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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十二

(2019.01オリジナル作成)



 
 完全リタイアの中での回想録 


2.わたしはなんでしょう? −みんなそれぞれ


 私は大学教員を38年間やってきたので、一応「研究者」、世間の言葉でいえば「学者」ということになるのだろう。ただ、「なに学者」なのか、当人も確信がなく、自称するにも甚だ迷う。「経済学修士」となっているが、「経済学者」を称するには、そんなに「経済学」も知らず、その発展に貢献もせずであり、近頃の世界的流行にはまったく乗り遅れている。「経営学者」とされることもこのごろはあるようだが、確かにたくさんの中小企業の「経営」を見、論じてもいるものの、これまた「経営学」を正面から取り上げたり、その議論に加わってもいない。だから、自称は「雑学者」である。「学際的」と言えば聞こえはいいが、あれもこれもテキトーにつまみ食いし、ごった煮にしているので、「雑学」と言った方が正しいだろう。別に卑下表現でもない、世の中にひとりくらい「雑学者」がいてもいいんじゃないの、と居直っている今日この頃である。

 
 しばしば記してきたように、私の父も兄も大学教員であった。けれどもそれを共通項とするのみで、中味はまったく違う。父・三井為友は「教育学者」なのであろう。東京都立大学人文学部で長く教育学を担当していたのだから。ただ、学校での授業教育方法だとか、そういったものではなく、どうやら「教育哲学」と呼ぶべき内容であったらしい。くわえて、父は書斎のひとではなく、全国各地を駆け回り、「社会教育」の理論と実践のひとでもあった。そういうことで、私の幼かりし頃から、ほとんど家にはおらず、各地で「成人教育」「公民館活動」「婦人学級」などのとりくみにかかわっていたようだった(もちろん詳しい中味は私も知らない)。
 父の都立大学定年退職時の記念誌には、そうした活動の一端がある程度紹介されている。

 他方また、戦地での過酷な体験などをもとに、や散文も記し、ホントはそちらに専念したかったような観もある。大学で教育学を教えるというのは、あまり本意ではなかったのかもしれない。作家や詩人の文才については、息子としてなんとも申せない。

 

 兄・三井斌友は、幼い頃から秀才であったと思うが、大学以降は数学者になった。まあ私などとは180度違う素質の持ち主である。名古屋大学工学部、大学院情報科学研究科で数学を担当し、定年を迎えたので、これは正真正銘の「数学者」だろう。よく、私に限らずフツーの人たちは、「数学者という人間のアタマの中はどうなっているんだ?」と疑問に思うものだが、もちろん私にもわからない。日頃から接していると、別にどうっていうこともないのだが。著書名を見ると、『常微分方程式の数値解法』なんていうので、ともかくそういったものを専門としていたのだろう。
 
 
 妹・三井美奈子は、今も大学講師などを続けているが、こちらはピアノである。幼い頃からピアノをたたき込まれ、都立芸術高校、東京藝術大学音楽学部を出ている。著名なピアニスト・松浦豊明氏に師事した。前後、人生ずっとこれ一筋ということになる。残念ながら世界的演奏家にはなれなかったが、ひたすら鍵盤と向かい合ってきた結婚した相手山城浩一君もピアノ演奏者・大学講師である。父母は、むしろ音楽をやるのが生涯の夢であったようで、その意味自分たちの娘のピアノ学習には一通りでない肩の入れよう、期待であった。対照的に、何をしたいのか自分でもわからず、まっとうなサラリーマンにさえならなかった私には、明らかに匙を投げていた。

 
 というわけで、大学という世界にかかわってきたそれぞれが、まったく違う領域と方向を向いてきたのである。だから、かっこうよく言えば、これを集めると総合大学ができるかも、でも有り体には、あらゆる意味での「シナジー効果」がない。それぞれの持てる蔵書・資料も、ツールも、もちろん人脈交友もまるで違う、ということになる。言ってみれば、残るは負の遺産ばっかしとなろう。
 

 その兄の子、甥の三井昌志は神戸大学工学部を出て、民間メーカーのエンジニアになったが、数年で辞めてしまい、ずっとフォトグラファーを自称してきている。今風には「フリーランス」である。実は、学生時代も含め、カメラを触ったことさえなかったはずなのだが、サラリーマン辞めて、世界放浪の旅に出、その際に携えていったカメラで撮った画像から、自分なりに思うところあったようで、写真集も出し、「写真家」になってしまった。ただ、いまの多くのこの職業の人たちのように、そちらの専門の学校や大学で学ぶ、プロの大家に弟子入りし、手伝いをしながら修業に励むといった「主流」をまったく歩んでいない。うえに見たように、誰ひとりとして関係ない世界ばかり。それだけに、ある意味「新鮮」な感覚もあったのだろう。

 実は、この最初の放浪の旅で撮ってきた画像の一つを、帰国後に見せられたこともある。それ自体はきちんと撮れているが、正直特別なものを感じはしなかった。不覚の至りである。ただ、それらの画像のうちでも、アジア各地で若い女の子たちを撮ったものは、出版され、かなり売れたようである。意外にこうしたものが世になかったと言えるのだろう。だいたい、今日日の日本や欧米では、下手に見知らぬ少女にカメラ向けたら、それだけで何が起こるか、というところだし。逆に、そこに飾らない、演技しない若さと素朴さの美があったと言えるのだろう。
 
 「美少女写真家」もそろそろ出回りすぎたか、昌志は毎年アジア各地に旅をし、こんどは対照的なくらいに、いかにも汗臭い男たちの働く姿を撮ってきた。それを「渋イケメン」と呼んで写真集に出した。そんなの売れるのかいな、という私の心配はまたもピンボケのようで、結構受けたらしい。アジアの美少女たちの素朴なほほえみと同じように、実はこうした汗臭い、男臭さに満ち、こっちをにらみ据える渋さ横溢の画像というのも、日本ではあまりなかったと言えるのだろう。なにより、そうした画像を自然体で撮れる、昌志の対人力というものが決め手であろうか。
 こうした画像を撮る中で、昌志はいっぱしにカメラ扱いのプロとなり、ひとさまに教える身ともなってしまったようである。私からすると、「昌志君、フィルムカメラ扱ったことないでしょう」と言いたくなるが、いまどき、そんな昔語りなどなんの役にも立たないのだろう。あくまでデジイチ、それで大量に撮りまくり、多くの画像のうちからいいのを選び、PC上で加工処理し、上級の紙とプリンタでプリントをつくり、web上から情報発信し、でいいのである。
 
 別のところにも記したが、フィルムカメラを含め、私の「遺産」としての撮影機材は昌志に残す旨、決めており、当人も了解している。でも、フィルムカメラを手にして貰うことはまずなさそうだし、デジカメでも私のラインはニコンとパナ・オリンパス(フォーサーズ)なので、彼の機材とはあわない。したがってごく一部を除き、かえって迷惑、邪魔物ともされそうであり、ここでも「シナジー効果」はない。


 昌志は毎年アジア各地、近ごろ主にはインドを旅し、多くの人たちに出会い、多くの画像を収めてくる、ちょっと心配だか、それが生き方、働き方になっている。そのなかで、ただ人々の生き生きとした姿を収めてくるだけではなく、その背後にある、仕事、暮らし、社会、自然環境、ひいては政治、経済、国際紛争などの意味も否応なく考え、コメントを加えていく、そんなスタイルに昌志の取り組みも変化を遂げてきている。
 その成果が、大きな賞の受賞にも結実してきた。
 
 というわけで、みんなそれぞれが違った方向をむいてきたのが、この「家族」であった。

 みんな違う方向むいて、シナジー効果ゼロと考えていたら、思わぬ「効果」が現れた。
 昌志のインドの写真に注目され、松江市の中村元記念館というところが展示会を開いてくれている。この中村元氏は文化勲章も受章された、日本の仏教学、印度哲学研究の泰斗なのだが、父・三井為友の古くの学友でもあり、長年交友関係にあったようなのである。そういうつながりから昌志の画像が取り上げられたわけではなく、せいぜいが「インドつながり」なのだろうが、結果としては二代前の縁が結ばれるかたちになった。世代を飛び越えたシナジーとでも呼ぼうか。もとは曹洞宗大学であった駒澤大学に20年務めた私には一切接点がないのだが。


40年前の昌志君と、お互い老けた?


(2019.04.08)

 昌志君がインタビューに答え、おのが人生を語ったそうです。

 

会社員を辞めてインドを7周した写真家に、「自分の本当の仕事」を“なりゆき”で見つける方法を聞いた

 まあ、その通りと思いますが、「親がコームイン」?ちょっと表現のイメージが違う観もありますけどね。




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