別れのとき
私にとって、今回の在英研究の機会はまた、さまざまな人を亡くしたときにもなるようです。
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肉親、近しい人、あくまで他人、さまざまな人を「失った」ということは、もちろん自分自身がそうした目に遭わねばならない年齢になってきたことの証でもあります。ひとの命に限りがある以上は、いつか必ず別れを経験せねばならないのです。
以下は、そうした折々に記したことの記録です。
1998年4月8日
日本で真剣に就職活動にとり組んでおられる4年次生諸君には、場違いも甚だしく、申し訳ない話しですが、タミー・ウィネットが亡くなったと知りました。
何じゃ、そりゃ?というところかも知れません。日本の報道ではほとんど出ていないかも知れません。彼女は、正真正銘の「カントリーシンガー」(ジョン・デンバーは違う)で、言ってみれば、美空ひばりと都はるみと松田聖子を足して三で割ったような存在です。まさに「国民的ド演歌歌手」です。
彼女のヒット曲を用いた映画「Five Easy Pieces」(怪優ジャック・ニコルソンの主演)を見てから、彼女のことをいろいろ知るようになりました。多くの曲を集め、12年前にはロンドンで開かれた彼女のコンサートにも行きました(もちろん、英国のおばさんおじさんしか来ておらず、日本人など誰もいなかった)。
そして12年後の今、ロンドンに再び来て、彼女の訃報を聞いたのです。 まだ55歳、「ド演歌そのもの」「ドラマ(soap
opera)そのもの」の人生を生きてきた、彼女の波乱の人生は短く終わってしまったのです。2年前、ナッシュビルに行けそうな話しがあったけれどつぶれ、結局彼女の声に再び接する機会は永遠に失われました。
Stand by your man このタイトルは永遠に残ります。
今日、キングストン大学SBRC所長のロバートも、この曲はよく知っていました。もちろん、インテリらしく、「ド演歌」には興味は示しませんでしたが(日本のアカデミックは妙な趣味を持っているものだと思ったでしょう)。
黙祷…‥‥
1998年8月1日
私の恩師が亡くなった。一度として、公式に指導を受けたわけではなかったが、いつも厳しく叱咤され鍛えられ、また温かく見守ってくれてきていた。
まだ六〇代半ば、現役の学者・教育者として活躍中のことだった。学界の大きな損失はいうまでもない。
いま、もう会うこともかなわない、それどころか、告別の場でお別れを言うこともできない状況、海を隔てた彼方で、悲しい思いに浸るしかない。
1998年9月18日
父、三井為友は、本日永久の眠りに旅立ちました。
皆様におかれましては、ご多忙の中、ご参列・ご香典を賜り、誠にありがとうございます。
父は、この一年あまり、病に苦しみ、私たちも手の尽くしようがないまま、その苦しみの和らぐことを祈るのみでした。今、父は苦しみからは解かれ、安らぎを得ることができたと思います。86年の生涯は、戦争や波乱にも満ち、決して平坦な道ではありませんでしたが、多くの人たちとの知己を得、幸せな人生であったと信じております。
父の願いであった「人生一〇〇年」は実現できませんでした。けれども、精一杯生き、自分の生き甲斐を求め続けられたこの86年は、皆様の御厚意に見守られ、悔いないものであったでしょう。
父の葬儀を終え、いまだ自らの思いの定まらない私ではありますが、皆様のご厚情に、心からの御礼を、取り急ぎ申し上げます。
1998年9月20日
ゼミ生の諸君が多数、父の通夜・葬儀の場をお手伝いくださったのは、誠にありがたく、厚く御礼申し上げます。おかげさまで、滞りなく諸事を済ませることができました。
あわただしい中、不行き届きの点はどうかお許しください。
こうした折りではあっても、ゼミ生諸君に半年ぶりに再会できたのはうれしいことでした。特に、四年生諸君にはもう当分会えないかもしれないと思っていましたので。
これは、父の配慮であったのかもしれないと感謝しています。
私はすぐにまたロンドンに戻ります。 みんなしっかり、また楽しくゼミを支えていってください。