idle talk46

三井の、なんのたしにもならないお話 その四十六

(2017.09オリジナル作成)



 
チューショーキギョーの研究って?


 「負の遺産」ばっかしの私の今後ですが、もうちょっと「ポジティブな実績」はないものかとも考えます。著作、論文雑文などの類は別として、「本業」たる大学教員として、なにを語ってきたかは確認せねばならないでしょう。

 
 それらは別途記載公開もしておりますが、あらためて記すと、以下のようになります。

 
学部専門科目
「中小企業論」(駒澤大学経済学部・通年・20年間)
「比較中小企業政策」(横浜国立大学経済学部・半期・11年間)
「中小企業政策論」(嘉悦大学経営経済学部・ビジネス創造学部・半期・6年間)
「中小企業論」(静岡大学人文学部・集中・半年間)
「比較産業政策」(静岡大学人文学部・集中・半年間)
「経済政策論」(関東学院大学経済学部・通年・1年間)
「事業創造論」(嘉悦大学経営経済学部・ビジネス創造学部・半期・6年間)
「経営分析の実践」(嘉悦大学経営経済学部・ビジネス創造学部・半期・5年間)
 
 
大学院修士課程講義科目
「中小企業論特講」(駒澤大学大学院経済学研究科・通年・10年間)
「起業論」(専修大学大学院商学研究科・通年・10年間)
「中小企業論特論」(北星学園大学大学院経済学研究科・集中・12年間)
「中小企業論」(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科・集中・12年間)
「地域ネットワーク政策」(のち「地域産業政策」、「地域イノベーション政策」)(横浜国立大学大学院環境情報学府・半期・11年間)
「中小企業経営革新論」(嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科・通年・6年間)
「事業創造論」(嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科・半期・4年間)
「Comparative Studies on Policies for SMEs」(横浜国立大学大学院国際社会科学研究科・半期・5年間)
「Comparative Studies on SMEs in the World」(嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科・半期・1年間)
「Industrial Policy and Polcies for SMEs」(アジア経済研究所開発スクール・集中・2年間*)
  *大学院課程ではないが、それに準じる
 
 このほか、教養科目(「経済学概説」等)とか、外書講読とか、テンポラリなものとか、もちろんゼミ(演習、研究会、研究指導)などもやってきております。

 
 ごく大雑把にまとめれば、中小企業を主要対象とし、さらに産業、地域、あるいは起業家といった切り口からアプローチし、とりわけ「政策」を重要な枠組みとして考えてきた、そんなところでしょうか。

 いま担当している「経営分析の実践」というのは、当時の加藤寛学長から「やってください」と言われたのでずっとやってきております。しかし経営分析できる財務データなど、上場企業でないと容易に入手できるわけではないので、これは結果としては「大企業論」です。まあ、科目自体リストラされそうですが。



 
 「中小企業の研究」というのは、つくづく「雑学」だなあと実感しますが、一応アカデミックな枠組みを描けば、「中小企業の経済学」(ないしはいま的には、「中小企業の社会経済学」あるいは「中小企業の政治経済学」か)と、「中小企業政策論」、「中小企業経営論」が主要なフィールドだということになりましょうか。戦後日本の中小企業研究の源流をなした山中篤太郎教授は、「中小企業の研究というものはさまざまな学問の応用であり、それゆえ「中小企業学」というものはない」とされましたが、あらゆる研究にはその根本をなす「総論」的・「一般理論」的「○○学」というものを位置づけられるという理解もあり得るので、こういう構図を描けましょうか。しかしまた、「政策論」だ「経営論」だとすれば、そこからまた限りなく、関連領域や対象は広がっていくものでもありましょう。しかも、「中小企業」という主対象自体が、山中氏の言でいえば「異質多元(heterogenous)な存在」であり、生きた実体でもあるので、その姿に迫る研究方法と、そこからのフィードバックというものが欠かせないのも特徴であると実感します。まさしく、よくも悪くも「雑学」なのです。だいたい、中小企業の研究者って、頼まれればなんにでも首を突っ込むのですな。「これは私の研究対象ではないので」とか、「私の専門はここまで、こっから先はやりません」などと言わない、そういうひとが「中小企業の研究者」になったのでしょうか。

 
 
 ところがまた、年中「中小企業」に首を突っ込んでいると、どうしても「世の常識」からずれていくこともあり得なくはありません。本来世の中の圧倒的マジョリティでありながら、理論面でも政策面でも、あまり注目されず、見落とされる、だからあらためてその存在を意識的に取り上げねばならない、とりわけ中小企業の存在を放任放置しておけばいいとはならない、その意味では「中小企業政策」の必要性認識と「中小企業」自体への注目、研究と議論といったものとは表裏の関係にあると、私は説いてきました。ところが、中小企業なんか眼中にない、そんなマイナーなものはどうでもいいというのが、圧倒的多数の「常識」なのです。時にまた、「天然記念物」のように取り上げられることもある、そんな程度のものでしょう。

 それを示す事態が、私が授業のなかで履修学生に書いてもらう短文のなかで近ごろ散見されます(嘉悦大学では毎授業時間の出席重視の方針なので、いまは毎回ごとに短文を書かせて提出させます)。そうすると、私が「中小企業政策の必要」をしつこく、詳しく取り上げるせいか、「中小企業にそんなに政策が要るのか、だったら大企業政策は要らないのか」という意見が、いくつもあがってくるのです。教師に迎合するかのように、「中小企業は大事です」などと書いてくるよりは、よほど正直でよいとも思いますが、確かに世界でも「大企業政策」というのはまずありません。

 
 これは「中小企業研究」の立場からするとさしてふしぎでも不自然でもないのでして、実は各国の主流の「政策」は明らかに大企業の存在を前提に立案され、実行されている、そこには大企業のあからさまな利害がそのまま反映されている(何しろマスコミの世界での「経済界」という言葉は、日本経団連など「大企業の代表者たち」という意味なのだから)、しかしそれだけではおかしいだろう、大企業の立場だけではなく、むしろ勤労者の多数派が従事しており、経済の重要な担い手である中小企業への注目と配慮が必要なのだ、こうした見地が(政治経済学的)「暗黙のご了解」なのです。もちろんそれも要らん、けしからんという議論もあり得ます。しかし、私の語るところに疑問を抱く学生諸君は、素朴率直に、中小企業がやたら保護支援されている、不公平だという印象を抱くのですな。

 
 疑問を抱くことはよいことです。そこから問題意識と研究の関心意欲が生まれます。「大企業政策というのはなぜないのか」と。もちろん学界の大勢からしても、「中小企業の研究」はマイノリティです。ゼニにもなりませんし、世の関心を引くことも希ですし。学生諸君のシューカツも、基本どのようにして天下の大企業・ユーメイ人気企業に採用してもらうかのみが眼中にあります。またとりわけ「理工系」のリコウなセンセイ方になると、中小企業に関わるなんぞ、ゼニにもコネにもつながらない、学界産業界の最先端に遠い、あべこべにうちの研究室は天下の○○社の開発部門や生産技術と長年協力共同してきたんだ、研究費を出してもらっているんだというのが誇りであり、看板なのですから。「チューショーキギョー?聞いたことないな」というところ。近ごろは少しは風向きが変わってきたとはいえ、ともかく「中小企業を取り上げ、論じる」というのはそうした世の主流・大勢にさからうマイノリティ運動という宿命を、常に持ってきたのです。
 
 
 それでもなお、一人一人の学生諸君は自分の人生を選択する権利を当然持っています。私の授業を聞いたから、ゼミに属したから、「チューショーキギョーにシューショクせねばならん」などとは申しておりません。大企業の社員になりたい、コームインになりたい、それはそれで結構なことで、ただしその目標のために一生懸命努力してください、そういうことになります。そのなかでなにを学んでも、それは一人一人の知恵であり、血肉であり、心の糧になるはずです。

 

 そうした意味で言うと、中小企業の研究者となったひとのうちでは、親や親族が社長、ちいさな企業を営んでいた、お店をやっていて苦労していた、そういった原体験のある人が少なくない印象です。「文化論」的理解として、それだけ身近な存在であり、また「問題意識を醸成される」機会もあったという説明にもなりましょうか。それなら当然「企業の後継者になる」選択だったのではないかという疑問の余地もありますが、よく伺うと、それぞれなりの紆余曲折や悩みと決断も経てきたというエピソードが珍しくありません。

 あと多いのは、「たまたま」就職した先が金融機関や行政機関で、中小企業の実態に生で触れる機会が多かった、そこから多々関心を呼び起こされた、あるいはそうした機会を通じ、専門資格を得ることになったとかでしょうかね。

 
 それでは私の場合はどうだったかと自らに問うに、そのような背景や原体験はないのです。親も、その前にも「中小企業」はありません。幼時から、企業経営の喜びもうまみも、悩みや苦しみも、目の当たりにしたわけではありません。ただ、母の実家はもとは商家であったはずで、諏訪の街道に面し、おそらく生糸の取引などに関わっていたのでしょうが、母が父と結婚したころにはすでに傾いており、のちにはあとを継いだ姉が、結婚相手がはやくに亡くなったこともあって家を間貸しし、糊口をしのいでいる状態でした。いまは従兄弟の結婚相手が薬局を興し、なんとか稼いでいるようです(従兄弟は先年亡くなりました)。そんなこともあって、母は商いといったことには、言葉として一切触れることもありませんでした。父の方は農家ですから。

 
 父自身を含めて、貧しい山間の農村の出であり、どだい理屈っぽくて、商いの精神には乏しい信州人のことですから、農家を継いだ長兄以外の多くの兄弟は都会に出て、学問で身を立てる、主には教育界で、となってきております。教育関係者がやたら多いのです。軍人になった父の弟は戦後食うに困り、郷里に戻ってささやかな町工場を興しました。ものづくりの中心地となった諏訪なので、叔父の懸命の働きと才覚で事業は発展しましたが、御本人はそんなにそれにこだわりもなかったようで、まわりから推されて町議、のちには町長になり、むしろ行政界で長く活躍しました。その息子、つまり私の従兄弟は秀才でしたが、あとを継がず、某大手企業に入り、その子会社の社長まで務めました。

 
 いまの私自身の兄弟や甥姪など含め、企業の経営のみならず「実業界」で活躍している人間が多いとは申せません。唯一の例外とも言うべき逸材が最近名をあげているようで、AIWAの再興の先頭に立っているのは、私の従兄弟なのです。
 
 
 というわけで、「中小企業を研究する」私に、それらしいルーツも原体験もありません。聞かれればいつもの答えは、「バイトが本業になったんで」としております。その分、あまり気負いもなく気楽なのかも。




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