idle talk43

三井の、なんのたしにもならないお話 その四十三

(2016.05オリジナル作成)



 
え、「学位」ないの?


 
 
 いま旬の話題として、「日本銀行政策委員会審議委員」という、国の金融政策を左右する要職につかれた大先生の公表されている「経歴」が、間違いないし詐称ではないかというような事柄があります。「詐称」は言い過ぎではないかともされますが、ともかく日銀の方で公表していた、「東京大学大学院経済学研究科博士課程修了」という表現は正しくない、なぜなら博士論文を提出し、博士号を取得していなければ、「課程修了」とはならないというのが、所管の文部科学省の公式見解、したがってこの記載は正しくないとなるそうです。それに従い、日銀も「修了」の記載を正し、「単位取得退学」としたとか、それどころか、同じ役職に就いている大大先生も同じ経歴なのだそうで、それゆえやはり記載をなおしたとか。
 
 それに加えて、この先生の「修士論文」は原稿用紙4枚だなどということで、非難の上塗りになっているようです。そのへん、私は同大学院出身ではないので、正確なところはわからないのですが、若干の誤解があるようにも思います。
 この先生の在学に前後して、例の「紛争」と「改革」がらみで、東大は経済系大学院の修士課程をなくしてしまった、つまり正真正銘、全員が博士課程在学であり、したがって、博士学位を取得しないと、みんな「退学」としてしか扱われず、「最終学歴」に「修士課程修了」とも書けず、「学部卒業」という事実しか残らない、こんなことを当時聞きました。なんのためにそうしたのか、よくわかりませんが。そのため、この大先生も「修士論文」は書いていない、その可能性は大です。いくら何でもそれは不都合ということで、のちには「修士」を授与するようにしたかも知れません。
 
 のちにはまた、多くの大学の大学院が、博士前期課程と博士後期課程という設定に名称を変えた、背景にはこのような東大の事情が影響をしているのかも知れません。わが嘉悦大学を含め、多くのところでは、そのため「修士課程」という名称はないのです(もっとも、これは博士学位を授与する博士後期課程があってのことになりますが)。ただし、「前期課程」の修了を示す学位は依然「修士」という、ちょっとそと目にはわかりにくいことになっています。

 
 

 まあ、この件決してひとごとでもなく、私自身の経歴の書き方にも大いに関わります。こちらに記していることですが、私は慶應義塾大学大学院経済学研究科の修士課程修了で、博士課程の単位取得(満期)退学ということになります。以来、35年も過ぎた今もって、博士学位を取っていませんので、ほかの書きようがありません。
 実はこの私も一時、「大学院博士課程修了」とweb上などに記していたことがあります。その意味、日銀審議委員の大先生と同罪になってしまいます。理由は単純で、大学院の「退学」というのが世間に容易に理解されない、下手するとなんか悪いことでもして追い出された、あるいは学業不良で「退学」を余儀なくされたなんて思われる恐れもないことなかったので(まあ、それに実態も近いのかも)、大学の「学部卒業」のような記し方に近いものとして、「修了」と書いたという程度のことでした。もちろん、公式に提出する「履歴書」のうちでは「盛り」なく、「博士課程単位取得退学」と記してきましたし、まあ同じような方もだいぶ多くなってはきたので、「正確な表記」に直すようにしたという経過です。
 
 うえの大先生は私に近い世代のようなので、この当時、経済系のみならず、社会系人文系などの世界では、よほどの秀才天才ではない限り、大学院をおえる際に博士学位を取るというひとは希有であったと思います。ただ、その後に精進努力し、学位論文をまとめ、出身の大学院に提出して「博士」になられたというひとは少なくありません。この場合は、「課程博士」ではなく「論文博士」という扱いになります。そういう大先生の大研究に対し、博士学位を授与するという考え方は世界の流れに合わない、課程を終える際に学位を取れるようにせよというのが、近年の文科省の方針であり、各大学もそのように努力対応をしてきました。いわゆる「理工系」の分野ではとっくの昔にそうであり、大学院を出たが学位がないなんていうのでは、世界では相手されない、これが常識なのです。また最近の大学では、教員として採用されたひとも学位がないと、「教授」に昇格できないという条件づけも多くなり、教員公募人事の採用条件にも「博士学位取得者」と記されるのが珍しくありません。「若手」のひとも、「博士持ってて当たり前」の時代なのです。
 
 それはそれ、時代の趨勢や「グローバルスタンダード」であることを私も否定できません。「昔はこうだった」なんていくら申してもなんにもなりません。もちろん、その一方で博士浪人がごろごろいる、いわゆる「ポスドク」問題になり、文科省も対応を迫られているなんていうのは、ともかく別問題としましょう。
 ですから、私もこれまで指導担当してきた、博士後期課程院生諸君には、早く学位論文をまとめ、提出するようにすすめてきましたし、それで博士になったひとも少なからずいます。ただ、どうも私は学位取得に対してあまり熱心ではない、それは自分が学位を持っていないからだろうというような、そういう批判の声も聞こえてこないこともありません。
 
 もし、たとえ無意識的にもそういう怨みが見られるのであれば、これは私としても大いに恥じ、反省をせねばなりません。少なくとも精励努力叱咤激励をしているつもりではあります。それでもなお足りないと感じるのであれば、いまからでも学位取得に向けて自ら尽力すべきでしょうということにもなります。
 
 確かに、現在嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科博士後期課程の研究指導担当教員である私自身が博士学位を持っていない、これはそと目にも奇妙な印象をぬぐえないでしょう。前任校の横浜国立大学大学院環境情報学府博士後期課程でも研究指導担当教員だったのですし。博士論文を書かせる指導を行う教員が自分では博士になっていない、という事態ですから。

 それは「制度的にありなのか」という、まずそこを説明しましょう。この二つの勤務先はいずれも新設の大学院であったので、「採用頂く」前に、私の経歴書や個人業績調書等のすべての書類が文科省大学設置審議会にかけられています。別のwebページにもすでに記したところです。そこで、「前期課程」○合、「後期課程」合という判定を頂戴しています。10年たっても同じであったので、まあ私が大したことをやっていない(博士論文提出の有無含め)という理解であったのでしょう。
 これが設置審という大先生方の評価ですから、私として甘受するのみです。マルゴウというのは、研究指導担当教員として「合格」である、○のない合とは、授業を持ち、研究指導を補助する教員としては適格であるという意味になります。後者ですと、院生の「本来の研究指導」担当者は別に置かないといけないことになります。

 

 けれども、私の考え方やとるべき態度等はどうあれ、このように、「別に」指導担当教員をお願いしないといけないというのは何かと不便かつ不都合であることは否定できません。そこで、私はいずれの場合にも、「学内措置」で研究指導担当教員への「昇格」をさせて貰いました。これは通常の学部、大学院での教員採用や昇格が基本的にその自治権裁量権に委ねられていることに見合う手続きです。そのための書類および「業績」等を提出し、規程にもとづく審査を受けて、「大学院博士後期課程の研究指導担当教員にふさわしい研究歴と能力がある」と認めて頂くわけです(もちろん、その経過等の書類は、人事構成の変更を含めて文科省に出されます)。ただし、新設の大学院研究科の場合、3年以上を経過し、博士学位取得者を出していることが前提であり、これは課程博士に対する論文博士としての学位授与の組織的条件と同様です。
 
 まあ、同僚の先生方にそんな面倒をおかけしないように、早々に博士をとっておけばいいじゃないかともされましょうが、どだい博士学位取得イコールマルゴウの条件というわけでもないし(実際、年齢や教歴研究業績等を加味し、そして「科目適格性」を考慮しての設置審の判断なので、学位を持っていてもマルゴウにして貰えないひとも多々おられます)、基本的には私の「不徳のせい」とすべきものかも知れません。
 
 
 「研究指導担当」マルゴウ云々は別として、ともかく博士課程を出てはいるんだから、ほかの多くの方々同様に学位論文を出せばいいだろ、というお考えもわかります。しかも私は在学からウン十年も経ているので、学位申請の対象は出身校に限られず、どこの大学院でもいいわけです。基本的に「論文博士」ですから。それを未だにやらないまま、今日にまできてしまった、それはひとえに私自身の怠惰と努力不足のせいであり、ひとさまにエラソーに「指導」などできる立場でもありません。

 

 ただ、言い訳をすれば、そこに若干の個人的事情と思いもあります。一番大きな経過は、私のこれまでの「主要研究業績」を提出審査頂くべき師、佐藤芳雄先生が98年に亡くなられてしまったことでした。別に記しておりますように、本来の指導教授は黒川俊雄先生、学部ゼミで指導を頂いたのは飯田鼎先生です。けれども、まさしく「不肖の弟子」の見本として、私は「中小企業の研究者」になり、両先生の研究からは大きく逸れてしまいました。そうしたことを前提にすれば、やはり審査をお願いするのは佐藤先生であるべきだったのですが、これは誠に私の怠慢ゆえに、先生の生前になさなかったことになるのです。佐藤先生はそれこそ、「博士論文書きなさい、いま書いて学位とっておかないと、あとでいろいろ大変だよ」と、助言というより叱咤を前々から下さっていました。その通りになってしまったのです。その意味、私は完全に機会を逸してしまったのでした。
 
 佐藤先生の早世という、痛恨の経過があればこそ、私は先生の助言にこたえ得なかったおのれの未熟と怠惰に対する終生の反省として、「今さら学位とろうなどと考えるな、一生の鞭として負い目に考え続けろ」という思いがあります。そのまえ、修士課程での私はどうにもこうにもどうしようもない、箸にも棒にもかからない院生でしたし。もちろん、佐藤先生はその前に、慶大商学部を早期退職して、次の責務についておられたので、どのみち、「間に合わない」事態であったのも事実なのですが。
 
 そして気がつくと、私の師と呼べる諸先生方はもとより、先輩方、さらには同世代の方々もみな、もう大学の職を離れています。つまり、私が今さらのように、出し遅れの古証文もいいところの自分の「研究」を、はるかに若い世代の方々に「読んで頂く」しかない事態になるのです。それはこっ恥ずかしい以上に、御本人方にも非常にやりにくい事態であるのは十分に想像可能です。要するに、私は歳をとりすぎてしまった、それに尽きるわけです。

 

 大学などの研究職とは無縁の立場にあって、困難をおしてコツコツと研究を続け、その成果をかなりの高齢になってまとめられ、それで学位をとられた、いわゆる「在野の研究者」も少なくないし、近年はそうした方々の成果を世に問う、注目されるといったことも多いように感じます。「論文博士」というのは、本来「在野の」方々に開かれた機会と申すべきなのかも知れません。けれども、幸か不幸か私など、大学にウン十年もいて、教育と研究で糧を得ているのですから、同列に扱って貰おうなどというのはおこがましいを通り越しています。
 
 私のような立場のものには、国外のそれなりの権威ある大学でPh.D.degreeをとる、それが一番かっこいいものでもありましょう。そういう方々を私も何人も存じ上げているし、そのご苦労とご尽力、そしてすぐれて創造的な、「世界で物言う」研究成果には頭が下がるのみです。正直、そうした道もめざしてみたいという思いも私にもありました。しかし、それに要する時間と費用はもとより、尽力傾倒集中、また語学力、そしてなにより「世界で通用するレベル・方法での」研究を成し遂げ、まとめる力というものは、私のとうてい及ぶところではないと悟らされてきました。私は英国の大学に「滞在したこと」はあるけれど、そとの空気をちょっと吸ってみた、そちらで入手できる資料等を用いた、そして「共同研究のようなもの」を手伝った、それ止まりです。それ以上は高望みというものです。
 
 それでも、同じような立場の同輩諸氏のうちでは、がんばって学位を取られている方も少なくないものの、私と同じような考え方や事情なのか、一貫して「学位とは無縁の生き方」を貫いているひともおられます。そうした方々の研究業績や著作、またその影響力、ひいては「教育の成果」など考えるに、「学位持ってる」かどうかを超越した観をぬぐえません。もっともそうした方々と私が「似たようなもの」などと口はばたいことを申せば、「無礼者、下がりおろう!」と一喝されるかも。
 
 
 こんだけ実態を語ってしまうと、これまで私の担当下で学んだ、あるいはいま学んでいる諸氏に呆れかえられるのみで終わりそうだし、それでは嘉悦大学大学院のプロモーションにもマイナス大なので、今さらの居直りで、あえて書きましょう。「学位を取る」力にも機会にも恵まれなかった私だけど、「博士論文並みの」著書はあるつもりなんですが、なにか、と。なんせ、70歳目前のいまも、学位どころか資格免許の類は一切持っていない、運転免許もない、それを居直りのシンボルにしている私なもので、始末に悪いジジイですね。「それでも生きている」と。

 




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