしているでしょうか。



 この1年半の在英体験は、ですから私に多大のものを残してくれました。一番大きい教訓は、「案ずるより前に、まず足を踏み出してみよう」です。私の学生時代は、ほとんどだれも「海外に行く」経験もできなかったけれど、いまはまったく違います。円が強くなったおかげで、国内を旅行するより海外に行った方が安くあがるほどです。それなら、少しでも余裕があったら、海外へ行ってみようじゃありませんか。

 いまだって、学生は決してお金はないし、昔と同じに苦学しているひとも少なくありません。でも、海外旅行というのは決して贅沢なことではないと思います。頑張って、バイトなどでお金を貯め、それを有効に使うという意味では、日々の暮らしを別とすれば、「旅をする」以上にすばらしいものはないと言い切って差し支えないでしょう。

 ともかく、「異国」なんです。日本語じゃあ通じない、まったく異なる文化と言語の世界にじかに接する、その人間と生活を知り、そこで「サバイバル」してくる、これ以上の貴重な体験はありません。ですから、私も多々見てきましたが、欧米の大学生は長い夏休みを使って、必ず世界を旅行します。それはもう、「物見遊山」じゃなく、学生生活の一部、なにかを「学ぶこと」の一環なのです。貧しいことにかけては、欧米の学生は日本の学生の比じゃありません。おカネはなくっても、世界を貧乏旅行できるのも学生時代の特権だ、という気持ちを抱いて、大胆に歩き回っています。

 学生時代じゃなきゃできないこと、というのはあります。大胆さ、冒険心、貧乏が苦じゃない、何もないことを楽しめる、そしてもちろん一〇代から二〇代こそ、知的能力も適応力もどんどん発達する時期です。その時に、狭い日本を飛び出し、世界のさまざまな姿に接し、そこから多くのことを吸収してくる、これこそ「学生の特権」です。

 私のように、四〇歳近くになってはじめて日本の外へ出た、そういう人間にはおのずと限界があります。いまになっても、自分のエイゴ能力は甚だお寒いといつも実感させられますし、ましてそれ以外の外国語となったら、まるでだめです。「ドイツ語」というのを学部の第二外国語として習い、おかげで辞書片手ならなんとか本も読めますが、これでコミュニケーションする力は全くなく、そのボキャブラリも忘れる一方です。まあ、やるんなら「フランス語」にしておくべきだったと痛感しますものの、今さらフランス語を一から勉強する気力はありません。

 ですから、私は、「まあ、これ止まりなんじゃないの」(『幸せの黄色いハンカチ』のなかで、渥美清扮する警察課長が言うせりふ)と実感しております。世界中どこへ旅するのも苦じゃなくなった、まあなんとかサバイバルできるだろうと自信を持てるようになったこと、そしてロンドンを第二の故郷として、そこでの生活をエンジョイできるようになったこと、これが私の、ロンドンで迎えた四〇歳の誕生日にしての収穫でした。


 いまは、学生諸君が一度は、「卒業旅行」などとして、海外に行く機会を持つのが普通になってきました。卒業間際ではちょっともったいないですし、また、お仕着せの「パック旅行」「団体ツアー」じゃなく、自分で、自分の力で旅行する、という醍醐味に勝るものもないと思います。それでも、「行ってみる」ことにはなお価値がある、と私は機会ある毎に学生諸君に勧めてきています。

 たとえ「パック旅行」であったって、ニッポンとは違う世界の空気を吸ってくるんです。それに、最低限、着いた国のパスポートコントロールで、泊まるホテルのフロントで、自分の存在と目的を告げなくちゃなりません。母国語日本語では通じない世界での、サバイバル法を少しでも経験しなくちゃなりません(でもそうじゃなくて、ホテルのフロントに至るまで、「エイゴ要らない」ツアーもあるんだそうですが)。


 もちろん私は、ともかく自分で自分の荷物を運ぶか、ツアコンや係員にすべてお任せ、自分は身一つで送迎のバスに身をゆだね、「よきにはからえ」とする「大名旅行」をするか、その差は大きいと思っております。

 私のいままでの人生で、こういった「おいしい体験」は三度ほどありました。ひとのゼニで、国際会議などに「代表団」の一員として行く、というやつです。添乗員がついていてくれて、飛行機搭乗手続きから荷物の扱いからすべてお任せ、確かに楽ですねえ。でも、これじゃあ「旅」じゃありません。旅というのは、大きな荷物抱えてボローニャの駅にひとり降り立ち、さあて目的地はどこじゃろ、ともかくこの荷物なんとかしなくちゃ、とうろうろし、「荷物預かり」らしいイタリア語のカンバンを見つけ、なんとかそこにおさめ、それからタクシーを探し、このアドレスだ、なんとかわかるだろと片言の押し問答をし、「いくらかかるか」事前に忘れずに確認し、降ろされた先から、あそこだ、と目的のオフィスを見つけだす、こういうのを言うのです。

 私は、このように人生はじめての「海外体験」が長期の在外研究だったので、日本の旅行社に申し込んで、ツアコンやガイド付で団体旅行する「海外パック旅行」というのをいまだ経験したことがありません。だいたい、いい歳して、みんなで旗に連れられぞろぞろ行くなんて、恥ずかしいじゃないですか。身体は楽なんでしょうけれど。

 最初の英国滞在中に、ロンドンで申し込んで、バスツアーというのには参加しました。スペイン、スイス、それからスコットランドです。車が運転できない私としては、あちこち一度に訪れられるというメリットは認めざるを得ません。ただ、スコットランド行きの場合は別として(これはやたら日本人が多かった。先輩のS氏ご一家と一緒になったのは皮肉)、欧州ではバスツアーというのは少ないし(だいたいが、往復の飛行機と宿がセットの、長期滞在型がパック)、バスツアーなのに、払った金によって毎晩の泊まるホテルが違っているし、バスに乗っている時間は別として、あとはそれぞれ勝手にやってくれというスタイル、相当に自由気楽です。スペインで豪勢な料理を楽しみ、プラド美術館をゆっくり鑑賞し、スイスの豪華ホテルを堪能、という具合でした。

 それでも、中にはバスの出発集合時間を守らない猛者もいるんですな。これだけは、「団体行動の規律」としてきちんとしてくれないと、他の人間の時間を大いに奪うことになります。そのくらいは、バス旅行として最低のルールと思うのですが。

 でもスイスは、何年かのちに別の旅行を楽しみました。この国は鉄道が非常に発達していて、国全体が整備された観光地となっていますから、空港駅で荷物を預けてしまえば、目的地まで荷物は自動配送、実に楽です。時刻表をにらんでどこへでも行かれ、3000mの山の上にもきちんとしたレストランがあります。山歩きを楽しみ、時には定期便のバスに乗り、また登山鉄道に乗り換え、すばらしいアルプスの風景を心ゆくまで味わえます。旅行者の天国です。

 そこまでいかなくても、ヨーロッパの多くの国では、どんな風にしてでも旅行はでき、目的地には着けます。別に目的などなければ、気軽に街を歩き、何かの乗り物を見つけてまた次のところをめざし、思いがけない景色に出会ったら急に途中下車してみる、そんなことがいくらでも可能です。旅行者のためには、ピンからキリまで、さまざまな宿泊施設があります。いきなり、「今夜泊めてくれ」でもいいんです。

 添乗員付の豪華団体旅行だった、ドイツベルリンでの「日独会議」行き、郊外の超豪華レストランでのディナーまでありましたが、みなさん最終日まで、団体でポツダムへ行くというので、そこまではご遠慮申し上げ、ひとりでベルリンの街を歩いてみました。雲一つなく晴れ上がった青空の下、あの天使の塔のうえにのぼって、眼下に広がる新緑の森を一望に眺め、それからブランデンブルク門めざしてまっすぐ歩き、その先、旧東ベルリンの街並みをこの目で確かめながら、あちこち探ってみました。ほとんど跡形なくなった「壁」が、本当に街のまっただ中を横断していたことを知るのも、もう難しくなっていました。いまやそれも「観光地」の景色の一部となっていたのです。

 あるいはまた、これも団体代表団旅行だったポーランドワルシャワでのISBC国際中小企業会議、あんまり自由に行かれるところもなかったので、いまは亡きS先生の提案で急遽タクシーをチャーター、私がホテルのポーターに頼んで、ともかくエイゴの話せる運転手の車に来て貰いました。かなりボロのベンツを飛ばすこと一時間、ショパンの生家に行ったのです。郊外の美しい森に囲まれたたたずまい、いつもショパンの曲が流されているなど、かなりの観光地でしたが、晩秋の紅葉のなかでは限りなく心落ち着くところでした。ポーランドの田舎道を車で走るというのも貴重な経験でしょう。

 一変して、じっとしているだけでも汗がしたたり落ちる、マレーシアクアラルンプール、これも会議出席のためでしたが、これは一人で行ったので、まことに自由、以前から計画していて、近郊の工業団地の日本企業を訪問しました。行き帰りのタクシーは、マレーシアご自慢の国産車プラトンでしたが、走っているとフロントグリルのラジェーターから、水蒸気だか煙だかが立ち上る、なかなかスリルある車で、これで高速道路を飛ばすとガタガタ揺れ、迫力満点でした。


 このように、「自分なりに旅してみる」こそが旅の味わいです。何が待っているかわからない、そこに自分の新しい発見があり、自分の挑戦がある、これが旅です。

 ですから、学生諸君がたとえ「パック旅行」に乗ったとしても、自分の自由時間を生かし、何か予定のスケジュールにないことを試みてみる、そうしたことをぜひ勧めています。自分で地図を探し、わからないことはひとに尋ね、自分の足で歩いてみてこそ、旅の醍醐味が味わえるのです。




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