大学を考えよう 最終編

大学への「訣別」(?)にあたって





 
 
 
 私が、20年間勤めてきた駒澤大学を去るということは、大学のあり方に自らの辞意をもって抗議したとか、大学の現状に見切りをつけ、消極的な抵抗として去ることにしたとか、そういったかっこいいもんじゃありません。

 いくぶんかは、個人的理由でもありますし、それに駒澤大学を去っても、また似たような仕事で糊口をしのごうというのですから、なにもえらそうなことは言えません。それに、この10年近く、経済学部の教員をはじめとする多くの人たちが、大学の存在意義を問い直し、その可能性に活路を求めるべく、「改革」への地道な努力を重ね、さまざまな障害を乗り越えて、少しずつでも成果をあげてきている今日です。そこをいま離れるということには、当然ながらその一員であったものとしては、いささか後ろめたい、申し訳ない思いが残ります。

 
 しかし、やはり正直には、駒澤大学を含めて、いまの日本の大学の状況に、かなり絶望しつつある思いも拭えません。もちろん、どこかに青い鳥がいるわけでもなく、どこへ行っても、どういう仕事をしても、つねに期待はずれや失望や徒労はつきまといましょう。それは百も承知でなお、「これじゃあダメだ」という言葉を発せずにはいられなくなるのです。その大学の一端を担ってきた一人としての、責任の重さを自覚しても、私も人間であり、限られた人生を自分なりに生きていきたい以上、自分のつもりつもった思いを口にせずにはいられない、そういうところです。

 
 

 大学をめぐる状況は危機的です。駒澤大学だけではありません。こんなにたくさんの大学と名のつくものができてしまい、一方で若年人口が減る一方ならば、高校を終えて進学したいという人たちから授業料などを徴収することで成り立っている日本の大学は、たちまち危機に陥ることは、間違いありません。そして危機に瀕することは、遙か昔からわかりきっていたのです。わかりきっていたのにその通りになるということ自体、お粗末きわまりないことで、大学の危うさを見事に証明してしまっていますが、ともかくいまや目に見えて志願者が減少し、「受験競争」どころか、大学同士が学生確保にあの手この手で競い合っているありさま、入学定員を確保できないところが続出しています。定員を確保できないということは、「受験料収入」というせこいものであぶく銭を稼ぐ話は別としても、定員だけの学生が入学し、授業料を払っていることを前提にしている日本の大学には、たちどころに収入の激減、経営の危機を意味します。加えて、泣きっ面にハチで、国公立大学どころか、私立大学もその収入の相当部分を、国庫補助金に頼ってきたのに、定員を確保できない大学は公教育の使命を果たしていないということで、補助金の大幅カット、さらには打ち切りが待ちかまえています。これでは倒産間違いなしでしょう。

 
 このような「需給アンバランス」の「調整過程」=弱いものは倒れ、強いところが生き残るサバイバルレースの絵に書いたような話しだけではなく、こういったご時世でもなおかつ、あるいはそれだからか、現実の大学への失望や不満や非難の声も高まる一方です。こんなにひどい「企業」も世の中にはそうはないでしょう。売上激減、競争から取り残され、経営破綻が目に見えている、それなのにいっこう目に見えるような経営努力をやっていない、「顧客満足度」は下がる一方、森内閣よりひどいじゃないか、というわけです。

 
 駒澤大学の「周辺」でも、そういった声が、在学生や卒業生の間から、折に触れてあがっています。いくつか紹介してみましょう。

 
 ある現役学生は、卒業を前にしながら、必修科目の語学で、教育実習や就職活動で授業に十分出られなかった事情を、担当の先生に聞いてもらえない、まるで聞く耳持たず、一方的に自分が悪いとされ、授業の名簿からも外された扱いを受けてきた、これを窓口で抗議しても、また「卒業生成績質疑応答」の機会に苦情を申し立てても、結局その先生の方針は変えられないとされ、自分にはもう対処のしようがない、大学はなんでこんなひどい教師を雇っているんだ、と大変なご立腹です。このように、学生と対話しようとしないような人が大学の教師であるのはおかしいじゃないか、というのです。

 助け船というのか、助太刀なのか、あるいは忠告か、大学には「教授会自治」というものがあって、教員の採用や解任はすべて教授が握っている、大学はなにもそれにはできないんだ、そういう仕組みなんだから仕方ない、こういうご意見もありました。そういうひどい仕組みを、「なんで変えようとしないんでしょうね」というのが、この「被害者」学生の感想でした。

 
 あるいはまた、ひどい教師などに対し、一部の大学でやっているように、「授業評価」で学生の側からどんどん厳しい点を付ける、文句を言う、それで直らないひどい教師には、いくらなんでも大学として放置できなくなるんじゃないのか、という「提案」もありました。こういったご意見に関連して、ひどい教師のその他の見本、わからない授業、自分の書いた本を写させる試験答案、答案に何行以上書いたらダメにすると宣告され、その通りにやられたらしいなどという「経験談」等々、続々です。

 
 また、こういうのもあります。いまの大学では、教育の目標がはっきりしないばかりか、一流教員、研究実績の高い教員は見あたらない。経済、経営学部なんてカンバンを出していても、今日の経済界に通用しない教員だらけ。なんで大学は一流の教員、有名教員を採用して魅力ある授業をしないのか、と。教育の質どころじゃない、世間に通用しないような二流三流の連中が、あぐらをかいている、これじゃあ大学の評価があがるわけはないという、卒業生からの厳しい批判のようです。「研究」を隠れ蓑にするなんて恥ずかしいじゃないか、という声でしょう。

 
 ま、そういった批判の矢面に立たされている、超二流・三流で無名の経済学部教員としては、なんとも言い訳のしようもありません。

 
 

 「言い訳」の場として、こういった機会を利用するのは、見上げたことではなく、いっそうのご批判を招く恐れも大ですから、そういった言いぐさはやめましょう。

 ただ、賢明な方はお気づきのように、こういったさまざまな批判や不満、抗議のうちには、大学というものへの甚だしい誤解があることも間違いありません。大学は、無論「卒業証書自動発行機」じゃありませんし、役に立つこと間違いなしの、「試験に出る」ところを言葉たくみに身につけさせてくれる予備校一流講師陣や、テクニックに長けた試験資格専門学校の洗練された教育システムを備えてもいません。そういった枠にうまく収めるには、「学問」は難物に過ぎるのです。

 もちろん、大学でもって、おもしろおかしい話がうまい、お笑い系タレントやゲーノー人を揃えたTVほど、黙って座っていても引き込まれるような、話のうまい「一流人」を揃えられることもありません。「一流の学者」が実に話しがへたなのは、確かに昔語りで、今どき「一流」とは、TVに出ている、うけがねらえる、言いぐさが面白い、メリハリがある、あるいは芸があるといった意味なのかも知れませんが、これも「才能」のうちであることも事実で、そういった人ばかり「集められる」大学があったら、世界中どこへでも探しに行きたいものです。第一それだったら、吉本興業に「大学」のカンバンを出して貰えば手っ取り早くていいじゃありませんか。

 そこまで言っちゃあ、まさしく居直り、素直じゃないよ、というご批判はよくわかります。ですから大学教師はいま、みんな「授業の改善」にとりくみ、どうしたらもっとわかってもらえる話しをするか、学生諸君に興味をもってもらう授業を作るか、「教材研究」もし、詳細なシラバスを作成配布し、資料を毎回配り、ささやかながらそれぞれ試行錯誤をしています。もちろん、「授業評価」アンケートもやっています。そういったことが「改革」の一歩一歩と信じてきているのです。でも、ときどきため息もつきます。「授業にいる」学生に理解をしてもらう努力はいくらでもしたいが、来ない、顔を見せない学生にどうやってその努力を及ぼせるのか、これには策が尽きます。ところが学年末になると、そういう学生諸君が大挙やってきて、試験を受ける、できない、そうするとしれっとした顔をして、「あのーいまの試験できなかったんで、なんか救済措置がありますか」とか、「レポートを出したいんですが」などとのたまう、こういう状況にどうのような「改革」ができるのでしょうか。

 先ほどの、ひどい語学教師の対応に怒り心頭に発しているキミは、確かに自分が授業に出られなかったことについての言い分や理由もあるのでしょう。少なくとも、「教育実習」は正規の教育課程の一環であり、出席上考慮することが定められています。でも、そのキミが求めているものは、しょせんは、「それでも配慮して単位をくれる」ということに尽きているのでしょうか?だいいち、語学科目は原則1年次ないし2年次配置です。卒業ぎりぎりまで単位がとれなかった、それは別に教育実習や「就職活動」のせいではないでしょう?

 
 こういった、ある意味では「自己チュー」な言い分と、大学の教育がなっていない、ロクな研究なんかしていない、という批判とは、実はすれ違っているのです。大学がその本来の役割を果たすということは、誤解を恐れずいえば、授業にも来ず、全然勉強をせず、何が何でも単位をくれ、卒業させてくれと、懇願したり、アリバイづくりを自ら申し出たり、不満をぶちまけたりする学生を、有無を言わさず落とす、大学にふさわしい学問を修めたと言えない学生を、「卒業生」の肩書きで社会には出さない、そういった厳格な姿勢を示すことでなければなりません。もちろん、大学は学生諸君を大人扱いしていますから、「自己責任」を求めるだけじゃなく、大人同士、言い分は聞く、意見を交わす、納得が得られるようそれぞれ努力をする、そういった姿勢は当然必要です。少なくとも、私自身はそう努めてきたつもりです。

 

 それでも間違いなく生じる問題は、大きく二つありましょう。

 第一に、これらの意見に示されるように、大学へ入学してくる学生諸君の求めるもの、大学生活で得たいものと、実際の大学のあり方、その少なくとも「建前」とが大きくずれてしまっているのではないか、という、あまりにも多く語られてきた問題です。大学が大衆化し、大学進学が当たり前になってきた今日、いつまでも古典的な「学問の府」像を掲げていても、そんなものは学生諸君の日々の現実、その中での関心とはまったくずれている、だから大学の授業も試験も「限界苦痛」の証明の場となり、その「効用」としての「卒業証書」以外、存在価値を認められなくなっているという現実です。こういった現実のうちでは、「高度な学問研究の成果を教育伝授する」などという建前は、まったく影をひそめざるを得ません。

 
 第二には、学生諸君だけではなく、社会自体がそういった大学のありようを一方では許してきながら、それにもかかわらず、否、それだからこそ、大学への評価を極限にまで下げ、嘲りの対象とし、きわめてシニカルな目で見ている、という問題があります。「一流の学者」、それはなにを物差しに言うのか、と聞き返すだけでは、居直り的言い訳にも聞こえましょう。しかし、たしかに世間では、「一流」なる目・価値観があることも事実です。こと経済・経営系にかんして言えば(白川教授のように、「無名」の引退教授から「チョーユーメイ」な世界的学者に駈けのぼる例は別として)、おそらくそれは、「TVに出て、経済解説などしたり顔で語っている」、「『日経』などによく書いていて、広く名前を知られている」、「『経済界』(何かよくわかりませんが)で、ブレーンとして通っており、売れっ子である(講演料や顧問料で大金を手にしている)」、といったところでしょう(あとは、「ベストセラーを出している」くらいでしょうか。でも、それはだいたいこれらの事項と重複していますし、このごろは、駆け出しタレントの「書いた」本がベストセラーになっても、大先生の高邁なる学説や評論が、世に反響を呼び、本が売れるということはまずなくなったので、あまり「一流」の基準にはなりません)。しかし、そうしたひとはそんなにいない(経済学的統計学的に、そんなにいるはずがない)のですし、近ごろは大学外の、かつての官庁エコノミスト、いまなら金融系シンクタンクのブレーン、外資系証券会社のアナリストなどの方が、よっぽどうけがいいのです。

 そういったひとたちを大学へ「引っ張ってくる」のもたしかに一策であり、突撃芸能リポーターを「客員教授」に据えるよりはまだましとも思うのですが、そんな人たちは半端なはしたがねで大学に縛られるほど、ヒマでもないし、食うに困ってもいません。また、カンバンを並べることで、世間体はよくなっても、それと「大学の使命」とは必ずしも同じじゃないのです。そんな人間ばかり並べることは物理的にももちろん不可能です。そして、「学問」と、「世の中でうける」ことは決して同じではありません。世間では大もて、知名度抜群でも、カリスマ的に権威があっても、学問的にははっきり言ってゼロ、ということも珍しくはないのです(それがなぜ「ゼロ」なのかは、別の場でも繰り返し申してきました。こうした「学問観」については、一端は、このページを見てください。)。一方でよく言われるように、大学のうちには、世間では「うけ」ない、しかしそれぞれの意義をもっている「研究」が数々あり、そこに多数の大学のアカデミックスタッフが従事し、日々研究に励んでいるのです。

 
 大学の原点は、どう転んでも、「教育と研究」にあります。これを捨てるのなら、むしろ楽なのですが、それでは世界で通用しないので、「大学」(university)の看板を下ろさなくてはならななります。この原点、「教育」、「研究」のいずれにも、学生諸君を含めた、「社会」とのズレないしは行き違いがおこっている、そして大学のなかで、「教育」と「研究」が水と油のようになってしまっている、ここにこそ、うえにあげた二つの大きな問題があるのだと思えます。

 
 このズレないしはねじれは、甚だしいものがあります。大学の現状を憂う、卒業生の方の意見はよくわかりますが、大学の現状はそれほどにも甘くありません。最近、創設五〇周年を迎えた駒澤大学経済学部は、さまざま記念行事を行い、その一環として、講演会にいま一流のシンクタンクのエコノミストを招きました。しょっちゅう『日経』にも登場するし、その人の講演とあれば、ウン万円も出して聴衆が満員になるし、TVでも見ますし、ですから明らかに「一流」でしょう。でも、このせっかくの機会に、中央講堂(定員二〇〇人あまり)が満員になるどころか、聴衆の大半は学内教員やニュースを聞いてきた近辺のひと、卒業生どまり、学生の姿はほとんどなしでした。この開催に奔走した先生は、いくらなんでもがら空きでは心配と、出席をとって学生を「動員」したくらいです。「一流エコノミスト」の講演のカンバンは、時に来訪するユーメイゲーノー人やプロスポーツプレーヤーの何十分の一の学生も集められなかったのです。

 それほどじゃないですが、私自身が2000年度、「現代産業事情」という科目のコーディネータを担当し、私のねらいとしてはこれを「ヤングアントレプレナースクール」にしようと、自ら会社を起こした企業家や、その支援機関関係者などに多数来てもらいました。みなさん、大変に本業忙しい中、貴重な時間を割いて登壇してくださったのです。私は、こういった趣旨から、この時間を「履修学生」以外、学内外の誰にでも開放し、大いに活用してもらおうと、ささやかながら宣伝にも努めました。けれども、もちろん私の「不徳の致すところ」ではありますが、毎回の聴衆の何と少ないこと、時には学外者の方が多かったりして、実に情けない思いでした。おそらくこのシリーズのうちでは「知名度ナンバーワン」であった、S社のO社長に来ていただいた際でも、聴衆は100名どころか、50名に毛が生えた程度でした。

 せっかく張り切ってこられた社長さん方には、甚だ張り合いなく、大学の規程で、非常勤講師としての給与一回分、おそらく一桁間違っているんじゃないかと思われるような謝礼しか渡せなかっただけではなく、この「歓迎ぶり」に本当に恥ずかしい、申し訳ない思いが残りました。

 

 私を含め、経済学部や経営学部、あるいは法学部などの先生方は、たしかにユーメイじゃないし、「一流学者」として名を残すほどの力も才能も機会もないと自覚はしているけれど(私だけのことかも知れませんが)、それぞれなりに、世の中に意義ある研究に励んできたという自負はあるはずです。しかし問題なのは、それが「名声を博す」かどうかじゃなくて(別の大学ですが、私の知っているひとで、かつて「19世紀のドイツ家内労働者問題」などという、実に世の中ではうけない、地道ではあるが、学会ではそれなりに評価される研究をしている若手研究者がいました。この人、米国の大学へ留学、そこで一挙に方向転換し、以来流行語となった最新のアメリカ経営論の用語を持ち帰り、ニッポンで大うけ、一躍「ユーメイ学者」になりました。それとともに、服装格好まで一挙脱皮し、週刊誌のグラビアを飾ったのは驚きです。これ、ウソじゃありません)、その研究のもつ意義なり、現実社会とのかかわりなりを、学生諸君に伝えられない、そのもどかしさの方なのです。

 たしかに、世間で通っている「一流」「ユーメイ教授」が登壇すれば、ゲーノータレントや第一線のスポーツプレーヤーが来校するのと同じように、野次馬的根性からも、おおぜい学生は集まり、いやがおうにも話しに興味を抱き、なにかしらそこから触発され、ひいてはその中身、世の中のありようだの、経済の動きだの、企業経営の実態だのに関心を持つようにもなる、いい循環が生まれる、こういった効果は期待はできましょう(ま、その辺ちょっと間違えると、遅れてきたファシスト「芸術家」小林よしりんとか、「ニッポンのハイダー」・「面と向かってNOとは言えないアメリカ、NOとぶつけてやる中共」というデマゴーグ石原シンキローあたりを呼んで、そのばかばかしいプロパガンダに熱狂して、「目覚め」、みんなでまた戦争で死にに行く恐れもありますが)。それができない、「二流、三流」の無名教師たちにははじめからハンディはあります。それでも、自らのかかわっている「学問」、それを大学で学生諸君に「教育」しようとしている意味、それはみな日々自覚し、それを原点に、語りかけ続けているつもりではあるわけです。

 自分たちは(まあ、「世間知らず」と言われるかも知れないが)、「研究」を通じてとり組んでいる主題が、社会のうちでどういう意味を持ち、どういう現実を反映しているのか、どういう社会的なインパクトたりうるのか(ほとんどゼロかも知れませんが)、それなりには理解をしているつもりだし、それだからこそ、大学という教育と研究の場の一員として、その成果を学生諸君と共有したいと願っています(そのために、私はこのネット上を通じて、自分の研究の一端を「情報公開」してきました)。でも、私たち大学教師をいちばん失望させるのは、その思いが伝わらない、堅苦しく言えば、「問題意識」を少しも共有できない、この空回りの思いです。「企業」を語り、「欧州連合」を語り、「戦略的連携」や「サプライチェーンマネジメント」を説いても、「金融破綻」や「ネットビジネス」に思いをはせても、それらが単なるコトバとしてしか、学生諸君の耳に響かず、なんの実感ももたず、頭のうえを通り過ぎていってしまっている、このことを悟らされているときのむなしさです。「学問」は言語の体系でもありますから、「論理」などと難しいことをいわずとも、せめて「コトバ」は共有しないと、コミュニケーションが成り立たないのですが、その共有するところがゼロに近い、このことを学年末試験などによって目の前に突きつけられると、毎年のことながら、ため息ばかり出てくるのです。そして、「試験できなかったんで、なんか救済措置は」なんて言われて、切れないくらいに、こちらも悟りを開くようになったか、あるいは鈍感になったか、と実感をします。

 
 これは、ニッポンの教育システムと大学のあり方の到達点であることは間違いありません。受験制度、社会的スクリーニング、記憶容量試験、マルバツの点数だけが唯一の価値、モラトリアム、遊びほうけても企業は受け入れる、白紙の人間の方が使いやすい、学生は元気で声が大きければよい、云々、学生の欲望をくすぐってもうける商売の数々、学生生活は明るく楽しくなにもなしで良し、等々。だからといって責任転嫁をしていてはならず、大学教師もそれぞれ努力をしています。わかる授業、問題意識をかき立てる授業、対話と討論重視、ビデオやさまざまな教材利用、等々です。もちろん大学経営も、教育環境の整備拡充やさまざまな機会の提供、情報設備などの利用など、努めてはいますが、まだまだ十分とも思えません。

 正直には、とりわけ駒澤大学では、地の利の良さがかえって徒となり、諸々の制限や規制などから、あるいは周辺の建ち込みなどから、キャンパスや教室などの拡充が図れない、授業の機会を増やすことも妨げている実態があります。たとえば、私もかかわって、ともかく学生に問題意識を高める、大学で「学ぶ」意義を理解していってもらう、そのために、経済学部生に「導入ゼミ」をもうけ、入学したての一年次生から、新聞を読もう、経済の動きをつかもう、ゼミ発表はこうやろう、資料はこうやって探そう、インターネットはこのように活用しようと、手ほどきをしようと張り切りました。しかし、教室使用の現状や新カリキュラム移行後の年数経緯などから、これは「棚上げ状態」になってしまっています。もったないないというより、なんとも焦りをおぼえます。

 
 私は思うのです。大学は、「入ったら終わり」、「通過点」じゃない、ひたすら「バイトとサークル」で過ごすところでもない、自分に意味ある「学問」をし、たしかな価値観や社会観・人間観を培うところである、現実をたくましく生き抜いていく、知恵と知識と力を得るところであると思います。「読み、書き、話す」はその第一歩です。そう考え、そのように学生諸君に語りかけ、ささやかながら努力をしてきました。毎年のように自分の力不足、努力不足を反省させられてきました。まわりの仕組み、社会の現状、学生諸君の姿勢などに責任をなすりつけ、自分はしれっとしていてはいけません。でも、その努力にもそろそろ疲れが見えてきたのが、いまの正直な思いでもあります。

 
 思い出します、数年前に定年を迎えられたN先生、僭越ながら「超一流のユーメー学者」ではなかったけれど、学問に真剣に取り組み、健筆衰えを知らず、お年を召してもますます健康で、いつも元気の良い、迫力にあふれた授業をし、ゼミやさまざまな機会を通じ、学生諸君に正面からぶつかっておられました。まさしく、大学教師の鑑と感じました。その一方で、体育団体の顧問どころか、自分が先頭に立ってトレイニング、カラオケは超得意で朗々たる美声に学生の拍手喝采、また大学運営にも積極的に責務を担い、教授会などでも堂々の論陣を張られ、誰にも尊敬されていました。そのN先生が大学の要職をつとめられ、ゼミ担当をはずれていた、それから復帰された際、かつての超人気Nゼミに、全然学生が集まらなかったのです。知名度が落ちたせいでしょうか。その後、N先生は活気を取り戻せない学部ゼミのようすにちょっと寂しげでしたが、「大学院でね、学問らしいことで学生諸君と鍛えあっていけるから、張り合いがあるんですよ」ともらしておられました。でも、帰りがけにふと窓越しにのぞけた、N先生の講義、その元気な声に耳を傾けている聴講学生諸君のなんと少なかったこと。

 
 
 この現実に、私はしっぽを巻いて逃げようというのでもありません。私が20年間勤めてきた駒澤大学とのかかわりは、どのようなかたちであれ、私が生きている限り続くものと思っています。わけても、ゼミを巣立っていった500人近くの卒業生諸君は、私自身の貴重な財産であり、そこに永遠に、「駒澤大学三井ゼミナール」は生き続けます。そしてまた、仕事の場を変え、日本の「学問」、教育と研究に対し、また別のかたちで挑戦をし、自分の持てるもの、なしうる可能性を捧げていきたいと願っております。

 
 これが、大学を去るにあたっての、私の言葉です。

 

 (「大学を考えよう 序」へ)





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